人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
金曜日の夜、午後八時十七分。
三十三歳の男は、炊きたての飯を茶碗によそいながら、スマートフォンの画面を三度見た。
彼女からのメッセージだった。
――明日、何時に起きるの?
少し間を置いて、もう一通。
――まさか昼まで寝るつもりじゃないでしょうね、このよわよわおじさん♡
彼は笑った。
以前なら、休日の予定を尋ねられても、曖昧に返事をしていたかもしれない。何も予定がないことを恥じる必要などないのに、何もない自分を知られるのが、なぜか気恥ずかしかった。
今は、そういうことを隠さずにいられる相手がいる。
――九時くらいには起きるつもりだよ。特に予定はないけど。
送信すると、すぐに既読がついた。
――よろしい。
――じゃあ、明日はあたしにちょうだい。
彼は茶碗を持ったまま、動きを止めた。
さらに一通。
――一日。おじさんの次の休み。
――あたしが使います。
そして、少し間が空いた。
――……嫌なら別にいいけど。
最後の一文だけ、先ほどまでの勢いを失っていた。
彼は口元を緩めた。
彼女は、いつもそうだった。相手を引っ張っていくときには大胆なくせに、本当に相手の気持ちが必要なところでは、ほんの少しだけ慎重になる。
その小さなためらいを、今度こそ見落としたくなかった。
――嫌じゃないよ。嬉しい。
――明日は一日、君と過ごしたい。
そこで指を止め、彼はもう一度考えた。
――でも、君が何をしたいのかは教えてほしいな。一緒に決めたいから。
既読。
三十秒ほどして、ようやく返事が届いた。
――……そういうとこだぞ。
――好き。
――じゃなくて!
――明日、迎えに来て。十時。寝坊したら罰金だからね♡
彼は、とうとう声を立てて笑った。
台所の片隅では、炊飯器の保温ランプが静かに光っている。
明日は、彼女が自分のために選んだ一日になるらしい。
そう思うだけで、いつもの夕食が、少しだけ特別なものになった。
*
翌朝、彼は九時二十分に家を出た。
薄いブルーのシャツに、落ち着いた色のチノパン。父から譲り受けた銀色のセダンは、前日のうちに軽く洗ってある。助手席には、冷たい水と小さなタオルを用意した。
誰かと出かける前に、こんなふうに細かなことを考えるようになった自分がおかしくて、彼はひとり苦笑した。
以前の自分にとって、外出の準備とは、失敗を避けるための作業だった。相手に不快な思いをさせないように。迷惑をかけないように。余計な手間を取らせないように。
楽しみという感情は、いつだってそうした心配の後ろに隠れていた。
今朝は違う。
彼女に会いたい。
彼女と過ごす一日を、心から楽しみにしている。
その気持ちが、ひとつひとつの準備を自然なものにしていた。
十時ちょうどに彼女の家へ着くと、ほどなく玄関の扉が開いた。
「……お待たせ」
淡いクリーム色のブラウスに、膝下までのスカート。髪もいつもより丁寧に整えられ、小さな鞄を肩に掛けている。
いつもの彼女より、ほんの少し大人びて見えた。
彼は思わず見とれた。
「……どうしたの?」
「いや。今日の服、よく似合ってるなと思って」
彼女の足が止まった。
「……あんたさあ」
「うん?」
「そういうの、玄関出て三秒で言う?」
「……変だったかな」
「変じゃないから困ってんの!」
彼女は真っ赤になり、鞄で彼の腕を軽く叩いた。
「……ほんっと、最近のおじさん、油断ならないんですけど」
「ごめん」
「だから謝るなってば!」
彼女は逃げるように車へ向かった。背中が、いつもより少しだけ速い。
彼が運転席へ回ろうとすると、彼女は助手席側で立ち止まった。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、あたしが行きたいところに連れてってくれるんだよね?」
「もちろん」
「途中で、どこに行くのか聞いたりしない?」
「聞いてもいいけど、君が秘密にしたいなら聞かないよ」
彼女は、彼の顔をじっと見つめた。
「……ほんと、変わったね」
「そうかな」
「うん。前だったら、あたしに気を遣って『どこでもいいよ』とか言ってたじゃん」
「……ああ」
