人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
帰省から戻るころには、夜の帳がすっかり街を覆っていた。
高速道路を走り続けた長い一日の終わりだった。サービスエリアで温かい飲み物を買い、遠くの山並みを眺め、また車に乗り込む。助手席の彼女は途中で眠ってしまい、目を覚ましてからは、窓の外を流れる灯りをぼんやりと追っていた。
故郷で過ごした数日間は、まだ身体のどこかに残っている。
庭を渡る風の音。家族の笑い声。夜空に咲いた花火。そして、暗い布団の中で重ねた指の温もり。
遠い土地で過ごした時間が、車窓を流れる見慣れた街の景色に、薄く重なっていた。
「……着いたよ」
彼女の家の近くに車を停めると、彼女は小さく息を吐いてシートベルトを外した。
「ん。長かったねえ」
「疲れたでしょう。帰ったらゆっくり休んで」
「なにそれ。あたしだけ休ませる気?」
「僕も帰ったら休むよ」
「ほんとかなあ。荷物を片づけて、洗濯して、ついでに何か始めるんじゃないの?」
図星だったので、僕は返事に困った。
「……ほらね」
彼女は呆れたように笑う。
「そういうところ、まだまだよわよわおじさんだよね♡ 疲れてるときくらい、疲れたって認めなさいよ」
「……気をつけるよ」
「よろしい」
いつもどおりの口調だった。
けれど、彼女はすぐにはドアを開けなかった。
膝の上に置いた手を見つめ、それから、ためらいがちにこちらを向いた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「今日、うちに来ない?」
思わず彼女を見返した。
「……今から?」
「そう。今から」
「もう遅いよ」
「知ってる」
「君も疲れているだろうし……」
「それも知ってる」
彼女は少しだけ唇を尖らせた。
「……帰省から戻ったら、ちゃんと話そうって言ったじゃん」
「うん」
「車の中でも何度か話そうと思ったんだけど、運転中だったし。あたしも、なんか……うまく言えなかったし」
最後のほうは、いつもの彼女らしくない小さな声だった。
彼女はそれをごまかすように、わざと明るい調子を取り戻した。
「だから、その続き。うちで話せばいいでしょ。お土産もあるし、おひたしも残ってるし。ひとりで食べるのもつまんないし?」
「……そうだね」
「なによ。嫌なの?」
「嫌じゃないよ」
僕は彼女を見て、穏やかに答えた。
「君と、もう少し一緒にいたい」
「…………」
彼女の動きが止まった。
やがて片手で顔を覆い、指の隙間から僕を睨む。
「……ほんっと、帰省してから変なところで攻めてくるようになったわね」
「攻めてるつもりはないんだけど」
「じゃあ、素で言ってるの?」
「……うん」
「……そっか」
彼女は顔を隠したまま、長く息を吐いた。
「覚えてなさいよ。そのうち、あたしだって、もっとすごいこと言ってやるんだから」
「楽しみにしてるよ」
「……そういうところ!」
彼女は僕の返事を遮るようにドアを開けた。
僕も車を降り、トランクから荷物を取り出す。彼女はそれを受け取ると、建物の入口へ向かいかけて、ふと立ち止まった。
「……ほら、行くよ」
差し出された手を、僕は取った。
指が自然に絡む。
故郷の夜、同じ布団の中で確かめた温もりだった。けれど、帰ってきた街で握る彼女の手には、あの夜とは違う緊張があった。
僕たちは、まだ何も決めていない。
それでも、もう何も知らないふりはできなかった。
*
彼女の部屋は、いつもどおりだった。
低いテーブルに並ぶ本。ソファの端に置かれたクッション。窓際の小さな観葉植物。冷蔵庫のモーターが低く唸り、遠くを走る車の音が窓越しに聞こえている。
初めてこの部屋を訪れたとき、僕は彼女の生活の内側に踏み込んでしまったような落ち着かなさを覚えたものだった。
今は、その感覚が少し変わっていた。
