人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
帰省というものは、距離だけでは測れない。
地図の上に引かれた線を、実際の時間へと置き換える。高速道路をひたすら走り、標識に見慣れた地名が増えるたび、少しずつ故郷へ近づいていく。そうした道のりの長さも、もちろん帰省には欠かせない。
けれど、本当に遠いのは、最後にその土地を訪れた日から今日までの歳月なのかもしれなかった。
八月のある朝、おじさんは自宅の駐車場で、銀色のセダンのトランクを閉めた。
後部座席には着替えの入った鞄が二つ。助手席には、彼女が持ってきた小さな鞄と、道中で食べるつもりらしい菓子の袋が置かれている。
これから高速道路を走り、途中で休憩を挟みながら、七時間ほどかけて故郷へ帰る。
飛行機や列車を乗り継ぐことを考えれば、車で移動するのはずいぶん気楽だった。何より、彼女と二人で、好きなときに話し、好きなときに休める。
もっとも、運転するのはおじさん一人なので、気楽さのすべてを享受できるわけではないのだが。
「……本当に来るんだね」
運転席に乗り込もうとしたところで、彼は助手席側の彼女へ声をかけた。
「何よ、その言い方」
彼女は、鞄を抱え直して眉をひそめた。
「ここまで来て、やっぱり帰りますって言ったら怒るでしょ?」
「いや、そういう意味じゃなくて」
「分かってるわよ」
彼女は助手席へ滑り込み、シートベルトを締めた。
「高速で七時間でしょ。途中で休憩するにしても、けっこうな距離じゃない。それでも行きたいって言ったのは、あたしなんだから」
「うん」
「それに、あたしだって見てみたいもん。おじさんがどんなところで育って、どんなものを食べて、どんな顔して子どものころを過ごしてたのか」
そこで彼女は、少しだけ意地悪く笑った。
「三十三歳にもなって、いまだに自分の希望を言うのが下手なよわよわおじさん。その原産地を見学したいわけ♡」
「原産地って……」
「ほら、文句言ってないで、案内しなさいよ。あたし、楽しみにしてるんだから」
おじさんは、苦笑しながら運転席に座った。
彼女は、自分の故郷を見てみたいと言った。
名所や名物料理だけではない。彼が生まれ、育ち、長いこと「大丈夫」という言葉の陰に自分を隠していた場所を。
そのことが、彼には嬉しかった。
同時に、少し怖くもあった。
今の自分を知っている彼女が、昔の自分を見たら、どう思うだろう。家族の前では、今よりもっと頼りなく、意地を張り、素直になれなかった自分を。
「……何、また考え込んでるの?」
「いや。少し緊張してるのかな」
「おじさんが?」
「うん」
彼女は目を丸くし、それから、くすくすと笑い始めた。
「何それ。初めてのデートに行く高校生みたい」
「君と帰省するのは初めてだからね」
「……っ」
彼女は急に黙った。
窓の外へ向けた横顔が、ほんの少し赤くなる。
「……そういうこと、さらっと言うの、ほんとずるい」
「何か言った?」
「なーんにも。ほら、出発。あたし、車の中で寝る気満々なんだから」
「運転する人への配慮は?」
「おじさんが安全運転してくれるって信じてるから♡」
「それは、どうも」
「あと、疲れたらちゃんと言うこと。分かった?」
からかうような口調の最後に、ほんの少しだけ真剣な響きがあった。
おじさんは、彼女を見てうなずいた。
「分かった。無理はしないよ」
「よろしい」
エンジンがかかり、車がゆっくりと駐車場を出ていく。
久しぶりに帰る故郷へ向けて、二人の長い一日が始まった。
*
高速道路に乗ってから、しばらくは順調だった。
夏の空は高く、路面の向こうでは陽炎が揺れている。窓の外を流れていく街並みは、やがて郊外の住宅地へ、さらに田畑の広がる風景へと変わっていった。
車内では、彼女が選んだ音楽が小さな音量で流れていた。
最初のうちは、彼女もよく喋った。見慣れないサービスエリアの看板を見つけては何が売っているのかと尋ね、道路脇の山並みを眺めては、あのあたりには何があるのかと聞いてくる。
おじさんは、答えられることには答え、知らないことには素直に知らないと言った。
「えー、故郷なのに?」
「故郷でも、行ったことのない場所はあるよ」
「三十三歳児、地元のことも分からないの?」
「君は僕に何を期待しているんだろうね……」
そんなやり取りを繰り返すうち、彼女は満足したようにシートへ背を預けた。
「まあ、いいわ。あたしが全部見て回って、あとでおじさんに教えてあげる」
「それは頼もしいね」
「でしょ? だから、運転に集中してなさい」
しばらくすると、彼女の声が途切れた。
助手席をちらりと見ると、彼女は窓の外を眺めたまま、ゆっくりとまばたきをしていた。朝早くからの出発だったこともあり、眠気が差してきたらしい。
「眠かったら寝ていていいよ」
「……寝ないもん」
「そう?」
「だって、せっかくの旅行なんだから」
そう言った数分後には、彼女は静かな寝息を立て始めていた。
おじさんは小さく笑った。
起こさないように音楽の音量を少し下げ、前方へ視線を戻す。
運転に集中しながら、ときおり隣の様子を確かめた。
彼女の頭が揺れないよう、カーブではいつもより慎重に速度を落とす。直射日光が顔にかかりそうになれば、サンバイザーの角度を調整する。
そんなことをしている自分に気づいて、おじさんは少しばかり苦笑した。
誰かを気遣うこと自体は、昔から苦手ではなかったはずだ。
ただ、以前の自分は、相手のために何かをすることと、自分のことを後回しにすることを、ほとんど同じものとして考えていた。
相手が望むことを優先し、自分の疲れや空腹を我慢する。そうしていれば、少なくとも誰かを困らせずに済む。そういう考え方が、いつの間にか身についていた。
けれど、今は少し違う。
彼女は、彼が疲れたときには休むように言う。食事を抜けば怒り、無理をすれば呆れた顔をする。彼が自分を大切にすることを、まるで当然のことのように求めてくる。
そのたびに彼は、少しずつ、自分の身体の声に耳を傾けることを覚えてきた。
だから、今日も。
自分一人で七時間走り切ることを、頑張りの証明にする必要はない。
隣の彼女が眠っているあいだ、彼は道路標識を確認し、休憩を取る予定のサービスエリアまでの距離を確かめた。
予定より少し早いところで、ちょうどよさそうな場所が見つかった。
*
サービスエリアに車を停めると、彼女は、エンジンの止まる音で目を覚ました。
