人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
車を譲ってもらった、と彼が告げたのは、木曜日の夜だった。
六月を目前に控えた、からりと晴れた晩だった。昼間の陽射しは日に日に強くなっていたが、日が落ちると、窓から入る風にはまだ涼しさが残っていた。梅雨入りの気配は、天気予報の中にしかない。街路樹は若葉をいっぱいに広げ、夕暮れの空は水で洗ったように澄んでいた。
新しい職場での慌ただしさも、ようやく一段落した頃だった。
車を譲るという話が出たのは、先週末のことだった。
父から電話があり、買い替えを考えている車をどうするか、という話になった。長年乗ってきた銀色のセダンを手放すつもりだったらしい。まだ十分に走るし、手入れもしてある。もし僕が使うなら、譲ってもいい、と父は言った。
最初、僕は遠慮した。
車は、買って終わりというものではない。維持費もかかるし、駐車場のことも考えなければならない。今の暮らしに本当に必要なのかと問われれば、なくても困らない、と答えることはできた。
けれど、父は電話の向こうで、少しだけ笑った。
「せっかく仕事も変わったんだ。転職祝いってことにすればいいだろう」
その言葉に、僕は返事を迷った。
転職したことを、父は喜んでくれていた。以前の職場で疲れ切っていた僕のことを、細かな事情まですべて知っていたわけではない。それでも、電話越しの声を聞けば、ずっと気にかけてくれていたことはわかった。
結局、ありがたく譲ってもらうことにした。
車を受け取りに帰った日、父は車庫から銀色のセダンを出してきた。車体には目立った傷もなく、窓もきれいに磨かれていた。僕が車の周りを眺めていると、父は少し得意げに、整備の記録や日頃の手入れについて説明してくれた。
それから、父は車の鍵を僕に差し出した。
「これが鍵。まあ、使い方はわかるだろうが、慣れるまでは気をつけろよ」
「うん。ありがとう」
「それと、もうひとつ」
父はそう言って、家の中から小さなケースを持ってきた。
古いCDケースだった。透明なプラスチックには細かな擦り傷がつき、紙のジャケットも少し色褪せていた。
「これ、覚えてるか?」
受け取って中を確認した瞬間、僕は思わず声を上げた。
「あ……これ」
「お前が学生の頃、よく聴いてただろう」
それは、昔、父が別の車に乗っていた頃のことだった。
学生だった僕は、帰省のたびに父の車に乗せてもらった。駅まで迎えに来てもらったり、買い物に付き合ったり、少し遠くの店まで連れていってもらったり。助手席に座る僕は、父が運転する車の中で、持ち込んだCDをよく聴いていた。
今思えば、何でもない時間だった。
窓の外を流れていく町並み。交差点で止まるたびに聞こえるウインカーの音。父が何気なく口ずさむ、歌詞も曖昧な古い曲。そして、カーオーディオから流れる音楽。
そのCDは、そんな頃に繰り返し聴いていた一枚だった。
「まだ取ってあったんだね」
「捨てる理由もなかったからな。車を替えたときに、まとめてしまっておいたんだ」
父は少し照れたように頭を掻いた。
「新しい車でも聴けるだろう。今どきの機械はよくわからんが、CDくらいは入るはずだ」
「うん。たぶん大丈夫だと思う」
「なら、持っていけ。転職祝いのついでだ」
僕はCDケースを見つめた。
鍵だけでも十分だった。それなのに、父はわざわざ、ずっと昔の僕が好きだった音楽まで取っておいてくれたのだ。
「……ありがとう。大事にするよ」
「車のほうもな」
「うん」
父は、それ以上、何も言わなかった。
僕も、何か気の利いた言葉を返すことはできなかった。
ただ、受け取った鍵とCDケースを、なくさないように鞄へしまった。
それから数日、車を受け取ったことを誰かに話したい気持ちが、心の片隅に残っていた。
そして木曜日の夜。
おじさんは夕食の味噌汁を温め直しながら、何気なくスマートフォンを手に取った。
『実家から車を譲ってもらえることになった』
送信して、しばらくすると既読がついた。
『は?』
続いて、二通目。
『なにそれ。急に大人の男みたいなこと言い出したじゃん』
おじさんは思わず笑った。
『三十三歳だからね。一応、大人だよ』
『一応って自分で言ってる時点でよわよわなんだけど♡』
『車種は、少し古いセダンだよ。父が乗っていたもので、買い替えるからって』
『へえ。セダン? ミニバンとかじゃなくて?』
『うん。落ち着いた感じの車だね。色はシルバー』
『……ふーん』
そこで、しばらく返事が途絶えた。
彼は味噌汁を飲み、焼き魚の骨を丁寧に取り除いた。以前なら、食事の最中もスマートフォンを気にしていたかもしれない。誰かの返信を待ち、仕事の連絡を警戒し、せっかくの食事を落ち着かないまま終えていたことだろう。
しかし今は、食べ終わってから画面を確認すればよかった。
味噌汁の最後の一口を飲んだところで、スマートフォンが震えた。
『ねえ』
『うん?』
『今度、乗せてよ』
おじさんは画面を見つめた。
『ドライブに行きたいってこと?』
『なに、嫌なの?』
『いや、そうじゃないよ。嬉しいなと思って』
『……っ』
しばらくして届いた返事は、いつもどおりの調子を取り戻していた。
『じゃ、決まり! 山のほう行こ。景色いいところ走って、おいしいもの食べるの』
『わかった。どこか探しておくよ』
『よろしい。あと、変な運転したら許さないからね。あたしの命、預けるんだから』
