人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
夏は、光に容赦というものを教えない。
八月の海岸へ続く道路は、陽炎に揺れていた。アスファルトの上に浮かぶ白い光は、遠くの景色をわずかに歪め、空と海の境界さえ、ひとつの眩しい青に溶かしてしまう。車の窓を閉めていても、日差しの熱はガラス越しに肌へ届いた。
銀色のセダンは、海沿いの道を静かに走っていた。
おじさんはハンドルを握りながら、助手席の彼女へ目をやった。
「暑くない?」
「暑いに決まってるでしょ。八月なんだから」
「エアコン、もう少し強くしようか」
「今のでいい。冷やしすぎると、海に着く前にお腹が冷えちゃうじゃん」
「なるほど」
「……何、その感心した顔。あたし、そんなに生活能力がなさそうに見える?」
「いや。ちゃんと考えてるんだなと思って」
「失礼ね。あたしはおじさんと違って、夏を生き延びる知恵があるんですぅ♡」
彼女は得意げに胸を張った。
今日は、彼女の提案で海へ出かけることになった。
梅雨のあいだ、二人は部屋で蕎麦を打ったり、映画を見たりして過ごした。雨の日の楽しみ方を覚えたおじさんだったが、彼女は彼女で、夏になれば海へ行くのだと、ずいぶん前から決めていたらしい。
海水浴をして、海辺の食堂で魚を食べる。
食後は冷たいものでも買って、日陰で休む。
ただそれだけの予定だった。
けれど、おじさんにとっては、ただそれだけのことが、以前よりずっと楽しみになっていた。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「今日のごはん、何が食べたい?」
「えっ。もう決めてあるんじゃないの?」
「決めてるけど、聞いてるの。おじさんの希望を」
「……そうだな。せっかく海に来るんだから、刺身とか、焼き魚とか。あと、冷たい蕎麦もいいな」
彼女は、少し意外そうに目を丸くした。
「へえ。ちゃんと言えるじゃん」
「この前も言ったよ」
「そうだけど。前より迷わなくなったなって」
「……そうかな」
「うん。いい傾向です。あたしの教育が実を結びつつあるわね」
「先生のおかげです」
「よろしい♡」
彼女は満足そうに笑い、窓の外へ顔を向けた。
海が近づいていた。
白い砂浜の向こうで、波が光っている。
その眩しさを見たとき、おじさんは、自分がいつの間にか、今日という一日を心待ちにしていたことを思い知った。
誰かと出かける予定がある。
誰かの好きなものを知っている。
自分が食べたいものを、遠慮せずに口にできる。
そういう小さな変化が、三十三歳の彼の人生を、少しずつ夏らしいものに変えていた。
*
海水浴場は、夏休みの家族連れや若者たちで賑わっていた。
波打ち際には子どもたちの歓声が弾け、砂浜には色とりどりのパラソルが並んでいる。潮の匂いに、日焼け止めの甘い香りと、どこかの屋台から流れてくる焼きとうもろこしの匂いが混じっていた。
「うわあ、海だ!」
彼女は、駐車場から砂浜へ続く道で、思わず声を上げた。
普段は、おじさんの失敗を見つけては小悪魔のように笑う彼女も、こういうときには年相応の無邪気さを隠しきれないらしい。
「そんなに海が好きなの?」
「好きだよ。何よ、悪い?」
「いや。楽しそうだなと思って」
「おじさんだって、楽しみにしてたくせに」
「……うん。そうだね」
彼女は、少しだけ顔をほころばせた。
「なら、今日はちゃんと楽しみなさいよ。仕事のことも、将来のことも、いったん砂浜に埋めちゃいなさい」
「それは、あとで掘り返すのが大変そうだね」
「そういうところだけ真面目なんだから。冗談に決まってるでしょ!」
二人は更衣室で水着に着替え、日焼け止めを塗り、飲み物を買ってから砂浜へ出た。
そこで、おじさんは一瞬、言葉を失った。
彼女は、淡い青色の水着を着ていた。
華奢な肩から腕へ続く線は細く、腰まわりもすっきりとしている。全体に薄く、しなやかな体つきだったが、ただ細いというだけではない。陽光の下で動くたび、肩や腰の輪郭には、若い女性らしい柔らかな曲線が現れた。