「……ん。何?」
「休憩だよ。少し身体を伸ばそう」
彼女は窓の外を見て、それから、まだ眠たそうな目でおじさんを見た。
「もう着いたの?」
「目的地にはまだまだだよ。ここで休んでおかないとね」
「ふうん……」
彼女は伸びをして、ドアを開けた。
外へ出ると、夏の熱気が一気に身体を包んだ。アスファルトから立ち上る熱と、遠くの山から吹き下ろしてくる風が混じり合っている。
売店の前には、旅行中らしい家族連れや、バイク乗りの一団がいた。ソフトクリームを持った子どもが、両親のあとを小走りで追いかけている。
おじさんは自動販売機で水を買い、彼女にも一本渡した。
「はい」
「ありがと」
彼女は受け取ると、ラベルを眺めながら尋ねた。
「……で、おじさん。疲れてないの?」
「大丈夫だよ」
言ってから、彼は少しだけ口をつぐんだ。
彼女の目が、すっと細くなる。
「……今、何て?」
「いや。少し疲れてきたかな。肩も、ちょっと張ってる」
「最初からそう言いなさいよ」
彼女は呆れたように息を吐いた。
「ほら、そこに座って」
建物の脇にある休憩用のベンチを指さされ、おじさんは素直に腰を下ろした。
「え、何?」
「何じゃないわよ。肩、凝ってるんでしょ?」
彼女は彼の後ろへ回った。
「……ちょっと揉んであげる」
「いや、そこまでしなくても」
「はい、出た。遠慮しいのよわよわおじさん♡」
彼女は両手を彼の肩に置いた。
「いいから、じっとしてなさい」
指先が、シャツ越しに肩を押さえる。
思っていたより強い力がかかった。
「……っ、痛っ」
「えっ、そんなに?」
「いや、痛いというか、効くというか……」
「どっちよ。ちゃんと言いなさい」
「効いてます。かなり」
「最初からそう言えばいいのに」
彼女は得意げに笑い、肩のあたりをゆっくり揉みほぐしていった。
右から左へ、固くなった筋肉を探るように指を動かす。ときどき、彼の反応を確かめながら力を加減してくれる。
「ここ? このへん?」
「ああ、そこだね。少し楽になってきたよ」
「ふうん。ずいぶん凝ってるじゃない」
「長く運転していたからね」
「それだけ?」
彼女の手が、ぴたりと止まった。
「最近、ちゃんと寝てる? 仕事で無理してない?」
「寝ているよ。前よりは、ずっと」
「本当でしょうねえ」
彼女は疑わしそうに言いながら、また肩を揉み始めた。
「まあ、前だったら疲れてても絶対に言わなかったでしょうけど」
「……そうかもしれない」
「そこは否定しないんだ?」
「君に隠しても、すぐ分かるからね」
「分かってるなら、最初から言いなさいって話なんですぅ♡」
指先が、少しだけ強く肩を押した。
「いたたた」
「ふふん。よわよわおじさんには、これくらいのお仕置きが必要なのよ」
「お仕置きなのか……」
彼女は笑っていた。
けれど、肩に置かれた手つきは、思いのほか丁寧だった。
しばらくして、彼女は手を離した。
「はい、おしまい。どう?」
おじさんは肩をゆっくり回した。
「うん。ずいぶん楽になった。ありがとう」
「当然でしょ。あたしがついてきてあげてるんだから」
彼女は胸を張ったあと、少しだけ視線をそらした。
「……それに、せっかくの帰省なんだから。おじさんが途中でへばったら困るし」
「心配してくれてるんだね」
「ち、違うし! あたしが楽しめなくなるからって言ってるの!」
「そうだね」
「……何、その顔」
「いや。ありがたいなと思って」
彼女は何か言い返そうと口を開いたものの、結局、ふいと顔を背けてしまった。
「……ほんと、そういうところがずるい」
その耳が、ほんの少し赤くなっている。
おじさんは、気づかないふりをした。
二人で売店へ入り、軽い食べ物を買った。彼女は地元の牛乳を使ったという小さな菓子を選び、おじさんには「運転する人はちゃんと食べなさい」と、サンドイッチをひとつ押しつけた。
ベンチに並んで座り、飲み物を口にする。
空は相変わらず青く、遠くの山々は夏の陽射しを浴びて、輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。
「……ねえ」
彼女が、ふいに言った。
「ん?」
「おじさんの故郷って、どんなところ?」
「どんなところ、か……」
おじさんは、しばらく考えた。
「都会みたいに何でもあるわけじゃないけど、僕は好きだよ。山があって、田んぼがあって、子どものころから変わらない道もある。もちろん、変わってしまったところも多いけどね」
「ふうん」
「昔は、何もないところだと思っていたんだ。早く外へ出たいって。それなのに、いざ離れて暮らすようになると、ふとしたときに懐かしくなる」
「……そっか」
彼女は、手にした飲み物を見つめた。
「そういうの、ちょっといいね」
「そうかな」
「うん。自分がいた場所が、ちゃんと自分の中に残ってるってことでしょ?」
おじさんは、彼女を見た。
彼女は、いつものように笑ってはいなかった。
ただ、遠くの山並みを眺めながら、静かに言葉を続けた。
「……あたしも、おじさんのこと、もっと知りたいんだよね。今のおじさんだけじゃなくて、昔のおじさんのことも」
「……うん」
「だから、今日はいっぱい案内してね」
そう言って、彼女はいつもの調子を取り戻した。
「あと、おいしいものも食べさせて。七時間もかけて来るんだから、それくらいの権利はあるでしょ?」
「もちろん。母さんも、いろいろ用意してくれていると思うよ」
「へえ。じゃあ、期待しておこうかな♡」
休憩を終えるころには、肩の張りもだいぶ和らいでいた。
おじさんが立ち上がると、彼女はさりげなく、その背中を軽く叩いた。
「よし。あと半分くらい?」
「そうだね。もう少し走れば、故郷のほうへ近づいていくよ」
「じゃ、運転再開。眠くなったらまた寝るから」
「今度は、起きているつもりじゃないの?」
「……うるさいわね。寝るのも旅行の楽しみなの!」
彼女の笑い声を聞きながら、おじさんは再びハンドルを握った。
長い道のりは、まだ続いていた。
けれど、もう一人で耐えるだけの時間ではなかった。
*
午後が深まるにつれ、窓の外の景色は少しずつ変わっていった。
山の稜線が近づき、道路脇に見える看板に、見覚えのある地名が増えていく。
最後の休憩を終え、再び高速道路を走っているとき、おじさんはふと、胸の奥が落ち着かなくなっていることに気づいた。
帰省は久しぶりだった。