『安全運転を心がけます』
『急に教習所の先生みたいにならないでよ!』
おじさんは声を立てて笑った。
彼女を車に乗せる。
ただそれだけの約束が、彼には妙に嬉しかった。
誰かを乗せて走るということは、その人の時間を預かることでもある。
どこへ行くか。どこで休むか。何を食べるか。
彼女が隣にいるなら、そういうことをひとつずつ考えるのも、きっと楽しいだろう。
*
土曜日の朝。
窓を開けると、初夏の空気が部屋いっぱいに流れ込んできた。
空は青く、雲は高い。ベランダの手すりには、朝日が白く照り返している。遠くの街路樹は鮮やかな緑に染まり、葉の一枚一枚まで光を含んでいるようだった。
梅雨入り前の、ほんの短い季節。
洗濯物はすぐに乾きそうだし、外を歩いても、まだ汗が不快に肌へまとわりつくほどではない。日なたは暖かいが、木陰には涼しさがある。
出かけるには、申し分のない日だった。
おじさんは身支度を整え、車のキーを手に取った。キーリングには、父から受け取った小さなキーホルダーがついている。飾り気のない、古びた金属製のものだった。
鞄には、あのCDも入れてあった。
せっかく車を受け取ったのだから、一度は聴いておきたかった。けれど、ひとりで聴くより、今日は誰かと一緒に聴いてみたい気もしていた。
マンションの駐車場に停まっているのは、銀色のセダンだった。
車齢はそれなりに重ねているものの、手入れが行き届いていた。低すぎず、高すぎない車体。すっきりと伸びたボンネット。流行を追いかけるでもなく、かといって古めかしさを誇るでもない、静かな佇まい。
華美な装飾はない。大きなホイールで威圧することもなければ、派手な部品で若さを演出することもない。
ただ、銀色の塗装が初夏の光を柔らかく返し、整った輪郭を際立たせている。
おじさんがその傍らに立っていると、不思議なくらい似合っていた。
無理に若作りをすることもなく、立派に見せようと肩肘を張ることもない。落ち着いた色のシャツに薄手のジャケット。きちんと整えられた髪。手には車のキー。
彼の三十三年という歳月が、ようやく彼自身の輪郭に馴染み始めたようだった。
車もまた、彼に似ていた。
速さを誇るのではなく、遠くまで穏やかに走ることを考えられた車。誰かに見せびらかすためではなく、日々をきちんと送るための車。
「……悪くないな」
彼は車体をひと撫でしてから、少し離れて眺めた。
「なに、自分の車に見惚れてるの?」
聞き慣れた声に振り向くと、彼女が立っていた。
今日は白い半袖のブラウスに、淡い水色のスカート。日差しを避けるための薄いカーディガンを腕に掛け、小さなショルダーバッグを斜めに掛けている。肩にかかる髪が、風にさらさらと揺れていた。
彼女は車を見て、それからおじさんを見た。
「おお。ほんとにセダンだ」
「うん。思ったより状態もよくてね。父が大事に乗っていたみたいだ」
彼女は車の周りを半周した。
「へえ。なんか、いいじゃん」
「そう?」
「うん。派手じゃないし、落ち着いてるし。おじさんが乗ってても、全然無理してる感じしない」
おじさんは少し照れた。
「それは、褒めてくれているのかな」
「もちろん。なに? もっとスポーツカーとかのほうがよかった?」
「いや、僕にはこれくらいがちょうどいいと思う」
「でしょ。だっておじさん、スポーツカー乗ってたら絶対、運転席で肩に力入っちゃうもん。かっこつけようとして、ハンドルを十時十分で握りしめてそう」
「教習所の話をいつまで引っ張るんだよ」
「えー、だって想像したら面白いんだもん♡」
彼女はくすくす笑った。
おじさんも笑った。
自分の持ち物を、誰かにこんなふうに見てもらうのは久しぶりだった。値段や性能を評価されるのではなく、自分に似合うかどうかを、親しい人が考えてくれる。
それは少し、照れくさくて。
思っていたより、嬉しいことだった。
「じゃ、乗ってみる?」
「うん!」
彼女は助手席のドアに手を掛け、ふと動きを止めた。
「……ねえ」
「どうしたの?」
「助手席、ちゃんと掃除した?」
「したよ。昨日、車内も拭いたし、窓も磨いた」
「ふーん」
彼女は車内を覗き込んだ。
ダッシュボードはきれいに整えられ、シートにも余計なものが置かれていない。芳香剤の強い匂いもなく、窓を開ければ、まだ朝の空気がそのまま入ってきそうだった。
「……そっか」
彼女は小さく笑った。
「じゃ、今日はあたしが一番乗り?」
「そうだね」
「へえー。栄えある初助手席が、あたしなんだ?」
その声には、いつものからかいが含まれていた。
けれど、彼女は少しだけ嬉しそうだった。
「うん。最初に乗ってもらうなら、君がいいと思っていたから」
おじさんは、ごく自然にそう答えた。
彼女の手が、ドアノブの上で止まった。
「…………は?」
「え?」
「いや、なに、その……」
彼女は急に車内へ顔を背けた。
「……そういうの、いちいち言わなくていいんだけど!」
「そうかな」
「そうなの! こっちは、もっとこう、からかって遊ぼうと思ってたのに!」
彼女はドアを開け、助手席へ滑り込んだ。
「……ほんっと、最近のおじさん、ずるい」
ドアが閉まる。
おじさんは苦笑しながら運転席に回った。
キーを差し込み、エンジンを始動させる。
控えめな振動が伝わり、車内に低いエンジン音が満ちた。
彼はシートベルトを締め、ミラーを調整し、周囲を確認する。
