人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
人間というものは、いったん自分を粗末に扱うことに慣れてしまうと、その粗末さを生活の一部として受け入れるようになる。
床に脱ぎ捨てた衣服。洗い忘れた食器。賞味期限の切れた食品。休日の午後をまるごと寝床のなかで浪費し、夕方になってから、何も成し遂げなかった自分を責める。そうして翌朝には、何事もなかったような顔をして出勤する。
その繰り返しに、私はすっかり馴染んでいた。
先日の夜、見ず知らずの少女に食事へ連行され、散々な罵倒を浴びせられた。おかげで、帰宅後に洗濯機を回し、冷蔵庫の中身を確認し、翌朝のために米を炊くという、いささか文明的な行動を取ることができた。
しかし、それで生活が劇的に改善したかといえば、もちろんそんなことはない。
人間の悪習というものは、古い家具に染みついた臭いに似ている。窓を開けて風を通したところで、翌日にはまた元の場所へ戻ってくる。ひと晩まともに食事をしたからといって、十年近くかけて積み上げた怠惰と諦念が、きれいさっぱり消えてなくなるはずもなかった。
それでも、私は少しだけ気にするようになった。
朝食を抜こうとすると、あの生意気な声が脳裏に浮かぶ。
――三十二歳でこれ? 人生のスタート地点で転んだまま寝てた人じゃん。
思い出すたびに、腹が立った。
そして、その腹立たしさのなかに、奇妙な活力が含まれていることを認めざるを得なかった。
人間は、自分のことを責めるのには慣れていても、他人から遠慮なく責められることには案外慣れていない。まして、自分が長いあいだ見ないふりをしてきた欠点を、初対面の少女に一つひとつ指摘されるとなれば、なおさらである。
私は、彼女の言葉を忘れられずにいた。
その週の金曜日、私はいつもより少し早く会社を出た。
早くといっても、時計は二十時を過ぎていた。世間一般の感覚からすれば、決して褒められた時刻ではないだろう。だが、私にとっては、まだ夜のうちに帰路につけたというだけで、ささやかな勝利だった。
駅前の雑踏を抜け、コンビニへ寄ろうとしたところで、聞き覚えのある声がした。
「……あっ、いた」
振り向くと、彼女がいた。
前と同じように、少し大きめの上着を着ている。片手には小さな買い物袋。私を見つけるなり、彼女は値踏みするように目を細めた。
「おじさん、生きてたんだ」
「ご挨拶ですね」
「だって、あのあと三日くらいで過労死してると思ったし」
「人を勝手に殺さないでください」
「なに。ちゃんとご飯食べてるの?」
「……一応は」
「その間、なに?」
「食べていますよ」
「ほんとかなあ。あたし、今から確認しようかな。おじさんの生活がどれだけ終わってるか」
彼女は楽しそうに笑った。
私は、嫌な予感がした。
この少女と出会ってからというもの、私の生活には、他人に説明する必要のないはずのことを説明させられる機会が増えていた。食事の内容。睡眠時間。休日の過ごし方。自分の身体をどう扱っているか。
考えてみれば、どれも他人に隠すようなことではない。
ただ、私はそれらを訊かれることに、ひどく慣れていなかった。
「おじさん、ラーメン好き?」
「ええ。嫌いではありません」
「じゃ、行こ」
「……どこへです?」
「ラーメン屋」
「今からですか」
「今から。なに、予定でもあるの?」
「いえ、特には」
「じゃあ決まり。よわよわおじさん、今夜は豚骨ね」
彼女は、私が返事をするより早く歩き出した。
私はその後を追った。
どうやら私は、彼女に出会ってからというもの、ずいぶん簡単に連れ回される人間になってしまったらしい。
しかし、不思議と不快ではなかった。
彼女の行動には、こちらの都合を無視する傍若無人さがある。けれど、私が本当に嫌がっているかどうかを、彼女は案外よく見ていた。少なくとも、無理に腕を引っ張って連れていくようなことはしない。私が足を止めれば、彼女もまた足を止める。