ここには、僕の知らない彼女の時間がある。
僕がいないあいだに読まれる本があり、疲れて帰ってきた彼女が座るソファがあり、何気なく水をやる植物がある。
そうしたものを目にするのが、なぜだか嬉しかった。
「……なに、また見回してんの?」
冷蔵庫から飲み物を取り出していた彼女が、肩越しにこちらを見る。
「いや。君の部屋だなと思って」
「当たり前でしょ」
「うん。でも、前より少しわかる気がするんだ」
「……なにそれ」
「君がここで本を読んだり、ご飯を食べたり、疲れて帰ってきてソファで休んだりするんだろうなって」
「普通じゃん」
「うん。普通だね」
「そんなの見て面白い?」
「面白いというより……知りたいんだよ。僕が知らない君のことを」
彼女は、飲み物をテーブルに置いた。
しばらく僕の顔を見ていたが、やがて向かい側に腰を下ろす。
「……じゃあ、今日は特別に教えてあげる」
「うん」
「そのかわり、おじさんもちゃんと話すこと。自分のことを聞かれて、すぐ『大丈夫』って言って逃げるのは禁止ね」
「……はい」
「よろしい」
得意げに頷く彼女の顔には、いつもの勝ち気な笑みが戻っていた。
ただ、その笑みの奥に、まだわずかな緊張が残っていることにも気づいていた。
僕は、それを指摘しなかった。
今夜は、彼女が自分の言葉を見つけるまで待っていたかった。
*
夕食は、二人で作ることになった。
彼女が冷蔵庫から鶏肉と卵を取り出し、僕は帰省先から持ち帰ったおひたしを小皿に移す。母が書いてくれたレシピの紙は、彼女がテーブルの隅に大切そうに置いていた。
「……じゃあ、今日はおじさんが照り焼き担当ね」
「君が教えてくれるの?」
「違うわよ。前におじさんが作ってくれたやつ、あたしも覚えたいの。だから一緒に作るの」
「なるほど」
「……なに、その嬉しそうな顔」
「君が覚えてくれるのが嬉しいんだよ」
「……もう!」
彼女は顔を背け、まな板を取り出した。
「ほんっと、今日は調子が狂うんですけど……」
それでも、声はどこか楽しそうだった。
鶏肉を切り、調味料を合わせ、フライパンを温める。皮目から焼いた肉がじゅう、と音を立てた。醤油とみりん、砂糖を合わせたたれが熱に触れると、甘辛い香りが部屋いっぱいに広がる。
「……あ、この匂い」
彼女がフライパンを覗き込んだ。
「前に食べたときも、こんな匂いだった」
「そうだった?」
「そう。なんか、お腹空く匂い」
「よかった」
「まだ食べてないでしょ。よかったって何よ」
「覚えていてくれたのが嬉しくて」
彼女はフライ返しを持ったまま、ぴたりと動きを止めた。
「……そりゃ、覚えてるよ」
「うん」
「あたし、食べ物のことはけっこう覚えてるんだから。どこで何を食べたかとか、誰と食べたかとか」
たれを絡めながら、彼女は何でもないことのように続けた。
「……特に、誰と食べたかは」
僕が顔を向けると、彼女はすぐに眉を吊り上げた。
「なによ!」
「いや……嬉しいなと思って」
「だから、そういうのは……!」
彼女はとうとう笑い出した。
「……もういい。今日はおじさんの勝ち。いちいち照れてたら何も進まないじゃん」
「勝ち負けなの?」
「勝ち負けです」
食卓に料理が並ぶころには、窓の外の街もすっかり静かになっていた。
照り焼きは以前より少し香ばしく仕上がった。おひたしは、母の味に比べると醤油が少し強かったが、だしの香りはちゃんと残っている。
彼女は一口食べると、満足そうに目を細めた。
「……うん。おいしい」
「よかった」
「おじさんも食べなさいよ」
「うん」
特別な料理ではない。高級な食材を使ったわけでも、手間をかけた宴席のような食事でもない。
それでも、二人で作った料理が食卓にあり、遠い故郷から持ち帰ったレシピが、その傍らに置かれている。
僕はその光景を、長く覚えているような気がした。
「……ねえ、おじさん」