仕事や日々の生活に追われ、電話で話すことはあっても、実際に顔を見せる機会は限られていた。故郷は遠く、帰ろうと思えば帰れる距離ではあっても、気軽に往復できるほど近くはない。
家族に会いたい気持ちは、もちろんある。
それでも、長いあいだ離れて暮らしていると、帰ることそのものに、少しばかり勇気が必要になる。
自分は、家族にどんな顔をすればいいのだろう。
以前と同じように振る舞えばいいのか。それとも、少しずつ変わってきた今の自分を、素直に見せればいいのか。
そんなことを考えていると、助手席から声がした。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「さっきから、ちょっと顔が固い」
彼女は、こちらを見ていた。
「緊張してるの?」
「……分かる?」
「分かるわよ。何ヶ月一緒にいると思ってるの」
そう言ってから、彼女は少しだけ口元を緩めた。
「まあ、家族に会うんだもんね。いろいろあるか」
「うん。久しぶりだからね」
「……大丈夫よ」
彼女は、いつもより静かな声で言った。
「おじさんがどんな顔してても、あたしは隣にいるから」
おじさんは、思わず彼女を見た。
彼女は、すぐに目をそらした。
「……な、何よ。そんなに見ないで」
「いや。嬉しいなと思って」
「はいはい。そういうのは、着いてから言いなさい。運転中なんだから」
「分かった」
「あと、緊張してるなら、ちゃんと深呼吸すること。肩に力入ってるわよ」
おじさんは、彼女に言われたとおり、ゆっくりと息を吸った。
吐く。
もう一度、吸って、吐く。
それだけのことで、少し気持ちが落ち着いた。
「……ありがとう」
「ふん。どういたしまして」
彼女は窓の外へ顔を向けた。
「おじさんの故郷、どんなところか楽しみなんだから。変な顔してないで、ちゃんと案内してよね」
「うん。任せて」
彼は、今度は自然に笑うことができた。
*
夕方、車はようやく故郷の町へ入った。
見慣れた山の稜線。昔からある商店。田畑の向こうに並ぶ低い屋根の家々。
記憶の中にあった景色と、まったく同じではない。新しい建物が増え、古い店がなくなり、道幅も少し広くなっている。
それでも、懐かしかった。
彼がここで暮らしていた時間は、もう戻らない。
けれど、失われたわけでもない。
今の自分の中に、確かに続いている。
「……ここ、いいところね」
彼女が窓の外を見ながら言った。
「そうかな」
「うん。なんか、空が広い」
おじさんは、彼女の横顔を見た。
「君にそう言ってもらえると、嬉しいよ」
「ふうん?」
彼女は、すぐにいつもの笑顔を浮かべた。
「じゃあ、責任持って案内してよね。あたし、せっかく来たんだから」
「もちろん」
「あと、おいしいものも食べさせて」
「それも、もちろん」
「よろしい♡」
父が、運転席で小さく笑った。
実家へ着くと、玄関の前には父と母、それから姉が待っていた。
「おう。久しぶりだな」
父は、いつもの調子で言った。
「うん。久しぶり」
車を降りたおじさんは、父と短く握手を交わした。
「長旅だったろう。疲れたんじゃないか」
「まあ、七時間くらいだからね。途中で休憩もしたし、大丈夫だよ」
そう答えた瞬間、隣から視線を感じた。
彼女である。
彼女は何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ眉を上げている。
おじさんは、苦笑した。
「……いや、ちょっと疲れたかな。でも、ちゃんと休んできたよ」
「ならいいけど」
彼女は、納得したようにうなずいた。
父は、そんな二人を見て、ふっと笑った。
「そうか。なら、着いたらゆっくりしていけ。そちらも、遠いところをよく来てくれたね。ありがとう」
「いえ。こちらこそ、お邪魔します」
彼女は、きちんと頭を下げた。
その様子を見て、おじさんは少し驚いた。
彼女は、彼の家族を大切に扱おうとしている。
単に礼儀正しく振る舞っているだけではない。自分にとって大切な人の大切なものを、ちゃんと大切にしようとしてくれている。
そういうところを、彼は何度も見てきたはずだった。
けれど、故郷の玄関先でそれを目の当たりにすると、胸に迫るものがあった。
「おかえりなさい」
母が、笑顔で言った。
「ただいま」
「長かったでしょう。運転、お疲れさま。あなたも、よく来てくれたわね」
母は彼女へ向き直り、やさしく微笑んだ。
「さあ、入って。夕飯の支度はできているから」
「お邪魔します」
彼女が靴を脱いで上がる。
その後ろ姿を見ていると、姉が、すっと隣にやってきた。
「久しぶりね」
「うん。姉さんも元気そうだね」
「おかげさまで。……それにしても」
姉は、弟の顔をまじまじと見た。
「前に会ったときより、顔色がいいじゃない。少し痩せた? いや、やつれた感じじゃないわね。ちゃんと健康的になったというか」
「そうかな」
「そうよ。昔は、もっと疲れた顔してたもの」
姉は弟の肩を軽く叩いた。
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「本当に?」
「本当だって」
「……へえ」
姉の目が細くなる。
おじさんは、その顔に見覚えがあった。子どものころから、何かをごまかそうとすると、姉は決まってその表情をした。
「あとでゆっくり聞かせてもらおうかな」
「勘弁してよ」
「何よ。せっかく帰ってきたんだから、いろいろ話したいじゃない」
姉はそう言って笑い、彼女のほうへ視線を向けた。
「久しぶりね。元気だった?」
「はい。お姉さんも、お元気そうで」
「よかった。前に会ったときも思ったけど、あなた、本当に弟の扱いが上手よね」
「えー? そうですかぁ?」
彼女は、途端にいつもの顔になった。
「だって、おじさん、放っておくとすぐ無理するんですもん。ご飯も生活も、適当になっちゃうし」
「そうそう。昔からそうなのよ」
姉は、すぐにうなずいた。
「人に心配をかけたくないのか、何でも一人で済ませようとするの。困ったことがあっても、平気な顔をしてね」
「……姉さん」
「何よ。事実でしょ?」
彼女は、弟を見てにんまりと笑った。
「へえー。やっぱり昔からなんだ?」
「……まあ、そうだね」
「じゃあ、あたしがちゃんと見張ってないと」
「見張るって……」
「だって、放っておいたらすぐ『大丈夫』って言うんだもん。あれ、信用できないのよねぇ♡」
姉は声を立てて笑った。
