人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで   作:メスガキに勝てない

3 / 25
虚栄と負け犬と仔牛のフィレ


第三話

 高価なものを前にしたとき、人間はしばしば、その価値を味わうより先に、価値を理解している自分を演じようとする。

 

 私は、それをよく知っていた。

 

 会社の接待で使う高級フレンチレストランに、私はこれまで三度足を運んでいた。いずれも取引先との会食だった。磨き上げられた銀器、薄いグラス、白いクロス。控えめな照明の下で、皿の上に置かれた料理は、食べ物というより小さな美術品のように見えた。

 

 私はそこで、礼儀正しく振る舞った。

 

 相手の話に適切な相槌を打ち、ワインの銘柄を覚えているふりをし、料理の説明には感心したように頷いた。ナイフとフォークを扱う手つきに気を配り、会話が途切れれば、仕事に差し障りのない話題を探した。

 

 そのような場では、料理を味わうことよりも、料理を味わうにふさわしい人間に見えることのほうが重要だった。

 

 少なくとも、私はそう考えていた。

 

 だから、三度も訪れたというのに、料理の味をほとんど覚えていなかった。

 

 覚えているのは、相手の役職と、交わした名刺と、帰りの電車で確認した翌日の予定。それから、会計の際に上司が店員へ向けた、慣れた微笑くらいのものだった。

 

 皿の上に何があったのか。

 

 私は、それさえ曖昧だった。

 

 そんな店へ、私は彼女を誘おうとしていた。

 

 きっかけは、実にささやかなものだった。

 

 土曜日、私は職務経歴書を一ページ書いた。日曜日には、彼女と味噌ラーメンを食べた。そのあと、私は求人情報をいくつか調べ、気になる会社を一つ、ブックマークに登録した。

 

 それだけのことで、何かが変わった気がしていた。

 

 もちろん、転職先が見つかったわけではない。会社を辞めると決めたわけでもない。私の生活は相変わらず、会社を中心に回っていた。

 

 それでも、自分の時間を、自分のために使うことができた。

 

 その感覚が、妙に新鮮だった。

 

 私は、彼女に何か礼をしたいと思った。

 

 夕食に連れていってくれたこと。生活の乱れを指摘してくれたこと。私が書いた一ページを、きちんと褒めてくれたこと。そうした一つひとつに、何かを返したかった。

 

 しかし、何をすればいいのかは、すぐには思いつかなかった。

 

 彼女は、私が何かを買って渡せば喜ぶような少女ではない。少なくとも、今の私には、彼女が何を欲しがるのか、十分に知ることができていなかった。

 

 それなら、食事がいい。

 

 そう考えたとき、あのフレンチレストランが頭に浮かんだ。

 

 高価な店だった。

 

 私の給料からすれば、気軽に何度も通える場所ではない。けれど、手が届かないほど遠い場所でもない。接待のために三度も訪れた店へ、自分の金で、誰かと食事をするために行く。

 

 それは、私にとって小さな冒険だった。

 

 店の名前をスマートフォンで検索し、予約の空きを確認した。空席が見つかったところで、私は彼女へメッセージを送った。

 

『今度の休日、よかったら食事に付き合ってもらえませんか』

 

 送信したあとで、私は少し後悔した。

 

 あまりにも曖昧な誘い方だった。どこへ行くのかも、何を食べるのかも書いていない。そもそも、彼女が休日を空けてくれるかどうかもわからない。

 

 しばらくして、返信が届いた。

 

『なに? ついにおじさん、ひとりでご飯を食べるのが怖くなった?』

 

 私は苦笑した。

 

『そういうわけではありません。たまには、きちんとした店で食事をしたいと思いまして』

 

『へえ。きちんとした店って?』

 

 私は店の名前を送った。

 

 既読がつく。

 

 少し間があった。

 

『……え、なにそれ。おじさん、急にどうしたの?』

 

『以前、仕事で利用したことがある店なんです。料理がおいしかったので、君にも食べてもらえたらと思いまして』

 

