人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
梅雨という季節は、世界から遠近法を奪う。
窓の向こうにあるはずの山も、街路樹も、電線にとまった鳥の影さえも、雨の幕に隔てられて輪郭を失う。近くにあるものだけが妙に鮮明になり、部屋の中の小さな物音や、人の呼吸ばかりが、普段よりも大きく聞こえるようになる。
六月の土曜日、午前十時。
おじさんは、台所のテーブルに並べられた蕎麦粉と小麦粉、それからテーブルの端に置いた麺棒やこね鉢を眺めながら、自分がいささか途方に暮れていることを認めざるを得なかった。
「……本当に、蕎麦を打つのか」
「何よ、その顔。まさか三十三歳にもなって、蕎麦粉が爆発すると思ってる?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「じゃあ、なあに?」
「蕎麦って、もっとこう……職人さんが厳しい顔で打つものじゃないのかなって」
「出た。よわよわおじさんの、やる前から失敗するための言い訳♡」
彼女は傘を玄関に立てかけ、濡れた髪の先をタオルで拭きながら笑った。
そもそもの発端は、職場の上司だった。
新しい職場にも少しずつ馴染み始めたおじさんに、ある日、年配の上司が言ったのである。
「雨の日は蕎麦でも打ってみたらどうです。意外と楽しいですよ。粉から自分で作ったものは、多少失敗しても旨いもんです」
その言葉には、単なる世間話とは違う、実際に手を動かしてきた人間の実感があった。
おじさんが興味を示すと、上司は蕎麦打ちの道具を持っていることまで教えてくれた。昔に揃えたものがあり、今は使っていない予備の一式もあるという。
「よかったら、道具は私の予備をお譲りしますよ。最初から一通り買うとなると、なかなか大変ですからね。まずは気軽に試してみるといい」
そう言って、上司は道具を譲ってくれた。
おじさんは恐縮しながらも、その厚意をありがたく受け取った。新しい職場で、仕事のことばかりでなく、休日の過ごし方にまで思いがけない助言をもらったのが、なんだか嬉しかった。
そして金曜日の仕事帰り、彼は教えられた分量を思い出しながら、スーパーで蕎麦粉と小麦粉を買い揃えた。薬味とつゆも忘れずに買い、足りないものがないか、帰宅してから何度も袋の中身を確かめた。
その話を、彼は昼休みに何気なく彼女へ伝えた。
すると彼女は、間髪を入れずにこう返した。
『じゃあ、今度やろ。あたしもやったことないし』
おじさんが「でも、梅雨だし、出かけるところもないから」と付け足したときには、もう話は決まっていた。
かくして彼女は、蕎麦粉と小麦粉を抱えた彼の部屋へやって来たのである。
外では雨が降り続いていた。車でどこかへ出かけるには視界が悪く、山道を走る気にもなれない。せっかくの銀色のセダンも、今日はマンションの駐車場で、雨粒を額に受けた老紳士のように静かに佇んでいることだろう。
けれども、おじさんは、少しだけ嬉しかった。
出かけられないから仕方なく家にいるのではない。
彼女が、自分の部屋で過ごすことを選んでくれたのだ。
「ほら、おじさん。まず手を洗って。あと、エプロンある?」
「あるよ。料理をするとき用のが」
「へえ。ちゃんと持ってるんだ」
「この前、君が来たときに、もう少し料理をしようと思って買ったんだ」
「……ふうん」
彼女は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
それから、わざとらしく鼻を鳴らした。
「まあ、あたしの教育の成果ね。感謝してもいいわよ?」
「うん。感謝してる」
「……そういうの、いちいち真顔で言わないでくれる?」
彼女はエプロンを受け取ると、彼に背中を向けた。
「ほら、結んで」
「えっ、ああ」
おじさんは、彼女の背後に回った。
細い紐を持つ指先が、妙に頼りなくなる。