「分かるわ。私も何度、その言葉に騙されたことか」
「ちょっと、二人とも……」
おじさんは困ったように笑った。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
彼女と姉が、自分の知らないところで話を合わせている。自分の不器用さを笑いながらも、そこに責めるような響きはない。
むしろ、彼のことを気にかける二人が、ようやく同じ場所で話をしていることが、どこかくすぐったく、嬉しかった。
*
夕食の時間になると、食卓には懐かしい料理が並んだ。
煮物に、味噌汁に、焼き魚。母がいつも作ってくれた味が、湯気とともに部屋いっぱいに広がっている。
そして、おじさんの前には、もうひと皿、特別な料理が置かれた。
学生時代、彼がとりわけ好きだった、母の手作りの一品だった。
「……あれ。これ、作ってくれたの?」
おじさんが目を丸くすると、姉が隣で笑った。
「そうよ。前に会ったとき、話したじゃない。あんたが帰ってきたら、昔好きだったものを作ってあげようって」
「……ああ」
姉は、少し得意げに胸を張った。
「前会った時に約束したからね」
そう言って、やさしく微笑んだ。
母も、嬉しそうに頷いた。
「久しぶりでしょう。好きだったものは、覚えているものね」
おじさんは、皿を見つめた。
学生時代、家に帰ると、母がこれを作ってくれている日があった。食べ盛りだった彼は、いつもあっという間に平らげてしまったものだ。
当時は、それがどれほどありがたいことなのか、深く考えもしなかった。
好きなものが食卓にあるのは、当たり前のことだと思っていた。
けれど、家を出て、働き始め、誰かのために食事を用意することも、自分のためにきちんと食べることも、案外簡単ではないと知った。
今、目の前にある料理は、ただ懐かしいだけではなかった。
自分がここを離れていたあいだも、家族は自分の好きなものを覚えていてくれたのだ。
「……ありがとう、姉さん。母さんも」
「どういたしまして」
姉は、少し照れくさそうに笑った。
「ほら、冷めないうちに食べなさい」
「うん」
おじさんは箸を取った。
ひと口食べると、懐かしい味がした。
記憶の中にあるものより、少しだけ味が変わったようにも思える。それは自分の舌が変わったせいかもしれないし、長い時間のせいかもしれなかった。
けれど、確かに、あのころと同じ味だった。
「……おいしい」
自然と、声が漏れた。
母は、ほっとしたように微笑んだ。
「よかった」
その様子を、彼女がじっと見ていた。
「……何?」
おじさんが尋ねると、彼女は慌てたように首を振った。
「べ、別に?」
「そう?」
「うん。……ただ、おじさんがそんな顔するんだなって思っただけ」
「そんな顔?」
「すごく嬉しそうな顔」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「いつもあたしとご飯食べてるときも、おいしいって言うけど。今のは、ちょっと違ったから」
おじさんは、言葉を探した。
「……そうだね。懐かしかったんだと思う」
「そっか」
彼女は、それ以上追及しなかった。
ただ、皿の上の料理を見てから、姉へ向き直った。
「お姉さん、これ、本当におじさんが好きだったんですね」
「ええ。学生のころなんて、これがあると露骨に機嫌がよくなったものよ」
「へえー?」
彼女は、おじさんを振り返った。
「何それ、かわいいじゃん」
「……やめてくれないかな」
「三十三歳児のくせに、好きなものを出されると嬉しくなっちゃうんだ?」
「誰だってそうだよ」
「ふうん。じゃあ、今度あたしも作ってあげようかな♡」
彼女は、軽い調子で言った。
けれど、その言葉に、おじさんの胸は小さく揺れた。
「……本当に?」
「えっ」
彼女は、わずかに目を見開いた。
冗談のつもりだったのだろう。おじさんが思いのほか真面目に反応したので、少しばかり面食らったらしい。
「……な、何よ。そんなに食べたいの?」
「うん。君が作ってくれるなら、嬉しいよ」
「……っ、もう!」
彼女は、頬を赤くして顔をそむけた。
「そういうこと、いちいち真面目に返さないでよ!」
姉が、くすくすと笑った。
「いいじゃない。作ってあげたら?」
「お姉さんまで!」
「だって、弟がこんなに嬉しそうなんだもの」
母も、楽しそうに笑っている。
おじさんは、少し恥ずかしくなりながらも、久しぶりに家族の前で、心から笑っていた。
食卓では、昔の話が次々と出てきた。
学生時代の失敗。部活動での出来事。家族旅行の帰りに道を間違えたこと。姉が覚えている、彼自身はすっかり忘れていたような小さな出来事。
そのたびに、彼女は目を輝かせて話を聞いた。
「えっ、おじさん、そんなことしたの?」
「……若気の至りだよ」
「何それ、聞いたことないんだけど!」
「話すほどのことじゃないと思って……」
「いいから、もっと話して!」
姉は、そんな彼女を見て笑った。
「あなた、本当に弟の話が好きなのね」
「えっ?」
彼女の手が止まった。
「……べ、別に、そういうわけじゃ」
「ふふ。いいのよ。嬉しいから」
姉は、少しだけ表情を和らげた。
「弟は昔から、自分のことをあまり話さない子だったから。こうして興味を持ってもらえるのは、ありがたいわ」
彼女は、すぐには答えなかった。
それから、箸を置き、少し照れくさそうに笑った。
「……だって、あたし、おじさんのこと、もっと知りたいんですもん」
その言葉は、いつものからかいとは違っていた。
姉は、彼女を見つめ、それから静かにうなずいた。
「そっか」
その一言に、何かを理解したような響きがあった。
おじさんは、二人の会話を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
自分の知らないところで、彼女と姉の間に、少しずつ何かが結ばれていく。
それは、彼が二人を紹介しただけでは生まれないものだった。
彼女が彼のことを知ろうとして、姉が彼女に伝えようとしてくれる。互いの言葉を受け取りながら、二人は、彼を中心にした小さな輪を作っている。
その輪の中に自分がいることが、彼には、どうしようもなく嬉しかった。
*
夕食のあと、姉が昔の写真を持ってきた。
「ほら。これ、見てみる?」
「……姉さん、まだ持ってたの?」
「当たり前でしょ。懐かしいんだから」
アルバムを開くと、幼いころのおじさんが、少し不機嫌そうな顔で写っていた。