 それは、半分だけ本当だった。

 

 料理がおいしかったかどうか、私は覚えていない。

 

 けれど、彼女と一緒に食べてみたいと思ったことは、本当だった。

 

 返信は、すぐに届いた。

 

『いいよ。行ってあげる』

 

 続いて、もう一通。

 

『ただし、変な見栄張ったら笑うからね♡』

 

 私は画面を見つめた。

 

 どうやら彼女は、私が何かを企んでいることを、すでに見抜いているらしかった。

 

     *

 

 約束の日、私は普段より丁寧に身支度を整えた。

 

 シャツに皺がないかを確かめ、髪を整え、靴を磨いた。ネクタイを締めようとして、途中で手を止めた。休日の食事にネクタイは必要ない。そう思い直し、襟元を整えた。

 

 鏡のなかには、いつもより少しだけまともな男が立っていた。

 

 だが、その姿を見ているうちに、私は奇妙な居心地の悪さを覚えた。

 

 私は、誰に見せるために身支度をしているのだろう。

 

 店の格に見合う人間であるためか。彼女に失望されないためか。それとも、普段の自分を忘れ、別の人間になったつもりでいたいからか。

 

 答えは、はっきりしなかった。

 

 私は鏡から目を逸らし、家を出た。

 

 店の前で待っていると、やがて彼女がやってきた。

 

 落ち着いた色の服に、いつもより少しだけ丁寧に整えられた髪。普段の生意気な雰囲気はそのままだったが、こうした場所へ来るために、彼女なりに身なりを整えてくれたことがわかった。

 

 そのことが、私は嬉しかった。

 

「お待たせ」

 

「いえ、私も今来たところです」

 

 彼女は私の顔を見て、それから全身を眺めた。

 

「……なに、その格好」

 

「おかしいですか?」

 

「いや。別に変じゃないけど」

 

 彼女は、口元を押さえた。

 

「なんか、会社の面接にでも行くみたい。おじさん、今日、あたしに採用されたいの?」

 

「食事に来ただけですよ」

 

「ふうん。じゃあ、あたしが不採用って言ったら帰る?」

 

「それは困りますね」

 

「へえ。ちゃんと困るんだ?」

 

 彼女は笑った。

 

「よろしい。じゃ、今日はおじさんのおごりね」

 

「もちろん、そのつもりです」

 

「……え?」

 

 彼女の笑顔が、一瞬だけ止まった。

 

「なに、今の。かっこつけた?」

 

「いえ。私から誘ったのですから」

 

「……ふうん」

 

 彼女は、わずかに目を逸らした。

 

「ま、いいけど。無理してないならね」

 

 その言葉には、からかいよりも心配が滲んでいた。

 

 私は少し考えてから、答えた。

 

「無理をしていない、と言えば嘘になるかもしれません。でも、今日は君とここで食事をしたいと思ったんです。ですから、自分で決めました」

 

 彼女は、黙った。

 

 やがて、ふいと顔を背けた。

 

「……そういうの、最初からちゃんと言いなよ」

 

「すみません」

 

「謝れって言ってないし!」

 

 彼女は私の腕を軽く小突いた。

 

「ほら、入るよ。せっかく来たんだから、ちゃんとおいしいもの食べさせなさいよね」

 

「ええ。そうしましょう」

 

 扉を開けると、店内の静かな空気が私たちを迎えた。

 

 磨かれた木の床。白いテーブルクロス。壁に掛けられた絵画。控えめな照明が、銀器とグラスの輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。

 

 店員は、落ち着いた笑顔で私たちを席へ案内した。

 

 私は、いつものように背筋を伸ばした。

 

 椅子の引き方。ナプキンの置き方。メニューの受け取り方。これまで接待で覚えた作法が、身体に染みついている。何をすべきかはわかっていた。どう振る舞えば、この場にふさわしい人間に見えるかも、わかっていた。

 

 彼女は、メニューを開いた。

 

「……うわ。なにこれ。値段、かわいくないんだけど」

 

「コース料理ですから」

 