その距離感が、妙に心地よかった。
彼女に連れていかれたのは、駅から少し離れた場所にあるラーメン店だった。
入口の引き戸を開けると、豚骨を煮込んだ濃厚な匂いが押し寄せてきた。湯気の向こうで寸胴鍋が煮え、白濁したスープが、厨房の灯りを受けて鈍い象牙色に光っている。店内には客の話し声と、麺をすする音が満ちていた。
私は、思わず足を止めた。
腹が鳴った。
その音を聞いた彼女が、こちらを振り向いた。
「……ぷっ」
「笑わないでください」
「だって、おじさん。身体は正直なんだねえ。頭では『食べなくても平気です』って気取ってるくせに、お腹は『早く食わせろ』って鳴いてるじゃん」
「誰にでもあることです」
「はいはい。負け犬の遠吠えならぬ、負け腹の鳴き声ね」
「その表現は初めて聞きました」
「今、あたしが作ったから」
彼女は胸を張った。
私は苦笑した。
食券機の前で、彼女は迷いなく豚骨ラーメンを選んだ。私は少し考えた末、同じものを注文した。麺の硬さを訊かれ、彼女は慣れた調子で答える。私は普通と答えた。
「おじさん、そういうところ、ほんと無難だよね」
「ラーメンの麺の硬さくらい、普通でいいでしょう」
「人生の選択も全部『普通』で済ませてそう」
私は、食券を握ったまま黙った。
彼女はその沈黙を見逃さなかった。
「……あれ。図星?」
「いえ」
「ふうん?」
彼女は、からかうように目を細めた。
「じゃあ、おじさん。今の仕事、好き?」
唐突な質問だった。
私は、すぐに答えられなかった。
好きか、嫌いか。
そんな単純な問いに、なぜこれほど返答に困るのだろう。
仕事そのものが好きかといえば、そうではない。業務には面白みを感じるものもある。誰かの役に立てたときに、わずかな充足を覚えることもある。けれど、今の働き方を続けたいかと問われれば、答えはまた別だった。
長時間の残業。際限なく増える仕事。断れない依頼。休んでいるはずの休日にも、翌週のことが頭から離れない。
それでも、私は働き続けている。
なぜか。
辞めたあとの生活が怖いからだ。次の仕事が見つかる保証はない。三十二歳という年齢を考えれば、若い頃のように気軽な選択ができるとも思えない。今の会社に不満があるからといって、別の場所でうまくいくとは限らない。
そうした考えが、私のなかで幾重にも絡み合っていた。
「……嫌いではありませんよ」
私は、ようやく答えた。
彼女は、あからさまに顔をしかめた。
「出た。社会人の便利な言葉、『嫌いではありません』」
「便利な言葉というわけでは」
「じゃあ好きなの?」
「……」
「仕事が好きで、毎日こんな時間まで働いて、ご飯も食べずに、疲れきった顔で歩いてるんだ?」
「それは……」
「好きならいいんだよ。本人が納得してるなら。でも、おじさんは、好きだからやってる顔には見えないんだよね」
私は、返事をしなかった。
彼女の言葉は乱暴だった。だが、乱暴だからこそ、余計な装飾がなかった。
私は、自分が何を望んでいるのかを、考えないようにしていたのだ。
好きか嫌いか。続けたいか、辞めたいか。何を大切にして、何を諦めるのか。
そうした問いを自分に向けることは、いつしか贅沢になっていた。選択肢がないのなら、望むこと自体が無意味だ。望んだところで実現できないのなら、最初から望まなければ傷つかずに済む。
その理屈は、ひどく合理的だった。
合理的すぎて、私はそれに縋りついていた。
「……君は、ずいぶん遠慮がありませんね」
「今さら? 初対面のときからずっとそうじゃん」
「そうでしたね」
「おじさんってさ、自分がどうしたいか訊かれると、すぐ黙るよね」
彼女は、食券をカウンターへ置いた。