ただエプロンを結ぶだけだ。そんなことは分かっている。分かっているのに、彼女の背中がすぐ目の前にあるというだけで、普段なら意識もしない自分の手の動きが、ひどくぎこちなく思えた。
「おそーい。ちょうちょ結びくらいできるでしょ、三十三歳」
「できるよ」
「じゃあ、何でそんなに慎重なの?」
「……曲がったら悪いかなと思って」
「エプロンの紐が?」
「君が」
口にしてから、おじさんはしまったと思った。
彼女が振り返る。
その頬に、台所の窓から差す鈍い光が当たっていた。
「……へえ?」
口元が、ゆっくりと意地悪な形に曲がる。
「おじさん、最近そういうこと、さらっと言うようになったわね?」
「いや、今のは、その……」
「べつにいいけど。あたし、そういうの嫌いじゃないし」
言い終えると、彼女は彼の胸元を指先で軽く押した。
「はい、蕎麦。逃げない」
その指が離れたあとも、おじさんはしばらく、そこに触れられた感覚を意識していた。
*
「蕎麦粉と小麦粉は、まず混ぜるんだって」
「ふうん。粉の段階では、まだ蕎麦って感じしないわね」
「そうだね」
「おじさんの人生みたい」
「粉の段階なの?」
「まだ何にも形になってないってこと♡」
「ひどいなあ」
そう言いながら、おじさんは笑っていた。
彼女も笑った。
粉に水を加えると、乾いた白と灰色の粒が、次第にまとまり始めた。二人で交代しながら指を動かし、手のひらで生地を寄せ集める。水が多すぎたのか、最初は指にべたべたと張りつき、彼女は早々に顔をしかめた。
「うわ。なにこれ。あたしの指、蕎麦に食べられてるんだけど」
「水が多かったかな」
「おじさんが計量したんでしょ」
「そうだけど……」
「はい、犯人確定」
「ごめん」
「謝るの早いってば。まだ取り返しつくでしょ」
彼女は、指についた生地を小さな塊にまとめて、彼の手のひらへ押しつけた。
「ほら。二人で何とかするの。あたしだけに任せないでね」
その言い方が、彼には少し不思議だった。
彼女は普段、おじさんの失敗を見つけると、ここぞとばかりに笑う。情けないところを見せれば、すぐに「よわよわ」と言ってくる。
それなのに、彼が本当に困ってしまうと、いつだって、笑いながら隣に立っている。
失敗をしないように手を引いてくれるのではない。
失敗しても、そこから一緒にやり直すつもりでいるのだ。
「……ありがとう」
「ん?」
「いや。何でもない」
「怪しい。今、絶対なんか考えてたでしょ」
「考えてたよ」
「何を?」
「君がいてくれて、よかったなって」
彼女の手が止まった。
雨音が、ほんの少しだけ大きく聞こえた。
「……はいはい」
彼女は、粉のついた手をぱんぱんと払った。
「そういうのは、蕎麦がちゃんと食べられる形になってから言いなさいよ。今のところ、あたしたちの共同作業、食べ物というより灰色の事件現場なんだから」
「それはそうだね」
「素直に認めるな!」
彼女の笑い声が、狭い台所に弾んだ。
*
生地をまとめ、表面をなめらかに整えたところで、彼女は突然、得意げに人差し指を立てた。
「ここで、あたしの出番です」
「何をするの?」
「踏むの」
「……踏む?」
「そう。蕎麦って、ちゃんとコシを出すために、生地を踏むやり方があるんだって。もちろん、直接じゃないわよ。ジップロックに入れて、袋の上からね」
彼女は買い物袋から、大きめの保存袋を取り出した。
おじさんは生地を袋へ入れ、空気を抜いて口を閉じる。彼女はそれを床に置き、袋が破れないように位置を整えた。
「よし。じゃ、踏みますか」
彼女はスリッパを脱いだ。
その瞬間、おじさんは、何を見ているのか自分でもよく分からなくなった。
彼女の足が、床に静かに置かれる。
体重をかけるために片足を持ち上げ、もう一方の足でバランスを取る。その自然な動きに合わせて、ふくらはぎから足首へと続く線が、ゆるやかに形を変えた。
華奢に見えるのに、立ち姿には思いのほかしっかりとした安定感がある。足先に重心を移すとき、膝がわずかに緩み、脚の輪郭がしなやかに変化する。