普段、服の上から見ている彼女とは、少し違う。
その違いに気づいた途端、おじさんは、視線の置き場所に困った。
見てはいけないわけではない。
けれど、あまりじっと見つめるのも失礼だろう。
そう考えて目をそらしたところで、彼女がこちらを向いた。
「……何?」
「いや」
「何よ、その間」
「水着、似合ってるなと思って」
彼女は、きょとんとした。
それから、みるみるうちに頬を赤くした。
「……は?」
「色も、君に似合ってるよ」
「ちょ、ちょっと! 何でそんな普通に言うの!?」
「普通に思ったことを言っただけだけど……」
「そういうのが一番困るんですけど!」
彼女は慌てて髪を耳にかけ、砂浜のほうを向いた。
「……べつに、褒められて嬉しいとか、そういうんじゃないからね」
「うん」
「うん、じゃない! 何か言いなさいよ!」
「じゃあ、嬉しくないなら、もう言わないほうがいいかな」
「それは……」
彼女は振り返りかけて、やめた。
「……ばか。そういう意味じゃないでしょ」
声が小さかった。
おじさんは、思わず笑ってしまった。
「ごめん」
「謝るなってば!」
彼女は彼の腕を軽く叩いた。
その手つきは、いつもと同じだった。
けれど、耳の赤さだけは、しばらく元に戻らなかった。
*
海に入ると、思いのほか水は冷たかった。
「ひゃっ!」
彼女が足首まで浸かったところで、小さく跳ねた。
「冷たい!」
「大丈夫?」
「大丈夫だけど、冷たいものは冷たいの!」
「じゃあ、少しずつ慣らそうか」
「……おじさんって、そういうところだけ妙に落ち着いてるよね」
「そうかな」
「そうよ。昔だったら、きっと『大丈夫? 無理しないでね』って十回くらい言ってたと思う」
「……そんなに言ってた?」
「言ってた。心配するのはいいけど、あたしが自分で決める余地までなくなるくらい心配してた」
彼女は、波を見つめながら言った。
「今は、ちゃんと待ってくれるようになったじゃん」
おじさんは、少し考えた。
「君が、自分で決めていいって教えてくれたからね」
「……ふうん」
「それに、君は嫌なことは嫌だって言うから」
「当たり前でしょ。おじさんが相手だからって、何でも言うこと聞くわけじゃないんですぅ」
「知ってるよ」
彼は微笑んだ。
「だから、一緒にいて安心するんだと思う」
彼女は返事をしなかった。
ただ、足もとへ寄せてきた波を蹴り返し、しぶきを彼の膝にかけた。
「うわっ」
「隙あり♡」
「ちょっと!」
「ほら、ぼーっとしてないで入る!」
彼女は笑いながら、少し深いところへ進んでいった。
おじさんも後を追った。
膝まで、腰まで。
波が二人の体を押し、引いていく。
彼女は振り返って、両手で水をすくい、彼のほうへ投げた。
「やったな!」
「何よ、反撃してみなさいよ!」
おじさんは、遠慮がちに水をかけ返した。
彼女は大げさに悲鳴を上げ、すぐさま倍の量を返してきた。
「ちょ、ちょっと、待って!」
「待つわけないでしょ!」
「君、意外と容赦ないね!」
「今さら気づいたの!?」
水しぶきが陽光を受けて、細かなガラス片のように光った。
おじさんは笑った。
声を上げて笑った。
誰かに気を遣って笑うのではなく、場を壊さないために笑うのでもなく、ただ目の前の彼女がおかしくて、楽しくて、笑わずにはいられなかった。
彼女も笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、おじさんは、また少しだけ見とれてしまった。
濡れた髪が頬に張りつき、彼女はそれを指で払った。水滴が首筋を伝い、肩へ落ちる。細い腕が水をかき分け、波の中を進んでいく。
その姿には、日常の彼女とは違う、夏の光に解き放たれたような美しさがあった。
おじさんは、思わず目を細めた。
「……何よ、また見てる」
彼女が、すぐに気づいた。
「いや、楽しそうだなと思って」
「それ、さっきも言った」
「そうだったね」
「……ほんと、誤魔化すの下手なんだから」
彼女は頬を赤くしながら、彼の胸元へ水をかけた。
「ほら、次はあっちまで競争! 負けたほうが、冷たい飲み物を買うこと!」