「コース料理だからって、値段までコース料理にしなくてよくない?」

 

「そういうものではないと思いますが」

 

「おじさん、こういう店、慣れてるの?」

 

「仕事で、何度か」

 

「ふうん」

 

 彼女はメニューを閉じた。

 

「じゃあ、今日はおじさんに任せる。あたし、こういう店、詳しくないし」

 

 私は、少しだけ緊張した。

 

 彼女に恥をかかせないようにしなければならない。注文を間違えず、料理の説明を聞き、場にふさわしい会話をする。そんな考えが、反射的に頭をよぎった。

 

 私はソムリエに相談し、料理に合わせた飲み物を選んだ。彼女にはノンアルコールのものを勧め、私も同じものを頼んだ。

 

 注文を終えると、彼女が私を見た。

 

「……おじさん」

 

「はい」

 

「誰に見栄張ってんの?」

 

 私は、言葉を失った。

 

「え?」

 

「いや、だから。誰に見栄張ってんの?」

 

 彼女は、テーブルの上で指を組んだ。

 

「さっきから、ずーっと『ちゃんとした大人』みたいな顔してるじゃん。店員さんに失礼がないように、料理をわかってるように、あたしに頼りになるところを見せるように」

 

「そんなつもりは……」

 

「ほんとに?」

 

 彼女は、私の目を見た。

 

「じゃあ、なんでそんなに緊張してるの?」

 

 私は、返事ができなかった。

 

 彼女の言うとおりだった。

 

 私は、料理を楽しむためにここへ来たはずだった。彼女と食事をするために、自分で店を選び、予約を取り、自分の金を使った。

 

 それなのに、いざ席に着くと、私はまた別のことを考えていた。

 

 この店にふさわしい自分であること。彼女に頼りないと思われないこと。失敗をしないこと。正しく振る舞うこと。

 

 私は、会社で身につけた虚栄を、休日の食卓にまで持ち込んでいた。

 

「……癖になっているのかもしれません」

 

 ようやく、それだけ言った。

 

 彼女は、少しだけ目を細めた。

 

「仕事の癖?」

 

「ええ。失礼がないように、間違いがないように、と考えているうちに、何を楽しみに来たのか、わからなくなってしまうんです」

 

「ふうん」

 

 彼女は、グラスの水をひと口飲んだ。

 

「じゃあ、今日はその癖、ちょっとお休みしなよ」

 

「……できるでしょうか」

 

「できるかどうかじゃなくて、やってみるの。おじさん、転職のことだって、何も始める前から失敗したときのことばっかり考えてたでしょ」

 

 私は、苦笑した。

 

「よく覚えていますね」

 

「当たり前じゃん。あたしが言ったことなんだから」

 

 彼女は、胸を張った。

 

「いい? 今日は接待じゃない。会社の人間として来たんじゃない。おじさんが、自分のお金で、食べたいものを食べに来たんでしょ?」

 

「……ええ」

 

「じゃあ、食べなよ。おいしかったら、おいしいって言えばいい。わかんないことがあったら、わかんないって言えばいい。変に知ったかぶりしなくていいから」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「せっかく、あたしが一緒に来てあげたんだからさ」

 

 その言葉の最後に、彼女らしい照れがあった。

 

 私は、ようやく肩の力を抜いた。

 

「……そうですね。ありがとう」

 

「うん。わかればよろしい」

 

 彼女は満足そうに頷いた。

 

 そのとき、最初の料理が運ばれてきた。

 

     *

 

 前菜は、帆立のポワレだった。

 

 白い皿の中央に、表面を香ばしく焼いた帆立が置かれている。淡い金色の焼き目が、柔らかな身の白さを引き立てていた。周囲には季節の野菜と、柑橘を思わせる香りのソース。皿の余白は広く、料理は小さく見えた。

 

 私は、ナイフとフォークを手に取った。

 

 帆立を切り分けると、表面はわずかに抵抗し、内側は驚くほど柔らかかった。口に運ぶ。焼き目の香ばしさに続いて、帆立の甘みが広がる。ソースの酸味がその甘みを引き締め、舌の上に、海の気配が静かに残った。