「でも今は、ちゃんと聞いてくれる。あたしが決めることも、おじさんが決めることも、どっちも大事にしようとしてる」
彼女は、少しだけ笑った。
「……そういうところ、好きだよ」
今度は彼が言葉を失った。
彼女はすぐに顔を背ける。
「……はい、乗る! いつまでも玄関先で見つめ合ってたら、ご近所さんに変な誤解されるでしょ!」
「……うん」
「あと、今のは聞かなかったことにしないでよね」
「しないよ」
「……よろしい」
彼女は助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締める音が、小さな住宅街に響いた。
*
車を走らせること四十分。
市街地を抜け、郊外の植物園へ着くころには、朝の光がすっかり明るくなっていた。
彼女は入園口の手前で、少しだけ歩みを緩めた。
「ここ、前から来てみたかったんだよね」
園内には、季節の花々を植えた花壇が広がり、その奥には木立に囲まれた小径が続いていた。温室のガラス屋根が陽光を受けて輝き、風に揺れる葉の隙間から、鳥の声が聞こえてくる。
人の姿はちらほらとあるものの、騒がしさはなかった。
「写真で見て、いいなって思ってたの。こういうところで、ぼーっとしたかったんだよね」
彼女は、少し恥ずかしそうに笑った。
「……おじさんと」
彼は、その最後の言葉を聞き逃さなかった。
「……そっか」
「なによ、その顔」
「嬉しいなと思って」
「……もう、ほんっとに!」
彼女は彼の袖を引いた。
「ほら、行くよ。せっかく来たんだから!」
二人は、花壇の間をゆっくり歩いた。
赤や白の花弁が陽を透かし、葉の上には朝露が残っている。風が吹くと、枝葉が触れ合い、細かな雨音にも似た音を立てた。
彼女は、気になる花を見つけるたびに足を止めた。
「あ、これかわいい」
「本当だ」
「……おじさん、花の名前とか知ってる?」
「いや、あまり詳しくないな」
「ふうん。じゃあ、今度一緒に覚えよっか」
「うん。いいね」
彼女は、少し驚いたようにこちらを見た。
「……今度、って言ったね?」
「言ったよ」
「……また来るつもりなの?」
「君が来たいなら」
「……そっか」
彼女は嬉しそうに笑った。
しばらく歩いたあと、木陰のベンチで休むことにした。彼女は鞄を膝に載せ、風に揺れる木々を見上げた。
「……あたしね。こういうところ、ひとりで来るのも嫌いじゃないんだよ」
彼は、彼女の横顔を見た。
「本を持ってきて、好きなところに座って、気が向いたら散歩して。誰にも気を遣わずに、好きなだけぼーっとするの」
「うん」
「誰かと一緒にいるのは好き。でも、ずっと誰かに合わせていたら、たぶん疲れちゃう。だから、ひとりの時間もちゃんと欲しい」
彼はうなずいた。
「それは、大事なことだと思うよ」
「……うん」
「君がひとりで過ごしたいときは、そうしてほしい。僕と出かけたくない日があっても、気にしなくていいから」
彼女は、彼のほうを向いた。
「……おじさん」
「うん?」
「……そういうの、ちゃんと言えるようになったんだね」
彼は少し考えた。
「君が教えてくれたからかな。誰かを大切にすることと、その人の時間を全部もらうことは、違うんだって」
彼女は、ゆっくりと笑った。
「……うん。そうだよ」
それから、彼の手を取った。
「……でも、今日はあたしが予約した一日だから。ひとりの時間は、また今度ね♡」
「……はい」
「よろしい」
彼女は、絡めた指を軽く揺らした。
彼は、その温もりを感じながら、彼女の隣に座っていた。
何かを話さなければならないわけではない。楽しませなければならないわけでもない。
ただ、同じ景色を眺めている。
それだけのことが、こんなにも心地よいのだと、彼は最近になって知った。
*
昼食は、植物園から少し離れた商店街で取ることになった。
古いアーケードには、惣菜屋や和菓子屋、昔ながらの喫茶店が並んでいた。彼女はその一角にある小さな洋食屋へ、迷いなく入っていった。
窓際の二人掛けのテーブル。少し色褪せたメニュー。店内には、デミグラスソースと揚げ物の香ばしい匂いが漂っている。
「ここ、前から気になってたんだよね」
彼女はメニューを開いた。
「……おじさん、何食べる?」
「そうだな……」