「いいよ」
「えっ」
彼女は、少し驚いた顔をした。
「……今、断らなかった」
「断る理由がないからね」
「ふうん?」
彼女は口元を緩めた。
「いいじゃん。そういうおじさん、けっこう好きよ」
言い終えるや否や、彼女は走り出した。
「はい、スタート!」
「ちょっと、ずるいよ!」
「勝負は勝負ですぅ♡」
彼は笑いながら、その後を追った。
*
砂浜に戻るころには、二人ともすっかり息が上がっていた。
彼女はパラソルの下へ駆け込み、タオルを頭からかぶった。
「あー、楽しかった!」
「うん。思ってた以上に運動したね」
「おじさん、最後のほう、けっこう速かったじゃん」
「そうかな」
「そうよ。昔だったら、途中で『無理しないほうがいいかな』とか考えて、勝負を降りてたんじゃない?」
「……そうかもしれない」
「でも、今日は最後まで来た」
彼女はタオルの端から顔を出した。
「えらいじゃん」
「ありがとう」
「……素直に言うなあ」
彼女は照れ隠しのように、タオルで彼の肩を軽く叩いた。
おじさんは、自分の体を見下ろした。
濡れた水着の上からでも、以前より少しだけ体つきが変わったことが分かる。
転職して生活のリズムが変わってから、彼は食事をきちんと摂るようになった。朝食を抜かず、昼食を菓子パンだけで済ませることも減った。休日には散歩をしたり、軽い筋力トレーニングをしたりするようになった。
急に若返ったわけではない。
それでも、肩まわりには以前より張りがあり、腕にも、日々の小さな運動が残した筋肉がついてきていた。
彼自身は、その変化をまだ少し不思議に感じていた。
自分の体は、長いあいだ、働くためだけの道具だった。
疲れれば無視し、痛めば我慢し、食事も睡眠も、仕事の都合がついてから考えるものだった。
今は違う。
疲れたら休む。腹が減ったら食べる。少しずつ体を動かし、明日の自分が困らないようにする。
その積み重ねが、彼の体にも現れ始めていた。
「……何?」
彼女の声に、彼は顔を上げた。
「いや、何でもないよ」
「また自分の体、眺めてた?」
「そんなわけじゃないよ」
「ふうん」
彼女は、タオルを肩にかけたまま、彼をじっと見た。
濡れた髪を拭い、休憩しようとしていた彼の腕や肩に、彼女の視線がふと留まった。
以前は、もっと細く見えた。
仕事に疲れ、食事を抜き、寝不足のまま休日を迎えていたころの彼は、年齢以上にくたびれていた。肩を丸めて歩き、何かを尋ねられても、まず相手の都合を考えてから答えていた。
今は、少し違う。
水を飲むためにペットボトルを持ち上げる腕に、確かな力がある。濡れた髪をかき上げる仕草にも、以前のような頼りなさが薄れていた。
何より、彼は自分の体を恥じるように隠していない。
健康になった。
それは、ただ筋肉がついたというだけのことではなかった。
自分を粗末にすることを、少しずつやめたのだ。
彼女は、その変化をずっと見てきた。
食事を選ぶようになったこと。
疲れたときに、疲れたと言えるようになったこと。
仕事の話をするとき、自分の希望を口にできるようになったこと。
そして今、夏の海で、彼は子どものように笑っている。
彼女は、胸の奥に、思いがけない熱が生まれるのを感じた。
頼りないと思っていた人が、いつの間にか、少し頼もしくなっている。
その変化を自分が知っていることが、なんだか誇らしかった。
それに――。
彼女は、もう一度、彼の腕へ目をやった。
水滴が肩から腕へ流れ落ちる。
以前より引き締まった輪郭が、陽光の下で健康的に見えた。
彼女は、思わず視線をそらした。
「……ふうん」
「どうしたの?」
「別に」
「何か気になることでも?」
「ないですぅ」
彼女は飲み物を取り上げ、一気にひと口飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
それでも、顔の熱はなかなか引かなかった。
しばらくして、彼女は、タオルの端を指先でもてあそびながら、ちらりと彼の様子をうかがった。