隣には姉がいて、満面の笑みを浮かべている。
「……うわあ」
彼女が、思わず声を漏らした。
「何、その顔!」
「いや、だって……」
彼女は写真を覗き込み、口元を押さえて笑った。
「おじさん、ちっちゃい! しかも、なんか今と同じ顔してる!」
「そんなに変わってないかな……」
「変わってないよ。ちょっとむすっとしてて、でも、なんかかわいい」
「……それは褒めているのかな」
「褒めてる褒めてる♡」
姉が、次のページをめくった。
「こっちは小学校のころね。こっちは運動会。こっちは、初めて自転車に乗れた日」
「姉さん、そこまで説明しなくても……」
「何よ。せっかく見せてあげてるんだから」
彼女は、すっかり夢中になっていた。
写真の中の彼を見て、驚き、笑い、時折、思いがけないほど真剣な顔で見つめている。
彼女が知っているのは、今の彼だ。
仕事をして、帰宅して、食事をして、時々疲れた顔を見せる三十三歳の男。彼女の前では少しばかり不器用で、からかわれると困ったように笑う人。
けれど、アルバムの中には、彼女が知らない彼がいた。
まだ何も知らず、何にでも夢中になれたころの彼。
家族に囲まれ、失敗をして、笑われ、また次の日には同じように外へ飛び出していったころの彼。
そこには、今の彼につながるものが、いくつも残っていた。
「……ねえ」
彼女は、一枚の写真を見つめながら言った。
「おじさんって、昔から家族に大事にされてたんだね」
姉は、少し驚いたように彼女を見た。
「そうね。まあ、家族だからね」
「……うん」
彼女は、写真の端を指先でそっと押さえた。
「なんか、よかった」
それは、独り言のような小さな声だった。
おじさんは、彼女を見た。
彼女は、彼の視線に気づくと、慌てていつもの顔に戻った。
「な、何よ。変な意味じゃないからね!」
「うん」
「ただ……」
彼女は、少しだけ言葉を探した。
「おじさんって、時々、自分が誰かに大事にされてるってこと、忘れちゃうみたいなところがあるじゃん」
おじさんは、黙っていた。
「だから、こういうのを見ると、ちゃんと分かるから。おじさんが、昔から一人で頑張ってきたわけじゃないって」
彼女は、写真へ目を戻した。
「……そういうの、いいなって思ったの」
姉は、彼女を見つめたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう」
「え?」
「弟のこと、ちゃんと見ていてくれて」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
「……まあ、放っておくと心配なので」
「そうね。昔から、心配をかけないようにって、一人で抱え込むところがあるから」
姉は、弟へ視線を向けた。
「でも、今は少し違うみたいね」
「……うん」
おじさんは、ゆっくりとうなずいた。
「少しずつだけど、変わってきたと思う」
姉は、嬉しそうに笑った。
「そう。よかった」
その表情を見て、彼女は一瞬だけ目を伏せた。
そこには、彼女自身が持っていないものがあった。
何十年も積み重なった、家族の記憶。
子どものころの失敗も、成長の途中の不器用さも、言葉にしなくても分かるような、長い時間の親密さ。
少しだけ、羨ましかった。
自分が彼のことを知っていると思っていても、彼女の知らない彼が、ここにはたくさんいる。
けれど同時に、嬉しくもあった。
彼が、誰にも大切にされずに生きてきたわけではないこと。彼が「大丈夫」と言い続けていたころにも、彼のことを心配し、気にかけてくれる人たちがいたこと。
その事実を、彼女はもう一度確かめたような気がした。
やがてアルバムを閉じると、姉は立ち上がった。
「さて。明日はお墓参りに行くんでしょう?」
「うん。午前中に行こうと思ってる」
「じゃあ、あまり夜更かししないことね。遠くから来て疲れてるんだから」
「分かってるよ」
「本当かなあ」
彼女が、すかさず口を挟んだ。
「おじさん、こういうときに限って、いつまでも起きてるんだよねぇ♡」
「……君まで言うのか」
「だって、お姉さんもそう言ってるじゃん」
姉は、楽しそうに笑った。
「じゃあ、明日は私も一緒に行こうかな。久しぶりにお墓にも顔を出したいし」
「そうだね。よかったら一緒に行こう」
話がまとまると、母が客間へ布団を敷いてくれた。
長旅の疲れもあり、おじさんは、思っていたより早く眠気を覚えた。
明日は墓参りをして、それから、彼女に故郷の町を案内するつもりだった。
彼女が自分の育った場所を見て、何を感じるのか。
そのことを考えると、少しだけ落ち着かない。
けれど、隣の部屋から聞こえてくる、母と姉と彼女の楽しそうな話し声を聞いていると、不思議と心は穏やかだった。
彼女は、もう家族の輪の中にいる。
少なくとも、今夜の彼には、そう思えた。
*
翌朝は、蝉の声で目が覚めた。
窓の外では、朝の陽射しが庭を照らしていた。都会で暮らす家の窓から見る空とは、どこか違って見える。広く、明るく、遠くまで続いているようだった。
朝食を済ませると、おじさんは父と姉、そして彼女と一緒に家を出た。
墓地は、町を少し離れた山の麓にある。
車で向かう道すがら、父が昔の話をした。
「この辺りも、ずいぶん変わったな。お前が小さいころは、まだ田んぼばかりだった」
「うん。昔は、あの角に駄菓子屋もあったよね」
「そうそう。お前、よく姉ちゃんに連れていってもらってたな」
「……ああ、そうだったね」
姉が、後部座席から笑い声を上げた。
「そうよ。自分では行けないくせに、私についてくるの。帰りには、買ったお菓子を全部食べちゃって」
「そんなことまで覚えてるの?」
「覚えてるわよ。あんた、私が買った分まで食べたことがあるんだから」
「……それは、申し訳なかったね」
「今さら謝られてもねえ」
姉は笑いながら、彼女のほうを見た。
「昔から、食べることには遠慮がなかったのよ」
「へえー?」
彼女は、にんまりとおじさんを見た。
「今のおじさんからは想像できないなあ。あたしが何か食べさせないと、すぐ適当に済ませちゃうのに」
「……今は、ちゃんと食べてるよ」
「うん。だから、昔より進歩したってことね♡」
おじさんは苦笑した。
車は、やがて墓地へ続く坂道に入った。
木々の間を抜ける風が、少しだけ涼しい。
墓地に着くと、父が道具を出し、姉が花を整えた。母が持たせてくれた水や掃除用具を手に、おじさんも墓石の周りを掃除する。