「では、出発します」
「はいはい。安全運転でお願いしますね、運転手さん♡」
「かしこまりました」
「だから、そういうのやめてってば!」
笑い声が、静かな車内に広がった。
*
街を抜けるまでは、慎重に走った。
おじさんは車間距離を保ち、交差点では早めに速度を落とした。車線変更の際も、ミラーと目視で周囲を確かめてから、ゆっくりと動いた。
彼女は最初こそ、窓の外を眺めながら、あれこれと口を挟んでいた。
「おじさん、今の信号、黄色だったよ?」
「うん。だから止まった」
「えらいえらい」
「子供扱いしないでください」
「三十三歳児が何か言ってるー」
しかし、幹線道路を抜け、山へ向かう道に入る頃には、彼女もすっかり落ち着いていた。
市街地の建物が次第に低くなり、やがて住宅がまばらになる。道路の両脇には雑木林が広がり、ところどころに小さな畑が見えた。
初夏の山は、春とは違う顔をしていた。
芽吹いたばかりの淡い緑は、いつしか深みを増し、木々の葉は陽光をいっぱいに受け止めている。日なたの葉は明るい黄緑色に輝き、木陰の葉は濃い緑となって重なり合う。風が吹くたび、その色彩が一斉に裏返り、山肌全体が呼吸するように揺れた。
梅雨前の乾いた空気は、遠くの山並みまでくっきりと見せていた。青い空の下、緑の山が幾重にも連なり、その輪郭が、奥へ行くほど青く霞んでいく。
道路は緩やかに高度を上げていった。
窓の外を流れる景色を、彼女は飽きずに眺めていた。
「……なんか、いいね」
「うん?」
「こういうの。電車で出かけるのも好きだけど、車だと、景色がちょっとずつ変わっていくのを見られるじゃん」
彼女は窓の外を指した。
「ほら、あの山。さっきより大きく見える」
「本当だ」
「あと、あそこの畑、すっごい緑。あれ何を植えてるんだろ」
「なんだろうね。野菜かな」
「雑すぎない?」
「専門家じゃないからね」
「はいはい、よわよわ農業知識おじさん♡」
彼女は笑いながら、窓の外へ顔を向けた。
風が彼女の髪を揺らしていた。窓は少しだけ開けてある。冷房を強くする必要はなく、山から吹き下ろす風が、車内に涼しさを運んでくる。
木々の間を抜けるたび、葉の匂いがした。
湿った土の匂いではない。雨を待ち受ける重い空気でもない。乾いた草と、日差しを浴びた樹皮と、青葉の匂いが混ざった、初夏ならではの清々しい匂いだった。
彼女は大きく息を吸い込んだ。
「……はあ。気持ちいい」
「うん。窓を開けて正解だったね」
「でしょ。こういう日は、エアコンばっかりじゃもったいないもん」
彼女は少しだけ彼のほうを向いた。
「ねえ。仕事、どう?」
声の調子が、ほんの少し変わった。
おじさんは前を見たまま答えた。
「だいぶ落ち着いてきたよ。まだ覚えることはあるけど、前ほど、帰ってから何もできなくなることはなくなった」
「そっか」
「うん。疲れる日はあるけどね」
「そりゃそうでしょ。仕事してるんだから」
彼女は当然のことのように言った。
「疲れない人間になったら、それはそれで怖いじゃん」
「確かに」
「でも、ちゃんと休めてるんだ?」
「うん。休日にこうやって出かけようと思えるくらいには」
彼女は、少し黙った。
そして、窓の外へ顔を向けたまま、小さく言った。
「……よかった」
その声は、エンジン音に溶けてしまいそうだった。
おじさんは、聞こえなかったふりをしなかった。
「心配してくれて、ありがとう」
「……っ」
彼女がこちらを向いた。
「な、なに急に! 別に心配とか、そういう大げさなものじゃ……」
「うん」
「……もう!」
彼女は頬を膨らませた。
「前向いて運転しなさいよ、よわよわおじさん!」
「はいはい」
おじさんは笑いながら、前方に注意を戻した。
助手席からは、しばらく何も聞こえなかった。
ただ、窓の外を見ている彼女の横顔は、さっきより少し柔らかかった。
*
やがて、道路が長い直線に差しかかった。
周囲の木々が途切れ、遠くの山並みが一望できる。車の流れも落ち着いていた。
彼女はダッシュボードのほうを眺め、それから、センターコンソールに目を留めた。
「ねえ。これ、CDも聴けるの?」
「うん。昔の車だからね。CDを入れるところもあるよ」
「へえ。今どき、スマホから音楽を流すのが普通じゃない?」
「そうだね。僕も普段はそうするつもりだったんだけど」
おじさんは、少し考えてから続けた。
「今日は、ひとつ持ってきたものがあるんだ」
「なに?」
彼は前方の状況を確かめ、次に立ち寄れる休憩スペースが見えてきたところで、車を安全に停めた。
エンジンを切り、シートベルトを外す。
鞄から取り出したのは、少し古びたCDケースだった。
「これ。父からもらったんだ」
彼女はケースを受け取り、表面を眺めた。
「お父さんから?」
「うん。車を譲ってもらったときにね。転職祝いだって、鍵と一緒に渡してくれたんだ」
「転職祝いに車って、すごいね……」
「僕も、最初はびっくりしたよ。維持費もかかるし、どうしようかと思ったんだけど。でも、せっかくだからありがたく使わせてもらうことにした」
おじさんはCDケースを見た。
「これは、学生の頃に聴いていたものなんだ。父が昔、別の車に乗っていた頃、帰省すると駅まで迎えに来てくれてね。その車の中で、よく聴いていた」
「へえ。おじさんの学生時代って、どんな感じだったの?」
「今と、あまり変わらないと思うよ」
「えー? 学生のおじさん?」