 

 私は、思わず目を上げた。

 

「……おいしい」

 

 彼女が、こちらを見た。

 

「でしょ?」

 

「ええ。これは、本当においしいですね」

 

「よかったじゃん。ちゃんと味がわかる人間だったんだ」

 

「君は、私を何だと思っているんですか」

 

「ATM型生物」

 

「まだその呼び方をするんですか」

 

「だって、おじさん、会社のためなら時間も体力も差し出すくせに、自分のためには何にも使わないじゃん。お金を稼いでるのに、そのお金で自分を楽しませることすらしないんでしょ?」

 

 彼女は、自分の帆立をひと口食べた。

 

「それじゃあ、何のために働いてるの?」

 

 私は、答えられなかった。

 

 その問いは、思っていたよりも深く、胸のなかへ沈んでいった。

 

 私は、生活のために働いている。将来のために貯金をしている。社会人として責任を果たすために、与えられた仕事をこなしている。

 

 どれも間違いではない。

 

 だが、そのなかに、自分が何を楽しみたいのかという問いは、ほとんど含まれていなかった。

 

 働いて、疲れて、帰って、眠る。

 

 その繰り返しの先に、何があるのか。

 

 私は、それを考えることを避けてきた。

 

「……自分のためにお金を使うことが、少し苦手なのかもしれません」

 

 私は言った。

 

「必要なものを買うのは構わないんです。でも、ただ自分が楽しむためにお金を使うとなると、どうにも落ち着かなくて」

 

「なんで?」

 

「そうですね……。無駄遣いをしているような気がするんです」

 

 彼女は、呆れたように目を細めた。

 

「おじさん、自分の人生にまで経費削減を適用してるの?」

 

「……そう言われると、返す言葉がありませんね」

 

「でしょ。会社の予算じゃないんだからさ。自分の人生くらい、ちょっとは贅沢したっていいじゃん」

 

 彼女は、フォークを置いた。

 

「もちろん、生活できなくなるほど使えって言ってるんじゃないよ。ちゃんと考えて、払える範囲で、自分が楽しめるものにお金を使えばいい。おじさんが自分で稼いだお金なんだから、誰かに許可をもらう必要なんてないでしょ」

 

 私は、彼女の言葉を聞きながら、グラスを持ち上げた。

 

 冷たい飲み物が喉を通る。

 

 私は、これまで何度もこの店に来た。けれど、こんなふうに料理の味を確かめたことはなかった。帆立の甘みも、ソースの酸味も、皿の上の色彩も、今夜になって初めて、私のものになったように思えた。

 

 それは、料理が変わったからではない。

 

 私のほうが、少しだけ変わったのだろう。

 

 続いて、季節のポタージュが運ばれてきた。

 

 淡い色のスープは、表面が滑らかで、中央には小さな泡が浮かんでいた。スプーンですくうと、とろりとした液体が器の縁を伝う。口に含めば、野菜の甘みと、丁寧に引かれた出汁の旨味が、柔らかく舌を包み込んだ。

 

 彼女は、スプーンを持ったまま、目を細めた。

 

「……これ、好きかも」

 

「気に入ったんですか」

 

「うん。なんか、やさしい味がする」

 

 彼女は、もうひと口飲んだ。

 

「こういうの、家でも作れるのかな」

 

「どうでしょう。手間はかかりそうですが」

 

「じゃあ、今度作ってみようよ。おじさん、料理できるんでしょ?」

 

「簡単なものなら」

 

「へえ。じゃあ、今度はおじさんの手料理ね」

 

「……急に話が飛びましたね」

 

「いいじゃん。あたし、食べてみたいし」

 

 彼女は、何でもないことのように言った。

 

 私は、返事をするまでに少し時間がかかった。

 

 彼女が、私の料理を食べたいと言った。

 