彼女は、そんなことなど少しも意識していない様子だった。
「んしょ。……あ、これ、けっこう楽しいかも」
袋越しに生地を踏み、ゆっくりと足を動かす。
彼女の足の裏に合わせて、生地が押し広げられていく。袋の中の灰白色の塊が、平たくなり、折り畳まれ、また押し広げられる。
そのたびに彼女は、体の傾きを微調整していた。
おじさんは、その一連の動きを見つめていた。
いや、見つめすぎていた。
彼女がふと顔を上げる。
「……何?」
「えっ」
「何、じーっと見てんの?」
「いや、その、生地を……」
「生地?」
彼女は足もとへ目を落とし、それから、ゆっくりと彼を見た。
唇の端が、ぴくりと持ち上がる。
「へえー。おじさん、蕎麦の生地って、そんなに熱心に観察するものなんだ?」
「いや、これは、その……ちゃんとできているか確認を」
「生地は袋の中ですけど?」
「……そうだね」
「しかも、あたしの足ばっかり見てたくせに」
「見てないよ!」
「見てたじゃん♡」
彼女は、いたずらを思いついた子どものように目を輝かせた。
「なになに? あたしが一生懸命お蕎麦を踏んでる姿、そんなに珍しかった?」
「珍しいというか……」
「というか?」
「……きれいだな、と思って」
沈黙が落ちた。
今度こそ、おじさんは逃げ道を失った。
雨音だけが、窓の向こうで律儀に降り続いている。
彼女は、ぱちぱちと瞬きをした。
「……は?」
「いや、だから……」
「ちょ、ちょっと待って」
彼女は片手を上げた。
「今、何て?」
「きれいだなって」
「誰が?」
「君が」
「……っ!」
彼女の耳が、目に見えて赤くなった。
それでも彼女は、意地でも負けを認めまいとするように、わざとらしく咳払いをした。
「ふ、ふーん? へえー? おじさん、そういう趣味だったんだ?」
「どういう趣味なのかな……」
「女の子が蕎麦を踏んでるところを眺めて、勝手にどきどきしてる趣味♡」
「そこまで言ってないよ!」
「言ってなくても顔に書いてあるの。三十三歳のくせに、分かりやすーい」
彼女は笑った。
しかし、いつものように遠慮なく彼をからかいながらも、視線が一度だけ、落ち着きなく横へ逸れた。
彼女だって、照れているのだ。
その事実に気づいた途端、おじさんの胸の奥が、さらに落ち着かなくなった。
「……でも」
彼女は、生地を踏む足をいったん止めた。
「きれいって思ったなら、別にいいけど」
「え?」
「だから、べつにいいって言ってんの。何回も言わせないでよ、ばか」
最後の一言だけが、少し小さかった。
それから彼女は、すぐに顔を上げた。
「ただし! 見とれてないで、生地の様子を確認すること。あたしばっかり働いてるじゃない」
「はい」
「返事だけはいいんだから」
おじさんは、慌てて袋の位置を確認した。
彼女は再び生地を踏み始める。
足を動かすたび、彼女の体は小さく揺れた。さっきまで気になって仕方がなかった脚の線も、今は、彼女が真剣に蕎麦を作っていることの一部として目に映った。
自分のために、わざわざ時間を作ってくれたこと。
失敗しても笑いながら、二人で何とかしようと言ってくれたこと。
雨の日の退屈な部屋を、彼女が自分の笑い声で満たしてくれていること。
おじさんが本当にどきどきしていたのは、きっと、そういうことの全部だった。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「次、交代ね」
「僕も踏むの?」
「当たり前でしょ。あたしだけにやらせるつもり?」
「いや、でも……」
「でも、じゃないの。ほら、エプロンの紐、もう一回ちゃんと結び直してあげるから」
「自分で結べるよ」
「知ってる。今日はあたしが結びたいの」
彼女は、何でもないことのように言った。
そして、おじさんが返事をするより早く、その背中へ回った。
紐が指に触れる。
小さな結び目ができる。
それだけのことなのに、おじさんは、どうしてか先ほどよりもずっと緊張していた。
*
蕎麦打ちは、思っていた以上に難しかった。