彼女は想像するように、彼の顔をじっと見た。
「……なんか、今よりもっとよわよわだった気がする」
「どうしてそうなるんだよ」
「だって、今でもよわよわなのに、若い頃なんてもっと頼りなさそうじゃん♡」
「それは否定しづらいなあ」
「否定してよ!」
彼女は笑った。
おじさんも笑いながら、CDケースを受け取った。
「まあ、大学生の頃は、今より時間があったはずなのに、何をするにも余裕がなかった気がする。授業やアルバイトのことを考えて、将来のことを心配して。父の車に乗せてもらうと、少しだけ何も考えなくてよくなったんだ」
「お父さんが運転してくれるから?」
「それもあるね。自分で運転する必要がないから、窓の外を眺めていられた。音楽を聴いて、父とたわいもない話をして。今思えば、ずいぶん贅沢な時間だったんだと思う」
彼女はCDケースをそっと撫でた。
「……お父さん、ちゃんと覚えててくれたんだね。おじさんが好きだった曲」
「うん。僕も、もう残っていないと思っていたよ」
おじさんは少しだけ目を細めた。
「車を替えたときに、CDをまとめてしまっておいたらしい。捨てる理由がなかったからって」
「ふふ。なんか、おじさんのお父さんって感じ」
「そうだね」
父は、昔からそういうところがあった。
大げさな言葉を口にする人ではない。心配しているとも、誇りに思っているとも、あまり直接は言わない。けれど、必要なものを覚えていてくれたり、何年も経ってから、思いがけない形で渡してくれたりする。
今回の車も、そうだった。
転職を祝うという言葉の奥に、これからの暮らしを少しでも楽にしてやりたい、という気持ちがあったのかもしれない。
そして、このCDにも。
「……せっかくだから、聴いてみようか」
「うん。聴きたい!」
おじさんはCDを受け取り、プレーヤーに入れた。
少しの読み込み音のあと、スピーカーから音楽が流れ始めた。
最初の音を聞いた瞬間、彼は懐かしさに目を細めた。
曲そのものを忘れていたわけではない。けれど、実際に耳にするのは久しぶりだった。音の立ち上がりも、歌声の響きも、記憶の中にあったものと少しも変わらない。
その音楽は、彼の中にしまわれていた、古い車内の光景を連れてきた。
助手席の窓から差し込む午後の光。ダッシュボードの上で揺れる、何かの小さな飾り。交差点でブレーキを踏むたび、少しだけ前に傾く身体。運転席の父が、曲のサビをうろ覚えのまま口ずさむ声。
あの頃の自分は、まだ学生だった。
これから何になりたいのか、何ができるのか、何ひとつ確かなものがなかった。周りの友人が進路を決め、就職活動を始めていくたび、自分だけが取り残されているような気がした。
そんな帰省の途中、父の車の助手席に座っている間だけは、少し気が楽だった。
何かを決めなくても、何かを成し遂げなくても、車は目的地へ向かって走っていく。
父が運転してくれている。
今はそれだけでよかった。
「……懐かしいな」
おじさんは、思わずつぶやいた。
「そんなに?」
「うん。聴いていた頃のことを、いろいろ思い出すよ」
「どんなこと?」
「父の車で帰省していたときのこととか。駅まで迎えに来てもらって、途中で買い物をしたり、寄り道をしたり。父が運転している横で、僕はずっとこの曲を聴いていたんだ」
彼は、少し照れたように笑った。
「たぶん、父は同じ曲を何度も聴かされて、飽きていたと思うけどね」
「えー、じゃあ、おじさんが助手席で好き勝手に音楽を流してたんだ?」
「そういうことになるね」
「今とあんまり変わらないじゃん。自分で運転しないで、隣で音楽聴いてるところとか」
「今は運転しているよ」
「そこはちゃんと成長したんだ。えらいえらい♡」
「ありがとうございます」
「だから、子供扱いしてるんじゃなくて、褒めてるの!」
彼女は笑いながら、再び窓の外を向いた。
曲は続いていた。
昔の車内で聴いた音楽が、今は新しい車の中で流れている。かつては父が握っていたハンドルを、今は自分が握っている。そして、その隣には彼女が座っている。
それが、少し不思議だった。
車を譲ってもらったとき、僕は単に、移動が便利になるのだと思っていた。
けれど、車はただの移動手段ではないのかもしれない。
誰かと過ごした時間を覚えていて、何年も経ってから、もう一度その記憶を連れてきてくれることがある。
父と過ごした昔の時間が、今の僕のところへ戻ってくるように。
そして、今日の時間もまた、いつか懐かしく思い出す日が来るのだろう。
「……ねえ」
彼女が、音楽に負けない程度の声で言った。
「ん?」
「その曲、あたしも好きかも」
「本当?」
「うん。なんか、落ち着くね。昔の曲って、もっと古臭い感じがするのかと思ってた」
「僕も、久しぶりに聴いたけど、やっぱりいいなと思ったよ」
「じゃあ、今日のドライブの曲に決定ね」
「そうだね」
彼女は、満足そうにうなずいた。
「……おじさんの学生時代のお供だった曲を、今度はあたしも一緒に聴いてるんだ」
その言葉に、おじさんは少しだけ胸を打たれた。
「うん。そうだね」
「なんか、いいじゃん。そういうの」
彼女は照れ隠しのように、いつもの調子で付け加えた。
「まあ、あたしが隣にいるんだから、昔の思い出に浸りすぎないでよね。今のドライブは、あたしが主役なんだから♡」
「もちろん。今日は君と出かけるためのドライブだからね」
「……っ」
彼女はすぐに顔を背けた。