彼女は、最初こそ少し離れたところで様子を見ていたが、すぐに何をすればいいか尋ねて、落ち葉を拾い始めた。
「ありがとう。そこは僕がやるから、無理しなくていいよ」
「何言ってんの。あたしも手伝うの」
「でも……」
「はい、出た。何でも一人でやろうとするよわよわおじさん」
彼女は、落ち葉をひとつ拾って、彼の手のひらへ乗せた。
「ほら。これ、捨ててきて」
「……はいはい」
「はいは一回!」
そのやり取りに、姉が小さく笑った。
「本当に、いい組み合わせね」
「……姉さん」
「何よ。褒めてるのよ」
彼女は少しだけ頬を赤くしながらも、得意げに胸を張った。
「でしょ? あたしがいないと、おじさんは駄目なんですぅ♡」
「……そこまで言ってないと思うけど」
「言ってるようなものでしょ!」
父も、声を立てずに笑った。
掃除を終えると、花を供え、線香に火をつけた。
おじさんは、静かに手を合わせた。
目を閉じると、懐かしい顔が浮かんだ。
幼いころに聞いた声。家族と過ごした時間。もう会えなくなった人たちのこと。
大人になってからの自分が、どれほど多くのものを置き去りにしてきたのか、ふと考えることがある。
仕事に追われ、目の前のことを片づけるのに精いっぱいで、気づけば季節が過ぎていた。大切な人に連絡することさえ、忙しさを理由に先延ばしにしてしまうことがあった。
けれど、こうして帰ってくると、思い出す。
自分は、ここから始まったのだ。
今の自分が、どれほど不器用で、どれほど頼りなくても。過去の自分が積み重ねてきた時間は、消えてしまうわけではない。
彼は、目を開けた。
少し離れたところで、彼女も静かに手を合わせていた。
彼女は、彼の家族にとっては、まだ一緒に過ごした時間の短い人だ。
それでも、彼の故郷に来て、彼の家族に会い、彼の過去に触れようとしてくれている。
その姿を見ていると、彼は、胸の奥に小さな感謝が積もっていくのを感じた。
やがて彼女が目を開け、こちらを振り返った。
「……終わった?」
「うん」
「じゃあ、次は散歩ね」
彼女は、いつもの笑顔を浮かべた。
「昨日から楽しみにしてたんだから。おじさんが育った町、ちゃんと見せてもらうわよ」
「もちろん」
おじさんは、うなずいた。
その声は、昨日よりも少しだけ軽かった。
*
墓参りの帰り、父と姉は先に家へ戻ることになった。
「お前たちは、ゆっくり歩いてきたらいい」
父はそう言って、車の鍵を回した。
「昼までには帰ってこいよ。母さんが何か用意しているだろうから」
「うん。分かった」
姉も、彼女へ向かって微笑んだ。
「このあたりは、歩いてみると面白いわよ。弟がどんなところを走り回っていたのか、ゆっくり見てきて」
「はい。ありがとうございます」
「あと、何かあったら遠慮なく言ってね」
姉は弟をちらりと見た。
「こいつ、案外ぼんやりしているから」
「ちょっと、姉さん」
「ふふ。じゃあ、またあとでね」
父と姉を見送ると、おじさんと彼女は、町へ続く道を歩き始めた。
夏の日差しは強かったが、道の両側には木々が並び、ところどころに涼しい影が落ちている。遠くから川の流れる音が聞こえ、蝉の声が途切れることなく続いていた。
「……いいところね」
彼女は、もう一度そう言った。
「昨日も言っていたね」
「だって、本当にそう思うんだもん」
彼女は空を見上げた。
「なんか、時間がゆっくり流れてる感じがする。いつもの街だと、何をしてても、次の予定とか、仕事とか、そういうことばっかり考えちゃうじゃない?」
「うん」
「でも、ここは、歩いてるだけでも楽しいね」
おじさんは、少しだけ笑った。
「子どものころは、何もないところだと思っていたけどね」
「ふうん。じゃあ、今は?」
「……今は、こうして君と歩いていると、いいところだったんだなと思うよ」
彼女は、足を止めた。
「……っ」
それから、ゆっくりとおじさんを振り返った。
「……ほんと、そういうこと、急に言うのやめてくれない?」
「え?」
「何でもない!」
彼女は、少し早足になった。
「ほら、案内! おじさんが昔どこで遊んでたのか、ちゃんと教えなさいよ!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「……はい」
おじさんは、笑いながら彼女のあとを追った。
最初に立ち寄ったのは、昔よく通った小さな公園だった。
遊具は新しくなっていたが、敷地の形は記憶の中と変わっていない。隅にある大きな木も、昔と同じ場所に立っていた。
「ここでよく遊んでいたんだ」
「へえー。何してたの?」
「鬼ごっことか、かくれんぼとか。あとは、友達とカードゲームをしたり」
「……ふうん?」
彼女は、おじさんを横目で見た。
「おじさん、鬼ごっこでちゃんと走れたの?」
「子どものころはね」
「今は?」
「……今は、あまり自信がないかな」
「よわよわおじさん♡」
「そう言うと思ったよ」
彼女は笑った。
公園のベンチに少し腰を下ろし、それから、また歩き始めた。
途中、昔からある商店の前を通った。店先には野菜が並び、奥からは、冷蔵庫の低い音が聞こえてくる。
「あ、ここは?」
「昔、よくお菓子を買いに来ていた店だよ。今もあるんだね」
「へえ。入ってみようよ」
彼女は、迷いなく扉を開けた。
店内は少し涼しく、懐かしい菓子の匂いがした。彼女は棚を眺め、見覚えのある駄菓子を見つけては、おじさんに尋ねる。
「これ、好きだった?」
「うん。よく買っていたよ」
「こっちは?」
「それもね」
「……おじさん、こういうの好きだったんだ」
「子どものころだからね」
「今も好きなんじゃないの?」
「……嫌いではないよ」
「じゃあ、買ってあげる」
彼女は、いくつかの菓子を手に取った。
「え、いいよ。自分で買うから」
「いいの。あたしが買いたいんだから」
その言い方が、あまりにも彼自身のものに似ていて、おじさんは思わず笑ってしまった。
「何よ?」
「いや。君も、そういうところがあるんだなと思って」
「……何が?」
「人に何かしてあげるのが好きなところ」
彼女は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、照れ隠しのように、彼の腕を軽く叩いた。
「……うるさいな。いいから、受け取りなさいよ」
「ありがとう」
「どういたしまして」
店を出ると、彼女は買った菓子の袋を大事そうに抱えていた。