食事の途中、彼女が箸を置いた。
「うん?」
「……あたしのこと、どんな人だと思ってる?」
唐突な問いだった。
僕は少し考えた。
「明るい人、かな。よく笑うし、よく食べるし、人をからかうのが好きで……」
「それ、褒めてる?」
「もちろん」
「……へえ?」
彼女は口元を緩めた。
「それで?」
「……優しい人」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の笑みが止まった。
「……優しい?」
「うん」
「……あたしが?」
「そうだよ」
僕は箸を置いた。
「僕が自分のことを後回しにすると怒ってくれる。仕事を辞めるか迷っていたときも、次の仕事を探していたときも、君は僕の代わりに決めたりせず、僕が自分で選ぶまで付き合ってくれた」
彼女は黙っていた。
「君は、僕が弱いところを見せても、情けないところを見せても、いなくならなかった。からかうことはあっても、僕のことをどうでもいいとは扱わなかった」
僕は、彼女の目を見た。
「だから、優しい人だと思ってる」
彼女は目を伏せた。
しばらく、箸の先で皿の縁をなぞっていた。やがて、小さく息を吐く。
「……そういうふうに言われるの、あんまり慣れてないんだよね」
声は、いつもの調子よりずっと静かだった。
*
「……あたし、昔から口が達者だったんだよね」
彼女はおひたしの小皿を見つめたまま言った。
「相手が何を言いたいのか、何を隠したいのか、わりとすぐわかるほうだったの。だから、相手が言われたくないことを、先に言っちゃうこともあった」
「うん」
「相手が傷つく前に、こっちから笑いに変えちゃうっていうか。そうすれば、自分が傷つかなくて済むから」
彼女は自嘲するように笑った。
「誰かに嫌われるのって、けっこう怖いじゃん。だから、先に相手をからかって、自分のほうが余裕あるみたいにしてた。怒られたら『冗談じゃん』って言えばいいし、距離を置かれたら『別に仲良くしたかったわけじゃないし』って思えばいい」
「……そうだったんだね」
「……今思うと、めんどくさい子だよね」
「そうかな」
「そうだよ。離れていかれるのが怖いくせに、自分から離れられるようにしてたんだもん」
僕は、すぐには答えなかった。
いつも余裕たっぷりに見えた彼女。人をからかい、相手の反応を楽しみ、何を言われても動じないように見えた彼女。
その強気な態度のすべてが、彼女の本当の姿というわけではなかったのだろう。
「……でもね」
彼女は、ようやく顔を上げた。
「おじさんは、ちょっと違った」
「僕が?」
「うん。最初は、ほんとに面白かったんだよ。何を言っても『大丈夫』って言うし、何か食べさせると、申し訳なさそうにお礼を言うし。ちょっと強く言うと、すぐ自分が悪いって顔をするし」
「……それは、あまり褒められてない気がする」
「褒めてないもん。よわよわおじさんをからかうの、楽しかったから♡」
「ひどいなあ」
「でしょ?」
彼女は笑った。
けれど、その笑みはすぐに薄くなった。
「……でも、だんだん面白いだけじゃなくなったの」
僕は黙って耳を傾けた。
「おじさんって、自分のことはどうでもいいみたいに扱うくせに、他の人のことはすごく気にするでしょ。相手が困らないように、迷惑をかけないように、自分が我慢すればいいって、すぐ思っちゃう」
「……うん」
「それが、見てて腹が立った」
彼女は少し眉を寄せた。
「自分が傷つくのには慣れてるくせに、誰かに大事にされることには慣れてないみたいでさ」
僕は返す言葉を探したが、何も見つからなかった。
「……おじさんが、自分のことを大事にしないまま、どっかに行っちゃいそうだったから」
その言葉には、いつもの彼女には似合わない、幼い響きがあった。
「仕事がつらいって言わないまま、無理して。ご飯も食べないで。誰にも相談しないで。そうやって、いつか本当に動けなくなっちゃいそうで……あたし、そんなの、嫌だった」