おじさんはペットボトルの蓋を閉め、肩を回していた。泳いだあとの心地よい疲労をほぐすような、何気ない仕草だった。
そのとき、彼女の目が、彼の胸板に留まった。
以前から、彼が極端に痩せていたわけではない。けれど、仕事に追われていたころは、体の線にどこか頼りなさがあった。今は胸元にも、腕にも、日々の運動によって育った確かな厚みが感じられる。
彼女は、それを確かめるように見つめた。
見ているだけなら、まだよかった。
気がつけば、手が伸びていた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「ちょっと、いい?」
「何が?」
問い返すおじさんの返事を待たず、彼女は彼の二の腕に指先を置いた。
ぺた。
軽く触れ、すぐに離す。
おじさんは目を瞬かせた。
「……どうしたの?」
「んー?」
彼女は何でもないことのように首を傾げたが、もう一度、今度は手のひらで彼の腕をそっと押してみた。
ぺた、ぺた。
以前よりも、しっかりしている。
力を入れているわけでもないのに、腕の中には確かな張りがあった。彼女は思わず、指先でその輪郭をなぞるように触れてしまった。
「……へえ」
「ええと……何かついてる?」
「ついてないけど」
「じゃあ、どうして触ってるのかな」
「確認ですぅ」
「確認?」
「そう。よわよわおじさんが、いつの間にかちょっとだけ強そうになってるから」
「ちょっとだけなんだね」
「調子に乗らないの。まだ審査中です」
そう言いながらも、彼女の指先は、なかなか離れなかった。
おじさんが腕を動かすと、彼女の手の下で筋肉がわずかに形を変えた。
彼女は、はっとしたように顔を上げた。
「……今、力入れた?」
「いや。ペットボトルを置いただけだけど」
「ふうん……」
彼女は、今度は彼の胸元へ視線を移した。
濡れた水着の上から分かる胸板の厚み。肩から腕へ続く線。以前は気にも留めなかったような、そんなところが妙に目につく。
彼女は少し迷ったあと、確かめるように、彼の胸板を指先で軽くつついた。
ぺた。
「……こっちも?」
「こっちも、って……」
おじさんは困ったように笑った。
「そんなに気になる?」
「気になるでしょ。だって、前と違うんだもん」
彼女はもう一度、今度は手のひらで軽く触れた。
胸板は、見た目よりもしっかりしていた。
その事実に気づいた瞬間、彼女の胸の奥が、ほんの少し跳ねた。
自分から触っておいて、何を今さら。
そう思うのに、手のひらに伝わる体温や、近くで見る彼の顔が、妙に意識から離れない。
彼女は、口元を引き締めた。
これは、あくまで確認である。
健康状態の確認。筋肉の発達具合の確認。日頃の努力が成果を上げているかどうかの、いわば検査だ。
そういうことにしておけば、何もおかしくない。
「……ふうん。ちゃんと筋肉ついてるじゃん」
「そうかな。自分では、まだよく分からないんだけど」
「ついてるついてる。腕も、胸も。前より、ずっとしっかりしてる」
「そっか。少しずつ運動してきたからかな」
「……うん」
彼女はうなずいた。
そして、また二の腕にぺたりと触れた。
今度は、自分でも少し長く触れすぎたと思った。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「これ、あたしが育てたようなものだからね?」
「えっ?」
「食べろって言ったのも、休めって言ったのも、あたしでしょ。つまり、あたしの教育の成果ですぅ♡」
「なるほど。先生のおかげなんだね」
「そうよ。感謝しなさい」
「ありがとう」
おじさんは、いつものように素直に笑った。
彼女は、その笑顔を見た途端、急に恥ずかしくなった。
褒められたかったわけではない。
いや、少しくらいは、そうだったのかもしれない。
けれど、それ以上に、彼が自分の体を大切にするようになったことが嬉しかった。以前のように疲労を溜め込まず、食事を抜かず、休日にはこうして海へ出かけて、子どものように笑う。
その変化を見てきた自分が、彼の新しい一面に触れた。
ただ、それだけのことなのに。
「……もういいでしょ」