 それは、高級なレストランの料理とは違う、もっと日常的な約束だった。台所に立ち、食材を切り、火を使い、皿に盛る。失敗するかもしれない。味つけを間違えるかもしれない。それでも、自分が作ったものを誰かに食べてもらう。

 

 その光景を想像すると、胸の奥が少し温かくなった。

 

「……ええ。機会があれば、ぜひ」

 

「機会は作るものなんですけど?」

 

「そうでしたね」

 

「よろしい。じゃあ、約束」

 

 彼女は、小指を差し出しかけて、すぐに引っ込めた。

 

「……いや、別に指切りとかしなくていいけど。おじさん、そういうの真面目にやりそうだし」

 

「君が言い出したんでしょう」

 

「うるさいなあ!」

 

 彼女は頬を膨らませた。

 

 私は、声を立てずに笑った。

 

 食卓の空気が、少しずつ柔らかくなっていた。

 

     *

 

 メインディッシュは、仔牛のフィレだった。

 

 皿の中央に、ほどよい厚みの肉が置かれている。表面には美しい焼き色がつき、切り口は淡い薔薇色を帯びていた。濃い色のソースが肉の縁を流れ、添えられた野菜が、深い緑と黄金色の対照をつくっている。

 

 その姿には、無駄がなかった。

 

 肉の形も、焼き色も、ソースの量も、皿の余白も、すべてが計算されているように見えた。美しさが、食べられるものの姿を借りて、目の前に置かれている。

 

 私は、ナイフを入れた。

 

 肉は柔らかく、ほとんど抵抗なく切れた。

 

 口に運ぶ。

 

 まず、肉の繊細な旨味が広がった。強い脂の甘みではなく、きめ細かな肉質から滲み出る、静かで上品な味わい。ソースの深い香りが重なり、噛むほどに、肉そのものの風味が浮かび上がってくる。

 

 私は、ゆっくりと噛んだ。

 

 そして、飲み込んだ。

 

「……おいしいですね」

 

 今度は、言葉にすることに迷いがなかった。

 

 彼女は、こちらを見た。

 

「うん。おいしい」

 

 それから、少しだけ笑った。

 

「おじさん、さっきよりいい顔してる」

 

「そうですか?」

 

「うん。最初、めっちゃ変だったもん。なんか、料理を食べに来たんじゃなくて、料理に試験されに来たみたいな顔してた」

 

「そんな顔をしていましたか」

 

「してた。『この肉の正しい食べ方は何だろう』とか、『この店にふさわしい感想は何だろう』とか、ずーっと考えてそうな顔」

 

 彼女は、フォークで肉を切り分けた。

 

「でも、今はちゃんと食べてる。おいしいものを、おいしいって思ってる顔」

 

 私は、彼女を見つめた。

 

 彼女は、こちらの視線に気づくと、少しだけ眉を上げた。

 

「なに?」

 

「……いえ。そう言ってもらえると、嬉しいですね」

 

「ふうん」

 

 彼女は、ほんの少しだけ頬を赤くした。

 

「ま、あたしの教育の成果ってやつ?」

 

「そうかもしれません」

 

「そこは否定しなさいよ!」

 

 彼女は、私の腕をテーブルの下で軽く蹴った。

 

 私は笑った。

 

 その笑いは、会社の会議室で浮かべるものとは違っていた。誰かに気に入られるためでも、場を和ませるためでもない。ただ、彼女の言葉がおかしかったから笑った。

 

 それだけのことが、こんなにも心地よい。

 

 私は、仔牛のフィレをもうひと切れ口に運んだ。

 

 料理は、相変わらずおいしかった。

 

 けれど、それ以上に、私は自分がここにいることを楽しんでいた。高級な店にいる自分を演じるのではなく、目の前の料理を味わい、彼女の話を聞き、思ったことをそのまま口にする。

 

 私は、初めて、この店を自分のために訪れたのだ。

 

「……君」

 

「ん?」

 

「私は、仕事を辞めることが、ずっと怖かったんです」

 

 彼女は、フォークを置いた。

 

 私は、自分の言葉を確かめるように続けた。

 

