人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで   作:メスガキに勝てない

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祝福


第二十四話

 秋という季節は、何かを終わらせるためにあるのだろうか。それとも、終わりに似た静けさのなかで、ようやく始まるものを見つけるためにあるのだろうか。

 

 三十四歳になった男は、近頃、そんなことを考えるようになった。

 

 もっとも、勤務中に人生の意味を考えているのは、あまり褒められたものではない。机の上には片づけるべき書類があり、午後には会議も控えている。それでも、机の隅に置いたスマートフォンへ、つい視線が向いてしまう。

 

 画面には、昨夜届いたメッセージが残っていた。

 

『明日、寝坊したら置いてくからね。よわよわおじさん♡』

 

『寝坊しないよ。楽しみにしてる』

 

『ふーん。あたしと出かけるの、そんなに楽しみなんだ?』

 

『うん。楽しみだよ』

 

『……そういうところ、ほんとずるいんだけど』

 

 男は最後の一文を読み返し、頬の内側がわずかに熱くなるのを感じた。

 

 翌日は、二人で温泉旅行に出かけることになっていた。

 

 彼女と温泉へ行くのは、これが二度目だった。

 

 前の旅では、列車に揺られて温泉地へ向かった。窓の外を流れていく景色を眺めながら、隣に座る彼女の横顔を盗み見ては、気づかれないように目を戻した。何気ない会話ひとつにも妙な緊張があり、手を伸ばすにも、言葉を選ぶにも、どこか遠慮があった。

 

 今度は、自分の車で迎えに行く。

 

 それだけの違いなのに、前の旅よりも少しだけ、二人のあいだに流れる時間が自分たちのものになったような気がしていた。

 

 もちろん、何もかもがわかっているわけではない。

 

 ただ、以前とは違うことがある。

 

 手をつなぐとき、いちいち理由を探さなくなった。隣に座るとき、相手の顔色ばかりを窺わなくなった。会いたいと思えば、会いたいと言える。次の休日を一緒に過ごせることを、素直に楽しみにできる。

 

 そして、帰省から戻った夜、彼女の部屋で、二人は互いに「好き」と伝え合った。

 

 彼女が自分を好きだということを、男は知っている。自分も彼女が好きだということを、彼女は知っている。

 

 それでも、二人はまだ恋人ではなかった。

 

 その曖昧さを、男はいつまでも曖昧なままにしておきたいわけではない。

 

 今度こそ、自分からきちんと伝えたい。

 

 好きです。あなたと、恋人同士になりたいです。

 

 頭の中でなら、何度でも言える。けれど、彼女の顔を思い浮かべた途端、用意した言葉は頼りないものになってしまう。

 

 彼女の気持ちを急かしたくはない。

 

 けれど、自分の望みを伝えることまで遠慮したくはなかった。

 

 その二つをどう両立させればいいのか、まだ答えは出ていなかった。

 

     *

 

 その日の午後、退勤時刻が近づいたころ、男は上司に声をかけられた。

 

「おや。今日はずいぶんと機嫌がよさそうですねえ」

 

 白髪の混じった髪をきれいに整えた上司は、穏やかに笑った。

 

「そうですか? 自分では、いつもどおりのつもりなんですが」

 

「休日のお話をされているときなど、ずいぶん楽しそうですよ」

 

「……そんなに顔に出ていますか」

 

「ええ。いいことだと思いますよ」

 

 上司は、それ以上からかうようなことは言わなかった。ただ、男が何かを言いかけて口を閉じたのを見ると、机の上の書類をそっと脇へ寄せた。

 

「何か、相談ですか?」

 

 男は少し迷ったあと、頷いた。

 

「実は、その……大切な人がいるんです」

 

「それは素敵なことですねえ」

 

 上司は、心からそう思ったように笑った。

 

 男は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「お互いに、好きだということは伝え合っているんです。でも、まだ、ちゃんとした関係というか……そういうものにはなっていなくて」

 

「なるほど」

 

「それで、自分からきちんと気持ちを伝えたいと思っているんです。相手のことは大事ですし、これからも一緒にいたい。だから、曖昧なままにしておくのは、違うんじゃないかと思って」

 

 口に出してみると、思っていたよりも言葉はすらすらと出てきた。

 

 これからも一緒にいたい。

 

 その言葉だけは、何の迷いもなく言えた。

 

 上司は急かさず、男の話を最後まで聞いた。

 

「そうですか。大切な方なんですねえ」

 

「はい」

 

「ご自分の気持ちを伝えたいと思われたのなら、それは大事にしてあげてください。言葉にするのは勇気がいることでしょう。まして、これから先のことまで考えていらっしゃるのなら、なおさらです」

 

 男は、少し考えた。

 

「これから先……そうですね。もっと一緒に出かけたり、いろんなものを食べたり、彼女の好きなものを知ったり。そういうことを、ずっと続けていけたらと思っています」

 

「それは、いいですねえ」

 

 上司は目尻を下げた。

 

「大切な方と、長く一緒にいられるというのは、きっと幸せなことでしょうから」

 

 男は静かに頷いた。

 

 彼の考えていた「これから」は、まず次の休日のことだった。彼女と会い、顔を見て、手をつないで、今までのように食事をする。その帰り道か、あるいは静かな場所で、きちんと気持ちを伝える。

 

 その先は、二人で決めていけばいい。

 