彼女は、ようやく手を引っ込めた。
「うん?」
「検査終了。合格です」
「それはよかった」
「ただし、これからもちゃんと食べて、運動すること。サボったら、あたしがチェックしますからね」
「分かったよ」
「よろしい♡」
彼女はタオルを頭からかぶり直した。
隠した顔の下で、頬が熱くなっている。
腕に触れたときの感触が、まだ指先に残っていた。
それを思い出すたび、胸の奥が、かすかに弾む。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、いつもより近くに感じてしまった。
「……おじさん」
タオルの下から、彼女の声がした。
「うん?」
「最近、ちゃんと食べてるね」
「食べてるよ」
「運動も」
「少しずつね」
「ふうん……」
彼女は、ペットボトルのラベルを指でなぞった。
「……いいじゃん」
「え?」
「健康そうになったってこと。前より、ちゃんとした大人っぽい」
言ってから、彼女は、しまったという顔をした。
おじさんが、驚いたように彼女を見る。
「……ありがとう」
「いや、だから! 別に、見た目がどうとか、そういう話じゃなくて!」
「うん?」
「……もう!」
彼女はタオルを頭からかぶり直した。
「おじさん、最近ちょっと、ずるい!」
「何が?」
「何でもないっ!」
タオルの下から、くぐもった声が返ってきた。
おじさんは首を傾げた。
彼女が何を恥ずかしがっているのか、分からない。
分からないまま、彼は彼女の隣へ腰を下ろした。
「……でも、嬉しいよ」
「何がよ」
「君が、僕の変化に気づいてくれること」
彼女は、タオルの下で動きを止めた。
「自分では、あんまり分からないんだ。少しずつ変わっているつもりだけど、本当に変われているのか、ときどき不安になるから」
おじさんは、遠くの波を見つめた。
「だから、君が気づいてくれると、ちゃんと進めているんだなって思える」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがてタオルを下ろし、彼の横顔を見た。
「……進んでるよ」
いつものからかう調子ではなかった。
「ちゃんと進んでる。あたし、ずっと見てるもん」
彼は彼女を見た。
彼女は、少し照れたように笑った。
「だから、変なところで自信なくさないこと。あたしが見てるんだから、間違いないでしょ?」
「……うん」
「よろしい」
彼女は彼の肩を、軽くこつんと叩いた。
その手が離れたあとも、おじさんは、肩に残った温かさをしばらく感じていた。
*
海水浴を終え、二人はシャワーを浴びて着替えた。
砂を落とし、髪を乾かし、車へ戻る。強い日差しを受けた銀色のセダンは熱を帯びていたが、エアコンを入れると、すぐに涼しい風が車内を満たした。
「はあー……生き返る」
彼女は助手席に座り、背もたれに体を預けた。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょっとお腹すいただけ」
「じゃあ、食堂へ行こうか」
「うん!」
彼女はすぐに身を起こした。
「お刺身! 焼き魚! あと、冷たい蕎麦!」
「全部食べるの?」
「食べるけど?」
「すごいね」
「おじさんも食べるんでしょ。ちゃんと運動したんだから、ちゃんと食べなさいよ」
「分かってるよ」
「よろしい♡」
車は海岸沿いの道を走り、やがて小さな漁港の近くにある食堂へ着いた。
店先には、今日のおすすめが手書きの札で並んでいた。
地魚の刺身定食。
鯵の塩焼き定食。
しらす丼。
冷やしとろろ蕎麦。
そして、夏季限定の岩牡蠣。
店の中には、潮風と魚を焼く香ばしい匂いが満ちていた。窓際の席からは漁港が見え、停泊した船の向こうに、午後の海がきらきらと光っている。
「わあ、いいじゃん。ここ」
彼女は窓の外を眺め、嬉しそうに言った。
「海のそばで魚を食べるの、好きなんだよね。なんか、ちゃんと海に来たって感じがする」
「うん。いい景色だね」
「それに、魚が新鮮そう」
彼女はメニューを開き、真剣な顔で眺めた。
「……どうしよう。刺身も食べたいし、鯵も食べたいし、しらすも捨てがたい」