「今の会社を辞めたら、次が見つからないかもしれない。今より悪い環境に行くかもしれない。収入が減るかもしれない。そういうことばかり考えていました」

 

「うん」

 

「でも、よく考えてみると、今のままでも、失っているものがあるんですよね」

 

 私は、グラスの表面に浮かんだ水滴を見つめた。

 

「時間も、体力も、気力も。自分が何をしたいのかを考える余裕さえ、なくなっていました。それなのに、辞めたあとの不安ばかりを数えて、今の生活を続けることには、あまり疑問を持っていなかった」

 

 言葉にしてみると、その矛盾は、思っていた以上に明らかだった。

 

 彼女は、静かに私の話を聞いていた。

 

「……私は、今の会社に残ることが、必ずしも正しいわけではないと、ようやく思い始めました」

 

「うん」

 

「だから、求人を探しています。まだ応募はしていませんが……。少なくとも、自分で選べる道がほかにもあるのか、確かめてみたいと思っています」

 

 彼女は、少しだけ笑った。

 

「いいじゃん」

 

 たった、それだけだった。

 

 けれど、その短い言葉には、これまでと同じ、彼女らしい肯定があった。

 

「おじさんが、自分で決めたことなら、いいと思うよ」

 

「……ありがとうございます」

 

「ただし」

 

 彼女は、人差し指を立てた。

 

「応募はすること。求人を眺めて、なんとなく希望を持って、結局何もしないまま終わるのはなしだからね」

 

「わかっています」

 

「ほんとかなあ。おじさん、考えるだけなら一生できそうだし」

 

「……否定はしません」

 

「でしょ?」

 

 彼女は、満足そうに笑った。

 

「じゃあ、次は一社、応募。ちゃんと自分で選ぶこと。会社に選ばれるかどうかだけじゃなくて、おじさん自身も、その会社を選ぶつもりでね」

 

 私は、目を上げた。

 

 自分もまた、会社を選ぶ。

 

 その考え方は、私にとって新鮮だった。

 

 これまで私は、採用されることばかりを考えていた。必要とされるか。役に立てるか。自分を雇う価値があると思ってもらえるか。

 

 けれど、働く場所を選ぶということは、自分の人生を預ける場所を選ぶということでもある。どんな時間を過ごすのか。誰と働くのか。どんな生活を送りたいのか。

 

 私は、その選択の主体であってよかったのだ。

 

「……そうですね」

 

 私は、ゆっくりと頷いた。

 

「次は、一社、応募してみます」

 

「よろしい」

 

 彼女は、満足げに頷いた。

 

「じゃあ、もし落ちたら、激辛ラーメンね」

 

「……なぜ、そうなるんですか」

 

「人生、甘くないってことを身体で覚えるの」

 

「不採用の理由が、激辛ラーメンになるのはおかしいでしょう」

 

「じゃあ、採用されたら普通の味噌ラーメン。落ちたら激辛。わかりやすいじゃん」

 

「君のなかでは、ずいぶんわかりやすいようですね」

 

「そう。あたし、天才だから」

 

 彼女は、胸を張った。

 

 私は笑った。

 

 彼女の冗談は、いつも少し乱暴だ。けれど、その乱暴さが、私の不安を必要以上に深刻なものにしないでいてくれた。

 

 応募して、落ちたらどうしよう。

 

 そんな恐怖を、私はずっと抱えていた。

 

 だが、落ちたら激辛ラーメンを食べる。

 

 そう言われると、失敗は少しだけ具体的になり、少しだけ滑稽になった。人生が終わるわけではない。世界が崩壊するわけでもない。ただ、少し辛いものを食べる羽目になるだけだ。

 

 もちろん、本当の失敗には、もっと深刻な痛みが伴うかもしれない。

 

 それでも、失敗を恐れるあまり、何も始めないよりはよかった。

 

 デザートには、チョコレートムースが運ばれてきた。

 