ハンバーグ、オムライス、ポークソテー、カニクリームコロッケ。
どれも魅力的だった。
以前の彼なら、相手が何を頼むかを見てから決めていたかもしれない。相手と同じものにするか、相手より安いものにするか。そんなことを、無意識のうちに考えていた。
しかし、今は食べたいものがあった。
「……僕は、ポークソテーにしようかな」
彼女が顔を上げた。
「おっ」
「……何?」
「自分で決めたじゃん。えらいえらい♡」
「……もう、からかわないでよ」
「からかってないって。ちゃんと褒めてんの」
彼女は楽しそうに笑った。
「あたしはオムライス。昔ながらのケチャップのやつが食べたかったんだよね」
注文を済ませると、彼女は水を一口飲んだ。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「あたしが何を食べたいって言ったかとか、何が好きだって言ったかとか、覚えてる?」
彼は少し考えた。
「……全部は、まだ覚えられてないと思う。でも、覚えたいと思ってるよ」
「……そっか」
彼女は、テーブルの上で指を組んだ。
「好きな食べ物とか、嫌いなものとか。疲れてるときにどうしてほしいかとか。ひとりにしてほしいときとか、そばにいてほしいときとか」
少しだけ、頬が赤くなる。
「……そういうの、ちゃんと知っていてほしい」
彼は、まっすぐに彼女を見た。
「うん。覚えていきたい。でも、わからないときは聞くよ。勝手に決めつけないようにしたいから」
彼女は驚いたあと、柔らかく笑った。
「……そうしてね」
やがて料理が運ばれてきた。
彼のポークソテーは、厚みのある豚肉に香ばしい焼き色がつき、醤油とバターを思わせるソースが艶やかに絡んでいた。添えられた千切りキャベツからは、瑞々しい匂いが立っている。
彼女のオムライスは、薄焼き卵に包まれたチキンライスに、鮮やかな赤いケチャップがかかっていた。
「いただきます」
二人は、ほとんど同時に言った。
ポークソテーを切り分けると、肉汁が皿にゆっくりと広がった。口に運べば、豚肉の甘い脂とソースの香ばしさが重なる。白いご飯を一口含むと、ソースの塩気がさらに引き立った。
「……おいしいな」
「でしょ?」
彼女は得意そうに笑った。
「こういうの、好きなんだよね。ちゃんとおいしくて、気取ってなくて、また食べたくなるやつ」
「うん。わかる気がする」
「……おじさん、前に行った高級フレンチも好きだったでしょ?」
「うん。あれも、とてもおいしかった」
「でも、こういうのも好きなんでしょ?」
「もちろん。おいしいものは、いろいろあるからね」
彼女は、その言葉を聞いて目を細めた。
「……そういうところ、いいな」
「え?」
「前のおじさんだったら、どっちかを選ばなきゃいけないみたいな顔をしてた気がするから」
彼は、手を止めた。
確かに、そうだったかもしれない。
上等なものを食べるなら、それにふさわしい人間でなければならない。休日を楽しむなら、仕事で成果を上げていなければならない。誰かと一緒にいたいなら、相手にとって役に立つ人間でなければならない。
何かを楽しむたびに、その資格を自分に問い続けていた。
今は、少しずつ違う。
好きなものを好きだと言ってもいい。異なるものを、どちらも好きだと思ってもいい。
目の前のポークソテーが、今の自分にとって十分に幸せな食事であることを、誰に説明する必要もない。
「……君のおかげだね」
「……うん?」
「自分が何を好きなのか、少しずつわかるようになった」
彼女はスプーンを持ったまま固まった。
「……っ、もう、ほんとに!」
「……何か変だった?」
「変じゃない! 変じゃないから困ってんの!」
彼女は、照れ隠しのようにオムライスを口へ運んだ。
「……おいしい!」
「うん」
「……すっごくおいしい!」
「よかったね」
「……うるさい! 今、ちょっと照れてるんだから、そっとしといてよ!」
彼は笑った。
彼女も、結局笑った。
食卓には、温かな料理の湯気と、彼女の笑い声が満ちていた。
*
食後、彼女が向かったのは、商店街の奥にある小さな書店だった。
「……ここも、来たかったところ」
新刊の小説から古い文庫本まで、店内には本がぎっしりと並んでいた。店主らしい年配の男性が、レジの向こうで新聞を読んでいる。
