人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
十二月の街には、どこか浮ついたところがある。
普段なら誰も気に留めないショーウィンドウの前に人が立ち止まり、忙しげに通り過ぎる会社員さえ、頭上に吊るされた電飾を見上げる。赤や緑のリボンを結ばれた贈り物が店先に並び、軒先からは小さな鈴の音が聞こえる。吐く息は白く、行き交う人々の肩には、冬の寒さと、それぞれの待ち人への期待が積もっていた。
三十四歳の男は、その浮ついた街を、朝から落ち着かない気分で歩いていた。
原因は、コートの内ポケットにある。
そこには、小さな箱が入っていた。
箱の中身は、指輪だった。
男は歩きながら、無意識に内ポケットのあたりを確かめた。もちろん、指輪がそこにあることはわかっている。出発する前にも確認したし、家を出る直前には、箱を手に取ってずいぶん長いこと眺めていた。
それでも、確かめずにはいられなかった。
今日、彼は告白をするつもりだった。
帰省から戻ったあと、彼女の部屋で、二人は互いに好きだと伝え合った。それからも時間を重ねてきた。公園で食事をし、本屋で本を選び、季節の移り変わりを眺め、二度目の温泉旅行では、これからも一緒にいたいと確かめ合った。
彼女の気持ちを知らないわけではない。
彼女もまた、自分の気持ちを知らないわけではない。
それでも、彼はきちんと言いたかった。
好きです。
あなたと、恋人同士になりたいです。
それだけでよかったはずだった。
……はずだったのだが。
彼は、内ポケットの箱をもう一度確かめた。
指輪を用意することになったのは、秋のことだった。
上司に相談をした、あの日。大切な人と、これからも一緒にいたい。彼女の知らない自分を知ってほしいし、自分も彼女のことをもっと知りたい。長く一緒にいたいからこそ、曖昧なままにせず、自分の気持ちを伝えたい。
そう話した彼に、上司は穏やかに笑って言った。
――大切な方と、長く一緒にいられるというのは、きっと幸せなことでしょうから。
その言葉を、彼はずっと覚えていた。
長く、一緒に。
その言葉を胸に置いて日々を過ごしているうちに、彼のなかで、ひとつの願いが少しずつ輪郭を持ちはじめた。
彼女が好きなものを覚え、行きたい場所へ一緒に行き、彼女が一人で過ごしたいときにはその時間を尊重し、寂しいときにはそばにいる。そうやって日々を重ねた先にも、彼女がいてくれたらいい。
その願いを、いつか形にしてみたいと思った。
もちろん、指輪を買うというのは、さすがに少しばかり気が早かったかもしれない。
店員にサイズを尋ねられたとき、彼はひどく困った。彼女の指の大きさなど、正確には知らない。けれど、手をつないだときの細い指や、カップを持つときの仕草を思い返し、店員の助言を受けながら選んだ。
それから何度も考えた。
早すぎるだろうか。
重すぎるだろうか。
彼女は驚くだろうか。
それとも、笑うだろうか。
……いや、きっと笑う。
しかも、散々に煽ってくるに違いない。
男は、その光景を想像して、少しだけ口元を緩めた。
それでも、箱を戻すつもりはなかった。
彼女とこれからも一緒にいたい。
その気持ちだけは、どうしても小さくできなかった。
*
待ち合わせ場所に彼女が現れたのは、約束の時刻より五分ほど早いころだった。
「お待たせー」
彼女は、いつものように軽い調子で手を振った。
冬らしいコートに、落ち着いた色のスカート。首元には、少し毛羽立った古いマフラーが巻かれている。何年も使い続けてきたもので、端の糸はところどころほつれ、生地も薄くなっていた。けれど、まだ使える。そう思って、今日も何気なく首に巻いてきたのだった。
髪はきれいに整えられ、頬には寒さのためか、ほんのり赤みが差していた。
男は、その姿を見て、しばらく言葉を忘れた。
「……なに?」
「いや。かわいいなと思って」
「は?」
彼女は立ち止まった。
「……え、ちょっと待って。今の、あたしに言った?」
「うん」
「誰もいないから、あたしに言ったんでしょうけど!」
「そうだね」
「そうだね、じゃないのよ!」
彼女は顔を背けた。
「なによ、今日。いつにも増して素直じゃん。クリスマスだからって浮かれちゃってるわけ?」
「そうかもしれない」
「……っ」
彼女は男を睨んだ。もちろん、本気で怒っているわけではない。むしろ、どうにかして自分の顔を平常の状態に戻そうとしているらしかった。
「ふーん。じゃあ、今日はあたしを楽しませてくれるんでしょうね?」
「うん。そのつもりだよ」
「よろしい。じゃ、行きましょ。あたし、今日はお腹を空かせてきたんだから」
「夕食は予約してあるから、楽しみにしていて」
「へえ。期待していいの?」
「もちろん」
男は笑った。
彼女はその笑顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……ほんと、最近のおじさん、ずるいわねえ」
「何が?」
「それを自分で考えられないところが、よわよわおじさんなのよ♡」
彼女は男の手を取った。
指を絡める。
冷えた指先が、男の手のひらに収まった。
「ほら。寒いんだから、ちゃんとあっためなさいよ」
「うん」
男は、彼女の手を握り返した。
今日のことを、きっと忘れないだろう。
そんな予感があった。
*
最初に二人が向かったのは、街の中心にあるクリスマスマーケットだった。
広場には木造の小屋が並び、屋根には小さな電飾が巻かれていた。焼き菓子や雑貨、手作りの飾りを売る店からは甘い香りが漂ってくる。大きなクリスマスツリーの下では、子どもが親の手を引き、恋人たちが写真を撮っていた。