その姿を見て、おじさんは、また胸の奥が温かくなるのを感じた。
自分が昔好きだったものを、彼女が覚えていてくれる。
それだけで、過去の自分が、今の彼女とつながっていくような気がした。
*
町の外れまで歩くと、川沿いの道に出た。
水面は陽射しを受けてきらきらと光り、岸辺の草は風に揺れている。遠くには山が連なり、青い空の下で、夏の景色がどこまでも広がっていた。
二人は、川を見渡せる場所で足を止めた。
「……ここ、好きだったんだ」
おじさんが言った。
「子どものころ、よく来ていたの?」
「うん。友達と自転車で来たり、一人でぼんやりしたり。何か考えごとがあると、ここまで歩いてきたこともあったよ」
「へえ……」
彼女は、川の流れを見つめた。
「今も、考えごとをするときは、こういうところに来たくなる?」
「そうだね。ここまで来る機会はなくなったけど、静かな場所で落ち着きたくなることはあるよ」
「……そっか」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「おじさんって、昔から、いろんなことを一人で考えてたんだね」
「……どうだろう。そうだったのかもしれない」
「今も、そういうところあるよね」
彼女は、おじさんを見た。
「何かあっても、すぐに話してくれるわけじゃないし。自分で考えて、自分で何とかしようとして、それでも駄目だったら、やっと言うんだもん」
「……耳が痛いな」
「でしょ?」
彼女は、少しだけ笑った。
「でも、前よりはよくなったと思うよ」
「そうかな」
「そうよ。あたしが聞いたら、ちゃんと話してくれるようになったし。疲れたって言うことも、前より増えたし」
「……君には、隠しても仕方がないからね」
「何それ。あたしが怖いみたいじゃん」
「怖いというより、よく見てくれているから」
彼女は、口を閉じた。
いつものように、すぐにからかい返すことはしなかった。
風が吹き、彼女の髪が頬にかかる。彼女はそれを指先で払ってから、静かに言った。
「……ちゃんと見てるよ」
その声は、小さかった。
「おじさんが、どんなふうに変わっていくのか。何が好きで、何が苦手で、どういうときに無理しちゃうのか。そういうの、ちゃんと知っておきたいんだもん」
おじさんは、彼女を見つめた。
彼女は、言ってから恥ずかしくなったのか、すぐに顔をそらした。
「……な、何よ。変な意味じゃないからね!」
「うん」
「ただ、おじさんが心配なだけ! 放っておくと、すぐ自分のことを後回しにするんだから!」
「……そうだね」
「だから、これからもちゃんと話しなさいよ。疲れたとか、困ったとか、そういうの」
「分かった」
「ほんとに?」
「うん。約束する」
彼女は、彼の顔を確かめるように見つめた。
やがて、納得したように小さくうなずいた。
「……よろしい」
二人のあいだに、しばらく沈黙が落ちた。
けれど、それは気まずいものではなかった。
川の流れる音と、蝉の声と、遠くを走る車の音。その中に身を置いていると、無理に何かを話す必要などないように思えた。
おじさんは、彼女の隣に立ちながら、故郷の景色を眺めた。
昔は、ここから早く出ていきたいと思っていた。
何もない町。知っている人ばかりの町。どこへ行っても自分のことを知られているような、息苦しい町。
けれど、離れて暮らすようになってから、少しずつ見え方が変わった。
ここには、自分が過ごした時間がある。
家族と笑った食卓があり、友人と走り回った道があり、何も考えずに川を眺めていた午後がある。
それらは、今の自分がどこへ行こうと、消えることはない。
そして今日、その景色を、彼女と一緒に見ている。
「……来てくれて、ありがとう」
気づけば、おじさんはそう言っていた。
彼女が、ゆっくりと振り返る。
「……何、急に」
「君が来てくれて、嬉しいんだ。僕の故郷を、こうして一緒に歩いてくれて」
彼女は、すぐには答えなかった。
頬が、少しずつ赤くなる。
「……だから、そういうの」
「うん?」
「……もういい!」
彼女は、彼の腕を軽くつかんだ。
「ほら、帰るわよ! お腹すいたし!」
「もうそんな時間か」
「そうよ。あたし、朝からけっこう歩いたんだからね!」
「ありがとう。付き合ってくれて」
「だから、そういうのはいいってば!」
彼女は、彼の腕をつかんだまま歩き出した。
その手は、すぐに離れなかった。
おじさんは、何も言わずに彼女の歩幅に合わせた。
*
実家へ戻ると、母が昼食の支度をして待っていた。
食卓には、冷たい麺と、揚げたての天ぷらが並んでいる。外を歩いてきた二人には、ちょうどいい食事だった。
「おかえりなさい。暑かったでしょう」
「うん。でも、楽しかったよ」
おじさんが答えると、彼女も大きくうなずいた。
「すごく楽しかったです。おじさんの昔の話も聞けたし」
「あら、そう。それはよかった」
母は、嬉しそうに笑った。
姉も食卓についていて、二人の顔を見るなり尋ねた。
「どこを回ってきたの?」
「公園と、昔よく行っていたお店と、川沿いの道」
「へえ。あの川まで行ったの?」
「うん」
「懐かしいわね。弟、昔はあそこでよくぼんやりしてたのよ」
彼女は、すぐにおじさんを振り返った。
「やっぱり! 考えごとする場所だったんだって!」
「……話したの?」
「話したよ」
「何よ、隠してたの?」
「隠していたわけじゃないよ……」
姉は、楽しそうに笑った。
「昔から、あの場所が好きだったのよ。何かあると一人で出かけて、帰ってくると少しすっきりした顔をしているの」
「……そうだったんだ」
彼女は、おじさんを見た。
「今度、あたしが疲れたときも、あそこに連れていってよ」
「もちろん。いつでも案内するよ」
「……約束だからね」
「うん」
昼食を食べながら、話はまた、昔のことや今の暮らしのことへと移っていった。
姉は、仕事の様子や生活について弟に尋ねた。おじさんは、以前より食事に気をつけるようになったこと、仕事のあとにも少し身体を動かすようになったこと、疲れたときには無理をしないようにしていることを話した。
姉は、何度もうなずきながら聞いていた。
「そっか。ちゃんと生活してるんだね」
「うん。少しずつだけど」
「よかった。前に会ったときは、何だか心配だったから」
姉は、彼女のほうへ視線を向けた。
「あなたのおかげもあるのかな」
「えっ?」
「弟、昔から誰かに言われないと、自分のことを後回しにするところがあるから。あなたが、ちゃんと気にかけてくれているんでしょう?」