「迷うね」
「おじさんは?」
「僕は、地魚の刺身定食にしようかな。あと、岩牡蠣もひとつ頼みたい」
彼女は顔を上げた。
「おっ。いいじゃん。食べたいもの、ちゃんと言えたね」
「今日は、せっかく海に来たからね」
「そうそう。せっかく来たんだから、食べたいものを食べるの!」
彼女は、メニューを指で叩いた。
「あたしは鯵の塩焼き定食にする。あと、しらすも少し食べたいから、単品で頼んで半分こしよ」
「いいね」
「それから、冷たい蕎麦も気になる……」
「まだ食べるの?」
「食べるけど?」
彼女は、にっこり笑った。
「だって、夏の海のごはんだよ? 楽しまなきゃ損でしょ」
おじさんは笑いながら、店員を呼んだ。
注文を済ませると、彼女は満足そうに水を飲んだ。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、楽しい?」
不意の問いだった。
おじさんは、少し驚いてから、窓の外を見た。
海は明るかった。
波が岸壁に当たり、白いしぶきを上げる。遠くの船が、ゆっくりと向きを変えている。
「うん。すごく楽しいよ」
「……そっか」
「君は?」
「楽しいよ」
彼女は、少しだけ口元を緩めた。
「おじさんが楽しそうだから、あたしも楽しい」
その言葉は、あまりにも自然だった。
だからこそ、おじさんは、すぐには返事ができなかった。
彼女は、慌てたように付け足した。
「……べ、別に、おじさんを楽しませるために来たわけじゃないからね! あたしだって海に来たかったんだし!」
「うん。分かってるよ」
「ほんとに?」
「うん。でも、君が楽しそうにしているのを見るのも、僕は好きだよ」
「……っ」
彼女は水を飲んだ。
今度は、ずいぶん長いこと飲んでいた。
「……おじさんってさ」
「うん?」
「最近、ほんとに、そういうのずるい」
「だから、何が?」
「……知らない!」
彼女は窓の外を向いた。
けれど、その口元は、どうしても笑うのをやめられないようだった。
*
料理が運ばれてきた。
おじさんの前には、色鮮やかな刺身の盛り合わせが並んだ。鯛の白身、脂の乗った地魚、透き通るような烏賊。添えられた大葉の緑と、山葵の鮮やかな色が、海の幸をいっそう引き立てている。
彼女の前には、皮目をこんがりと焼いた鯵の塩焼きが置かれていた。香ばしい匂いが立ち上り、皮の下に閉じ込められた脂が、ところどころで小さく光っている。ふっくらとした身の横には、大根おろしと檸檬が添えられていた。
別皿のしらすは、白い小山のように盛られている。
そして、二人で頼んだ岩牡蠣は、殻の上に大きな身を載せ、涼しげな皿に収まっていた。
「……すごいね」
おじさんは、思わず声を漏らした。
「うん。これは当たりでしょ」
彼女は箸を持ち、目を輝かせた。
「いただきます!」
「いただきます」
まず、おじさんは刺身をひと切れ取った。
醤油をほんの少しだけつけ、口へ運ぶ。
身はひんやりとして、噛むほどに淡い甘みが広がった。余計な味付けがないぶん、魚そのものの旨みがよく分かる。海の近くで食べるということが、単なる雰囲気だけではないのだと感じられた。
「……おいしい」
自然に、言葉が出た。
彼女は、すぐに顔を上げた。
「でしょ?」
「うん。魚の味が、ちゃんとするね」
「何、その感想。魚なんだから、魚の味はするでしょ」
「いや、そうなんだけど……」
「ふふっ。分かってる。おいしいってことね」
彼女は、鯵の身をほぐした。
皮のすぐ下の身を箸で割ると、湯気がほのかに立った。ひと口食べた彼女は、目を細めた。
「……うん。これ、おいしい」
塩気は控えめで、魚の脂が舌の上でほどける。檸檬を少し絞ると、さっぱりとした酸味が加わり、ごはんがいくらでも進みそうだった。
「おじさん、鯵食べる?」
「いいの?」
「もちろん。半分こするって言ったじゃん」
彼女は身を少し取り分け、彼の小皿へ載せた。
「はい。ちゃんと味わって食べること」
「うん。ありがとう」
おじさんは、鯵を食べた。