「わあ。すごいね」
彼女が、素直に声を漏らした。
「こういうの、好き?」
「好きよ。だって、普段はこんなにきらきらしてないじゃん」
彼女は広場を見渡した。
「なんか、みんながちょっとだけ浮かれてる感じがして、いいよね。別に、何か特別なことが起きなくても、今日は特別な日なんだって思える感じ」
「……そうだね」
「なによ、その顔」
「いや。君と来られてよかったなと思って」
「はい、また出ましたー。おじさんの素直すぎる発言」
彼女は得意げに笑った。
「そんなにあたしのことが好きなんですかー?」
男は、少しも迷わなかった。
「好きだよ」
「……っ、だから!」
彼女は、男の腕を軽く叩いた。
「そこで即答するな! こっちにも準備ってものがあるでしょうが!」
「ごめん」
「謝るなっ!」
彼女は顔を背けたが、つないだ手は離さなかった。
二人はマーケットの屋台を眺めながら歩いた。
小さなガラス細工を見つけては足を止め、焼き菓子の香りに誘われては店先を覗いた。彼女は木製の小さなオーナメントを手に取り、裏側まで確かめてから、そっと棚へ戻した。
「買わないの?」
「うーん。かわいいんだけどね。うちに飾る場所、あんまりないし」
「そっか」
「でも、見るのは好き。こういうのって、誰かが一生懸命作ったんだなあって思うと、ちょっと楽しいじゃん」
男は頷いた。
彼女は、好きなものを何でも手に入れたいわけではない。自分の暮らしに合うかどうかを考え、手元に置かなくても楽しめるものは、その場で楽しむ。
以前の彼なら、彼女が何かを欲しがらないことに安心していたかもしれない。余計な出費をせずに済んだ、と。
今は違う。
彼女が何を見て、何を好きだと思い、何を選ばなかったのか。そのすべてに、興味があった。
「ねえ、これ」
彼女が、別の屋台の前で足を止めた。
大きな鍋の中で、赤い液体がゆっくりと温められていた。シナモンや柑橘の香りが、冷たい空気のなかに漂っている。
「ホットワインだって」
「おいしそうだね」
「ノンアルコールもあるみたい。あたし、これ飲みたい」
「じゃあ、買おうか」
「うん。おじさんもね」
二人は紙のカップを受け取った。
温かなカップを両手で包むと、指先の冷たさがゆっくりと和らいでいく。口をつければ、葡萄の甘さに柑橘の酸味が重なり、シナモンの香りが鼻へ抜けた。アルコールは入っていない。それでも、冷えた身体を内側から温めてくれるような味がした。
「……おいしい」
男が言うと、彼女は得意げに胸を張った。
「でしょ。あたしの選択に間違いはないのよ」
「さっきのオーナメントは買わなかったけど」
「それとこれとは別!」
彼女はカップを口元へ運び、ひと口飲んだ。
「んー……これ、家でも作れるかな」
「どうだろう。スパイスを揃えれば、できるかもしれないね」
「じゃあ、今度やってみようよ」
「いいね」
「おじさん、ちゃんと調べるんだよ。適当に葡萄ジュース温めて終わり、とかしたら怒るからね」
「そんなことしないよ」
「どうだか。生活能力よわよわおじさんだし?」
「……否定しにくいなあ」
彼女は笑った。
その笑顔を見ていると、男は不意に、こういう時間が好きだと思った。
豪華な場所へ行くことだけではない。高価なものを買うことでもない。
こうして温かな飲み物を片手に街を歩き、彼女の何気ない話を聞き、次に一緒にやりたいことを考える。
そういう日々が、彼にとっては何よりも大切だった。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「今日、楽しい?」
男は、彼女を見た。
「うん。すごく楽しいよ」
「……そっか」
彼女は、少しだけ笑った。
「あたしも」
それから、彼の手をぎゅっと握った。
「……今日は、いっぱい楽しませてもらうからね」
「うん。任せて」
「言ったわね? あとで期待外れだったら、ずーっといじってあげるから♡」
「それは、いつもどおりじゃないかな……」
「何か言った?」
「いいえ」
「よろしい」
二人は笑いながら、冬の街を歩いていった。
*
夕食の店は、街の喧騒から少し離れた場所にあった。
落ち着いた照明に照らされた店内には、磨かれた木の床と、白いクロスを敷いたテーブルが並んでいた。窓の外には街路樹の電飾が見え、食器の触れ合う音も、会話も、どこか遠慮がちに響いている。
男が予約したのは、以前二人で訪れた店よりも、さらに格式の高いレストランだった。
彼女は席へ案内されると、メニューを開いて目を丸くした。
「……え、ちょっと待って」
「どうしたの?」
「これ、本当にここで食べるの?」
「うん。クリスマスだから、少し奮発してみたんだ」
「……ふうん」
彼女はメニューを閉じ、男をじっと見た。
「おじさん、今日、何か企んでる?」
「えっ」
「いや、だってさあ。朝から妙に素直だし、こんなお店予約してるし、なんか、いつもより気合い入ってるし」
「……そんなに違うかな」
「違うわよ。あたし、あんたのこと、けっこう見てるんだから」
その言葉に、男は一瞬、息を止めた。
彼女は、何気なく言っただけなのだろう。
けれど、彼は知っている。
彼女は、自分が何を食べ、何を楽しみ、何を怖がり、どんな言葉を飲み込むのか、よく見ている。彼が無理をしていれば気づき、遠慮していれば見抜き、うれしいことを隠そうとすれば、すぐにからかってくる。
そして今は、自分もまた、彼女のことをよく見ているつもりだった。
「……今日は、君に喜んでもらいたいんだ」
男は答えた。
「だから、少し頑張ってみた」
彼女は黙った。
その頬に、ゆっくりと赤みが差した。