踏み終えた生地を延ばす段階では、麺棒に均等に力をかけられず、端ばかりが薄くなった。折り畳むときには彼女が妙に几帳面な顔で生地を整え、包丁を入れる段階では、おじさんの切る蕎麦が太くなったり細くなったりした。
「……おじさん」
「はい」
「これ、蕎麦?」
「蕎麦だよ」
「きしめんと蕎麦と、うどんの親戚が一堂に会してるみたいなんだけど」
「切るのが難しいんだよ」
「知ってる。あたしだって、ほら」
彼女が自分の切った麺を見せる。
おじさんのものよりは、いくらか均一だった。
「……上手だね」
「でしょ?」
「うん」
「もっと悔しがりなさいよ。あたしが上手くできたら、おじさんは褒めて、あたしは得意になる。そういう役割分担なの」
「なるほど」
「納得するな!」
彼女は笑いながら、麺をそっとまとめた。
不揃いな蕎麦が、まな板の上に並んでいた。
職人が打った蕎麦のように端正ではない。太さも長さもまちまちで、どう見ても素人の仕事だった。
けれど、おじさんは、その麺を見ているうちに、不思議な満足感を覚えた。
この蕎麦には、二人の手の跡がある。
水を入れすぎた失敗も、粉が飛び散って彼女がくしゃみをしたことも、袋の中の生地を踏みながら彼女が笑ったことも、包丁を持つ彼の手を見て「もっと猫の手!」と叱ったことも。
どれも、麺の見た目には残らない。
それでも、今日という時間は、確かにこの不揃いな蕎麦の中に詰まっているような気がした。
「……何、またぼーっとしてんの?」
「いや。早く食べたいなと思って」
「ふうん。成長したじゃん」
彼女は満足そうにうなずいた。
「前のおじさんだったら、見た目が悪いとか、失敗したとか、そういうことばっかり気にしてたでしょ」
「……そうかもしれないね」
「でも、ちゃんと食べられるかもしれないじゃん。だったら、まず食べてから考えればいいの」
彼女は、麺の一本をつまみ上げた。
「それにさ。これ、あたしたちが作ったんだよ?」
その声には、からかいとは別の、静かな誇らしさがあった。
「お店の蕎麦みたいにきれいじゃなくても、今日しか食べられない味じゃん」
おじさんは、彼女を見た。
彼女は麺を見ていた。
その横顔を見ていると、胸の奥に、温かなものがゆっくりと満ちていった。
「……そうだね」
「うん。だから、失敗してても文句言わないこと」
「分かった」
「あと、あたしの分は多めに盛ること」
「それは別の話じゃないかな」
「何よ。あたしがいっぱい踏んだんだから、当然でしょ?」
「踏んだのは、コシを出すためだよね」
「そうだけど?」
「じゃあ、量とは関係ないんじゃ……」
「おじさん?」
「……多めに盛ります」
「よろしい♡」
*
湯を沸かし、麺を茹でる。
太さの違う蕎麦は、火の通りも少しずつ違った。二人で味見をしながら茹で加減を確かめ、冷水で締め、ざるに盛る。
薬味は刻み葱とわさび。つゆは市販のものを用意した。
出来上がった蕎麦は、やはり不揃いだった。
細い麺はすっと箸から逃げ、太い麺は妙に堂々と皿の上に居座っている。まるで、二人の性格がそのまま麺になったようだった。
「いただきます」
「いただきまーす」
彼女は箸を取り、蕎麦をひと口すすった。
しばらく、黙って噛んでいる。
おじさんは、その顔色をうかがった。
「……どうかな?」
「ん」
「おいしくない?」
「んー……」
彼女は、わざと考え込むような顔をした。
「どうしようかなー。おじさん、傷つきやすいからなー」
「正直に言ってくれていいよ」
「じゃあ、正直に言います」
彼女は、もうひと口食べた。
「おいしい」
「……本当?」
「うん。ちょっと太さがバラバラだけど、ちゃんと蕎麦だし。噛むと、蕎麦の香りがする。太いところは、もっちりしてるし」
彼女は、つゆを少しつけて、もう一度食べた。
「それに、これ」
「うん?」
「自分で作ったからかな。なんか、いつもよりおいしく感じる」
おじさんは、箸を持ったまま、彼女を見つめた。
「……よかった」