彼女は迷わず文芸書の棚へ向かった。
彼は、その後ろをゆっくり歩いた。
彼女が本を選ぶ姿を、彼は初めて見る。
普段の彼女は、会話の中心にいることが多かった。思いついたことを口にし、相手の反応を見て、笑ったり怒ったりする。けれど、本の前に立つ彼女は、少し違っていた。
背表紙をひとつずつ目で追い、気になった本を手に取っては裏表紙を確かめる。ページをめくったまま、しばらく動かなくなることもあった。
そこには、普段の彼女が人に見せるものとは別の、静かな集中があった。
「……何読んでるの?」
尋ねると、彼女は本を閉じた。
「小説。これは前に読んだことがあるんだけど、好きなんだよね」
「どんなところが?」
彼女は少し考えた。
「……うまく言えないけど。登場人物が、言いたいことをちゃんと言えないところ」
「言えないところ?」
「うん。相手のことが大事だから、言えない。傷つけたくないから黙っちゃう。でも、黙ってるせいで、余計にすれ違っちゃう」
彼女は、本の表紙を指でなぞった。
「……そういうの、読んでるともどかしいんだよね。なんで言わないの、言えばいいじゃんって。でも、いざ自分のことになると、言えなかったりするんだよね」
少しだけ笑った。
「……あたしも、そういうところあるから」
彼は黙って聞いていた。
「だから、こういう話が好きなのかも。最後にちゃんと気持ちを伝えられると、よかったねって思うし。伝えられなくても、それでも相手のことを考えてたんだなってわかると、ちょっと切なくなる」
彼女は、いつも言葉を操るのが上手だった。
人をからかい、場の空気を変え、相手の言葉を受けて、すぐに返す。
しかし、本当に伝えたいことまで、いつも簡単に言葉になるわけではないのだろう。言葉が上手だからこそ、言わなくてもいいことを口にして、本当に言いたいことを隠してしまうこともあるのかもしれない。
「……君のこと、少しわかった気がする」
彼が言うと、彼女は目を丸くした。
「……え?」
「君が、どうして言葉を大切にするのか」
彼女は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「……そっか」
彼女は、その本を胸に抱いた。
「……じゃあ、これ、買おうかな」
「うん」
「……おじさんも、何か選んだら?」
「僕も?」
「そう。せっかく一緒に来たんだから」
彼は棚を見渡した。
昔から、本を読むことは嫌いではなかった。けれど、忙しさを理由に、長いこと読書から遠ざかっていた。
迷っていると、彼女が一冊の文庫本を差し出した。
「……これ、どう?」
「どんな本?」
「人が、自分の生き方を考える話。ちょっと難しいところもあるけど、おじさんなら好きかもしれない」
「……君が読んだ本?」
「うん。あたしの好きな本のひとつ」
彼は、その本を受け取った。
「……じゃあ、これにする」
「……いいの?」
「うん。君の好きなものを、僕も知りたいから」
彼女は、また赤くなった。
「……ほんっと、今日は何なのよ……」
それでも、彼女は嬉しそうだった。
二人は本を買い、店を出た。
彼女の鞄には、彼女が選んだ小説が入った。彼の手には、彼女が勧めてくれた文庫本がある。
それだけのことが、彼には妙に嬉しかった。
彼女の好きなものを、ただ知識として覚えるのではなく、その世界を少しだけ一緒に歩いてみたい。
読み終えたら、どこが好きだったのか尋ねよう。自分がどう感じたのかも伝えよう。
彼女の知らない自分を、少しずつ見せていけたらいい。
*
午後三時を過ぎたころ、二人は植物園の近くにある小さなカフェへ入った。
木製のテーブルと大きな窓。店内には、コーヒー豆を挽く香ばしい匂いが漂っている。
彼女はメニューを開き、しばらく悩んだ。
「……どうしよう。プリンも食べたいし、チーズケーキも食べたい」
「両方頼んでもいいんじゃないかな」
「……おじさん、最近あたしを甘やかしすぎじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ。前だったら、そんなこと言わなかったじゃん」
「君が両方食べたいなら、そうすればいいと思うよ。食べきれなかったら、手伝うし」
彼女は、じっと彼を見た。