「誰かに迷惑をかけないとか、ちゃんと働くとか、そういうのは大事だと思うよ。でも、そればっかりで、自分がどうしたいかをぜんぶ後回しにしてたら、最後には自分の人生なのに、自分が何をしたかったのかもわからなくなるじゃん」
私は、彼女を見た。
少女は、まだ若い。私がこれまでに経験してきたことのすべてを理解できるとは思わない。仕事の責任も、生活の不安も、社会のなかで生きることの面倒さも、彼女は私ほど知らないだろう。
それでも、彼女の言葉には、私が忘れてしまったものがあった。
自分の人生を、自分のものとして扱うという、ごく単純な感覚である。
やがて、ラーメンが運ばれてきた。
白濁したスープの表面には、細かな脂が浮いていた。中央には青葱と木耳、薄切りの叉焼。湯気のなかに、豚骨の濃厚な香りが立ちのぼる。箸で麺を持ち上げると、白いスープをまとった細麺が、しなやかな曲線を描いた。
私は、レンゲでスープをすくった。
ひと口。
濃い。
舌に触れた瞬間、豚骨の旨味と脂のまろやかさが広がった。塩気が輪郭をつくり、後から骨髄のような深い風味が追いかけてくる。表面の脂は濃厚だが、スープそのものには、長い時間をかけて煮出されたものだけが持つ、複雑な奥行きがあった。
私は、もうひと口飲んだ。
うまい。
その言葉が、胸の内側で素直に生まれた。
食事とは、こんなにも力強いものだったのか。
温度がある。味がある。匂いがある。身体を満たすものがあり、満たされる身体がある。人間は、頭のなかだけで生きているわけではない。どれほど立派な理屈を並べても、腹が空けば腹が鳴り、疲れれば身体が重くなる。
私はその当たり前の事実を、ずいぶん長いあいだ無視してきた。
「おじさん」
「はい」
「おいしい?」
「ええ。おいしいです」
「よろしい。じゃ、ちゃんと食べな」
彼女は、自分のラーメンをすすった。
それから、少しだけ声を落とした。
「……元気になったからって、今の生活を一生続けていいわけじゃないからね」
私は箸を止めた。
「どういう意味です?」
「この前よりは、ちょっとマシになったじゃん。ご飯も食べたし、顔も……まあ、相変わらずだけど。少なくとも、前みたいに今にも死にそうって感じではなくなった」
「それは、どうも」
「でもさ。溺れてる人が、鼻だけ水面に出せるようになったからって、そこを住処にするのは違うでしょ」
彼女は、レンゲを置いた。
「息ができるようになったなら、岸に上がることを考えなよ」
その言葉は、静かに響いた。
私は、スープの表面を見つめた。
白い湯気が立ちのぼり、すぐに消える。厨房の向こうでは、店主が新しい麺を茹でている。客の笑い声が聞こえ、誰かが替え玉を注文した。
世界は、私の悩みなど知らぬ顔で回っていた。
それは残酷なことでもあり、救いでもあった。
私が苦しんでいるからといって、世界が止まるわけではない。だが、世界が止まらないからといって、私がこの場所に縛りつけられていなければならない理由もない。
辞めてもいいのかもしれない。
その考えが、頭のなかに浮かんだ。
浮かんだだけで、すぐに消えそうになった。辞めたあとの生活。次の仕事。収入。年齢。職歴。失敗したときのこと。
不安は、次々に姿を現した。
けれど、そのすべてを考えたうえで、それでも今のままでいたいのかと問われれば、私は何も答えられなかった。
「……君は、転職したことがあるんですか」
「ないよ」
「では、ずいぶん簡単に言いますね」
「簡単に言ってるんじゃないよ。おじさんが、難しく考えすぎてるだけ」
彼女は即座に返した。
「別に、今すぐ辞めろって言ってるわけじゃないし。辞めたら全部うまくいくなんて、あたしだって思ってないよ。でも、今の仕事しかないって決めつけるのは違うでしょ。ほかの会社を調べるとか、求人を見るとか、履歴書を書いてみるとか。そういうことくらい、できるじゃん」
「……できる、でしょうね」
「でしょ?」
彼女は、得意げに笑った。