「……そういうの、ほんとにずるい」
「ごめん」
「だから謝るなってば!」
彼女はメニューを開き直した。
「……よし。じゃあ、今日は遠慮しないからね。おじさんの財布に、三十四歳の尊厳が残ってるかどうか、あたしが確かめてあげる」
「できれば、尊厳は残しておいてほしいなあ」
「保証できません♡」
彼女は笑った。
その笑顔を見て、男はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
料理が運ばれてきた。
前菜には、季節の野菜と魚介が美しく盛りつけられていた。皿の上には食べられる花びらが一枚添えられ、淡いソースが繊細な模様を描いている。続くスープは茸の香りが濃く、表面に浮かぶ泡まで丁寧に整えられていた。
彼女はひと口食べると、目を細めた。
「……あ、おいしい」
「よかった」
「ちょっと。おじさんも食べなさいよ。あたしの顔ばっかり見てないで」
「見てた?」
「見てた。料理よりあたしの顔が気になるんですかー?」
「……そうかもしれない」
「うわっ、また即答した!」
彼女は思わず笑い、それから照れ隠しのようにスープを口へ運んだ。
「……もう、ほんとに。今日はあたしが勝手に照れさせられてばっかりじゃん」
「そうかな」
「そうよ! おじさん、覚えてなさいよ。あとで絶対に仕返ししてやるんだから」
「楽しみにしてるよ」
「……っ、ああもう!」
彼女はナプキンで口元を押さえた。
男は笑った。
メインディッシュには、丁寧に火を入れた牛肉が供された。表面には香ばしい焼き色がつき、切り分けると、内側はしっとりと柔らかい。肉の旨味に深いコクのあるソースが重なり、付け合わせの野菜が味に軽やかさを添えていた。
彼女はひと口食べて、しばらく黙り込んだ。
「……どう?」
男が尋ねると、彼女はゆっくりと頷いた。
「……おいしい。悔しいけど、すっごくおいしい」
「悔しいの?」
「だって、こんなおいしいもの食べたら、帰りたくなくなっちゃうじゃん」
「また来ればいいよ」
「……そうね」
彼女は、少しだけ笑った。
「また来ようね」
「うん。来よう」
男は、その約束を胸に刻んだ。
次のクリスマスにも。
来年の春にも、夏にも。
何かの記念日でなくても、ただ二人でおいしいものを食べたいと思った日に。
彼女が食べたいものを選び、自分も食べたいものを選び、ときにはひと口ずつ交換しながら。
そういう未来を、彼は本当に望んでいた。
デザートには、苺とチョコレートを使った小さなケーキが出てきた。皿には粉砂糖が雪のように散らされ、飴細工が繊細な枝の形を描いている。
「かわいい……」
彼女が、思わず呟いた。
「食べるのがもったいないね」
「でも、食べるんでしょう?」
「当たり前でしょ。食べ物に失礼じゃん」
「そうだね」
彼女はフォークを入れ、ケーキをひと口食べた。
その瞬間、頬がほころんだ。
「……んー。おいしい」
男は、その顔を見ていた。
彼女が、おいしいものをおいしいと言う。
うれしいときに、うれしそうに笑う。
何かを楽しみにしているとき、遠慮せずに次の約束を口にする。
その当たり前の姿が、彼にはたまらなく愛おしかった。
「……君と食事をするのが、好きなんだ」
男が言った。
彼女は、フォークを持ったまま固まった。
「……え?」
「おいしいものを食べて、君がうれしそうにしているのを見るのが好きなんだ。もちろん、君が食べたいものを僕が食べるのも好きだし、僕が好きなものを君に食べてもらうのも好き」
彼は、少し照れくさそうに笑った。
「これからも、そういう時間を一緒に過ごしたいと思ってる」
彼女は、しばらく男を見つめていた。
やがて、フォークを皿に置いた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「今日、ほんとに何か企んでるでしょ」
男は、思わず笑ってしまった。
「……どうしてそう思うの?」
「だって、今日のあんた、いつもよりずっと真面目なんだもん」
彼女は少しだけ目を細めた。
「それに、あたしのことを見る目が、なんか……」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
「……もういい。今は、デザート食べる」
「うん」
「あとで、ちゃんと聞くからね」
「……うん」
男は頷いた。
逃げるつもりはなかった。
ただ、今はまだ、もう少しだけ、この食事を楽しんでいたかった。
*
レストランを出ると、街はすっかり夜になっていた。
大通りには無数の電飾が灯り、街路樹の枝先まで光に覆われていた。広場のクリスマスツリーは、昼間よりもずっと鮮やかに見える。歩道を行く人々の顔には、冷たい空気に赤く染まった頬と、どこか満たされた笑みがあった。
彼女は、男の手を握ったまま、ゆっくりと歩いていた。
「……きれいだね」
「うん」
「こういうの、二人で見るのって、いいね」
「そうだね」
彼女は、ちらりと男を見た。
「……ねえ。あんた、今日、何か言いたいことがあるんでしょ?」
男の心臓が跳ねた。
「……どうして?」
「どうしてって。あたし、そんなに鈍くないんですけど?」
彼女は呆れたように笑った。
「朝からずっと、何か考えてる顔してる。おいしいもの食べてるときも、イルミネーション見てるときも。楽しそうなのに、どこか緊張してるっていうか」
彼女は、つないだ手を少しだけ握り直した。
「……あたしに言いたいことがあるんだったら、ちゃんと聞くから」
男は、足を止めた。
彼女も、立ち止まった。
目の前には、光のトンネルがあった。白い光と金色の光が幾重にも重なり、二人の影を柔らかく地面へ落としている。