彼女は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
僕は、彼女の言葉を聞いていた。
彼女は僕を救おうと、大それたことを考えていたわけではないのだろう。ただ、僕が自分を粗末に扱うのを見ていられなかった。僕が自分の人生を諦めるように、何もかもを引き受けてしまうのが嫌だった。
「……ありがとう」
ようやくそう言うと、彼女はすぐに顔をしかめた。
「……なによ。そこでお礼言うの?」
「言いたいから」
「……ほんっと、そういうところがずるい」
彼女は頬を赤くして笑った。
「別に、おじさんを救ってあげようとか思ってたわけじゃないんだからね。自分のことくらい、自分でどうにかしなさいって思ってたし」
「うん」
「ただ……あたしが一緒にいるときくらい、ちゃんと幸せそうにしてほしかったんだよね」
その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
僕は彼女の手を取った。彼女は少し驚いたように目を上げたが、手を引かなかった。
「……僕は、君といるとき、幸せだよ」
「……うん」
「それは、ちゃんと伝えておきたかった」
彼女は何も言わず、僕の手を握り返した。
その沈黙は、さっきまでのものとは違っていた。
*
「……じゃあ、今度はおじさんの番ね」
しばらくして、彼女が言った。
「僕の?」
「そう。あたしのことばっかり聞いたんだから、おじさんも自分のことを話しなさい」
「……何を話せばいいかな」
「なんでもいいよ。昔のことでも、今のことでも。これから何をしたいのかでも」
彼女は、つないだ手をテーブルの上に置いたまま、少しだけ身を乗り出した。
「……あたし、聞きたいんだよ。おじさんが、ほんとはどうしたいのか」
僕は考えた。
以前なら、きっと「特にないよ」と答えていただろう。自分の望みを口にすることは、どこか贅沢なことのように思えていた。何かを望めば、誰かの負担になる。自分の都合を優先すれば、誰かを困らせる。
そう考えているうちに、何がしたいのかさえ、わからなくなっていた。
けれど、今は少し違う。
「……新しい仕事を、ちゃんと続けたいと思ってる」
彼女は静かに頷いた。
「前の仕事を辞めるときは、逃げてるような気がしてた。自分が弱いから、我慢できないから、辞めるんだって。でも、今はそうは思わないようになった」
「……うん」
「無理をしてまで誰かに認められようとしなくてもいいんだって。わからないことは聞いて、できないことは相談して。長く働けるやり方を探していきたい」
僕は少しだけ笑った。
「前より、先のことを考えるようになったよ」
「えらいじゃん。よわよわおじさん、ちょっとは成長したね♡」
「ありがとう」
「……そこは、もっと喜びなさいよ」
「嬉しいよ」
「……よろしい」
彼女は満足そうに頷いた。
「それから、休みの日をちゃんと自分のために使いたい。寝て終わる日があってもいいけど、それだけじゃなくて、行きたい場所に行ったり、食べたいものを食べたり。君とドライブに行ったり、旅行したり」
「うん。いいじゃん」
「料理も、もう少し覚えたいな。君に作ってあげたいものもあるし、一人でもちゃんと食べられるようになりたい」
「それ、すごくいいと思う」
彼女はそこで言葉を切り、僕の顔をじっと見た。
「……で?」
「……で?」
「まだあるでしょ」
僕は彼女を見返した。
彼女の目は、逃げ道を残さないほど真剣だった。
「仕事とか生活とか、そういうことだけじゃなくてさ」
彼女の指が、僕の手の中でかすかに動いた。
「……おじさん自身は、どうしたいの?」
僕は息を吸った。
問いの行き先は、もうわかっていた。
「……君と、一緒にいたい」
彼女の指が、ぴくりと動いた。