「おじさん、自分で自分の選択肢を減らしてるんだよ。まだ何もしてないのに、どうせ無理だって決めちゃってさ。そんなの、もったいないじゃん」
私は、何も言えなかった。
彼女の言うことは正しかった。
正しいからこそ、腹立たしかった。
私は、自分が現実的な人間だと思っていた。無謀な夢を見ず、身の丈に合った生活を送り、できることを確実にこなす。そういう人間であることを、自分の長所として数えてきた。
しかし、その現実主義の正体が、ただの臆病さだったとしたら。
私は、いったい何を誇ればいいのだろう。
食事を終える頃には、丼の底が見えていた。
豚骨の濃厚な余韻が、舌の上にまだ残っている。腹は満ち、身体の芯が温まっていた。私は、満腹という感覚を、どこか他人事のように味わっていた。
こんなに食べたのは、いつ以来だろう。
彼女は会計を済ませると、店の外で私を待っていた。
「で、おじさん」
「はい」
「今週末、暇?」
「……特に予定はありませんが」
「じゃあ、職務経歴書を書きなよ」
「はい?」
「職務経歴書。一ページだけでいいから。今までどんな仕事をしてきたか、何ができるか、書いてみなよ」
「いや、しかし……」
「なに? 書類が苦手なの?」
「そういうわけではありませんが、転職するかどうかも決めていませんし」
「だから、決めるために調べるんでしょ。転職するって決めてから初めて求人を見るんじゃなくて、求人を見たり、自分の経歴を整理したりしてから、どうするか考えればいいじゃん」
彼女は、呆れたように肩をすくめた。
「おじさんって、ほんとに順番が逆なんだね。何も始めてないのに、失敗したときのことだけは一人前に心配するんだから」
私は、苦笑した。
「……手厳しいですね」
「やさしいって言いなさいよ。あたしがいなかったら、おじさん、今頃コンビニのパンを片手に、人生について何も考えず寝落ちしてたでしょ」
「否定はできませんね」
「ほら。じゃあ、土曜日に一ページ。日曜日は、ご褒美にラーメン」
「ご褒美、ですか」
「そう。頑張ったら、おいしいものを食べる。いいじゃん。人間、そういう楽しみがないとやってられないでしょ」
彼女は、当然のように言った。
私は、彼女の顔を見た。
その表情には、こちらをからかう余裕があった。だが、彼女は私の努力を、最初から大したものではないと切り捨てたりはしなかった。一ページ書く。それだけのことを、彼女はきちんと一つの仕事として扱ってくれていた。
私には、それが少し不思議だった。
私は、何かを達成してからでなければ、自分を褒める資格はないと思っていた。結果が出て初めて努力に意味が生まれる。途中で投げ出したことには価値がない。そんな考え方を、私は仕事でも、自分の生活でも、ずっと繰り返してきた。
彼女は、違うらしい。
まだ結果が出ていなくても、始めることには意味がある。何も変わっていなくても、変わろうとすることには意味がある。
そんな当たり前のことを、私は彼女から教えられようとしていた。
「……わかりました」
私は言った。
「土曜日に、一ページだけ書いてみます」
彼女は、ぱっと笑った。
「よろしい。やればできるじゃん、よわよわおじさん♡」
「まだ書いていませんよ」
「書くって言ったでしょ。じゃあ、もう半分できたようなもん」
「ずいぶん大雑把ですね」
「人生なんて、そのくらいでいいんだよ。細かいことばっかり気にしてたら、何も始まんないじゃん」
私は、返事の代わりに笑った。
駅へ向かう道の途中、私はふと足を止めた。
「……次は、味噌ラーメンにしてみるか」
彼女が振り向いた。
「え?」
「今日の豚骨もおいしかったですが、味噌ラーメンも久しぶりに食べてみたくなりました」
自分から食べたいものを口にしたことが、少しだけ新鮮だった。
誰かに勧められたからではない。目の前の選択肢から無難なものを選んだわけでもない。ただ、自分が食べたいと思った。それだけのことだった。