男は、彼女の顔を見た。
言わなければ。
今日こそ、きちんと。
そう思った。
けれど、彼女の目を見ていると、胸の内にあるものが、あまりにも大きく感じられた。
好きだ。
好きで、好きで、どうしようもない。
彼女と出会ってから、彼は少しずつ、自分の人生を取り戻してきた。食事をすること。休むこと。誰かに頼ること。うれしいときに笑うこと。寂しいときに寂しいと言うこと。
彼女は、そのすべてを教えてくれた。
けれど、彼女は彼のためだけに生きているわけではない。彼女には彼女の人生があり、好きな本があり、一人で過ごす時間があり、自分だけの考えがある。
だからこそ、彼は彼女と一緒にいたいと思った。
彼女の人生を奪いたいのではない。
彼女の人生の隣に、自分の席を置きたいのだ。
その願いを、どう伝えればいいのだろう。
「……もう少し、歩こうか」
男は、そう言った。
彼女は一瞬、驚いたような顔をした。
それから、ふっと笑った。
「……うん。いいよ」
彼女は、つないだ手を離さなかった。
「でも、あとで絶対に聞くからね」
「うん」
「逃げたら許さないから」
「逃げないよ」
「……よろしい」
二人は再び歩き始めた。
イルミネーションの光が、彼女の髪に、頬に、コートの肩に映っていた。
男は、その横顔を見つめながら、内ポケットの小箱を思った。
今なら、言えるだろうか。
いや、言わなければならない。
*
海辺へ着いたころには、夜の風がいっそう冷たくなっていた。
街の光が背後に遠ざかり、目の前には黒い海が広がっている。波が岸壁に打ち寄せるたび、白い泡が生まれ、すぐに暗闇へ溶けていった。
その海沿いに、大きな観覧車があった。
ゴンドラには色とりどりの灯りがともり、ゆっくりと夜空へ昇っていく。観覧車の向こうには、街のイルミネーションが広がっていた。
彼女は、思わず足を止めた。
「……わあ」
「乗ってみる?」
男が尋ねると、彼女はすぐに頷いた。
「乗る!」
それから、はっとしたように男を見た。
「……え、もしかして、今日の最後はこれ?」
「うん。そのつもりだったんだ」
「……へえ」
彼女は、にやりと笑った。
「おじさん、意外とロマンチストなんだ?」
「そうかな」
「そうよ。高級ディナーにイルミネーションに観覧車。なんか、少女漫画みたいじゃん」
「……嫌だった?」
「まさか」
彼女は、男の手を握った。
「こういうの、好きよ」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
二人は乗り場へ向かった。
ゴンドラの扉が開き、二人が乗り込むと、係員が扉を閉めた。小さな揺れのあと、観覧車は静かに動き始めた。
地面が、少しずつ遠ざかっていく。
海が広がり、街の灯りが小さくなり、イルミネーションの光が、まるで地上に降りた星のように見えた。
「……すごいね」
彼女が、窓に手を添えた。
「うん」
「さっきまで歩いてた街が、こんなに小さく見えるんだ」
「そうだね」
彼女は窓の外を眺めていた。
「……なんか、不思議」
「何が?」
「こうして高いところから見ると、いつも見てるものが、全然違って見えるんだなって」
彼女は、ゆっくりと男を振り返った。
「人のことも、そうなのかもね」
男は、その言葉を胸の中で繰り返した。
人のことも、そうなのかもしれない。
初めて彼女と出会ったとき、彼は、彼女がこんなにも自分にとって大切な人になるとは思っていなかった。
ただ、よく食べ、よく笑い、容赦なく自分をからかってくる、少し変わった女の子だと思っていた。
彼女も、彼のことを、ただの生活能力よわよわおじさんだと思っていたのかもしれない。
けれど、二人で食事をし、話をし、出かけ、時には弱さを見せ合ううちに、少しずつ、互いの見え方が変わっていった。
今では、彼女が笑うだけでうれしい。
彼女が疲れていると、何かしてあげたいと思う。
彼女が一人で本を読んでいるときには、その時間を邪魔せずにいたい。
彼女が会いたいと言ってくれたら、どんなに忙しくても、その時間を作りたいと思う。
それは、ただ一緒にいるのが楽しいというだけではなかった。
彼女という人間を、まるごと大切にしたいと思っていた。
ゴンドラが、ゆっくりと頂上へ近づいていく。
男は、コートの内ポケットへ手を入れた。
小さな箱の角が、指先に触れた。
彼女が気づいた。
「……ん?」
男は、手を止めた。
「おじさん?」
「……うん」
「どうしたの?」
彼女は、男の顔を覗き込んだ。
男は、深く息を吸った。
今日、彼は告白をするつもりだった。
恋人になってほしいと。
これからも一緒にいたいと。
それだけを伝えるつもりだった。
けれど、今、目の前には彼女がいる。
夜景を背に、少し不安そうに、それでも自分を信じて待ってくれている彼女がいる。
彼は、この人と一緒にいたい。
明日も。
来年も。
その先も。
彼女がどんな本を読み、どんなものを食べ、どんな景色を好きになっていくのか、そばで見ていたい。彼女が自分の知らない世界へ出かけるときには、帰ってきた彼女の話を聞きたい。彼女が一人でいたい日には、無理に隣へ座らず、彼女が会いたいと思ったときには、喜んで会いに行きたい。
そういう日々を、これから先も、彼女と重ねていきたい。
そして、いつか彼女が年を重ねたときにも、隣にいたいと思った。
彼は、小箱を取り出した。
彼女の目が、その箱に吸い寄せられた。
「…………え?」
男は、箱を両手で持った。
指先が震えていた。
「……君に、伝えたいことがあるんだ」
彼女は、瞬きをした。
「……うん」
「僕は、君のことが好きです」