「今までみたいに、ご飯を食べたり、出かけたり、話をしたり。君が何を考えているのか、もっと知りたいし、僕のことも知ってほしい」
「……うん」
「それから、今のままでいいとは思ってないんだ」
彼女は息を止めたように僕を見つめた。
「君と、もう少し近くなりたいと思ってる」
しばらく、彼女は何も言わなかった。
やがて、つないだ手を両手で包み込むように握った。
「……そっか」
その声は、ほんの少し震えていた。
「……やっと言った」
「……ごめん」
「謝るな!」
彼女は顔を上げた。目元が赤くなっていたが、泣いているわけではなかった。照れと嬉しさと、少しの悔しさが混ざったような顔だった。
「……あたし、ずっと待ってたんだからね。おじさんが自分から何かを欲しいって言うの。あたしと一緒にいたいって、ちゃんと言うの」
彼女は僕の手を握りしめた。
「……あたしばっかり手を伸ばしてるみたいで、ちょっと悔しかったんだから」
僕は、その言葉をまっすぐに受け止めた。
彼女はいつも僕を助けてくれた。立ち止まれば手を引き、自分を粗末にすれば怒ってくれた。
けれど、彼女だって一方的に与えるだけでよかったわけではない。彼女もまた、自分が差し出した手を握り返してくれる人を求めていたのだ。
「……これからは、僕からも手を伸ばすよ」
彼女は目を細めた。
「……うん」
「君が疲れているときは、僕も支えたい。君が話したいことがあるときは、ちゃんと聞きたい。君のことを、もっと知りたいんだ」
「……もう、ほんっとに……!」
彼女は顔を覆った。
「何か変なことを言ったかな」
「変じゃないから困ってるの!」
指の隙間から僕を睨む。
「あんた、今までそんなこと言わなかったじゃん。いつも『ありがとう』とか『ごめん』とか、そればっかりだったくせに」
「……うん」
「……なのに、急にそんなこと言うんだもん」
顔を覆ったまま、彼女は小さく笑った。
「……嬉しいに決まってるじゃん」
僕は、その手をそっと握った。
彼女は指の隙間から僕を見て、それから、ゆっくりと手を下ろした。
「……ねえ」
「うん?」
「……あたし、もうひとつ、言いたいことがある」
僕は静かに頷いた。
「聞かせて」
彼女はしばらく僕を見つめていた。
それから、絡めた指をもう一度握り直した。
「……あたし、おじさんのことが好き」
あまりにも静かな声だった。
いつものように、からかうための言葉ではなかった。僕の反応を試すためでもない。ただ、自分の気持ちをまっすぐに差し出す声だった。
僕は彼女を見つめた。
そして、今度は逃げなかった。
「……僕も、君が好きだよ」
彼女は目を閉じた。
ずっと張りつめていた糸が、ようやく緩んだように見えた。
「……うん」
それから、小さく笑う。
「……知ってたけど」
「知ってたの?」
「なんとなくね。おじさん、わかりやすいときは、すっごくわかりやすいから」
「……そうかな」
「そうです」
彼女は少しだけ身を乗り出し、僕の手を引き寄せた。額が、僕の肩にこつんと触れる。
「……でも、ちゃんと言ってほしかったの」
「うん」
「……ありがとう」
僕は思わず笑った。
いつも僕に礼を言わせていた彼女が、今度は自分からそう言ったのが、なんだか嬉しかった。
「……なによ」
「いや。嬉しくて」
「……もう! 今日はほんっと、調子が狂う!」
彼女は僕の肩に額を預けたまま笑った。
今度は、顔を隠さなかった。
*
食事のあと、二人で食器を片づけた。
彼女が皿を洗い、僕が拭いて棚に戻す。流しの水音と、食器の触れ合う小さな音が、部屋の静けさに混じった。
さっきまでの会話が嘘だったわけではない。けれど、何かを言い切ったからといって、世界が急に変わるわけでもなかった。
皿は洗わなければならないし、テーブルにはまだおひたしの保存容器が残っている。明日になれば、彼女は彼女の生活へ、僕は僕の生活へ戻っていく。