「何、その顔」
「いや、本当においしいって言ってくれたから」
「だから、本当においしいんだってば」
「うん」
「……あーもう」
彼女は少し困ったように笑った。
「おじさんって、褒められるとすぐ泣きそうになるんだから」
「泣かないよ」
「ほんとかなー?」
「本当だよ」
「じゃあ、次はもっと上手に作ってよね」
「次もあるの?」
言ってから、おじさんは、自分の言葉に気づいた。
次もあるのか。
次も、一緒に作るのか。
それは彼にとって、以前なら、あまりにささやかで、わざわざ喜ぶほどでもないことだったかもしれない。
けれど今は、その一言だけで、雨の日の向こう側に小さな灯りがともったような気がした。
彼女は、呆れたように目を細めた。
「……あるでしょ、そりゃ」
「そっか」
「だって、今日の蕎麦打ち、まだ改善点だらけなんですけど?」
「そうだね」
「麺の太さ。生地の延ばし方。あと、おじさんの見とれ癖」
「それは改善点なのかな……」
「大問題ですぅ♡」
彼女は、蕎麦をひと口すすってから、少しだけ声を落とした。
「……でも、楽しかったよ」
おじさんは顔を上げた。
「うん?」
「だから、今日。出かけられなかったけど、別に退屈じゃなかった」
彼女は箸の先で、ざるの上の蕎麦を整えた。
「おじさんの家で、粉まみれになって、変な蕎麦作って。こういうのも、悪くないじゃん」
窓の外では、雨が降り続いている。
街は灰色で、山道は濡れ、セダンは駐車場で眠っている。予定していた遠出も、景色のよい場所での食事も、今日は何ひとつ叶わなかった。
それなのに、おじさんは、今この瞬間を惜しいとは思わなかった。
遠くへ行くことだけが、誰かと過ごすことではない。
同じ部屋で粉をこぼし、失敗を笑い、蕎麦をすすり、次の約束をする。
それだけで、世界は十分に広がることがある。
「……僕も、楽しかったよ」
おじさんが言うと、彼女は、ふいに目を細めた。
「知ってる」
「どうして?」
「だって、ずっと顔がにやけてるもん」
「そうかな」
「そうですぅ。ほんと、分かりやすいんだから」
彼女は笑った。
その笑顔を見ていると、おじさんは、さっきの自分を思い出した。
ジップロックの中の生地を踏む彼女の足もとを、思わず見つめてしまったこと。
きれいだと思ったこと。
それを口にしたら、彼女が照れて、いつもの調子で自分をからかい始めたこと。
あのとき胸を満たしたどきどきは、確かに彼女のしなやかな身のこなしに向けられたものだった。
けれど、それだけではなかったのだろう。
彼女が自分の部屋で、当たり前のようにくつろいでいること。自分の失敗を笑いながら、一緒にやり直してくれること。おいしいものを食べて、次の楽しみを約束してくれること。
そんな何気ない幸福が、彼の目には、以前よりずっと鮮明に映るようになっていた。
*
食事を終えると、彼女は食器を運ぶのを手伝い、流しの前で袖をまくった。
「洗い物、あたしもやる」
「いいよ。蕎麦を打ってくれたんだから」
「だから、二人で作ったんでしょ。最後まで二人でやるの」
そう言って、彼女は洗剤をスポンジにつけた。
おじさんは隣で、すすいだ食器を拭いていく。
肩が触れそうな距離だった。
彼女の髪から、ほのかにシャンプーの匂いがする。
「ねえ」
「うん?」
「今度、晴れたらドライブ行こうよ」
「うん。どこに行きたい?」
「そうねえ。山もいいけど、海もいいかな」
「海か」
「うん。車で走って、どこかでごはん食べて。帰りにアイスでも買ってさ」
「いいね」
「……あと」
彼女は、泡のついたスポンジを持ったまま、ちらりと彼を見た。
「また、こういうのもやろうね」
「こういうの?」
「家でごはん作るの。今日みたいに、雨が降ってても、出かけるところがなくても」
彼女は、少しだけ頬を赤くした。
「……あたし、けっこう好きだから。こういうの」
おじさんは、濡れた皿を拭く手を止めた。
「僕も好きだよ」
「……そ」
「君と一緒にいると、何をしていても楽しいんだ」