「……うん」
「君と一緒にいる時間が、僕は本当に好きなんだ。君と食事をすることも、出かけることも、何でもない話をすることも。君が一人でいたいときには、ちゃんとそうしていてほしいし、君が寂しいときには、そばにいたい」
男は、彼女を見つめた。
「これからも、君と一緒にいたい。これから先の人生を、君と一緒に歩いていきたいと思ってる」
彼女の目が、少しずつ見開かれていった。
男は、箱を開けた。
中には、細い指輪が収まっていた。
飾りすぎず、けれど、光を受けると繊細に輝く指輪だった。
彼女は、完全に言葉を失っていた。
男は、箱を持つ手に力を込めた。
「……僕と、結婚してください」
観覧車の中が、静まり返った。
地上の喧騒は遠く、窓の外には海と街の光が広がっている。ゴンドラはゆっくりと頂上を通り過ぎ、夜空のなかを進んでいた。
彼女は、男を見つめていた。
それから、指輪を見た。
もう一度、男を見た。
「…………は?」
男は、息を止めた。
「……えっと」
「……え、待って」
彼女は、片手で額を押さえた。
「……待って待って待って。ちょっと待って」
「……うん」
「今、なんて言った?」
「……結婚してください、と」
「聞こえてるわよ!」
彼女は、男の肩を叩いた。
「聞こえてるから聞き返したんでしょうが! 何なのよ、あんた!」
「ご、ごめん」
「謝るなって言ってるでしょ!」
彼女は、もう一度指輪を見た。
それから、顔を覆った。
「……うそでしょ」
その声は、怒っているようでもあり、笑っているようでもあり、泣きそうでもあった。
「……ちょっと、ほんとに、何なの……」
男は、どうすればよいのかわからなかった。
彼女は、しばらく顔を覆っていたが、やがて指の隙間から男を見た。
「……ねえ」
「……うん」
「あんた、今日、あたしに何を言うつもりだったの?」
男は、正直に答えた。
「……告白を、するつもりだったんだ」
「…………」
「ちゃんと気持ちを伝えて、恋人同士になりたいって。そう言おうと思ってた」
彼女は、ゆっくりと手を下ろした。
「……なのに、なんで結婚になるのよ!」
男は、答えに詰まった。
「……その」
「その、じゃないの!」
「……君と、これからも一緒にいたいと思って」
「それは知ってるわよ!」
「うん……」
「知ってるし、あたしだって一緒にいたいって言ったじゃん! 温泉でも言ったし、帰りの車でも言ったし、何回も言ったでしょ!」
「……うん」
「なのに、そこでなんで指輪なのよ! なんで結婚なのよ! 普通、順番ってものがあるでしょうが!」
彼女は、男を指さした。
「まず告白! それから恋人! それで、いろいろ一緒に過ごして、もっとお互いのことを知って、それから結婚とか、そういう話になるんじゃないの!?」
「……そうだね」
「そうだね、じゃないわよ!」
彼女の声が、観覧車の小さな空間に響いた。
けれど、その声は少し震えていた。
男は、箱を持ったまま俯いた。
「……ごめん。驚かせてしまって」
彼女は、何も言わなかった。
「君の気持ちを、急がせるつもりはなかったんだ。僕が勝手に先走ってしまった。もし、困らせてしまったなら……」
「……ばか」
彼女が、呟いた。
男は顔を上げた。
彼女は、目を赤くしていた。
「……ほんっと、ばか」
彼女は、唇を噛んだ。
「……あんたって、ほんとに、どうしようもないおじさんね」
「……うん」
「生活能力よわよわで、恋愛の順番もわかってなくて、三十四歳にもなって、告白とプロポーズの区別もつかないの?」
「……その、区別は、ついているつもりだったんだけど」
「ついてないから、今こうなってるんでしょうが!」
彼女は、とうとう笑った。
笑いながら、涙が一粒、頬を伝った。
「……ほんとに、もう……」
彼女は、男の手を取った。
指輪の箱を持つ、その手を。
「……ねえ」
「……うん」
「これ、いつから考えてたの?」
男は、少しだけ迷ってから答えた。
「……秋ごろから、ずっと」
「秋?」
「うん。上司に相談したんだ。大切な人がいて、これからも一緒にいたいって。ちゃんと気持ちを伝えたいって」
「……それで?」
「……自分の気持ちを、形にしてみたくなって」
彼女は、ぽかんとした顔をした。
それから、ゆっくりと目を細めた。
「…………へえ?」
男は、その顔を見て、背筋が冷たくなるのを感じた。
この顔は、知っている。
彼女が、何かとんでもないことを思いついたときの顔だ。
「……へええええ?」
「……あの」
「つまり、あんたは、秋からずーっと、あたしと結婚するつもりだったわけ?」
「……いや、その、最初からそこまで明確に考えていたわけではなくて……」
「へえー? じゃあ、指輪を買ったときは?」
「……」
「サイズも調べたんでしょ?」
「……正確には、推測と店員さんの助言で」
「うわっ、こわっ! 何それ! あたしの知らないところで、勝手に将来設計してたの!?」
「……ごめん」
「謝るなってば!」
彼女は、涙を拭いながら笑った。
「……もう、ほんとに……」
それから、男の手を握り直した。
彼女は、指輪の箱を見つめた。
その表情から、少しずつ、からかうような色が消えていった。
「……ねえ、おじさん」
「……うん」
「……あたし、うれしいよ」
男は、息を止めた。
彼女は、指輪を見つめたまま続けた。
「……びっくりしたし、意味わかんないし、順番はめちゃくちゃだし、ほんとに何考えてんのって思うけど」
「……うん」
「……でも、あたしのことを、そんなふうに考えてくれてたんだなって思ったら」
彼女は、言葉を切った。
涙が、もう一粒、頬を伝った。