 艶のある濃い茶色のムースに、薄いチョコレートの飾りが添えられている。スプーンを入れると、表面は静かに割れ、内側は驚くほど滑らかだった。口に含めば、カカオの苦みと甘みがゆっくり広がり、舌の上で溶けていく。

 

 彼女は、目を細めた。

 

「……これ、すごい」

 

「気に入りましたか」

 

「うん。甘いけど、甘すぎない。ちゃんと苦いところもあって、おいしい」

 

 彼女は、もうひと口食べた。

 

「こういうの、好きだな」

 

 私は、その横顔を見た。

 

 彼女は、食べ物の好みを口にするとき、少しだけ無防備になる。普段はあれほど生意気で、何でも知っているような顔をしているのに、おいしいものを食べると、素直に目を細める。

 

 その表情を見るのが、私は好きだった。

 

「……君は、甘いものが好きなんですね」

 

「好きだよ。悪い?」

 

「いえ。今度、甘いものを食べに行くのもいいですね」

 

 彼女は、スプーンを止めた。

 

「……え?」

 

「今回のような店でなくても、喫茶店や、ケーキのおいしい店でも。君が好きなものを、教えてもらえたらと思いまして」

 

 彼女は、しばらく黙っていた。

 

 やがて、いつものように口元を吊り上げた。

 

「なにそれ。おじさん、あたしの好みを知りたいの?」

 

「ええ。君が何を好きなのか、もう少し知りたいと思っています」

 

「……ふうん」

 

 彼女は、顔をそむけた。

 

「ま、まあ? あたしの好みを知りたいっていうなら、教えてあげなくもないけど?」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、ちゃんと覚えてよね。前に教えたことを忘れたら、罰金だから」

 

「何の罰金ですか」

 

「激辛ラーメン一杯」

 

「それは、何でも罰則が激辛ラーメンになっていませんか」

 

「おじさんが辛いの苦手そうだから」

 

 彼女は、いたずらっぽく笑った。

 

「……あ、今の顔。図星?」

 

「いえ。別に、苦手というわけでは」

 

「へえー。じゃあ、今度は激辛ラーメンにしよっか」

 

「……普通の味噌ラーメンにしておきましょう」

 

「はい、逃げたー!」

 

 彼女は声を上げて笑った。

 

 私は、彼女と一緒に笑った。

 

 食事を終える頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

 店員が皿を下げ、会計の準備を整える。私は伝票を受け取り、支払いを済ませた。金額は、決して安くはなかった。

 

 財布をしまいながら、私は少しだけ考えた。

 

 この金額があれば、数日分の食費になる。別のものを買うこともできる。貯金に回すことだってできただろう。

 

 それでも、後悔はなかった。

 

 私は、自分でこの店を選んだ。自分の金を使い、彼女を誘い、料理を味わった。彼女が笑い、私が笑い、これまで知らなかった彼女の好みを少しだけ知ることができた。

 

 それは、単なる浪費ではなかった。

 

 自分の人生に、自分のための時間を取り戻すこと。

 

 そのために使った金だった。

 

 店を出ると、夜の空気が頬を撫でた。

 

 彼女は、満足そうにお腹のあたりをさすった。

 

「……おいしかった」

 

「ええ。私も、そう思います」

 

「うん。おじさん、今日はちゃんと食べてたね」

 

「いつも食べていますよ」

 

「そういう意味じゃないし」

 

 彼女は、呆れたように笑った。

 

「今日は、ちゃんと楽しんでたってこと。仕事の顔じゃなくて、普通のおじさんの顔で」

 

 私は、夜空を見上げた。

 

 街の明かりに遮られ、星はほとんど見えなかった。それでも、空は確かにそこにあった。暗く、広く、私が日々の仕事に追われているあいだも、何ひとつ変わらずに頭上へ広がっている。

 

「……そうですね」

 

 私は言った。

 

「今日は、楽しかったです」

 

 彼女は、少しだけ目を見開いた。

 

 そして、すぐに笑った。

 

「なに、急に素直じゃん」

 

「そう思ったので」

 

「ふうん。まあ、いいけど」

 