彼女は、私を見つめていた。
やがて、口元にいつもの生意気な笑みを浮かべる。
「……へえ。自分から次の予定を提案できるんだ。進歩じゃん」
「大げさですよ」
「大げさじゃないし。じゃあ、次のラーメンは味噌ね。決まり!」
彼女は、指を一本立てた。
「土曜日に職務経歴書を一ページ。日曜日は味噌ラーメン。約束だからね」
「わかりました」
「忘れたら許さないから」
「覚えておきます」
「よろしい」
彼女は満足そうに頷いた。
駅の改札の前で、彼女と別れた。
私は帰りの電車に乗り、窓に映る自分の顔を見た。疲れはまだ残っている。目の下の影も消えていない。背広はくたびれ、肩は相変わらず少し丸まっていた。
だが、その顔は、先日の夜とはわずかに違って見えた。
ほんの少しだけ、目に力が戻っている。
それがラーメンのせいなのか、少女のせいなのか、あるいは、自分の口から「味噌ラーメンが食べたい」と言えたせいなのか、私にはわからなかった。
土曜日。
私は机の上を片づけ、ノートパソコンを開いた。
転職サイトの画面には、いくつもの求人情報が並んでいた。職種、給与、勤務地、勤務時間。どれも、これまでの私にとっては、見て見ぬふりをしてきた文字だった。
私は新しい文書を開いた。
職務経歴書。
その五文字を入力するだけで、妙に緊張した。
自分が何をしてきたのか。何ができるのか。どんな仕事を経験し、何を身につけてきたのか。改めて考えてみると、すぐには言葉が出てこなかった。
私は長いあいだ、会社にとって役に立つかどうかだけを基準に、自分の仕事を評価してきた。頼まれたことをやる。足りないところを埋める。誰かが困っていれば引き受ける。そうしたことの積み重ねが、自分の職歴としてどんな意味を持つのか、考えたことがなかった。
私は、ひとつずつ書き始めた。
担当した業務。工夫したこと。身につけた技術。小さな改善。後輩に教えたこと。問題が起きたときに、どう対応したか。
書いているうちに、思いがけないことに気づいた。
私は、何もしてこなかったわけではない。
少なくとも、何年も働き続けるなかで、身につけたものがあった。誰かに評価されなかったことと、何の価値もなかったことは、同じではないのかもしれない。
気づけば、一ページが埋まっていた。
私は、画面を見つめた。
たった一ページ。
それだけのことだった。
けれど、私は久しぶりに、自分が何かを始めたという感覚を味わっていた。
それから、私は彼女に連絡をした。
職務経歴書を一ページ書いたこと。思っていたよりも、ずっと時間がかかったこと。けれど、最後まで書けたこと。
送信してから、少しばかり気恥ずかしくなった。
こんな報告をする必要があるのだろうか。彼女は私の上司でもなければ、家族でもない。わざわざ自分の小さな成果を知らせるなど、子どもじみているのではないか。
そう考えかけたところで、返事が届いた。
『やればできるじゃん』
続いて、もう一通。
『……えらい』
私は、画面を見つめた。
たったそれだけの言葉だった。
けれど、胸の奥に、温かなものが広がった。
私は、誰かに褒められることを、ずいぶん久しく忘れていた。仕事を終えても、それは次の仕事を引き受けるための通過点にすぎない。何かを成し遂げても、できて当然とされる。できなければ責められ、できれば次を求められる。
そんな場所で長く働いていると、自分が何をしても、何も感じなくなってしまう。
しかし、彼女は、一ページを書いたことを褒めてくれた。
それだけのことを、きちんと認めてくれた。
私は、彼女に礼を言う短いメッセージを送った。
返事には、味噌ラーメンの絵文字が添えられていた。
翌日、私は彼女と再びラーメン店で向かい合った。
味噌ラーメンのスープは、豚骨とは違う温かみを持っていた。味噌の香ばしさに、出汁の旨味が重なり、表面には細かな脂が浮いている。麺を持ち上げると、濃い色のスープが絡み、湯気とともに香ばしい匂いが立った。