 彼女の好きな本を、もっと知りたい。彼女が一人で過ごす時間を尊重したい。彼女が疲れたときには、自分が食事を作ってあげたい。彼女がどんな人生を望んでいるのか、これからゆっくり聞いていきたい。

 

 それらは、男にとって十分に大きな未来だった。

 

「ありがとうございます。少し、勇気が出ました」

 

「それはよかった」

 

 上司は、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。

 

「大切な方とのお話は、どうかご自分の言葉で。きっと、それがいちばん伝わりますから」

 

「はい。そうします」

 

「楽しんできてくださいねえ」

 

「……はい?」

 

「ご旅行でしょう?」

 

「ああ、はい。ありがとうございます」

 

 男は頭を下げ、職場をあとにした。

 

 夕暮れの道を歩きながら、彼は自分がこれほど誰かとの未来を楽しみにするようになったことを、少し不思議に思った。

 

 以前は、明日を迎えるだけで精いっぱいだった。

 

 今は、明日が来るのを待っている。

 

 そして、その明日の向こうに、彼女がいる。

 

     *

 

 翌朝、男が銀色のセダンを彼女の家の前に停めると、ほどなく玄関の扉が開いた。

 

「お待たせー」

 

 彼女は小さな旅行鞄を片手に、軽い足取りで出てきた。落ち着いた色の上着に、秋らしいスカート。いつもより少し丁寧に整えられた髪が、朝の光を受けて柔らかく揺れていた。

 

 男は一瞬、言葉を忘れた。

 

「……どうしたの?」

 

「いや。似合ってるなと思って」

 

「は?」

 

 彼女は足を止めた。

 

「え、なに? 朝からいきなりそれ? おじさん、寝ぼけてる?」

 

「寝ぼけてないよ」

 

「ふーん。じゃあ、ちゃんとあたしのこと見て言ったんだ?」

 

「うん」

 

「……っ」

 

 彼女は旅行鞄を持ち直し、ぷいと顔を背けた。

 

「ばーか。そういうの、もうちょっと心の準備とかあるでしょ」

 

「ごめん」

 

「謝るなっ。褒められたのに謝られると、あたしが困るじゃん!」

 

 彼女は助手席に乗り込んだ。

 

「ほら、早く出して。せっかくの紅葉が逃げちゃうでしょ、よわよわおじさん♡」

 

「紅葉は逃げないと思うけど」

 

「おじさんが道に迷ってる間に散っちゃうかもしれないでしょ」

 

「そんなに信用がないかなあ……」

 

「あるわよ。運転はね」

 

 彼女はシートベルトを締めてから、ちらりと男を見た。

 

「それ以外は、まあ……これからに期待ってことで」

 

「厳しいなあ」

 

「でも、期待してるのは本当」

 

 何気ない口調だった。

 

 けれど男は、エンジンをかけながら、その言葉を大切に胸へしまった。

 

 車は町を抜け、山あいの道へと進んでいった。

 

 沿道の木々は、すでにかなり色づいていた。陽の当たる斜面には燃えるような赤があり、日陰にはまだ緑を残した葉がある。黄色くなった銀杏の葉は、風が吹くたびに一枚、二枚と舞い落ち、アスファルトの上を頼りなく滑っていった。

 

「ねえ、覚えてる?」

 

 彼女が窓の外を眺めながら言った。

 

「前に温泉へ行ったとき、あたし、帰りの列車で寝ちゃったこと」

 

「うん。覚えてるよ」

 

「あのときも、あんた、やたら静かだったよね」

 

「君が寝ていたからね。起こしたくなかったんだ」

 

「……ふーん」

 

 彼女は、窓に映った自分の顔を見ながら、口元を緩めた。

 

「今回も寝ちゃったら、また安全運転でお願いね」

 

「列車みたいに、運転を任せられるわけじゃないけどね」

 

「そこはあんたが頑張るところでしょ」

 

「もちろん。安全運転で行きます」

 

「よろしい」

 

 彼女は満足そうに笑い、再び窓の外を眺め始めた。

 

 しばらくして、彼女が思い出したように言った。

 

「帰りに寄り道するから」

 

「いいよ。どこへ行きたい?」

 

「それを考えるのも、これからの楽しみでしょ」

 

 彼女は当然のように言った。

 

 男は、思わず笑った。

 

 以前の旅を、彼女も覚えている。

 

 あのときの何気ない出来事を、二人とも覚えている。

 

 それは、ただ同じ場所へ行ったというだけではない。二人のあいだに、誰にも説明する必要のない思い出が、少しずつ積み重なっているということだった。

 

「……そうだね。楽しみにしてるよ」

 

「よろしい」

 

 彼女は満足そうに笑い、再び窓の外へ目を向けた。

 

     *

 

 宿へ着いたのは、午後の早い時間だった。

 

 山の斜面に沿うように建てられた、こぢんまりとした温泉宿だった。玄関先には赤く色づいた楓があり、石畳には落ち葉が散っている。磨かれた木の柱からは、古い建物特有の乾いた香りがした。

 

 案内された部屋には、広い窓があった。

 

 窓の向こうに、山が見える。

 

 遠くの稜線は青く霞み、その手前にある木々は赤や黄色に染まっていた。山全体が燃えているようでありながら、どこか静かだった。

 

「わあ……」

 

 彼女が声を漏らした。

 

「すごいね、これ」

 

「うん。すごいな」

 

 彼女は窓際へ歩み寄り、景色を眺めた。それから、ふと思い出したように男を振り返った。

 