「……もう、ほんっとに最近のおじさん、そういうのずるい」
おじさんは笑った。
CDから流れる音楽は、初夏の景色によく似合っていた。
彼は周囲を確認し、再び車を走らせた。
古い曲が流れる銀色のセダンは、青葉の道をゆっくりと進んでいった。
*
山の上のドライブインに着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
道路沿いに建つ、年季の入った建物。広い駐車場の向こうには、山々を一望できる展望スペースがある。
観光地としては、いささか地味だった。
しゃれたカフェがあるわけでもない。写真映えするモニュメントもない。入口の脇には自動販売機が並び、壁には地元の観光案内図が掲げられている。
しかし、駐車場には何台もの車が停まり、建物からは、出汁と醤油の混じった懐かしい匂いが漂っていた。
その背後では、山の緑が鮮やかに輝いていた。
濃い緑の山肌に、ところどころ若い黄緑色の木々が混じっている。日差しは明るく、雲の影がゆっくりと斜面を横切っていく。遠くの稜線はくっきりとして、空との境目がはっきり見えた。
「……いいねえ」
車を降りた彼女は、深く息を吸い込んだ。
「こういうところ、好き」
「もっと新しい施設のほうがよかった?」
「ううん。こういうところがいいの」
彼女は建物を見上げた。
「ドライブインってさ、なんか、旅の途中って感じがするじゃん。目的地そのものっていうより、ここまで来たから、ちょっと休んでいこう、みたいな」
「なるほど」
「それに、こういうところのご飯って、おいしいんだよ。観光客向けに気取ってないというか、ちゃんとお腹いっぱいにしてくれる感じ」
彼女は振り返り、にやりと笑った。
「……ま、おじさんにはぴったりだよね。高級フレンチで見栄を張るより、こういうところで定食食べてるほうが似合うもん♡」
「それは、褒めているのかな」
「褒めてるよ。すっごく」
「なら、ありがたく受け取っておこう」
「……ふーん」
彼女は一瞬、拍子抜けしたような顔をした。
以前なら、彼は少しばかり傷ついたふりをして、言い返していたかもしれない。自分の選択を肯定するのに、誰かの承認が必要だったからだ。
けれど今は、自分に似合うと言われたことを、そのまま喜んでよかった。
彼女はそれを察したらしい。
少しだけ目を細めると、おじさんの袖をつまんだ。
「……じゃ、行こ。お腹すいた」
「そうだね」
彼はその手を見た。
袖をつまむ指先は、ほんの軽い力で布地を掴んでいる。
彼女は、すぐに手を離した。
「なに? 置いていかれたら困るから、つないであげようと思っただけだし!」
「うん」
「……なによ、その顔」
「嬉しいなと思って」
「はい、もう禁止! 今日はその言葉、多すぎ!」
彼女は先に歩き出した。
おじさんは、その隣を歩いた。
*
食堂は、思っていた以上に賑わっていた。
窓際の席からは山の稜線が見え、壁際には地元の農産物を紹介するポスターが貼られている。厨房からは、揚げ物の油が弾ける音と、食器の触れ合う音が聞こえてきた。
壁のメニューには、山菜そば、舞茸の天ぷら定食、豚汁定食、カツカレー、そして地元の味噌を使った焼きおにぎりなどが並んでいる。
「うわ、迷う」
彼女はメニューを覗き込んだ。
「舞茸の天ぷら、絶対おいしいじゃん。山菜そばも捨てがたいし、豚汁もいいなあ……」
「ゆっくり選んでいいよ」
「おじさんは?」
「僕は、味噌カツ定食にしようかな」
「味噌カツ?」
「うん。ここの味噌は地元のものらしいから、食べてみたい」
彼女は彼を見た。
それから、ふっと笑った。
「……おっ。ちゃんと自分で決められたじゃん」
「もう、その褒め方は定番になってきたね」
「だって、何回でも褒めたいんだもん。おじさん、油断するとすぐ『君と同じでいいよ』とか言い出しそうだし」
「今日は、食べたいものがあるからね」
「うん。いいと思う」
彼女はメニューを見直し、しばらく悩んだ末に舞茸の天ぷら定食を選んだ。そばも捨てがたかったが、天ぷらを主役にしたかったらしい。
注文を終えると、彼女は窓の外へ目を向けた。
山の斜面を、午後の光が滑っていく。
木々の葉は一枚ずつ光を受け、遠くから見ると、山そのものが細かな宝石を散りばめたように輝いていた。時折、風が枝を揺らし、そのたびに緑の色合いが変わる。
「……なんか、こういうのもいいね」
「こういうの?」
「おじさんが自分で行きたいところ決めて、自分で食べたいもの選んで、あたしが隣にいるの」
彼女は、テーブルに頬杖をついた。
「前は、あたしが引っ張ってあげないと、どこにも行かなかったじゃん」
「そうだったね」
「今だって、まだまだ危なっかしいけどさ」
「うん」
「……でも、こうやって一緒に出かけると、ちょっとずつ変わってるんだなってわかる」
おじさんは、窓の向こうを見た。
山の稜線は、遠くへ行くほど青く霞んでいる。
「君のおかげだよ」
「……っ」
彼女の頬が、見る間に赤くなった。
「ちょ、ちょっと! またそういうこと言う!」
「本当のことだから」
「本当でも、言い方ってものがあるでしょ!」
「じゃあ、どう言えばいいのかな」
「えっ、そ、それは……」
彼女は言葉を詰まらせた。
それから、ふいと顔を背けた。
「……知らない。自分で考えなさいよ、三十三歳なんだから」
「難しいなあ」
「難しくないっ!」
ちょうどそのとき、料理が運ばれてきた。