彼女は餃子を注文していた。
「で、職務経歴書は?」
「一ページ、書けましたよ」
「うん。聞いた。ちゃんとやったんだね」
「ええ」
「じゃあ、次は応募ボタンだね」
私は、箸を止めた。
「……応募、ですか」
「そう。求人、見たんでしょ?」
「見ましたが、まだ応募するところまでは」
「なんで?」
「いえ、まだ準備が十分ではない気がして」
彼女は、呆れたように息をついた。
「おじさんさあ。準備が十分になる日って、いつ来るの?」
「それは……」
「履歴書を完璧にして、職務経歴書を完璧にして、面接の練習を完璧にして、自分に自信が持てるようになったら応募するの? そんな日、待ってたら一生来ないかもしれないじゃん」
「……確かに、そうかもしれません」
「でしょ。もちろん、何も考えずに片っ端から応募しろって言ってるわけじゃないよ。自分がどういう仕事をしたいのか、何を大切にしたいのか。それはちゃんと考えなきゃ。でも、求人を一つ見て、ここなら少し気になるなって思ったなら、応募してみればいいじゃん」
彼女は餃子をひと口食べた。
「応募したからって、絶対そこに転職しなきゃいけないわけじゃないし。面接を受けて、違うなって思ったら断ればいい。向こうが採用しないことだってある。そういうのも含めて、やってみないとわからないことってあるでしょ」
私は、味噌ラーメンのスープを見つめた。
彼女の言うとおりだった。
私は、選択をする前から、その選択の結果をすべて予測しようとしていた。失敗したらどうなるか。断られたらどう思うか。今より悪い環境だったらどうするか。
けれど、未来を完全に見通せる人間などいない。
見通せないからこそ、人は選び、動き、その先で判断を変えていくのだろう。
「……わかりました」
私は言った。
「気になる求人を、もう少し探してみます。そのなかで、一つ応募できそうなところを見つけてみます」
「よろしい」
彼女は、満足そうに笑った。
「やっと自分の人生に参加する気になったね、ATM型生物♡」
「……ATM型生物?」
「だって、おじさん、会社に時間と体力を全部預けて、お金だけ受け取って生きてるみたいじゃん。しかも、そのお金で自分を大事にすることもできてないし。なにそれ、セルフサービスの奴隷?」
「君は本当に、言葉を選びませんね」
「選んでるよ? もっとひどいことも言えるけど、今日はラーメンがおいしいから、このくらいにしてあげてるの」
彼女は、得意げに笑った。
私は、今度は素直に笑った。
彼女の言葉は、ときに容赦がない。けれど、そこには奇妙な誠実さがあった。彼女は私を、哀れな人間として扱わない。できないことを責める一方で、できたことを認める。弱さを笑いながら、その弱さを理由に私を見捨てることはしない。
それが、私にはありがたかった。
食事を終え、店を出たあと、彼女は私の隣を歩いた。
「ねえ、おじさん」
「はい」
「仕事を辞めることって、そんなに悪いことじゃないからね」
私は、彼女を見た。
「……そうでしょうか」
「そうだよ。もちろん、辞めれば全部解決するわけじゃない。でも、今の場所にいることだけが正解ってわけでもない。ちゃんと考えて、次の場所を探して、自分が納得できるところへ行く。それなら、逃げじゃないでしょ」
彼女は、少しだけ考えるように間を置いた。
「それにさ。おじさんが今の会社でどれだけ頑張ったかなんて、あたしには全部わからないよ。でも、もう十分頑張ってるんじゃないの?」
私は、何も言えなかった。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、鈍い痛みが走った。
もう十分頑張っている。
私は、自分にそんなことを言ったことがなかった。