香ばしい皮と、ふっくらした身。噛むと脂の旨みが広がり、檸檬の酸味があとを引き締める。
「……これも、おいしいね」
「でしょー?」
彼女は得意げに笑った。
「じゃあ、あたしも刺身もらう」
「どうぞ」
おじさんが取り分けると、彼女はそれを受け取った。
二人は、それぞれの料理を少しずつ交換しながら食べた。
刺身の甘み。鯵の香ばしさ。しらすのほのかな塩気。炊きたてのごはんの温かさ。
どれも、特別に豪華な料理というわけではない。
けれど、海で遊んだあとに、海の近くで食べる魚は、確かに特別だった。
おじさんは、食べるたびに、その味をきちんと感じていた。
誰かの顔色をうかがう必要はない。
気の利いた感想を言う必要もない。
ただ、おいしいものを、おいしいと思って食べる。
そのことが、こんなにも心を満たすのだと、彼はようやく知り始めていた。
「……おじさん」
「うん?」
「今、すごくいい顔してる」
彼女は、箸を止めて言った。
「ほんとに、おいしそうに食べるようになったね」
おじさんは、少し照れくさそうに笑った。
「君と食べるごはんは、楽しいからね」
「……もう」
彼女は頬を赤くした。
「ごはんの途中に、そういうこと言わないでよ。味が分かんなくなるでしょ」
「ごめん」
「だから謝らない!」
彼女は笑いながら、しらすをひと口食べた。
「……でも、あたしも。おじさんと食べるごはん、好きだよ」
おじさんは、今度はすぐに返事ができた。
「うん。僕も好きだよ」
彼女は、もう何も言わなかった。
ただ、彼の皿から刺身をひと切れもらい、何でもない顔で食べた。
*
食後、二人は店を出て、漁港の近くにある小さな売店へ向かった。
海水浴場へ戻る道には、夏の強い日差しが照りつけていた。舗装された道の照り返しは熱く、遠くから蝉の声が聞こえてくる。
「暑い……」
彼女は、日傘の下で顔をしかめた。
「アイス、買おうよ」
「いいね。何にする?」
「ラムネ味!」
「僕は、抹茶にしようかな」
「渋っ。おじさん、海に来てまで大人ぶってる?」
「好きなんだよ、抹茶」
「ふーん。じゃあ、ひと口ちょうだい」
「いいよ。僕もラムネを食べてみたいな」
「はい、交渉成立♡」
売店には、ラムネ味のアイスキャンディーや、抹茶のソフトクリーム、かき氷が並んでいた。
彼女はラムネのアイスを、おじさんは抹茶のソフトクリームを買った。
日陰のベンチに座り、二人でアイスを食べる。
彼女が差し出したラムネのアイスをひと口かじると、口の中に、爽やかな甘さとひんやりした冷たさが広がった。
「……夏だね」
おじさんが言うと、彼女は笑った。
「何それ。小学生の感想?」
「でも、本当にそう思ったんだ」
「……うん」
彼女は、自分のアイスを見つめた。
「そうだね。夏だね」
その声は、さっきよりも穏やかだった。
海の向こうでは、太陽が少しずつ傾き始めていた。
まだ暑い。
それでも、真昼の暴力的な光は、いくらか柔らかさを帯びている。波の表面には、金色の光が細かく散っていた。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「また来ようね、海」
「うん。また来よう」
「次は、もうちょっと早く来て、朝の海も見たい」
「いいね。朝なら、涼しいだろうし」
「それから、違うお店も探そう。海鮮丼もいいし、焼き蛤も食べたい」
「食べたいものがいっぱいあるね」
「夏は短いんだから、楽しまなきゃ」
彼女は、アイスをひと口食べた。
「……おじさんもね」
「僕も?」
「そう。仕事が変わって、生活も変わって、体も元気になってきたんだから。これからは、もっと自分のために時間を使うの」
彼女は彼を見た。
「おいしいものを食べて、行きたいところへ行って、疲れたら休んで。誰かと遊びたいなら、ちゃんと誘う」
「……うん」
「それで、楽しかったら、楽しかったって言うの」
「今日みたいに?」
「そう。今日みたいに」
彼女は笑った。
「おじさん、昔よりずっと、夏が似合うようになったんじゃない?」
おじさんは、思わず彼女を見つめた。
「……それは、初めて言われたな」
「でしょ?」
「ありがとう」