「……うれしいに決まってるじゃん」
男の目にも、熱いものが込み上げた。
「……君」
「ただし!」
彼女は、突然顔を上げた。
「……はい?」
「ただし、よ!」
彼女は、男の鼻先へ指を突きつけた。
「これ、受け取るからには、覚悟しなさいよ」
「……覚悟?」
「そうよ。あんた、今、あたしと結婚するって言ったんだからね?」
「……うん」
「これから先、あたしがどれだけわがままを言っても、ちゃんと聞くこと。あたしが一人で本を読みたいときには邪魔しないこと。あたしが食べたいものを食べに行くときには、ちゃんと付き合うこと。あんたも食べたいものがあるなら、遠慮せずに言うこと」
「……うん」
「疲れたときは、ちゃんと疲れたって言うこと。困ったときは、ちゃんと相談すること。『大丈夫』って言いながら無理をするのは禁止。あたしが心配したら、ちゃんと心配されること!」
「……うん」
「それから!」
彼女は、少しだけ顔を赤くした。
「……あたしが、あんたと一緒にいたいって言ったら、ちゃんと喜ぶこと」
男は、彼女を見つめた。
「……うん。喜ぶよ」
「……あたしも、あんたと一緒にいたいって言うから」
彼女の声が、少しずつ小さくなった。
「……これからも、ずっと」
男は、もう何も言えなかった。
彼女は、指輪の箱をそっと受け取った。
そして、男の手を取ったまま、静かに言った。
「……結婚、する」
男は、目を見開いた。
「……え?」
「だから、するって言ってるでしょ!」
彼女は、真っ赤な顔で叫んだ。
「……あんたと、結婚するの!」
男の目から、涙がこぼれた。
彼女は、その顔を見て、ぎょっとした。
「……えっ、ちょっと、泣くの!?」
「……ごめん」
「だから謝るなってば! なんでそこで泣くのよ! あたしが泣いてるのに、あんたまで泣いたら、どうすればいいのよ!」
「……うれしくて」
「……っ」
彼女は、唇を噛んだ。
「……ほんっと、ずるい」
それから、彼女は小さく息を吸った。
「……ねえ。指輪、つけて」
男は、震える手で指輪を取り出した。
彼女は左手を差し出した。
細い指だった。
男が、何度も手をつないできた指。
食事のときに箸を持ち、本をめくり、温かな湯呑みを包んできた指。
その指に、彼はそっと指輪を通した。
指輪は、彼女の指に収まった。
ほんの少しだけ、サイズが気になった。けれど、きつすぎることも、緩すぎることもなかった。
彼女は、左手を目の前に掲げた。
観覧車の窓から差し込む街の光が、指輪の表面に小さく反射した。
「……きれい」
彼女が、呟いた。
男は、その言葉を聞いて、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
「……うん」
彼女は、指輪を見つめたまま、しばらく黙っていた。
それから、ふと顔を上げた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「……これ、あたしのサイズ、どうやって調べたの?」
男は、固まった。
「……えっと」
「ねえ?」
「……その、手をつないだときの感覚とか、店員さんの助言とか……」
彼女は、ゆっくりと笑った。
「……へええええ?」
「……あの」
「こわっ! 何それ! あたしの手を握るたびに、指輪のサイズ考えてたの!?」
「いや、毎回では……」
「毎回じゃないなら、何回!?」
「……それは」
「はい、答えられないー! やっぱりよわよわおじさんじゃん!」
彼女は笑いながら、男の肩へ頭を預けた。
「……もう、ほんとに、どうしようもないんだから」
男も、笑った。
観覧車は、ゆっくりと下降を始めていた。
海の上に広がる夜景が、少しずつ近づいてくる。
彼女は、男の手を握った。
指輪をつけた左手で。
「……ねえ」
「うん?」
「……あたし、あんたのこと、好きよ」
男は、彼女を見た。
「……うん」
「好き。すっごく好き」
彼女は、少しだけ顔を上げた。
「だから、これからも、あたしの隣にいなさいよ」
男は、涙を拭って笑った。
「……うん。ずっと、隣にいるよ」
「……よろしい」
彼女は、満足そうに頷いた。
「……あ、そうだ」
「うん?」
「……これ、クリスマスプレゼント」
彼女は、足元に置いていた小さな袋を取り上げた。
「本当は、もっと普通に渡すつもりだったんだけど……」
彼女は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……まあ、今さら普通も何もないわよね」
袋の中には、きれいに畳まれたマフラーが入っていた。
落ち着いた深い紺色に、控えめな織り模様が入っている。肌触りのよい、柔らかな生地だった。
男は、そっと手に取った。
「……これ、君が選んでくれたの?」
「そうよ。何よ、文句ある?」
「ないよ。すごく、うれしい」
「……ふーん」
彼女は、顔を背けた。
「……あんた、いつも首元が寒そうじゃん。そのマフラー、もう限界じゃないの?」
男は、自分の首元に目を落とした。
そこには、今日も古いマフラーが巻かれていた。長年使い続けてきたせいで、端の糸はほつれ、生地は擦り切れている。自分ではまだ使えると思っていたが、こうして改めて見ると、たしかにずいぶんくたびれていた。
「ああ……うん。たしかに、だいぶ古くなってきたね」
「古くなってきた、じゃないわよ。それ、もうボロボロじゃん」
彼女は呆れたように眉を寄せた。
「端っこの糸はほつれてるし、生地も擦り切れてるし。何度か新しいの買えばって思ったけど、あんた、まだ使えるからって、そのままにするでしょ」
「……よく見ているね」
「見えるところに巻いてるんだから、見るでしょ!」