「前に来たところもよかったけど、ここもいいね」

 

「そうだね。前の宿とは、また違った感じがする」

 

「うん。あっちはあっちで、あのお風呂がよかったんだけど」

 

「露天風呂?」

 

「そうそう。あのとき、あんた、ずっとぼーっとしてたじゃん」

 

「気持ちよかったからね」

 

「おじさん、温泉に入ると魂が抜けるタイプ?」

 

「そうかもしれない……」

 

「生活能力よわよわなうえに、温泉で魂まで抜けるの? 救いようがないわねえ」

 

 彼女はけらけらと笑った。

 

 男も笑った。

 

 以前なら、そんなふうに自分のことを笑われると、どこか居心地の悪さを感じたかもしれない。けれど今は、彼女が笑っているなら、それでいいと思えた。

 

 彼女は窓際に腰を下ろし、男の淹れたお茶を受け取った。

 

「ありがと」

 

「熱いから気をつけて」

 

「わかってるってば」

 

 ひと口すすり、彼女はほっと息をついた。

 

「こういうの、いいね」

 

「こういうの?」

 

「遠くまで来て、きれいな景色を見て、あったかいお茶を飲んで。別に何かしなきゃって思わなくていいの」

 

 彼女は湯呑みの中を覗き込んだ。

 

「前の旅行も楽しかったけど、あのときより、今のほうがもっと気楽かも」

 

「……そうなんだ」

 

「だって、あんたと一緒にいるの、もうそんなに緊張しないし」

 

 彼女は、そこで一度言葉を切った。

 

「……いや、することはするけど」

 

「するんだ?」

 

「うるさいっ。そこを拾うな!」

 

 男は笑った。

 

 彼女は少しむくれたあと、湯呑みを両手で包み直した。

 

「でも、こうやって一緒に何もしない時間を過ごせるの、好きだよ」

 

「僕も好きだよ」

 

「……はいはい」

 

「本当だよ」

 

「わかってるってば」

 

 彼女は顔を背けた。

 

 それでも、そっと伸ばした手が、男の手に触れた。

 

 男は、その手を取った。

 

 指を絡める。

 

 以前の旅では、この距離にたどり着くまでに、どれほど考え、どれほどためらったことだろう。

 

 今は、彼女の指が自分の指の間へ入り込むことに、少しの不自然さもなかった。

 

 そのことが、ただうれしかった。

 

     *

 

 夕食には、秋の山の幸が並んだ。

 

 栗を添えた前菜、きのこの土瓶蒸し、川魚の塩焼き、地元の野菜を使った煮物。そして、炊きたてのご飯。

 

 男は蓋を開けた瞬間、立ち上る湯気と米の甘い香りに顔をほころばせた。

 

「おじさん、今すっごい顔してた」

 

「え?」

 

「ご飯を見て、世界のすべてを許したみたいな顔してた」

 

「そんな顔してないよ」

 

「してたって。もう、食べ物に負ける三十四歳。尊厳がないわねえ」

 

「おいしいものを前にしたら、うれしくなるだろう?」

 

「まあ、それはそうだけど」

 

 彼女は自分の茶碗を持ち上げた。

 

「じゃあ、あたしも負けてあげようかな」

 

 ひと口食べて、目を細める。

 

「……あ、これ、おいしい」

 

「ね」

 

「ね、じゃないの。おじさん、まだ何もしてないでしょ」

 

「一緒においしいものを食べてるよ」

 

 彼女は箸を止めた。

 

「……ほんとにさあ。最近のあんた、あたしの調子を狂わせる天才か何かなの?」

 

「そうかな」

 

「そうよ。前はもっと、いちいち遠慮してたじゃん。おいしいって言うのも、楽しいって言うのも、あたしと出かけたいって言うのも」

 

 彼女は焼き魚の身を丁寧にほぐした。

 

「今は、ちゃんと言うんだもん」

 

 男は、少し考えた。

 

「……君が、言ってもいいんだって教えてくれたから」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「楽しいときは楽しいって言っていいし、食べたいものは食べたいって言っていい。誰かと一緒にいたいなら、そう言ってもいいんだって」

 

「……うん」

 

「だから、今は君といるのが楽しいって、ちゃんと言いたいんだ」

 

 彼女は、何か言い返そうとした。

 

 けれど、その言葉は喉元で止まった。

 

 彼女は目を伏せ、魚の身をひと口食べた。

 

「……おいしいね、これ」

 

「うん」

 

「もうひと口食べる?」

 

「いいの?」

 

「いいわよ。ほら」

 

 彼女は自分の皿から、きれいにほぐした身を男の皿へ移した。

 

「その代わり、おじさんのきのこ、ちょうだい」

 

「もちろん」

 

 男は土瓶蒸しの具を彼女の小皿へ取り分けた。

 

 大したことではない。

 

 けれど、こういう大したことのないやりとりが、いつの間にか彼の人生の中で、ひどく大切なものになっていた。

 

 食事が進み、仲居が食後のお茶を運んできたころだった。

 

「失礼いたします」

 

 仲居は、二人の前に小さな皿を置いた。

 

 そこには、ひと口大の栗の甘露煮を添えた、控えめな甘味があった。白い皿の端には、チョコレートで短く文字が書かれている。

 

 ――お誕生日おめでとうございます。

 

 男は、しばらくその文字を見つめた。

 

「……え?」

 