「……じゃあ、プリンにする」
「チーズケーキは?」
「……おじさんが食べて」
「僕が?」
「うん。あたしが食べたいものを選んだんだから、おじさんも自分の食べたいものを選びなさいよ」
彼は思わず笑った。
「……なるほど。そういうことか」
「そういうことです」
彼はチーズケーキとコーヒーを、彼女はプリンとミルクティーを注文した。
運ばれてきたプリンは、深い琥珀色のカラメルをまとい、表面がつやつやと光っていた。スプーンを入れると、柔らかな弾力のあとに、卵の濃い香りが広がる。
彼女は一口食べ、幸せそうに目を細めた。
「……んー。これ、好き」
「よかったね」
「うん。……おじさん、ひと口食べる?」
「いいの?」
「いいよ。あたしが好きなものだから、食べてみてほしい」
彼女はスプーンでプリンを少しすくい、彼のほうへ差し出した。
彼は、それを口にした。
卵の風味が濃く、カラメルの苦みが甘さを引き締めている。素朴だが、丁寧に作られた味だった。
「……おいしいね」
「でしょ?」
「うん。君が好きなのもわかる気がする」
彼女は満足そうに笑った。
「……じゃあ、チーズケーキもちょうだい」
彼は皿を彼女のほうへ寄せた。
彼女は一口食べ、目を丸くした。
「……あ、これもおいしい」
「うん」
「……ずるい。おじさんだけ、こんなおいしいもの食べて」
「……君も食べてるじゃないか」
「そうだけど!」
二人は笑った。
しばらくして、彼女はミルクティーのカップを両手で包んだ。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、楽しい?」
彼は少し驚いた。
「……もちろん。すごく楽しいよ」
「……ほんと?」
「うん」
彼は窓の外に目を向けた。午後の光が、木々の葉を透かしている。
「君が行きたい場所に来て、君の好きなものを知って、一緒にご飯を食べて。とても楽しいよ」
彼女は、カップを持ったままうつむいた。
「……そっか」
「うん」
「……よかった」
その声は、いつもの彼女よりも小さかった。
彼は、少しだけ身を乗り出した。
「……何か心配だった?」
彼女は考えてから、うなずいた。
「……ちょっとだけ。おじさん、前の仕事ですごく疲れてたでしょ。辞めてからも、いろいろ大変だったし。新しい仕事を始めてからも、頑張ってるし」
彼女は、カップの中のミルクティーを見つめた。
「……だから、あたしと出かけるのが負担になってないかなって思ったの」
彼は黙って聞いていた。
「楽しいって言ってくれるのは嬉しい。でも、あたしが誘ったから、断れなくて付き合ってるだけだったら嫌だなって」
彼女は苦笑した。
「……あたし、そういうの、ちゃんと聞くの苦手なんだよね。聞いて、もし嫌だって言われたら、ちょっと傷つくから」
「……うん」
「だから、つい、からかってごまかしちゃう。『あたしが使います』とか言って、勝手に決めたみたいにして。でも、本当は……」
彼女は、彼を見た。
「……おじさんにも、来たいって思ってほしいんだよ」
彼は、ゆっくりとうなずいた。
「……来たいと思ってるよ」
彼女の目が、わずかに揺れた。
「君に誘われるのは嬉しい。君が行きたい場所に、一緒に行きたい。でも、僕が疲れているときは、ちゃんとそう言うよ。君に無理をさせないためじゃなくて、僕自身のために」
「……うん」
「それで、君が疲れているときも、そう言ってほしい。僕が誘ったからって、無理に付き合わなくていい」
彼女は少しだけ笑った。
「……うん。わかった」
彼は、彼女の目を見た。
「……だから、今日は僕が自分から言うよ。また、君と出かけたい」
彼女は、黙って彼を見つめた。
「次の休みも、その次の休みも。もちろん、君がひとりで過ごしたい日は、そうしてほしいけど」
「…………」
「……どうしたの?」
「……いや」
彼女は顔を覆った。
「……ほんと、今日は、あたしのほうが負けてばっかり……」
「……勝ち負けなの?」
「勝ち負けです!」
彼女は顔を上げた。
目元は少し潤んでいたが、笑っていた。
「……うん。あたしも、また出かけたい」
彼女は手を伸ばし、テーブルの上で彼の指に触れた。
「……次も、その次も。おじさんが嫌じゃなければ」
「嫌なわけないよ」