そうした当たり前のことが、今は少しだけ心強かった。
片づけを終えてソファに並んで座ると、彼女は僕の肩に軽く頭を預けた。
「……なんか、不思議」
「何が?」
「好きって言ったら、もっと大変なことになると思ってた」
「大変なこと?」
「うん。気まずくなったり、今までみたいに話せなくなったり。……変に意識しすぎて、何をしていいかわかんなくなるとか」
彼女は自分の指を眺めた。
「でも、こうしてると、いつもとそんなに変わらないんだよね」
「そうだね」
「……もちろん、いつもと同じってわけじゃないけど」
彼女は、僕の肩に頬を寄せ直した。
「……なんか、ちょっと恥ずかしい」
「僕もだよ」
「おじさんも?」
「うん。君が僕を好きだって、ちゃんと聞いたから」
「……っ、そういうことをいちいち言わなくていいの!」
彼女は顔を上げ、僕の腕を軽く叩いた。
けれど、そのあとすぐ、また肩に戻ってきた。
僕たちはしばらく、何も言わずにいた。
窓の外を車が一台通り過ぎていく。遠くの音が消えると、部屋には二人の呼吸だけが残った。
互いの気持ちを言葉にしたあとも、隣にいる彼女は彼女のままだった。そのことが、妙に嬉しかった。
*
時計を見ると、日付が変わるまで、そう時間はなかった。
「あ、もうこんな時間」
彼女がスマートフォンの画面を覗き込んだ。
「おじさん、帰る?」
何気ない問いかけだったが、その声にはほんの少しためらいがあった。
僕は、彼女を見た。
「……君は、どうしてほしい?」
「……っ」
彼女はすぐには答えなかった。
視線をテーブルに落とし、指先でコップの縁をなぞる。
「……あたしは」
言いかけて、口を閉じた。
いつもの彼女なら、冗談のひとつも挟んでいたかもしれない。こちらの反応を楽しむように笑って、素直な言葉を隠してしまったかもしれない。
けれど、今夜は違った。
「……もう少し、一緒にいたい」
ようやく、彼女はそう言った。
「帰っちゃうと、なんか……今日の話が終わっちゃうみたいで。そんなわけないって、わかってるんだけどさ」
「うん」
「……だから、泊まっていけば?」
彼女は僕を見た。
「もちろん、嫌だったらいいけど」
「嫌じゃないよ」
僕は穏やかに答えた。
「僕も、もう少し君と一緒にいたい」
彼女は耳まで赤くなった。
「……だから、そういうのを平然と言うなってば!」
「……ごめん」
「謝るな!」
彼女は深く息を吐いたあと、少しだけ笑った。
「……もう。ほんとに、今日のおじさんはずるい」
僕は、その言葉に笑い返した。
泊まることになったからといって、何かが決まるわけではない。
ただ、彼女が隣にいてほしいと言ってくれた。その願いに、僕も同じ気持ちで応えられた。
今夜は、それだけでよかった。
*
寝る支度を済ませ、部屋の灯りを落とす。
彼女が用意してくれた寝具は、以前にも使わせてもらったものだった。僕は少し離れたところに横になろうとしたが、彼女が布団の端をつまんだ。
「……ねえ」
「うん?」
「……こっち」
彼女は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「……いいの?」
「今さら何言ってんの。帰省先では一緒に寝たじゃん」
「そうだけど……」
「……いやなら、別にいいけど」
最後の一言だけ、声が小さかった。
僕は首を横に振った。
「いやじゃないよ」
彼女の隣に横になると、布団がわずかに沈んだ。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、布団の中で彼女の手が動いた。指先が僕の手に触れる。
僕は、自分からその手を取った。
指を絡めると、彼女は小さく息を吐いた。
「……そっか」
「うん?」
「……おじさんから、手を伸ばしてくれた」
「……約束したからね」