彼女の前には、山盛りの舞茸の天ぷら。衣は薄く、きつね色に揚がっている。添えられた塩と天つゆが、それぞれ小さな器に盛られていた。
おじさんの味噌カツ定食には、厚みのある豚カツが二切れ、濃い色の味噌だれをまとって並んでいる。湯気の立つ白米と、千切りキャベツ、味噌汁、漬物が脇を固めていた。
彼女の目が輝いた。
「……いただきます!」
まず、舞茸の天ぷらを塩で食べる。
さくり、と衣が割れた。
その奥から、舞茸特有の香りが立ち上がる。噛むほどに旨味が広がり、揚げ物でありながら、山の空気をそのまま閉じ込めたような軽さがあった。
「んーっ! おいしい!」
彼女は目を細めた。
「なにこれ。舞茸って、こんなにおいしかったっけ?」
「そんなに?」
「そんなに!」
彼女は天ぷらをもう一口食べ、今度は天つゆにくぐらせた。出汁の旨味が衣に染み込み、舞茸の香りを少し丸くする。
「……あー、こっちもいい」
おじさんは、味噌カツに箸を伸ばした。
甘辛い味噌だれは、深い色をしていた。口に運ぶと、濃厚なコクの奥に、ほんのわずかな酸味がある。豚肉の脂と混ざり合い、白米を一口欲しくさせる味だった。
「これは……ご飯が進むな」
「でしょ。こういうところの味噌カツって、白米を食べさせるために存在してるんだよ」
「名言だね」
「名言でしょ?」
彼女は得意げに笑った。
おじさんは味噌カツをもう一切れ食べ、味噌汁を飲んだ。
その温かさが、身体の中にゆっくりと広がっていく。
仕事の昼休みなら、時計を気にしながら急いで食べていただろう。周囲の顔色を窺い、会話に遅れないよう気を張り、食べたものの味さえ覚えていない日もあった。
今日は違う。
目の前に料理があり、隣に彼女がいる。
味噌だれの甘さも、揚げた舞茸の香りも、彼女が天ぷらを頬張って嬉しそうにする顔も、ひとつずつ自分の中に残っていく。
「……なあ」
「んー?」
「こういう昼飯、いいな」
彼女は箸を止めた。
「うん。いいよね」
「また来たいな」
「来ればいいじゃん」
あまりにも簡単に、彼女は言った。
「今度は違うメニュー食べよ。あたし、山菜そばも気になってるし。おじさんは、豚汁定食とか似合いそう」
「どうして僕は、いつも素朴な定食が似合うんだろう」
「だって、似合うんだもん。悪いことじゃないでしょ?」
彼女は笑った。
「おじさんは、おじさんらしいのがいいんだよ」
その言葉に、おじさんは少しだけ目を伏せた。
以前の彼は、自分らしさというものを、どこか頼りなく思っていた。
もっと立派で、もっと有能で、もっと誰かに認められる人間にならなければならない。そんな焦りが、いつも彼を急かしていた。
けれど、彼女は、彼が彼であることを笑いながら肯定する。
そのことが、どれほど救いになっているか。
彼は、まだうまく説明できなかった。
だから、今はただ、味噌カツをもう一口食べた。
彼女が隣で、おいしそうに舞茸を頬張っていた。
それで十分だった。
*
食事のあと、二人は建物の裏にある展望スペースへ向かった。
眼下には、山あいの町が広がっている。家々は小さく、畑は幾何学模様のように並び、遠くを走る道路が銀色の線となって谷を横切っていた。
山の向こうには、さらに高い山が見えた。
空はどこまでも青かった。
雲は薄く、白い輪郭を保ったまま、ゆっくりと流れている。梅雨前の乾いた風が展望台を吹き抜け、肌に残った食堂の熱をさらっていった。
彼女は柵に手を置き、遠くを眺めた。
「……すごいね」
声には、素直な感嘆があった。
「こんなところまで来られるんだね、車って」
「そうだね。電車やバスだと、どうしても時間を気にしなきゃいけないことがあるけど」
「うん」
「もちろん、車でも気をつけなきゃいけないことはあるけどね」
「はいはい、安全運転の先生」
彼女は笑った。
そして、ふと思い出したように彼を見た。
「……ねえ。車、もらってよかった?」
おじさんは、少し考えた。
「うん。よかったと思う」
「そっか」
「もちろん、維持費もかかるし、これから気をつけることも増えるけどね。でも、行きたい場所へ行けるようになったのは嬉しいよ」
彼は、駐車場に停まっている銀色のセダンを見た。
「前は、休日に出かけること自体、ちょっと面倒だったんだ。準備をして、電車の時間を調べて、人の多いところを歩いて……。それで疲れてしまうくらいなら、家にいたほうがいいって」
「……うん」
「でも今は、こうして君を誘ってみようかな、とか。少し遠くまで行ってみようかな、とか、考えるようになった」
彼女は黙って聞いていた。
「車をもらったことも嬉しいけど……それ以上に、これからどこへ行こうか考えられることが、嬉しいのかもしれない」
言い終えてから、おじさんは少し照れた。
「……なんだか、気取った言い方になってしまったな」
「ううん」
彼女は首を振った。
「そんなことないよ」
その声は、いつものからかいを含んでいなかった。
「……いいと思う。そういうの」
彼女は景色へ向き直った。
「行きたいところがあるって、いいよね。そこまで行ってみたいって思えるのも、誰かを誘ってみたいって思えるのも」
風が吹いた。
彼女の髪が頬をかすめる。彼女はそれを指先で払った。
「……あたしも、今日、楽しいよ」
おじさんは彼女を見た。
「ありがとう」
「またそれ!」
彼女は、ようやくいつもの調子に戻った。
「今日は感謝の言葉が多すぎるの。もっとこう、運転手としての威厳を見せてくれない?」