「……そっか」
彼女は、彼の指をそっと握った。
「……じゃあ、これからも、いっぱい誘うからね」
「うん。楽しみにしてる」
「……よろしい」
いつものように偉そうに頷く彼女の手は、しばらく彼の指を離さなかった。
*
夕方、二人は駐車場へ戻った。
帰り道の空は淡い橙色に染まり、街路樹の影が長く伸びていた。車窓を流れていく景色を眺めながら、彼女は買ったばかりの文庫本を鞄から取り出した。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「これ、読み終わったら、感想聞かせてね」
「もちろん」
「……あたし、好きな本の話をするの、けっこう好きなんだよね。同じところが好きでもいいし、全然違うところが好きでもいい。自分が気づかなかったことを教えてもらえるのって、面白いから」
彼女は、本の表紙を眺めた。
「……人も、そうなのかもしれないね」
「……人?」
「うん。自分が思ってる自分と、誰かが見てる自分って、違うことがあるじゃん。自分では嫌なところだと思ってても、誰かはそこを好きだって言ってくれるかもしれないし」
彼女は少し笑った。
「……だから、話すのって大事なんだろうね。自分のことを知ってもらうのも、相手のことを知るのも」
「……そうだね」
「……あたし、おじさんと話してると、自分でも知らなかったことが出てくるんだよ」
彼は、彼女の横顔を見た。
「……そうなの?」
「うん。今日だって、ひとりの時間が好きだとか、誰かに嫌だって言われるのが怖いとか。前からわかってたつもりだったけど、ちゃんと言葉にしたのは初めてだったかも」
彼女は、照れくさそうに笑った。
「……おじさんが、ちゃんと聞いてくれるからかな」
彼はハンドルを握りながら、静かに答えた。
「……僕も、君と話していると、自分のことが少しずつわかるよ」
「……そっか」
「君に何かを話すと、自分が本当は何を思っていたのか、わかることがあるんだ」
「……うん」
「だから、これからも話そう。くだらないことも、大事なことも」
彼女は少しだけ彼のほうへ身体を向けた。
「……うん。約束ね」
「約束する」
信号が赤に変わった。
車が静かに停止する。
彼女はそっと手を伸ばし、彼の左手に触れた。彼はその手を握り返す。
青信号に変わるまでの、ほんの短い時間。
二人は、何も言わずに手をつないでいた。
*
彼女を家まで送り届けたころには、空はすっかり暗くなっていた。
車を停めても、彼女はすぐには降りなかった。鞄を膝に抱え、窓の外を眺めている。
「……今日は、ありがとう」
彼が言うと、彼女は振り返った。
「……なによ。あたしが誘ったんだから、あたしがお礼を言われるのは変でしょ」
「そうかな」
「そうです」
彼女は少し笑った。
「……でも、あたしも、ありがとう」
「……うん?」
「……楽しかったから」
彼は微笑んだ。
「僕も、楽しかったよ」
「……うん」
彼女は鞄を膝の上に置き直した。
「……ねえ、おじさん。今日、あたしが行きたいところに連れてってくれたでしょ」
「うん」
「あれ、すごく嬉しかった。行きたいところに連れてってくれたことも嬉しかったけど……あたしが何をしたいのか、ちゃんと聞いてくれたことが、もっと嬉しかった」
彼は静かに聞いていた。
「……あたしね。誰かと一緒にいると、つい、相手がどう思うかを考えちゃうんだよね。自分が何をしたいかより、相手が楽しいかどうかとか、嫌じゃないかとか。それで相手が楽しそうだと安心するし、そうじゃないと、なんとかしなきゃって思っちゃう」
「……うん」
「でも、今日のおじさんは、自分が楽しいって、ちゃんと言ってくれたでしょ」
「うん」
「……それが、嬉しかったんだよ」
彼は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……僕も、君が楽しいって言ってくれると嬉しいよ。でも、僕が楽しいかどうかも、ちゃんと伝えていきたい」
「……うん」
「君に、僕の気持ちを考えさせるだけじゃなくて、僕からも伝えるようにするよ」
彼女は、ゆっくりとうなずいた。
「……よろしい」
それから、少しだけ身を乗り出した。
「……じゃあ、もうひとつ、お願いしてもいい?」