彼女は、少し照れくさそうに頬をかいた。
「……まあ、そうですね。あたしが言わないと、すぐ適当にしちゃうので」
「ふふ。やっぱり」
「でも、最近は自分から気をつけるようになってきましたよ。前よりは、ずっと」
姉は、弟を見た。
「そう。それなら、よかった」
その声には、からかいではない、姉としての安堵があった。
おじさんは、少しだけ目を伏せた。
心配をかけていたのだと、改めて思った。
自分では、誰にも迷惑をかけないようにしているつもりだった。けれど、黙って抱え込むことが、かえって家族を心配させていたのかもしれない。
そして今、彼女が隣にいてくれることが、家族にも伝わっている。
それは、彼にとって、何より心強いことだった。
「……ありがとう」
おじさんが言うと、姉は少し驚いたように顔を上げた。
「何よ、急に」
「心配してくれていたんだなと思って」
「当たり前でしょ。弟なんだから」
姉は、少しだけ困ったように笑った。
「……でも、今は前より安心してるわ。ちゃんと食べて、ちゃんと休んで、誰かと笑っていられるなら、それでいいのよ」
彼女は、その言葉を静かに聞いていた。
やがて、いつもの調子で口を開く。
「というわけで、おじさん。これからもちゃんと食べること。分かった?」
「……はい」
「はいは一回!」
「……はい」
食卓に笑い声が広がった。
その笑い声を聞きながら、おじさんは思った。
故郷へ帰るというのは、ただ昔の場所へ戻ることではないのかもしれない。
過去の自分を、今の自分の目で見直すこと。
家族が覚えている自分と、今の自分を比べること。
そして、今そばにいる人と一緒に、自分がどこから来たのかを確かめること。
彼女が隣にいてくれたから、今日の景色は、昔とは少し違って見えた。
*
午後は、家でゆっくり過ごした。
父は庭の手入れをし、母は夕食の準備を始めた。姉は居間で昔の写真を整理しながら、彼女とあれこれ話している。
おじさんは、少し離れたところで、その様子を眺めていた。
「……ねえ、おじさん」
彼女が、ふいに顔を上げた。
「何?」
「こっち来て」
「うん?」
呼ばれるまま近づくと、彼女はアルバムの一枚を指さした。
「これ、見て。おじさん、すごい顔してる」
「……またそれ?」
「だって、面白いんだもん!」
姉が、隣で笑った。
「このときはね、旅行先で迷子になりかけたのよ。自分では平気な顔をしていたけど、実はすごく不安だったみたいで」
「えっ、そうなの?」
彼女は、ますます楽しそうな顔になった。
「おじさん、昔から迷子になるタイプだったんだ?」
「……迷子になったわけじゃないよ。少し道が分からなくなっただけで」
「それを迷子って言うんですぅ♡」
「君まで……」
姉は、弟の困った顔を見て、また笑った。
彼女も、声を上げて笑っていた。
おじさんは、最初こそ恥ずかしかったものの、やがて一緒になって笑ってしまった。
昔の自分を笑われることが、こんなにも気楽だとは思わなかった。
それは、笑われても自分の価値が損なわれるわけではないと、今は知っているからかもしれない。
不器用だった自分も、迷子になりかけた自分も、好きなものを食べて嬉しくなる自分も、全部、自分の一部だ。
隠さなくてもいい。
誰かに知られたからといって、困ることばかりではない。
むしろ、彼女がそれを知って笑ってくれるなら、もう少し話してみたいとさえ思えた。
「……ねえ、姉さん」
おじさんは、アルバムを見ながら言った。
「まだ、ほかにも写真はあるの?」
「あるわよ。いっぱい」
姉は、楽しそうに答えた。
「今度帰ってきたときに、また見せてあげる」
「……そっか」
おじさんは、少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、また帰ってこないとね」
その言葉に、姉が顔を上げた。
彼女も、こちらを見ている。
おじさん自身、口にしてから、少し驚いていた。
以前なら、次に帰省する時期を考えるだけで、仕事の都合や移動の負担が頭に浮かんだかもしれない。帰りたいと思いながら、具体的な予定を立てることは後回しにしていたかもしれない。
けれど今は、また帰ってきたいと思った。
この家に。
家族のいる場所に。
そして、できることなら、また彼女と一緒に。
「……そうね」
姉は、穏やかに笑った。
「また帰ってきなさい。今度は、もう少しゆっくりしていけばいいわ」
「うん。そうするよ」
彼女は、アルバムを閉じた。
「じゃあ、次に来るときも、あたしがついてきてあげる」
「……いいの?」
「何よ。あたしが来たいって言ったら、来るの!」
彼女は、少しばかり得意げに胸を張った。
「それに、まだ見てないところもあるし。夏祭りもあるんでしょ?」
「うん。明日だね」
「花火も!」
「そうだね」
「あと、BBQも!」
「……ずいぶん楽しみにしているんだね」
「当たり前じゃん!」
彼女は笑った。
「せっかく遠くまで来たんだから、楽しまなきゃ損でしょ?」
おじさんは、彼女を見て、静かにうなずいた。
「そうだね。明日は、いっぱい楽しもう」
「よろしい♡」
彼女は満足そうに笑った。
夕方が近づくにつれ、窓の外の光が少しずつ柔らかくなっていった。
庭からは父の声が聞こえ、台所では母が夕食の支度をしている。姉は、彼女に昔の町の話をしていた。
その声を聞きながら、おじさんは、ゆっくりと息を吐いた。
ここには、自分が生まれたころから続いている時間がある。
そして今、自分が新しく築いてきた時間も、ここへ連れてくることができた。
彼女は、隣で笑っている。
家族の話を聞き、知らなかった彼の一面に驚き、時には彼をからかいながら、自然にその輪の中にいる。
その光景を見ていると、胸の奥に、言葉にしきれないものが満ちていった。
帰省というものは、距離だけでは測れない。
遠く離れていた場所へ戻ること。
忘れかけていた時間に触れること。
そして、今の自分を知る人と一緒に、そこにあるものをもう一度見つけること。
そのどれもが、今日のおじさんには、かけがえのないものに思えた。
明日は、夏祭りがある。
花火が夜空を彩り、家族と囲む食卓には、炭火の匂いが立ちのぼるだろう。
まだ、この夏は終わらない。
彼女と一緒に過ごす、故郷の夏は、これからが本番だった。
僕の生まれた場所。君が、知ってくれるのが、こんなにも嬉しいなんて。知らなかった。