彼女は、少しだけ声を弱めた。
「……それに、あんたって、自分のことになると、そういうの後回しにするじゃん。仕事のこともそうだったし、疲れてるときもそうだったし。だから、もう見てられなくて」
言い終えると、彼女は照れ隠しのように男の胸元を軽く叩いた。
「……だから、あたしが選んだの。ちゃんと暖かくて、長く使えて、あんたに似合いそうなやつ。文句言わずに使いなさいよ」
男は、マフラーを見つめた。
彼女は、毎日のように自分が身につけていたものを見て、その小さなほころびを気にかけてくれていたのだ。
大げさな贈り物ではない。
けれど、彼が見落としていた自分の暮らしのほころびを、彼女は見過ごさなかった。
「……ありがとう」
男は、今度こそ、心からそう言った。
「すごくうれしいよ。大切に使うね」
「……よろしい」
彼女は、少しだけ笑った。
「……それと、これ、あたしが選んだんだから。あんたが使ってるところ、ちゃんと見せてよね」
「うん。もちろん」
男は、古いマフラーを外し、丁寧に畳んで袋へしまった。それから、新しいマフラーを首に巻いた。
柔らかな生地が、首元を包む。
彼女が選んでくれたもの。
自分の寒さを気にかけ、古びたものを使い続けていることを見兼ねて、これからの季節を想像しながら選んでくれたもの。
その温もりが、胸の奥まで届くようだった。
「……似合う?」
男が尋ねると、彼女は、じっと彼を見た。
それから、ふっと笑った。
「……うん。似合う」
「ありがとう」
「……でも、あたしの指輪のほうが、もっと似合ってるけどね♡」
「……そうだね」
「そこで否定しないんだ?」
「君のほうが似合っていると思うから」
「……っ、ああもう!」
彼女は顔を覆った。
「……ほんっと、最後までずるいんだから!」
*
観覧車を降りると、夜の海風が二人を迎えた。
男は彼女の手を握り、彼女は指輪をつけた左手を、何度も確かめるように見つめていた。
「……ねえ」
「うん?」
「……これ、ほんとに、夢じゃないよね?」
男は、足を止めた。
「……うん。夢じゃないよ」
「……そっか」
彼女は、指輪を見つめた。
「……じゃあ、あたし、ほんとにお嫁さんになるんだ」
その言葉は、からかうような響きを持っていなかった。
男は、彼女の手を握り直した。
「……うん」
彼女は、少しだけ笑った。
「……なんか、変な感じ」
「そうだね」
「だって、あんたと初めて会ったとき、まさかこんなことになるなんて思ってなかったもん」
「……僕もだよ」
「最初は、ほんとに生活能力よわよわで、見てられなかったんだから」
「……うん」
「ご飯もちゃんと食べないし、疲れてても大丈夫って言うし、何でも一人でどうにかしようとするし」
彼女は、男を見た。
「……でも、今は違うよね」
男は、頷いた。
「うん。君のおかげだと思う」
「……またそれ?」
「本当だよ」
男は、少しだけ笑った。
「君がいなかったら、僕は今でも、自分が何をしたいのか、よくわからないままだったかもしれない。おいしいものを食べたいとか、誰かと一緒にいたいとか、そういうことを、ちゃんと言えなかったと思う」
「……うん」
「でも、今は言える。君と一緒にいたい。君と、これからの人生を歩いていきたいって」
彼女は、黙っていた。
それから、男の手を両手で包んだ。
「……あたしも、あんたと一緒にいたい」
彼女は、まっすぐに男を見た。
「……これからも、ずっと」
男は、頷いた。
「うん」
「……だから、ちゃんと幸せにしなさいよ」
「……うん」
「あと、あたしも、あんたを幸せにするから」
男は、思わず笑った。
「……ありがとう」
「……何よ」
「うれしくて」
彼女は、顔を背けた。
「……ばか」
それから、少しだけ彼の肩へ寄り添った。
「……あたしも、うれしいよ」
海の向こうには、街の灯りが広がっていた。
観覧車は、今もゆっくりと回り続けている。
その光を背に、二人は手をつないで歩いた。
彼女の左手には、指輪が輝いていた。
男の首元には、彼女が選んだマフラーが巻かれていた。
互いに贈ったものが、互いの身体に残っている。
それは、今日という一日の証であり、これから続いていく日々の、小さな始まりだった。
*
帰宅してから、男は上司へ短いメッセージを送った。
『先日は相談に乗っていただき、ありがとうございました。無事に気持ちを伝えることができました』
送信してから、少しだけ考えた。
どこまで書けばよいのだろう。
彼女が受け入れてくれたこと。
指輪を渡したこと。
結婚を申し込んでしまったこと。
……いや、さすがに最後のことまで、すぐに報告するのは気恥ずかしかった。
男が迷っていると、返信が届いた。
『それはそれは。よかったですねえ』
その一文を見て、男は笑った。
続けて、もう一通。
『大切な方と、これから長い時間を一緒に過ごしていかれるのですね。どうか、お二人でゆっくり、よい日々を重ねてください』
男は、その言葉をしばらく見つめた。
長い時間。
よい日々。
彼は、スマートフォンを握りしめた。
『はい。そうします。本当にありがとうございました』
返信を送ると、彼は椅子の背にもたれた。
首元には、彼女が選んでくれたマフラーがあった。
まだ、外す気になれなかった。
*
その夜、寝る前に、彼女からメッセージが届いた。
『ねえ』
『どうしたの?』
『今日のこと、ちゃんと覚えてる?』
男は、笑いながら返信した。
『もちろん。忘れるわけがないよ』
『ふーん』
少し間が空いた。
『……じゃあ、あたしのこと、どれくらい好き?』
男は、しばらく画面を見つめた。