 隣で、彼女が妙にそわそわしている。

 

「……あー、えっと」

 

 いつもの勢いは、どこへやら。

 

「誕生日、おめでとう」

 

 彼女は男の顔を見ずに言った。

 

「三十四歳。おめでたいんだか、そうでもないんだか、微妙な年齢だけど」

 

「……君が、用意してくれたの?」

 

「そ。旅館の人にお願いしたの。あんまり大げさなのは嫌だったから、食後にちょっとしたものを出してもらえないかなって」

 

 彼女は湯呑みを持ち上げたものの、口をつける前にまた置いた。

 

「……前に温泉へ行ったとき、あんたが歳を重ねたって知って、あたし、さんざんからかったじゃん」

 

「うん。覚えてるよ」

 

「でしょ。あのとき、あたし、からかってばっかりで……ちゃんとお祝いしてあげなかったなって、あとから思ったの」

 

 彼女は、膝の上で指を組み直した。

 

「もちろん、あんたが何かしてほしがってたわけじゃないのはわかってるけどさ。せっかく大切な人の誕生日なのに、あたしが楽しくいじって終わりって、なんか違うなって」

 

 男は、言葉を失っていた。

 

「だから、今回はちゃんとお祝いしたかったの。豪華なことはできないけど……あんたが生まれてきた日を、あたしも一緒に喜びたいなって」

 

 彼女はそこで、ようやく男のほうを見た。

 

 いつもの勝ち気な笑顔は、まだ戻っていなかった。少し照れて、少し不安そうで、それでも自分の言葉をきちんと届けようとしている顔だった。

 

「……お誕生日、おめでとう。生まれてきてくれて、ありがとね」

 

 その一言は、派手な祝辞よりも、ずっと深いところへ届いた。

 

 男は、皿の上の小さな甘味を見つめた。

 

 三十四年生きてきた。

 

 そのうちの多くの時間を、ただ日々を終わらせるために使ってきた気がする。仕事に追われ、疲れを持ち帰り、食事を済ませ、眠る。誕生日だって、カレンダーに印をつけるほどのことではなかった。ひとつ歳を重ねたという事実を、静かに受け取って終わる日だった。

 

 それが今、自分の誕生日を、誰かが覚えていてくれた。

 

 自分が生まれてきたことを、喜んでくれる人がいる。

 

「……ありがとう」

 

 声が、思ったよりも掠れた。

 

 彼女は、はっとしたように顔を上げた。

 

「え、ちょっと。なに、泣くほど?」

 

「泣いてないよ」

 

「いや、目がちょっと怪しいんだけど」

 

「……うれしいんだ」

 

 男は、正直に言った。

 

「すごく、うれしい」

 

 彼女は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、いつもの調子を取り戻すように、少しだけ口角を上げた。

 

「……そ。なら、よかった」

 

 それから、彼女は自分の膳の脇に置いていた小さな包みを取り出した。

 

「あと、これ」

 

「まだあるの?」

 

「あるの。なによ、文句ある?」

 

「ないよ。びっくりしてるだけ」

 

「じゃあ、受け取りなさい」

 

 包みの中には、小ぶりの酒瓶が一本入っていた。地元の酒蔵で造られた、旅館でも扱っている純米酒らしい。派手な装飾はなく、落ち着いたラベルが貼られている。

 

「これも、旅館の人に相談して選んだの。あんた、お酒はそんなに強くないでしょ。だから、量が多すぎなくて、食事と一緒にゆっくり飲めるやつにしてもらった」

 

「……僕のために、そこまで考えてくれたんだ」

 

「そりゃあね」

 

 彼女は、照れ隠しのように肩をすくめた。

 

「せっかくの誕生日なんだから、あんたが好きそうなものを選びたかったの。……あ、でも、無理して飲むのは禁止。おいしいものを食べて、あったかいお風呂に入って、ちゃんと寝る。今日の主役は、それが仕事です」

 

「主役の仕事って、そういうものなのかな」

 

「そういうものです。異議は認めません」

 

 男は笑った。

 

 笑った拍子に、胸の奥がまた熱くなった。

 

「ありがとう。本当に、大切にするよ」

 

「瓶を?」

 

「瓶も。君の気持ちも」

 

「……っ、もう!」

 

 彼女は顔を赤くした。

 

「そういうこと、さらっと言うなってば! こっちは勇気出してんの!」

 

「ごめん」

 

「だから謝るなって言ってるでしょ!」

 

 彼女はむくれたが、その手はそっと男の袖をつまんでいた。

 

 仲居が退室したあと、二人は甘味を分け合った。栗の甘さは控えめで、食後の口にちょうどよかった。酒瓶は、部屋へ戻ってから開けることにした。

 

「……ねえ、おじさん」

 

「うん?」

 

「三十四歳の一年も、ちゃんと楽しく過ごしなさいよ」

 

 彼女は、真面目な顔で言った。

 

「仕事ばっかりして、ご飯を適当に済ませて、休みの日まで疲れた顔してるのは禁止。あたしと出かける日も、そうじゃない日も、ちゃんと自分のことを大事にすること」

 

「うん。気をつけるよ」

 

「よろしい」

 

 彼女は満足そうに頷いた。

 

「……あと、あたしと過ごす時間も、ちゃんと大事にしなさい」

 

「もちろん」

 

「……ほんと?」

 

「うん。今日みたいな日は、ずっと覚えていると思う」

 