僕が答えると、彼女は握った手に少しだけ力を込めた。
「……うん」
故郷の夜と同じように、彼女は僕の肩に額を寄せた。
けれど、しばらくすると、彼女が小さく口を開いた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「あたしたちってさ……」
彼女はそこで言葉を切った。
僕は、続きを急かさずに待った。
「……あたし、誰かと付き合うって、どういうことなのか、ちゃんとわかってないのかもしれない」
暗闇の中で、彼女の声はいつもより少し幼く聞こえた。
「一緒にご飯を食べて、出かけて、手をつないで。そういうのは、もうしてるじゃん。だから、恋人になったら何が違うのかなって……考えちゃうんだよね」
彼女は苦笑した。
「……今のあたしたちって、けっこう好きなんだよ。おじさんと一緒にいるの、楽しいし。最近は、おじさんのほうからもいろいろ言ってくれるようになったし」
「うん」
「だから、今すぐ名前をつけなきゃいけないのかなって思う自分もいる。でも、何も決めないままなのも、ちょっと怖い」
彼女は顔を上げた。
暗がりの中でも、こちらを見ているのがわかった。
「……あたし、ずるいかな」
「どうして?」
「好きって言ったのに、次に進むのをためらってるから」
僕は、ゆっくり首を横に振った。
「ずるくないよ。気持ちを伝えることと、その先をどうするか決めることは、同じじゃないと思うから」
「……おじさんは、それでいいの?」
彼女の声には、不安が滲んでいた。
「うん。僕は君と一緒にいたい。でも、君がまだわからないことを、急いで決めてほしいとは思わないよ」
彼女は何も言わなかった。
「ただ、迷っているなら、迷っているって教えてほしい。僕も、わからないことは聞くから」
長い沈黙のあと、彼女は僕の手をぎゅっと握った。
「……そういうところ、ほんとにずるい」
「……また?」
「だって、あたしが困ってるときに、逃げ道を塞ぐんじゃなくて、隣にいてくれるんだもん」
彼女は僕の肩に顔を埋めた。
「……好きになっちゃうじゃん」
「……もう好きなんでしょう?」
「……うるさい!」
小さな声で怒鳴ってから、彼女は笑った。
その笑い声には、少しだけ照れが混じっていた。
「……でも、ありがと」
「うん」
「……あたし、ちゃんと考える。おじさんと、どうなりたいのか」
僕は、握った手を離さなかった。
「待つよ。でも、君だけで考えなくていい。僕も一緒に考えたい」
彼女は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「……うん」
それは、恋人になるという約束ではなかった。
けれど、彼女が自分の迷いを僕に隠さずに話してくれたこと。そして、僕もそれを受け止めたいと思っていること。その二つは、暗闇の中でも確かに伝わっていた。
*
やがて、彼女の呼吸がゆっくりと落ち着いていった。
眠ってしまったのかと思い、そっと顔を覗き込むと、彼女は目を閉じたまま僕の手を握っていた。
僕は、その手を離さなかった。
帰省の前と後で、何かが劇的に変わったわけではない。
明日になれば、彼女は彼女の生活へ戻り、僕は僕の仕事へ戻っていく。これまでと同じように連絡を取り、時間が合えば一緒に食事をし、休みの日には出かけるだろう。
ただ、そこにひとつ、確かなものが加わった。
彼女が僕を好きだと言ってくれたこと。僕も彼女が好きだと伝えたこと。
それは、もう取り消すつもりのない事実だった。
恋人という名前をつける日がいつ来るのか、今はまだわからない。
けれど、わからないことを、わからないまま二人で考えていくことはできる。
僕は目を閉じた。
隣にある手の温もりを感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
*
翌朝、窓の向こうは淡い光に満ちていた。