「威厳か……。帰り道も安全運転を心がけます」
「だから、そういうことじゃないんだってば!」
彼女は笑いながら、彼の腕を軽く叩いた。
おじさんも笑った。
そして、ふと、彼女の肩に手を置きかけて、止めた。
さっきのピクニックの日から、彼は少しずつ、自分の気持ちを口に出す練習をしていた。
頼りたいときには頼りたいと言う。
嬉しいときには嬉しいと言う。
その先にある、もう少しだけ勇気のいることも、いつか言えるようになりたい。
「……ねえ」
「ん?」
「ちょっとだけ、こっちに来てもらってもいい?」
彼女は怪訝そうに彼を見た。
「なに? 今度は何を甘えようとしてるの?」
「……少しだけ、手をつないでもいいかな」
言ってしまった。
言ってから、彼は自分の心臓が、妙に大きな音を立てていることに気づいた。
彼女は目を見開いた。
「…………は?」
「嫌だったら、いいんだけど」
「い、嫌とか、そういう話じゃなくて……!」
彼女は周囲を見回した。
展望スペースには、少し離れたところに夫婦らしい二人連れがいるだけだった。
彼女は、おじさんを見た。
それから、少し迷ったあと、唇を尖らせた。
「……ほんっと、三十三歳にもなって、甘え方が不器用なんだから」
「うん。自分でも、そう思う」
「そこは否定しなさいよ!」
彼女は文句を言いながら、右手を差し出した。
「……ほら。今日だけ特別だからね」
おじさんは、その手を取った。
彼女の手は、思ったより小さかった。
指先が触れ、手のひらが重なり、互いの体温がゆっくりと伝わってくる。
彼女は、少しだけ指を動かした。
彼の手を、握り返すように。
「……あんまり、ぎゅってしないでよ?」
「痛かった?」
「違うの!」
彼女は真っ赤になった。
「……その、なんか、変に意識しちゃうじゃん」
おじさんは、思わず笑った。
「ごめん」
「謝らないでよ。余計に恥ずかしいでしょ!」
彼女は彼の手を握ったまま、そっぽを向いた。
「……もう。ほんと、ずるいんだから」
それでも、手は離さなかった。
おじさんは、遠くの山を眺めた。
初夏の山は、光を受けて鮮やかに輝いていた。
この手を、いつまで握っていていいのだろう。
今は、まだわからない。
彼女にとって、自分がどんな存在なのか。自分にとって、彼女がどれほど大切なのか。
言葉にしてしまえば、何かが変わるのかもしれない。
けれど、変わることを恐れて、何も言わずにいる必要もないのだろう。
少なくとも、今日、彼女は手を差し出してくれた。
それだけで、今は十分だった。
*
帰り道、彼女は助手席で少し眠った。
食後の満腹感と、山の空気と、ほどよい疲れが重なったのだろう。最初は窓の外を眺めていたが、やがて会話が途切れ、まぶたがゆっくりと閉じていった。
おじさんは、彼女を起こさないよう、穏やかに車を走らせた。
カーブでは十分に速度を落とし、急な操作を避ける。車内にはエンジンの低い音と、タイヤが路面を踏む静かな音だけが続いていた。
窓から入る風は、街へ近づくにつれて少しずつ温かくなった。山を下るにつれ、濃い緑は遠ざかり、道路脇には田畑や住宅が増えていく。
それでも、信号待ちのたびに見上げる空は、まだ青かった。
助手席で眠る彼女の顔は、普段より幼く見えた。
いつもは、からかってばかりいる。こちらの弱さを見つけては笑い、少しでも油断すれば「よわよわおじさん♡」と呼ぶ。
けれど、彼女もまた、疲れるのだ。
気を張る日もあれば、誰かに甘えたい日もあるだろう。
おじさんは、彼女が自分にしてくれたことを思い出した。
仕事で疲れ果てた日に、食事へ連れ出してくれたこと。
風邪を引いたとき、心配して駆けつけてくれたこと。
自分の作った不格好な料理を、笑いながらおいしいと言ってくれたこと。
そして、芝生の上で、黙って肩を貸してくれたこと。
彼女はいつも、彼を一方的に救ってくれたわけではなかった。
彼が少しずつ自分の足で立とうとするのを見守り、ときにはからかい、ときには手を貸し、そして自分もまた、彼と過ごす時間を楽しんでくれていた。
だからこそ、彼は思う。
この車で、いつか彼女の行きたいところへ行ってみたい。
海でもいい。湖でもいい。遠くの町でもいい。
彼女が見たい景色を、隣で一緒に見てみたい。
そして、その帰り道には、今日みたいにおいしいものを食べて、くだらない話をして、彼女が眠ってしまったら、起こさないように運転したい。
そんな未来を思い描ける自分が、少し誇らしかった。
信号待ちで車が止まったとき、ダッシュボードのほうから、CDの最後の曲が静かに流れてきた。
おじさんは、ほんの少しだけ音量を下げた。
父の車の助手席に座っていた頃、こんなふうに眠ってしまったこともあっただろうか。
記憶は曖昧だった。学生時代の帰省の道中、疲れて眠ってしまい、目が覚めたときには、見慣れた町の景色が窓の外に広がっていた。父は何も言わず、いつもどおり運転していた。
そのときの自分は、父がどんな気持ちで運転していたのか、考えたこともなかった。
今なら、少しわかる気がする。
隣の人が安心して眠っている。そのことを嬉しく思い、起こさないように走る。目的地まで、無事に送り届ける。
ただそれだけのことが、誰かを大切にするということの、ひとつの形なのかもしれない。
「……ん」
助手席から、小さな声がした。
彼女が目を開け、ぼんやりと前を見た。
「……あれ。あたし、寝てた?」
「うん。少しね」