 彼女は、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「……なら、いいわ」

 

 その声は、いつものからかいよりも柔らかかった。

 

 男は、誕生日というものが、歳を数えるためだけの日ではないのだと、初めて思った。

 

 自分がここまで生きてきたことを、誰かと一緒に喜ぶ日でもあるのだ。

 

     *

 

 夕食を終え、部屋へ戻ると、山の冷気が窓の向こうに滲み始めていた。

 

 温泉から戻った彼女は、浴衣の袖を押さえながら座椅子へ腰を下ろした。

 

「ふうー……生き返った」

 

「気持ちよかった?」

 

「最高。おじさんも入ったらわかるわよ。まあ、おじさんの場合、温泉に入る前に日々の生活を反省するところから始めたほうがいいかもしれないけど」

 

「温泉にまで説教されるのか……」

 

「当然でしょ。おじさんの生活能力は、温泉の効能でも補いきれないんだから」

 

「厳しいなあ」

 

「でも、ちゃんとご飯食べて、ちゃんと温泉入って、ちゃんと休んでるから、今日は合格にしてあげる」

 

 彼女は得意げに胸を張った。

 

 男は笑いながら、彼女の濡れた髪に目を留めた。

 

「髪、乾かさないと風邪をひくよ」

 

「わかってるってば。……ねえ、後ろ、ちょっとお願いしてもいい?」

 

「僕が?」

 

「ほかに誰がいるのよ」

 

 男はドライヤーを手に取った。

 

 彼女は鏡の前に座り、背中を向けた。

 

 温風の音が、静かな部屋に響く。

 

 男は髪を乱暴に引っ張らないよう、指先でそっと梳きながら乾かした。彼女の髪は思ったより細く、手のひらを滑る感触は、秋の夕暮れに触れる薄い光のようだった。

 

「……なんか、変な感じ」

 

 彼女が言った。

 

「痛かった?」

 

「違う。そうじゃなくて」

 

 彼女は鏡の中の男を見た。

 

「前に旅行に来たときは、こんなこと頼むの、ちょっと恥ずかしかったんだよね」

 

「そうだったんだ」

 

「そうよ。今だって恥ずかしくないわけじゃないけど」

 

 彼女は、ほんの少し笑った。

 

「でも、頼んでもいいんだって思えるようになったから」

 

 男は、ドライヤーを持つ手を少し緩めた。

 

「……頼ってもらえるとうれしいよ」

 

「……うん」

 

「君が何でも一人でできるのは知ってるけど。それでも、僕にできることがあるなら、頼ってほしいな」

 

 彼女は鏡の中で目を丸くした。

 

「うわ。言った」

 

「言ったね」

 

「何、その落ち着き。自分が何言ってるかわかってる?」

 

「わかってるつもりだけど」

 

「……もう、ほんとに」

 

 彼女は顔を背けた。

 

「おじさん、変わったね」

 

 男はすぐには答えなかった。

 

 変わったのだろう。

 

 けれど、自分ひとりの力で変わったわけではない。彼女に食事をさせられ、休むことを覚え、家族に心配されることを許し、彼女の前で泣いたこともあった。

 

 そして今は、誰かを大切に思うことを、以前ほど怖がらずに済んでいる。

 

「……君のおかげだと思う」

 

「はいはい。あたしが偉いってことね」

 

「うん。偉いよ」

 

「……っ、だから!」

 

 彼女は振り返りかけ、髪が引っ張られて慌てて前を向いた。

 

「ちょ、ちょっと! 髪、引っ張らないで!」

 

「ごめん!」

 

「もう! せっかくいい雰囲気だったのに!」

 

 言ってから、彼女ははっとしたように口を閉じた。

 

 男も、ドライヤーを持ったまま固まった。

 

 しばらくして、彼女が小さく言った。

 

「……今の、忘れて」

 

「うん」

 

「ほんとに?」

 

「……たぶん、難しいと思う」

 

「ばか!」

 

 彼女は笑った。

 

 男も笑った。

 

 その笑い声は、窓の外の山に吸い込まれていくように、柔らかく部屋に広がった。

 

 髪を乾かし終えると、彼女は男からドライヤーを受け取り、代わりに酒瓶を手にした。

 

「さて。誕生日の続き、やりますか」

 

「続き?」

 

「これ。せっかく買ったんだから、少しだけ飲むでしょ?」

 

「うん。ありがとう」

 

「ただし、飲みすぎ禁止。明日、運転するんだからね」

 

「わかってるよ」

 

 彼女は宿の人に借りた小さな酒器を並べ、瓶の栓を開けた。

 

 酒は、透明な器の中でほのかに香った。二人はほんの少しずつ注ぎ、窓辺の低い卓を挟んで座った。

 

「それじゃあ」

 

 彼女は自分の器を持ち上げた。

 

「三十四歳のおじさんに。お誕生日、おめでとう」

 

 男も器を持ち上げた。

 

「ありがとう。君が祝ってくれて、うれしいよ」

 

 器が、小さく触れ合った。

 

 男は一口だけ酒を含んだ。口当たりは柔らかく、米の甘みのあとに、静かな余韻が残った。

 

「……おいしい」

 

「でしょ。お店の人に相談してよかった」

 

「うん。君が選んでくれたから、余計においしい気がする」

 

「またそういうこと言う……」

 

 彼女は呆れたようにため息をついたが、口元は笑っていた。

 

「……でも、選んでよかった」

 