「……だから、素直に言うなってば」
彼女は、恥ずかしそうに顔をそむけた。
それでも、ベンチから立ち上がるとき、彼女は彼の手を取った。
「ほら。帰るよ」
「うん」
「……あ、でも」
彼女は、手をつないだまま、少しだけ彼を見上げた。
「もうちょっとだけ、ここにいよっか」
「いいの?」
「いいの。だって、まだアイス食べ終わってないし」
「そうだね」
彼は笑った。
彼女も笑った。
手のひらは、夏の日差しを受けて温かかった。
*
帰り道、セダンの車内には、冷房の音と、控えめな音量の音楽が流れていた。
彼女は助手席で窓の外を眺めていたが、やがてシートへ深く体を預けた。
「……楽しかった」
ぽつりと、彼女が言った。
「うん。楽しかったね」
「海も、ごはんも、アイスも」
「うん」
「……あと、おじさんも」
最後の言葉は、風の音に紛れそうなほど小さかった。
おじさんは、前を向いたまま微笑んだ。
「僕も、君と来られてよかった」
「……ばか」
彼女は窓の外を向いた。
「そういうの、最後に言うの、ずるい」
「ごめん」
「だから謝るなって!」
彼女は笑った。
しばらくして、彼女はおじさんの腕に、そっと自分の手を重ねた。
運転の邪魔にならないように、ほんの少しだけ。
おじさんは、驚いて彼女を見そうになったが、すぐに前へ視線を戻した。
彼女の手は、静かにそこにあった。
言葉にしなくても伝わることがある。
けれど、言葉にしたからこそ、届くものもある。
今日、彼は彼女の水着姿を見て、きれいだと思った。
彼女は、彼の体が健康的に変わったことに気づき、思わず触れた。その指先に残った感触を、いつまでも意識してしまう自分に、少しだけ戸惑っていた。
それは、二人の間に生まれた、小さな秘密だった。
からかわれて、照れて、笑い合う。
その繰り返しの中で、彼らは少しずつ、相手の知らなかった一面を知っていく。
おじさんは、ハンドルを握る手に、静かに力を込めた。
銀色のセダンは、夕暮れの海岸道路を走っていく。
窓の外では、夏の光がゆっくりと薄れていた。
今日という一日は、やがて終わる。
けれど、終わったあとにも、残るものがある。
肌に残る潮の匂い。
口の中に残る、魚の旨みとアイスの甘さ。
笑いすぎて少し疲れた頬。
そして、助手席から伝わる、彼女の手の温もり。
おじさんは思った。
自分の人生は、まだまだ続いていくのだ。
明日から、また働く日々が始まる。悩むこともあるだろう。失敗することも、疲れてしまうこともあるだろう。
それでも、次の休日には、また彼女とどこかへ行ける。
海でもいい。
山でもいい。
家で蕎麦を打つのでもいい。
大切なのは、どこへ行くかだけではなかった。
誰と行きたいか。
何を食べたいか。
その時間を、どう楽しみたいか。
自分でそれを選べることが、今のおじさんには、何よりも嬉しかった。
「ねえ、おじさん」
助手席から、彼女の声がした。
「うん?」
「次は、焼肉ね」
「……海鮮の次は焼肉?」
「当たり前でしょ。夏はまだ終わらないんだから」
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「それに、おじさん。最近ちゃんと食べるようになったんだから、もっとお肉も食べなきゃ」
「分かった。じゃあ、次は焼肉にしよう」
「よろしい♡」
彼女は満足そうにうなずき、再び窓の外を向いた。
おじさんは、笑いながらアクセルを踏んだ。
夏の海は、少しずつ遠ざかっていく。
けれど、夏はまだ終わらない。
彼らのあいだにも、まだ言葉にならない気持ちが残っている。
それは、波のように寄せては返し、少しずつ形を変えていくものだった。
いつか、二人がそれに名前をつける日が来るのかもしれない。
あるいは、名前などなくても、こうして手をつなぎ、同じものを食べ、次の約束を重ねていくのかもしれない。
今は、まだ分からない。
ただ、助手席の彼女が笑っている。
そして、おじさんは、その笑顔を隣に乗せて、夏の道を走っている。
それだけで、十分に眩しかった。
おじさんのくせに。……おじさんのくせに!