 彼女は、私の隣へ並んだ。

 

 歩き始めると、彼女の手が、私の手の近くで揺れた。

 

 触れそうで、触れない距離。

 

 私は、その手を見た。

 

 これまでの私なら、何もしなかっただろう。余計なことをして、相手を困らせたくない。勘違いをされたくない。自分の気持ちを表に出して、拒まれたくない。

 

 そうした考えが、すぐに頭をもたげた。

 

 けれど、私は少しだけ迷ったあと、彼女に声をかけた。

 

「……君」

 

「なに?」

 

「また、こうして食事に行きませんか」

 

 彼女は、私を見上げた。

 

「……いいけど?」

 

「次は、君が好きなものを教えてください。私も、もう少し自分で店を選んでみたいと思っています」

 

 彼女は、少しだけ黙った。

 

 それから、いつもの生意気な笑みを浮かべた。

 

「へえ。いいじゃん。自分から誘えるようになったんだ?」

 

「……まだ、慣れませんが」

 

「じゃあ、練習すれば?」

 

 彼女は、私の袖を軽くつまんだ。

 

「次もおじさんから誘ってよ。あたしが行きたいところを考えておくから」

 

「わかりました」

 

「約束ね」

 

「ええ。約束します」

 

 彼女は、満足そうに頷いた。

 

 そのまま、彼女の指先が、私の袖から離れた。

 

 ほんの短い接触だった。

 

 けれど、私はその温度を、しばらく忘れられずにいた。

 

     *

 

 帰宅したあと、私は机に向かった。

 

 パソコンを開き、ブックマークしていた求人情報を表示する。仕事内容を読み直し、勤務条件を確認し、会社の情報を調べた。

 

 不安は、まだあった。

 

 応募したところで、採用されるとは限らない。今よりよい環境かどうかも、実際に働いてみなければわからない。何より、今の会社を辞めると決めるには、まだ覚悟が足りなかった。

 

 それでも、私は画面を閉じなかった。

 

 応募フォームを開く。

 

 必要事項を入力し、職務経歴書を添付する。入力内容を何度か見直し、誤字がないかを確かめた。

 

 送信ボタンの上で、指が止まった。

 

 私は、息を吐いた。

 

 これを押せば、何かが変わるかもしれない。

 

 変わらないかもしれない。

 

 失敗するかもしれないし、思いがけず道が開けるかもしれない。どちらにしても、今の私には、その先を完全に見通すことはできない。

 

 それでも、選ぶことはできる。

 

 私は、送信ボタンを押した。

 

 画面に、応募完了の表示が出た。

 

 私は、しばらくそれを見つめていた。

 

 たった一社。

 

 それだけのことだった。

 

 けれど、私は初めて、自分の人生を変えるために、自分の意志で何かをした。

 

 誰かに命じられたからではない。会社のためでもない。失敗を避けるためでも、誰かに認められるためでもない。

 

 自分が、そうしたいと思ったからだ。

 

 私は、椅子の背にもたれた。

 

 胸の奥に、恐怖と安堵が同時にあった。

 

 明日になれば、また仕事へ行く。応募した会社から返事が来るまでには、時間がかかるだろう。何もかもが、すぐに変わるわけではない。

 

 それでも、私は今日、自分のために金を使い、自分のために時間を使い、自分のために一つの選択をした。

 

 そのことが、静かな誇りとなって、胸の内側に残っていた。

 

 私は三十二歳だった。

 

 まだ、人生のすべてを知っているわけではない。

 

 むしろ、知らないことのほうが多いのだろう。

 

 それでも、もう一度、自分の人生を自分のものとして扱ってみたいと思った。

 

 翌朝、私はいつもより少し早く起きた。

 

 顔を洗い、朝食を作り、きちんと食べた。

 

 それから、会社へ向かった。

 

 日常は、まだ続いている。

 

 けれど、私のなかでは、何かが確かに動き始めていた。

 




自分に値札をつけるんなら、ちょっとでも高値にしてやりたいじゃない?
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。