「……っ、だから!」
彼女はスポンジを置き、濡れた手を慌ててタオルで拭いた。
「そういうの、ほんとに、急に言うのやめてくれる!?」
「ごめん」
「謝るな! 余計に恥ずかしいでしょ!」
彼女は彼の腕を、タオル越しに軽く叩いた。
それから、ほんの少しだけ、彼の袖をつまんだ。
「……でも」
雨音に紛れそうな、小さな声だった。
「……あたしも、そうだよ」
彼女はすぐに手を離した。
「はい、この話おしまい! おじさん、蕎麦の粉が床に落ちてる。掃除して。あと、次回はもうちょっと細く切ること!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
「よろしい♡」
夕方になっても、雨は止まなかった。
彼女が帰る支度をしている間、おじさんは窓の外を眺めていた。濡れた街灯が、薄暗くなり始めた路面に滲んでいる。
今日は、どこにも行かなかった。
遠くの景色を見ることも、知らない土地の名物を食べることもなかった。
けれど彼の部屋には、蕎麦の香りが残っていた。流しには洗った食器が並び、テーブルには、使いかけの蕎麦粉がきちんと封をされて置かれている。借り物だった道具も、洗って乾かし、ひとまとめにしておいた。
上司が譲ってくれた道具がなければ、今日の蕎麦打ちは始まらなかった。
あの人の何気ない一言が、こんな休日につながるとは、仕事の話を聞いたときには想像もしなかった。
粉を混ぜ、生地をこね、失敗を笑い合い、最後には同じ蕎麦を食べる。
仕事の外にも、誰かの言葉から始まる楽しみがある。そういう当たり前のことを、おじさんは少しずつ知り始めていた。
そして、玄関には、彼女の傘がある。
「おじさん、何ぼーっとしてんの。帰るよー」
「ああ、うん。送っていくよ」
「雨、そんなに強くないから大丈夫。玄関まででいいよ」
「そっか」
玄関先で靴を履いた彼女は、ふと思い出したように振り返った。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「今日、あたしのこと、きれいって言ったじゃん」
おじさんは、一瞬で顔が熱くなるのを感じた。
「……うん」
「……あれ」
彼女は、靴のつま先を見つめた。
「ちょっと、嬉しかった」
それだけ言うと、彼女はすぐにドアを開けた。
「じゃあね! 次はもっと上手な蕎麦、期待してるから!」
「うん。またね」
「……ばか♡」
ドアが閉まった。
おじさんは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
雨音は変わらない。
けれど、さっきまで灰色だった景色が、ほんの少しだけ違って見えた。
彼は台所へ戻り、テーブルの上の蕎麦粉を眺めた。
次は、もう少し細く切ろう。
水加減も、もう少し慎重にしよう。
それから、今度は彼女に、何を作ってみたいか聞いてみよう。
そんなことを考えている自分が、少しおかしかった。
以前の彼なら、休日が雨で潰れたと考えただろう。予定がなくなった、何もできなかった、せっかくの時間を無駄にした。そうやって、一日の価値を、どこかへ出かけたかどうかで測っていたかもしれない。
けれど今日は違った。
雨が降っていたから、彼女と蕎麦を打った。
蕎麦を打ったから、彼女の知らなかった表情を見た。
彼女が笑ったから、自分も笑った。
ただそれだけのことが、こんなにも豊かだった。
窓の向こうで、雨粒がひとつ、ガラスを伝って落ちていく。
梅雨はまだ続く。
次の晴れ間がいつ訪れるかは分からない。
けれど、おじさんはもう、雨の日をただ耐えるだけの時間だとは思わなかった。
次の休みには、何をしよう。
彼女となら、きっと、また何かを見つけられる。
テーブルの上の蕎麦粉は、静かにそこにあった。
それは次の休日の約束のようでもあり、二人で作った、不揃いで、少し不格好で、けれど確かにおいしかった幸福の、ほんの小さな残り香のようでもあった。
僕は変態じゃない。……はずだ。