もっとできるはずだ。まだ足りない。自分が我慢すればいい。自分が引き受ければいい。そうやって、いつも自分に何かを要求してきた。
頑張っているという言葉は、私にとって、他人を励ますためのものだった。自分に向けて使うことなど、考えたこともなかった。
「……ありがとう」
私は、もう一度そう言った。
彼女は、少しだけ顔をそむけた。
「べ、別に。あたしは、おじさんがちゃんとご飯食べて、ちゃんと寝て、もうちょっとマシな生活をしてくれたら、それでいいだけだし」
「それだけ、ですか」
「それだけ。……まあ、せっかく一緒にラーメン食べるなら、もうちょっと元気な顔してほしいけど」
彼女は、私を見上げた。
「おじさんが楽しそうにしてるほうが、あたしも楽しいし」
その言葉は、あまりにも自然に口にされた。
だからこそ、私は返事をするまでに少し時間がかかった。
彼女は、私を救うためだけに一緒にいるわけではないのだ。
彼女自身も、私と食事をする時間を楽しんでいる。私が食べたいものを選び、私が笑い、私が少しずつ元気になっていくことを、彼女自身の喜びとして受け取っている。
私は、そのことを、今まであまり考えていなかった。
「……では、次も、私が食べたいものを選んでもいいですか」
彼女は、目を丸くした。
「え?」
「君のおすすめを食べるのも楽しいですが、次は自分で選んでみたいと思いまして」
彼女は、数秒ほど私を見つめた。
それから、口元を吊り上げた。
「……へえ。いいじゃん」
声には、いつものからかいが戻っていた。
「やっと人間らしくなってきたね、よわよわおじさん♡」
「まだ人間ではなかったんですか」
「うーん、仮免くらい?」
「ずいぶん厳しいですね」
「本免許が欲しかったら、まず自分で求人に応募すること。あと、ちゃんとご飯食べること。睡眠時間も確保すること。生活習慣の試験、まだまだ残ってるからね?」
「努力します」
「努力じゃなくて、実行!」
彼女は、笑った。
その笑顔を見て、私はまた笑った。
駅前の信号が青に変わった。人々が一斉に歩き出し、私たちもその流れに加わった。街灯の光が路面に落ち、車のヘッドライトが、濡れてもいないアスファルトを白く照らしていた。
私は、明日も仕事へ行くだろう。
転職先がすぐに見つかる保証はない。応募したところで、採用されるとは限らない。これまでの生活を変えるには、まだ時間がかかるはずだった。
それでも、私は一ページの職務経歴書を書いた。
自分の仕事を振り返り、自分にできることを言葉にした。求人を見て、気になる場所を探した。そして、自分が何をしたいのか、少しだけ考え始めた。
それは、会社のために働くこととは違う種類の仕事だった。
自分自身のために、自分の人生を整える仕事。
私は、まだその仕事のやり方を知らない。要領も悪く、失敗もするだろう。彼女にはこれからも、散々罵倒されるに違いない。
けれど、少なくとも、何もしないまま諦めることだけは、少しずつ難しくなっていた。
彼女と別れたあと、私は帰宅してパソコンを開いた。
転職サイトの画面を眺め、いくつかの求人情報を読み比べる。給与だけではなく、勤務時間や仕事内容にも目を通した。自分がどんな環境で働きたいのか、これまでよりも真剣に考えてみた。
そして、一つの求人を、ブックマークに登録した。
まだ、応募はしなかった。
だが、その求人のページを閉じることもなかった。
私は、画面の前に座り、しばらく考えていた。
豚小屋の王様。
その称号は、まだ私にふさわしいのかもしれない。
けれど、王様にも、国を捨てる自由はある。
少なくとも、国の外に何があるのかを調べる自由くらいは。
私は、求人のページをもう一度開いた。
白い画面のなかで、見知らぬ会社の名前が光っていた。
その光は、まだ遠く、頼りなかった。
それでも私は、初めて、それを未来の一つとして眺めていた。
負け犬にだって、選ぶ権利ぐらいはあります。……あるはずです。