彼女はまだ眠っていた。
僕の手は、昨夜と同じように彼女の手に包まれている。眠っているあいだも、離さずにいてくれたらしい。
起こさないように気をつけながら、その寝顔を見つめた。
いつもは、あんなにも口が達者で、何を言ってもすぐに言い返してくる彼女が、眠っているときだけは、ひどく無防備に見える。
僕が手をそっと握り直すと、彼女が薄く目を開けた。
「……ん……」
「おはよう」
彼女はしばらく僕を見つめていた。
それから昨夜のことを思い出したらしく、ゆっくりと頬を赤くした。
「……お、おはよ」
「よく眠れた?」
「……まあね」
彼女は、つないだ手に目を落とした。
「……まだ、つないでたんだ」
「うん」
「……ふうん」
少しだけ口元を緩める。
「……おじさん、ちゃんと自分から手を伸ばせたじゃん」
「……そうだね」
「そこは自分で褒めなさいよ」
「じゃあ、よくできました、かな」
「……なにそれ」
彼女は笑った。
僕も笑った。
昨夜の話に、すぐに答えが出たわけではない。けれど、彼女はもう自分の迷いを隠してはいなかったし、僕もまた、彼女の言葉を待つだけではなく、自分の望みを伝えていこうと思っていた。
そのことを、今朝は改めて口にする必要もなかった。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「今日、朝ご飯、何食べたい?」
唐突な問いに、僕は少し目を瞬かせた。
「……朝ご飯?」
「そう。昨日、あんなに料理したんだから、朝は簡単なものにしようと思って。卵くらいなら焼けるし」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
「……あたしが作るって言ったでしょ」
「うん。楽しみにしてるよ」
「……失敗しても笑わないでよね」
「笑わないよ」
「……ほんと?」
「うん。君が作ってくれたものなら、ちゃんと嬉しいから」
「……っ、もう! 朝からそういうこと言わない!」
彼女は布団の中で僕の腕を軽く叩いた。
その声は、いつもの彼女のものだった。
僕たちは、まだ恋人ではない。
けれど、互いの気持ちを知らないふりをすることも、もうできない。
朝食のあと、僕は自分の家へ帰るだろう。彼女は彼女の一日を始め、僕は僕の仕事へ戻っていく。
その日常は、きっとこれまでと大きくは変わらない。
ただ、これからは少しずつ、二人で選ぶことが増えていくのだと思う。
食べるもの。行く場所。休みの日の過ごし方。そして、互いにどんな関係でありたいのか。
答えを急ぐ必要はない。
けれど、僕はただ待っているだけではなく、自分の望みも少しずつ伝えていきたいと思った。
彼女が、自分の気持ちを選び取ろうとするとき。その隣で、僕もまた、自分の気持ちをきちんと選べるように。
窓の外では、街がいつもの朝を迎えようとしていた。
彼女は僕の手をもう一度握った。
「……ねえ」
「うん?」
「今日も、ちゃんと連絡すること」
「わかった」
「ご飯もちゃんと食べること。帰省のお土産も、まだ残ってるんだから」
「うん」
「……あと、次の休みの予定、ちゃんと空けておいてよね」
「もちろん」
彼女は少しだけ目を細めた。
「……よろしい」
そして、照れ隠しのように僕の手を軽く振った。
僕はその横顔を見て笑った。
彼女の知らない彼女を、これからも知っていくために。
彼女に、僕の知らない僕を、少しずつ伝えていくために。
恋人になる日がいつ来るのか、今はまだわからない。
けれど、互いに好きだと知ったことは、何も決められなかった昨日までとは違う。
食卓には、まだ何も並んでいない。
それでも、二人で選ぶ明日の食卓は、きっとこれから少しずつ形になっていく。
そのことを、僕は静かに信じていた。
両思い。恋人未満。それでもいい、いつか、彼女の不安を除けるのなら。