「えっ、うそ。恥ずかし……」
彼女は慌てて姿勢を正した。
「ご、ごめん。運転してるのに、隣で寝ちゃって」
「いいよ。疲れたんだろうし」
「……でも」
「僕は、嬉しかったよ」
「……は?」
「安心してくれたのかな、と思って」
彼女は、しばらく黙った。
それから、頬を赤くして、窓の外を向いた。
「……そういうの、ほんっとに反則」
「反則かな」
「反則です!」
彼女は勢いよく答えた。
しかし、少しすると、声を落とした。
「……でも、まあ」
「うん?」
「……乗り心地、よかったし」
おじさんは笑った。
「それは、車を褒めているのかな」
「車も、おじさんも!」
言ってから、彼女は口を押さえた。
「…………あっ」
おじさんは、前を向いたまま、静かに笑った。
「ありがとう」
「もうっ! 今のは忘れて!」
「難しいなあ」
「忘れなさい!」
車内に、彼女の笑い声が響いた。
銀色のセダンは、初夏の街へと戻っていく。
派手な速さはない。人目を引くような華やかさもない。
けれど、落ち着いたエンジン音を響かせながら、確かな足取りで、二人を街へと運んでいた。
*
彼女を送り届けたあと、おじさんはマンションの駐車場に車を停めた。
エンジンを切ると、車内に静けさが戻ってきた。
彼はシートベルトを外し、助手席を見た。
そこには、彼女が座っていた痕跡が、かすかに残っているような気がした。
窓の外を眺めていた横顔。
舞茸の天ぷらを頬張っていた笑顔。
手をつないだときの、赤くなった頬。
眠りから覚めて、自分の失言に気づいたときの、あの慌てた顔。
おじさんは、ひとりで小さく笑った。
車を譲ってもらったとき、彼は単純に、移動が便利になるのだと思っていた。買い物が楽になり、休日の行動範囲が広がり、電車の時刻を気にせずに済む。
もちろん、それも本当だ。
けれど今日、彼はもうひとつのことを知った。
車は、行き先を決めるための道具でもあるのだ。
どこへ行きたいか。何を見たいか。誰と、その景色を眺めたいか。
そういうことを考える余地を、彼の生活に作ってくれる。
そして、車は思い出を運ぶこともある。
父から受け取った鍵。色褪せたCDケース。学生時代、助手席から眺めていた景色。父の運転する車の中で聴いた音楽。
昔の自分は、ただ音楽を聴き、窓の外を眺めていた。父が運転してくれていることを当たり前のように思い、その時間がどれほど大切なものだったか、深く考えたこともなかった。
今は、そのときの父の気持ちを、ほんの少しだけ想像できる。
誰かを乗せて走ること。
その人が行きたい場所まで、無事に送り届けること。
そして、隣にいる人と過ごした時間を、いつか自分の中に残していくこと。
今日のドライブも、いつかそんな記憶のひとつになるのだろう。
以前の彼は、次の休日が来ても、何をするか決められなかった。仕事で疲れているから。出かけるのは面倒だから。自分が何をしたいのか、よくわからないから。
そうして一日が過ぎると、また何もしなかったと自分を責めた。
今は違う。
次の休日には、彼女が行きたいと言っていた場所を調べてみよう。
海沿いの道もいい。湖の周りを走るのもいい。道の駅で地元の野菜を買って、帰ってから一緒に料理をするのも楽しそうだ。
そのときには、彼女に行き先を尋ねよう。
自分が決めるだけではなく、彼女が行きたい場所も聞いてみたい。
きっと彼女は、あれこれ注文をつけるだろう。
そして最後には、「おじさんにしては、なかなかじゃん」と笑うに違いない。
その顔を思い浮かべるだけで、次の休日が少し楽しみになった。
おじさんは車を降り、鍵をかけた。
駐車場の向こうには、初夏の青空が広がっていた。
梅雨は、もうすぐやって来るだろう。雨の日が続き、空が灰色に閉ざされることもある。仕事で疲れ、気持ちが沈む日も、きっとまた訪れる。
それでも、今日見た山の緑は、彼の中に残っていた。
乾いた風。眩しい光。窓の外を流れる若葉。そして、隣で笑う彼女の声。
父から受け取った古いCDの音色も、まだ耳の奥に残っていた。
人生が急に、輝かしいものに変わったわけではない。
ただ、行きたい場所ができた。
隣に乗せたい人がいる。
そして、自分の車でそこへ向かう未来を、自然に思い描けるようになった。
それは、以前の彼にはなかった、ささやかで、確かな変化だった。
おじさんはスマートフォンを取り出し、彼女にメッセージを送った。
『今日はありがとう。すごく楽しかったよ』
すぐに返信が来た。
『あたしも楽しかった!』
続けて、もう一通。
『でも、次はもっと景色のいいところに連れてってね。運転手さん♡』
彼は笑いながら返信した。
『かしこまりました。行きたい場所があったら教えてください』
既読がつく。
『……うん。考えとく』
少し間が空いて、さらに一通。
『あと、今日の車のおじさん、けっこうかっこよかったよ』
おじさんは、画面を見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
『ありがとう。嬉しいよ』
返信は、すぐには来なかった。
やがて、ようやく届いた一言。
『……ばか♡』
おじさんは声を立てて笑った。
初夏の風が、駐車場を吹き抜けていった。
次の休日まで、あと何日あるだろう。
今度は、どこへ行こう。
銀色のセダンは、静かに駐車場の片隅で、次の旅を待っていた。
ほんと、かっこいいんだもん。おじさん、やっぱりずるい。