いつもの彼女なら、からかうような言葉を続けてくるはずだった。
けれど、今夜のその問いには、ほんの少しだけ、確かめたい気持ちが混じっているように思えた。
彼は、ゆっくりと文字を打った。
『これから先も、ずっと一緒にいたいと思うくらい好きだよ』
送信した。
すぐに既読がついた。
しかし、返信は来なかった。
男は少し不安になりかけた。
やがて、画面が光った。
『……ばか』
その下に、もう一通。
『……あたしも、同じくらい好き』
さらに、もう一通。
『でも、あんたは告白を飛ばしてプロポーズした罰として、これから一生いじられることが決定しました♡』
男は、声を出して笑った。
『それは、覚悟しておくよ』
『よろしい』
そして、最後に。
『……おやすみ。あたしの、よわよわおじさん』
男は、その言葉を何度も読み返した。
あたしの。
その短い言葉が、胸の奥に、温かな灯をともした。
『おやすみ。大好きだよ』
送信してから、男はスマートフォンを伏せた。
窓の外には、十二月の夜が広がっていた。
明日になれば、また仕事がある。朝になれば、顔を洗い、朝食を食べ、支度をして、いつものように家を出るだろう。
けれど、明日からは、少しだけ違う。
彼女は、自分の婚約者になった。
そう思うと、何だか不思議だった。
恋人になりたいと思っていた。
ただ、彼女と恋人同士になりたかっただけだった。
それなのに、気がつけば、彼女と人生を共にする約束をしていた。
ずいぶんと一足飛びだった。
彼女には、これから先、何度も何度もからかわれるに違いない。
それでも、後悔はなかった。
彼女と一緒にいたい。
その気持ちだけは、今日も、明日も、変わらない。
*
翌週、男は職場で、いつものように仕事に取り組んでいた。
書類を確認し、必要な連絡を済ませ、次の予定を確かめる。窓の外には冬の空が広がっていた。首元には、彼女が選んでくれたマフラーがある。
仕事の合間、ふとスマートフォンが震えた。
『今日、帰りにケーキ買ってきて』
続けて、もう一通。
『あ、あと、実家から顔見せてって言われたから今度一緒に行くわよ』
男は、思わず笑った。
『わかった。ケーキは何がいい?』
『苺のやつ』
『了解』
『……それと』
少し間が空いた。
『……今日も、会いたい』
男は、画面を見つめた。
胸の奥が、温かくなった。
『僕も会いたいよ。仕事が終わったら、すぐに行くね』
送信すると、彼女からすぐに返信が届いた。
『……ふーん。じゃあ、待っててあげる』
その下に、もう一通。
『あたしの旦那さま♡』
男は、思わず顔を覆った。
職場で、三十四歳の会社員が、スマートフォンを見ながら真っ赤になっている。
傍から見れば、いささか頼りない光景だったかもしれない。
けれど、彼は笑っていた。
これから先も、きっと彼女には勝てないだろう。
食事のたびにからかわれ、休日のたびに振り回され、ときには彼女の言葉に赤面し、時には自分の言葉で彼女を照れさせる。
そういう日々が、これからも続いていく。
彼は、それを楽しみにしていた。
*
十二月の夜、海辺の観覧車は、今日も静かに回っている。
その小さなゴンドラのなかで交わされた約束は、もう二人だけの秘密ではなくなった。
指輪は、彼女の左手にある。
マフラーは、彼の首元にある。
互いの贈り物を身につけ、二人は、これからの日々を歩いていく。
告白をするはずだった男は、結婚を申し込んでしまった。
その無謀な一足飛びを、彼女は散々にからかい、呆れ、笑い、泣きながら受け入れた。
けれど、二人が積み重ねてきた時間は、決して飛び越えられたわけではない。
公園で分け合った食事も、帰省先の夜に絡めた指も、秋の温泉で交わした「これからも」という言葉も、すべてが、二人をここまで運んできた。
男は、彼女と出会って、自分の人生を少しずつ取り戻した。
彼女は、男と出会って、自分の隣に誰かを迎えることを、少しずつ怖がらなくなった。
だから、指輪を渡したあの夜は、突然の結末などではなかったのだろう。
それは、二人が何度も交わしてきた小さな約束が、ひとつの形になった夜だった。
そして、これからも、約束は続いていく。
次の休日には、彼女が食べたいと言ったケーキを買っていく。
その次の休日には、二人で本屋へ行くかもしれない。
春になれば、新緑の山を見に行こうと約束するだろう。
夏には、またどこかの祭りへ行くかもしれない。
何でもない日には、ただ一緒にご飯を食べる。
彼女が本を読んでいるあいだ、男は隣でコーヒーを飲む。
彼女が疲れたときには、男が食事を作る。
男が無理をしようとしたら、彼女が容赦なく叱る。
そして、時々、彼女は男の左手を取って、薬指の指輪を眺めながら、こう言うのだろう。
――ねえ、よわよわおじさん。告白もできないくせに、プロポーズだけは一人前だったわねえ♡
そのたびに男は赤くなり、彼女は笑う。
それでいい。
彼は、そう思う。
冬の夜は、静かに更けていく。
けれど、彼の胸のなかには、もう、明日を迎えることへの恐れはなかった。
明日が来る。
その明日の向こうに、彼女がいる。
そして、彼女もまた、彼のいる明日を待っている。
それだけで、三十四歳の男には、十分すぎるほどの幸福だった。
――メリークリスマス。
彼は心のなかで、そう呟いた。
誰かと一緒に生きていくということが、こんなにも温かなものだとは、知らなかった。
彼女と出会うまでは。
そして、これから先も、きっと彼は、その幸福を何度でも知り直していくのだろう。
彼女の手を握り、彼女の笑顔を見て、彼女の言葉に照れながら。
何度でも。
いつまでも。
……バカ、バカおじさん!ほんっと信じらんない……でも、大好き♡