「もちろん」
「……手、貸して」
彼は左手を差し出した。
彼女はその手を取り、指を絡めた。
しばらく、二人はそのまま手をつないでいた。
やがて彼女は、絡めた指を見つめたまま、小さく言った。
「……あたしね。今日、一日一緒にいて、もっと一緒にいたいって思っちゃった」
彼は、彼女を見た。
「……うん」
「植物園も、商店街も、カフェも、楽しかった。おじさんが本を選んでくれたのも、あたしの好きなものを食べてくれたのも、嬉しかった」
「うん」
「……でも、帰る時間になったら、ちょっと寂しくなった」
彼女は頬を赤くした。
「……これって、けっこう、わがままかな」
彼は、ゆっくりと首を横に振った。
「……僕も、同じだよ」
彼女は顔を上げた。
「……え?」
「楽しかったから、もう少し一緒にいたいと思った。君と別れるのが、少し寂しいとも思った」
彼女の目が、大きく開いた。
「……ほんと?」
「うん」
「……そっか」
彼女はうつむき、それから笑った。
「……じゃあ、次は、もっと長く一緒にいようね」
「うん」
「……朝から晩まで」
「うん」
「……その次は、お泊まりとかも……」
彼女は言いかけて、固まった。
彼も、固まった。
車内に沈黙が落ちる。
彼女はみるみる赤くなった。
「……っ、ち、違う! いや、違わないけど! そういう意味だけじゃなくて! 旅行とか、温泉とか、そういうのもあるじゃん!」
「……うん」
「……だから、変なこと考えないでよ!」
「変なことは考えてないよ」
「……ほんと?」
「うん。ただ……」
彼は、少しだけ笑った。
「君と旅行に行けたら、嬉しいなと思った」
彼女は、とうとう両手で顔を覆った。
「……もう、ほんっと、ほんっとに……!」
彼は笑いをこらえながら、彼女の手を握った。
「……また、一緒に行こう」
彼女は顔を覆ったまま、こくりとうなずいた。
「……うん」
「君が行きたいところを教えて。僕も、行きたいところを考えておくから。二人で決めよう」
彼女はようやく顔を上げた。
目元は赤かったが、表情は晴れやかだった。
「……約束だからね」
「約束する」
彼女は、彼の手を最後にもう一度きゅっと握り、それからようやく離した。
「……じゃあ、今日はここまで!」
「うん」
「……帰ったら連絡して。あと、ご飯もちゃんと食べること!」
「もう食べたよ」
「明日の分も!」
「……はい」
「よろしい」
彼女は車から降りた。
扉を閉める前に、もう一度こちらを振り返る。
「……おじさん」
「うん?」
「……今日、かっこよかったよ」
彼は目を見開いた。
彼女は、すぐに扉を閉めた。
窓越しに、彼女が真っ赤な顔をしているのが見えた。そして、彼が何かを言う前に、小走りで家へ入っていった。
彼は、しばらく動けなかった。
やがて、スマートフォンが震えた。
――今のは忘れないこと!
――……ばか♡
彼は笑った。
それから、ゆっくりと車を発進させた。
*
帰宅すると、彼は手を洗い、台所へ向かった。
夕食は、帰省先から持ち帰ったおひたしと、冷蔵庫に残っていた鶏肉で作る簡単な炒め物にした。フライパンに油を引き、鶏肉を焼く。醤油とみりんを少し加え、最後に黒胡椒を振る。
香ばしい匂いが台所に広がった。
彼は、食卓に料理を並べた。
ひとり分の食事。
以前は、ひとりで食べることが、どこか寂しかった。誰かと食べるわけでもないのに、わざわざ食事を整えるのが、無駄なことのように思えていた。
今は違う。
今日、彼女と食べたポークソテーの味を思い出す。プリンを口にしたときの彼女の笑顔。本を選ぶときの真剣な横顔。そして、帰り際に指を絡めてくれた、その手の温もり。
彼は箸を持った。
「いただきます」
声に出して言う。
料理は、ちゃんとおいしかった。
食後、彼は買ったばかりの文庫本を開いた。
彼女が好きだと言っていた本。
ページをめくりながら、彼女ならこの場面をどう読むだろう、と考える。自分とは違うところに目を留めるかもしれない。同じところに心を動かされるかもしれない。
どちらでもいい。
読み終えたら、彼女に話そう。そして、彼女の感想も聞こう。
次に会う理由がひとつ増えたことが、彼には嬉しかった。
スマートフォンが震えた。
――今日はありがと!