 その声を聞きながら、男は器を両手で包んだ。

 

 高価な贈り物ではない。華やかな宴でもない。

 

 けれど、自分のことを考え、何を喜ぶかを想像し、旅館に相談までしてくれた。その時間のすべてが、彼にとっては贈り物だった。

 

「君の誕生日にも、何かしたいな」

 

 男が言うと、彼女はきょとんとした。

 

「え? あたしの?」

 

「うん。いつも僕のことを気にかけてくれるから。君が生まれた日も、僕にとって大切な日だと思うんだ」

 

「……っ」

 

 彼女は酒器を卓に置いた。

 

「……おじさん、ほんっとにずるい」

 

「また?」

 

「また、よ。あたしが何を言っても、そうやって大事に返してくるんだもん」

 

「そうしたいと思っているからね」

 

「……ばか」

 

 彼女は男の肩に、こつんと額を当てた。

 

「……ありがと」

 

 その声は、いつもの彼女よりずっと小さかった。

 

 男は彼女の頭に手を置き、髪をそっと撫でた。

 

 彼女は逃げなかった。

 

 窓の外では、秋の夜が深まっていた。遠い山の稜線は暗闇に溶け、ところどころに宿や民家の灯りが浮かんでいる。

 

 二人は酒を少しずつ飲み、やがて瓶を片づけた。酔うほどの量ではなかった。むしろ、温泉で温まった身体に、酒の余韻が静かに染みていく程度だった。

 

 男は思った。

 

 三十四歳になった今日を、きっと忘れないだろう。

 

 自分の誕生日を、こんなふうに祝ってくれる人がいる。その事実を、これから先、何度でも思い出すだろう。

 

     *

 

 夜更け、部屋の灯りを少し落とし、二人は窓際に並んで座った。

 

 彼女は膝の上に本を置いていたが、読んではいなかった。

 

「ねえ」

 

「うん?」

 

「前に温泉へ来たとき、あたし、帰りの列車の中で、また来たいって思ったんだよね」

 

「……そうなんだ」

 

「うん。あのときも楽しかったけど、まだ一緒に行きたいところがいっぱいあるなって思って」

 

 彼女は本の角を指でなぞった。

 

「それで、今日、また来られたでしょ」

 

「うん」

 

「……なんか、うれしかった」

 

 男は、彼女の横顔を見た。

 

「僕も、うれしかったよ」

 

「うん。知ってる」

 

 彼女は少し笑った。

 

「だって、車に乗る前から、ずっと顔に出てたもん」

 

「そんなに?」

 

「そんなに」

 

 彼女は、男の手を取った。

 

 指を絡める。

 

「ねえ。あたしたち、これからも、こうやって出かけられるかな」

 

 男の心臓が、一度だけ強く鳴った。

 

「もちろん」

 

「次の休みも、その次も?」

 

「うん」

 

「……たまには、あたしが一人で本を読みたい日もあるけど」

 

「そのときは、ゆっくり本を読んでいていいよ」

 

「それで、あたしが会いたいって言ったら?」

 

「会いに行くよ」

 

「……ほんとに?」

 

「うん。僕も会いたいから」

 

 彼女は黙った。

 

 絡めた指に、少しだけ力がこもった。

 

「……あたしだって、あんたと一緒にいたいよ」

 

「うん」

 

「次の休みも、その次も。たまには一人で本を読みたいけど、それでも、あんたと一緒に過ごす時間はほしい」

 

「うん」

 

「……これからも、ね」

 

 男は、その言葉を聞き逃さなかった。

 

「僕も、これからも一緒にいたい」

 

 彼女は顔を上げた。

 

「……それ、ちゃんと覚えておきなさいよ」

 

「うん。覚えておく」

 

「絶対だからね」

 

「絶対」

 

 彼女は、ようやく安心したように笑った。

 

 それから、絡めた指を見下ろした。

 

「ねえ。あたしたちってさ」

 

 男の心臓が、もう一度強く鳴った。

 

「……うん」

 

「今、どんな感じなんだろうね」

 

 彼女は、冗談めかすでもなく、まっすぐに尋ねた。

 

 男は答えようとした。

 

 互いに好きだと知っている。

 

 手をつなぐことも、寄り添うことも、二人にとって特別な意味を持つようになった。

 

 それでも、まだ二人は恋人ではない。

 

 彼は、そのことをずっと考えていた。

 

 大切な人だからこそ、きちんと伝えたい。

 

 けれど、いざ彼女を前にすると、考えていたはずの言葉がすべて、ひどく頼りないものに思えてくる。

 

「……僕は」

 

 彼女が、じっとこちらを見ていた。

 

「うん」

 

「君のことが、本当に大切だと思ってる」

 

「……うん」

 

「これからも、ずっと一緒にいたいと思ってる」

 

 彼女の頬が、ゆっくりと赤くなった。

 

「……それは、知ってる」

 

「うん。知ってるよね」

 

「知ってるなら、いちいち言わなくても……」

 

 彼女はそこで口を閉じた。

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「……いや。言って。何度でも」

 

 男は、胸の奥がいっぱいになるのを感じた。

 

「うん。何度でも言うよ」

 

 彼女は、男の手を両手で包んだ。

 

「……あたしも、あんたのこと、大事にしたい」

 

 男は頷いた。

 

 今夜、彼は正式な告白をするつもりだった。

 

 けれど、彼女の言葉を聞いているうちに、焦って答えを求めることが、かえって二人の大切な時間を狭めてしまうような気がした。

 

 もちろん、曖昧なままでいたいわけではない。

 

 いつかきちんと伝える。その気持ちは変わらなかった。

 

 ただ、今夜は、彼女が自分の肩に頭を預けていることを、そのまま大切にしたかった。

 

 彼女の指が、自分の指に絡んでいる。

 

 窓の外には、秋の山が静かに横たわっている。

 

 男は、この時間を忘れたくないと思った。

 

     *

 

 翌朝、男が目を覚ますと、彼女は窓際でカーテンを開けていた。

 

 朝の光が、部屋の畳に長く差し込んでいる。山の紅葉は昨日よりも鮮やかに見えた。夜のあいだに空気が冷えたせいか、遠くの稜線までくっきりと浮かび上がっていた。

 

「おはよ、おじさん」

 

「おはよう。早いね」

 

「うん。なんか目が覚めちゃった」

 

 彼女は振り返り、にやりと笑った。

 

「おじさんは、まだ寝ててもよかったのよ? よわよわなんだから」

 

「いや、もう起きるよ」

 

「えらいえらい」

 

 彼女は男の頭をぽんぽんと叩いた。

 

「……って、子ども扱いしないでよ」

 

「だって、寝起きの顔があまりにも頼りないんだもん」

 

「そんなにひどいかなあ」

 

「うん。でも、そういうところも嫌いじゃないわよ」

 

 男は、思わず顔を上げた。

 

 彼女は、何事もなかったように窓の外へ向き直っていた。

 

「ほら、朝ご飯行くわよ。お腹すいた」

 

「うん」

 

「今日は何が出るかなあ。焼き魚かな。卵焼きかな。ご飯はおかわりできるかな」

 

「君、朝から元気だね」

 

「当然でしょ。旅行の朝ご飯は別腹なんだから」

 

「別腹なの?」

 

「そうよ。おじさん、知らなかったの?」

 

「知らなかった……」

 

「ほんと、世間知らずなんだから」

 

 彼女は笑いながら、男の手を取った。

 

 男も、その手を握り返した。

 

 朝食の膳には、焼き魚、だし巻き卵、山菜の小鉢、味噌汁、炊きたてのご飯が並んでいた。二人は、どれがおいしいだの、これを家でも作ってみたいだのと言いながら、ゆっくりと食事をした。

 

 食後には、宿の周りを散歩した。

 

 石段の脇には落ち葉が積もり、赤い楓の葉が二人の足元を転がっていく。彼女は気に入った葉を一枚拾い、光に透かして眺めた。

 

「きれい」

 

「うん」

 

「これ、持って帰ろうかな」

 

「押し葉にするの?」

 

「そう。ノートに挟んでおくの。あとで見返したときに、今日のことを思い出せるでしょ」

 

 彼女は葉を大切そうに本の間へ挟んだ。

 

「……おじさんは、何か持って帰らないの?」

 

「そうだなあ」

 

 男は、あたりを見回した。

 

 土産物屋には菓子もあれば、地酒もある。家族への土産を選ぶことにも、彼女と食べるものを選ぶことにも、今は素直に楽しさを感じられる。

 

 けれど、今この場所で、彼がいちばん持ち帰りたいと思ったのは、品物ではなかった。

 

 彼女と過ごした時間。

 

 朝の光。

 

 指先に残る温もり。

 

 そして、自分の誕生日を祝ってくれた彼女の、少し照れた顔。

 

「……僕は、今日のことを覚えて帰ろうかな」

 

「なにそれ。お土産を買うお金が惜しいの?」

 

「違うよ」

 

「じゃあ、何よ」

 

 男は少し考え、笑った。

 

「君と来られて、うれしかったから」

 

 彼女は立ち止まった。

 

「……ほんと、そういうの」

 

「うん?」

 

「……もういい。あんた、今日帰ったら、しばらくあたしの顔を見ないでちょうだい」

 

「えっ。どうして?」

 

「顔が熱くなるからよ!」

 

 彼女は男の手を引っ張り、ずんずん歩き始めた。

 

「ほら、行くわよ! 帰りに寄りたいところがあるんだから!」

 

「う、うん」

 

「あと、お昼ご飯もちゃんと食べること! 旅行の帰りだからって、疲れたとか言って適当に済ませたら許さないからね!」

 

「わかったよ」

 

「約束よ!」

 

「約束」

 

 彼女は、ようやく振り返った。

 

 その顔には、いつもの勝ち気な笑みが戻っていた。

 

 けれど、つないだ手は、いつもより少しだけ強く握られていた。

 

     *

 

 帰りの車中、彼女は助手席で眠ってしまった。

 

 窓から差し込む午後の光が、彼女の頬を淡く照らしている。頭が揺れるたび、髪が肩の上でさらりと動いた。

 

 男は速度を落とし、急なカーブをできるだけ滑らかに曲がった。

 

 信号待ちで停車したとき、彼女が目を覚ました。

 

「……ん」

 

「起きた?」

 

「……んー。今、どこ?」

 

「もう少しで町に出るところだよ」

 

「そっか……」

 

 彼女は目をこすり、窓の外を見た。

 

「……あたし、寝てた?」

 

「うん。ぐっすり」

 

「うわ、最悪。おじさんの運転が退屈だったってこと?」

 

「いや、眠くなっただけだと思うよ」

 

「ふーん?」

 