――あたし、すっごく楽しかった。
――また、あたしに休みちょうだいね♡
彼は少し考えてから返信した。
――こちらこそ、ありがとう。
――次の休みも、君と過ごしたいよ。
――でも、その次は僕から誘ってもいいかな。
送信すると、すぐに既読がついた。
返事は、なかなか来なかった。
一分。
二分。
三分。
彼は文庫本を閉じ、スマートフォンをもう一度見た。
ようやく届いた返信は、短かった。
――…………。
――いいに決まってるじゃん。
――……楽しみにしてるから。
彼は笑った。
これまでの自分は、誰かに誘われるのを待っていた。
自分から誘って、断られたらどうしよう。相手の都合を悪くしたらどうしよう。そんなことを考えて、何も言わずにいるほうが安全だと思っていた。
けれど、今日、彼女と過ごしてわかったことがある。
誘うことは、相手を縛ることではない。
誘われることも、相手に従うことではない。
行きたいと思ったら、そう伝えればいい。相手も行きたいと思ってくれたなら、一緒に行けばいい。そして、どちらかがひとりでいたいときには、その気持ちを尊重すればいい。
彼女が自分の時間を差し出してくれたように、今度は自分から、彼女に時間を差し出そう。
彼女が好きなものを知りたい。
彼女が行きたい場所へ、一緒に行きたい。
彼女が笑うところを、もっと見たい。
そして、彼女にも、自分と一緒にいることを楽しんでほしい。
その願いは、もう感謝の言葉だけでは足りなかった。
彼は、文庫本を再び開いた。
窓の外では、夜の街が静かに光っている。
明日になれば、またいつもの日常が始まる。
仕事をして、食事をして、眠る。その繰り返しのなかで、彼はきっと、また疲れるだろう。うまくいかないこともあるだろう。自分の気持ちをうまく伝えられず、黙り込んでしまう日もあるかもしれない。
彼女だって、いつも素直でいられるわけではない。からかってごまかすこともあるだろうし、本当は寂しいのに、平気な顔をしてしまうこともあるだろう。
けれど、二人には今日という一日ができた。
植物園の木陰。
商店街の洋食屋。
書店で選んだ一冊の本。
午後のカフェで交わした言葉。
帰り際に絡めた指。
そして、次の休みを約束したこと。
それらは、二人が一緒に過ごした時間として、確かに残っている。
彼はページをめくった。
彼女が好きな物語を、これから少しずつ読んでいく。
彼女が好きな食べ物を、これから少しずつ覚えていく。
彼女が何を望み、何を恐れ、何を大切にしているのか、これから少しずつ知っていく。
そして、自分のことも、少しずつ伝えていく。
誰かと一緒にいることは、相手のすべてを知ることではない。
知らないことがあるからこそ、尋ねることができる。
まだ知らない明日があるからこそ、誘うことができる。
彼はスマートフォンを手に取り、もう一度だけメッセージを送った。
――次は、僕が君を誘うね。
返事は、すぐに届いた。
――うん。
――……待ってる。
彼は、その短い言葉を何度も読み返した。
誰かに待っていてもらえること。
誰かを待ちたいと思うこと。
それは、彼が長いこと忘れていた、未来の感触だった。
彼は静かに本を閉じた。
次の休みには、彼女をどこへ誘おう。
彼女がまだ行ったことのない場所がいいだろうか。それとも、彼が好きな場所へ連れていこうか。彼女の好きなものを知るために、もう一度あの商店街を歩くのもいい。
考えるだけで、胸が弾んだ。
次の休みは、彼女にあげるだけのものではない。
彼女と一緒に、二人で作っていくものなのだ。
彼は、明日の朝食のために米を研ぎ始めた。
水の中で、白い米粒が静かに擦れ合う。
その音を聞きながら、彼は思った。
次は、自分から手を伸ばそう。
次は、自分から誘おう。
次は、彼女の知らない自分を、ひとつ見せよう。
そして、彼女の知らない彼女を、またひとつ教えてもらおう。
そうやって、二人の時間を増やしていこう。
誰かのために、自分を犠牲にするのではなく。
自分のために、誰かを置き去りにするのでもなく。
二人がそれぞれの人生を歩きながら、ときどき同じ道を選び、同じ景色を見て、同じ食卓につけるように。
彼は、研ぎ終えた米を炊飯器に移した。
明日の朝も、ちゃんと食べよう。
そして、次の休みを楽しみにしよう。
彼女が自分の休みを欲しがってくれたように。
今度は、自分が彼女の時間を欲しいと思ったことを、きちんと言葉にして。
彼は炊飯器の蓋を閉めた。
小さな音がして、台所が静かになった。
次の休みまで、あと一週間。
彼は、もうその一週間を、ただ耐えるだけの日々だとは思わなかった。
……おじさんと、もっと一緒にいたい……あたし、欲張りになっちゃった。