 彼女は男をじっと見た。

 

「……まあ、いいわ。安心してたってことにしてあげる」

 

「ありがとう」

 

「そこで素直にお礼言うの、ほんとずるい」

 

 信号が青に変わった。

 

 車が静かに走り出す。

 

 しばらくして、彼女が言った。

 

「ねえ。また旅行しようね」

 

「うん。しよう」

 

「次は、海が見えるところがいいな」

 

「海か。いいね」

 

「冬の海もいいし、春の海もいいし。あ、でも、あんまり寒いのは嫌だから、温泉もあるところね」

 

「わかった。探しておくよ」

 

「おじさんも行きたいところ、考えるんだからね」

 

「うん。僕も考えておく」

 

 彼女は満足そうに頷き、それから、ふと声を落とした。

 

「……あたし、楽しみにしてるから」

 

 男は、前を見たまま答えた。

 

「僕も」

 

 それだけで、彼女は十分だったらしい。

 

 彼女は再び窓の外へ目を向け、流れていく景色を眺め始めた。

 

 男はハンドルを握りながら、これからのことを考えた。

 

 次の休日。

 

 その次の休日。

 

 季節が変わり、木々の色が変わり、彼女の好きな本が増え、二人で作る料理の種類が増えていく。

 

 彼女の知らない自分を、もっと知ってもらいたい。

 

 自分の知らない彼女を、もっと知りたい。

 

 そうして、少しずつ、二人の間にあるものを確かな形にしていきたい。

 

 今までの自分なら、そんな願いを抱くことすら、どこか身の程知らずのように思っていたかもしれない。

 

 けれど今は、違う。

 

 自分が望んでいることを、自分の言葉で伝えたい。

 

 彼女が望んでいることも、きちんと聞きたい。

 

 それは、彼がこれまでの人生で、ようやく覚え始めたことだった。

 

     *

 

 その夜、男は帰宅してから、上司へ短いメッセージを送った。

 

『先日は相談に乗っていただき、ありがとうございました。おかげさまで、少し気持ちが整理できました』

 

 ほどなくして、返信が届いた。

 

『それはよかったです。大切な方と、よい時間を過ごせたでしょうか』

 

 男は、思わず笑みをこぼした。

 

『はい。とても楽しかったです』

 

 少し考えてから、もう一通送った。

 

『今度こそ、ちゃんと自分の言葉で伝えようと思います』

 

 返信は、すぐには来なかった。

 

 やがて画面が光った。

 

『ええ。きっと、それがいちばんです。大切なことほど、ゆっくり、丁寧に伝えてあげてくださいね』

 

 男は、その言葉をしばらく見つめていた。

 

 ゆっくり、丁寧に。

 

 彼は、そうしようと思った。

 

 急いで答えを求めるのではなく、彼女の気持ちを置き去りにするのでもなく、二人で同じ方向を向いて歩いていけるように。

 

 まずは、次の休日に。

 

 そう決めて、彼はスマートフォンを置いた。

 

 そのとき、画面が再び光った。

 

 彼女からだった。

 

『今日はありがと。楽しかった』

 

 男は、すぐに返事をした。

 

『こちらこそ。僕も楽しかったよ。また行こうね』

 

 しばらくして、返信が来た。

 

『うん。約束ね』

 

 その下に、もう一通。

 

『……あと、今日のあたし、かわいかった?』

 

 男は、思わず声を出して笑った。

 

 それから、真面目に考えた。

 

 朝、玄関から出てきた彼女。

 

 紅葉を眺めていた横顔。

 

 湯上がりの頬。

 

 眠そうに目をこすっていた顔。

 

 そして、自分の誕生日を祝おうと、照れながらも一生懸命に準備してくれた姿。

 

 そのどれもが、彼にとって大切なものだった。

 

『かわいかったよ。今日も、すごく』

 

 送信してから、男は少しだけ不安になった。

 

 さすがに、言いすぎただろうか。

 

 けれど、もう取り消すつもりはなかった。

 

 返事は、なかなか来なかった。

 

 五分ほどして、ようやく届いた。

 

『……ばか。明日、覚えてなさいよ』

 

 男は笑い、スマートフォンを胸元へ置いた。

 

 窓の外には、冷え始めた秋の夜が広がっていた。

 

 遠くの街灯が、暗い道を照らしている。

 

 秋は、少しずつ深まっていく。

 

 やがて冬が来る。

 

 彼は、そのことを思った。

 

 冬になれば、また別の景色が見られるだろう。寒い日に食べる鍋も、湯気の立つコーヒーも、街に灯る明かりも、きっと今までとは違って見えるに違いない。

 

 その景色を、彼女と一緒に見たい。

 

 彼女と一緒に、次の季節を迎えたい。

 

 そして、いつか。

 

 ただ「また行こう」と約束するだけではなく、もっと確かな言葉で、彼女との未来を望んでいることを伝えたい。

 

 男は、胸の内にある決意を、もう一度そっと確かめた。

 

 言葉は、まだ口にされていない。

 

 二人の関係には、まだ名前がついていない。

 

 それでも、彼らは確かに、互いのほうへ歩いていた。

 

 その歩みが、どこへ続いているのか。

 

 今はまだ、二人とも知らない。

 

 ただ、秋の山で絡めた指の温もりと、三十四歳の誕生日に彼女がくれた祝福だけが、確かなものとして、男の胸に残っていた。




大切な方と、長く……か。
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