人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
──冬の入口に、人は何を脱ぎ捨てるべきか。
十一月の末、山々は冬の身支度をほとんど終えていた。
紅葉は枝にしがみつくことを諦め、道路の隅に乾いた屍骸を積み上げている。空は高く、薄く、どこか人間に対して無関心だった。山間を縫う列車の窓からは、葉を落とした雑木林と、川底の石まで見通せるほど澄んだ流れが見えた。
おじさんは、膝の上に置いた小さな旅行鞄を、何度も確かめた。
財布。着替え。充電器。予約確認の画面。
それから、隣に座る少女の顔。
「……なに?」
少女はスマートフォンから目を上げた。
「来てくれて、ありがとうございます」
「は?」
「温泉旅行ですし、面倒かと思いまして」
「そりゃ面倒くさいに決まってんじゃん。おじさんと旅行とか、罰ゲームの景品にしても在庫処分レベルだし」
「ぐ.」
「しかも二人きり。逃げ場なし。おじさんの加齢臭と人生の敗北臭を、二十四時間吸い続けるわけ。あたしの肺、労災認定されない?」
「……消臭には、気を配っています」
「その反論、年齢じゃなくて匂いで勝負してくるあたりが、もう負け犬のそれなんだよね♡」
彼女は笑った。
その笑顔を見て、おじさんも笑った。
以前なら、彼はこの旅行を計画することさえできなかっただろう。誰かを誘うには、理由がいる。金を使うには、正当性がいる。休むには、休まなければならない事情がいる。楽しむには、翌日の仕事に差し支えないという保証がいる。
だから彼は、何年も何年も、自分の人生を会社の稟議書のように扱ってきた。
申請理由、費用対効果、関係各所への配慮。
そして、いつだって却下するのは自分だった。
けれど今回は、違った。
「普段の感謝を、伝えたくて」
彼は窓の外を見ながら言った。
「君に、連れ出してもらえたことで進展がありました。ちゃんとした食事をしたり、書類を書いたり。とても、助かりました」
「……」
「だから今度は、私からお誘いしようと思ったんです」
少女は、スマートフォンを伏せた。
「ふーん」
「.なんでしょうか」
「いや。おじさんも、たまには人間みたいなことするんだなって」
「たまには余計です」
「うっわ、反抗期? 三十二歳の反抗期とか、成長の遅延にもほどがあるでしょ。お母さんのお腹に忘れ物でもしてきた?」
「……先日、三十三になりました」
「は? じゃあもっとタチ悪いじゃん、三十三歳児。けど、まあ」
彼女は窓の方へ顔を向けた。
「来てあげたんだから、感謝しなよ。宿代も交通費もおじさん持ちだし?」
「もちろん」
「あと夕飯、いいやつにした?」
「山の幸を中心とした会席料理を」
「へえ。いいじゃん。じゃあ、おじさんの人生最後の晩餐として、骨の髄まで味わってあげる♡」
「まだ死んではいませんが」
「社会的にはもう半分死んでるじゃん。毎朝ゾンビみたいな顔で出勤して、夜は死体みたいに帰宅して、休日は布団の中で腐敗。おじさんの一週間、葬儀社の密着ドキュメンタリーか何か?」
「……休日にも外出はしています」
「知ってる。だから今日、ここにいるんでしょ」
少女の返事は、ひどくあっさりしていた。
あっさりしすぎていて、彼はそれ以上、何も言えなかった。
列車は山あいの小さな駅へ滑り込んだ。
扉が開くと、冷気が二人の頬を打った。
おじさんは思わず肩をすくめた。少女は彼のマフラーを見て、露骨に顔をしかめた。
「なにその巻き方。首に布を巻いただけの遭難者?」
「寒さには、慣れておりますので」
「貸して」
彼女は彼の首元に手を伸ばし、マフラーをほどいた。手際よく巻き直し、端を整える。
近い。
彼女の指が、喉元に触れそうなほど近い。
おじさんは息を止めた。
「……はい。これで少しは人間」
少女は一歩離れた。
「なに固まってんの。首輪をつけられた犬みたいな顔して。散歩に連れてってもらえると思った?」
「いえ.近かったので」
「キモ」
「そこまで言いますか」
「言うでしょ。三十三歳にもなって、女の子にマフラー直されただけで挙動不審になるとか。今までどうやって社会生活送ってきたの? 職場で書類にキスでもしてた?」
「そんなことはしません」
「じゃあ、あたしの顔見てないで歩け。宿まで案内して」
彼女は先に歩き出した。
その背中を追いながら、おじさんは、首元に残った彼女の指の温度を意識しないよう努めた。
意識しないよう努める、ということ自体が、もう意識している証拠なのだが。
人間は、まことに面倒な生き物である。
自分の欲望を認めるよりも、それを否定する理屈を作ることに長けている。孤独を寂しさと呼ばず、疲労を限界と呼ばず、好意を好意と呼ばない。名前を与えなければ、責任も生まれないと信じている。
おじさんは、そういう技術だけは立派に身につけていた。
だからこそ、少女の一挙手一投足に胸を乱されながら、彼は自分に言い聞かせた。
これはお礼だ。
これは旅行だ。
これは、ただの──。
「おじさん」
前を歩く少女が振り返った。
「なに、さっきから後ろで、脳みそ煮込みうどんにしてんの?」
「……なんでも、ないです」
「へえ。じゃあ、その顔は生まれつきの不審者面なんだ。救いようがないね♡」
冬の空気の中で、彼女の笑い声が弾けた。
そして彼は、少しだけ救われた気がした。
そのことが、彼自身には、いちばん恐ろしかった。
宿は、谷に沿って建つ古い木造旅館だった。
玄関には磨き込まれた黒い柱が並び、帳場の脇には、季節外れの風鈴が一つ、誰にも鳴らされずに吊るされていた。廊下には畳と檜の匂いがあり、窓の向こうでは、枯れた楓の枝が風に揺れていた。
案内された部屋は十二畳ほどの和室で、窓際には小さな広縁がある。座卓の上には菓子と茶が用意され、障子を開ければ、山肌と川の流れが一望できた。
少女は部屋に入るなり、畳の上に大の字になった。
「はあ~~~~っ。生き返る~~~~っ」
「電車からずっと元気だったと思いますが」
「うるさいな。移動中のあたしと、宿に着いたあたしは別人格なの。おじさんみたいに、会社の社員証を外した瞬間に電池切れする旧式の家電とは違うんで」
「家電……」
「しかも保証期間切れ。修理部品もなし。買い替え推奨」
「買い替えられるなら苦労しませんね」
何気なく口にした言葉だった。
だが、言ってから、おじさんは少し後悔した。
買い替えられるなら。
仕事も、生活も、自分自身も。
彼は何度もそう考えたことがある。もっとましな会社があるのではないか。もっとましな暮らしがあるのではないか。自分にも、まだ別の人生が残されているのではないか。
しかし、そう考えるたび、彼の頭には、今まで積み上げた年月が浮かんだ。
勤続年数。毎月の給与。社会保険。家賃。将来への不安。転職に失敗する可能性。今より悪い職場に当たる可能性。
どれも、もっともらしい理由だった。
もっともらしい理由は、時に、臆病者のための最上級の牢獄になる。
少女は畳から起き上がった。
「……ねえ」
「はい?」
「おじさんってさ。なんでそんなに、今の人生にしがみついてんの?」
彼は湯呑みに手を伸ばしかけて、止めた。
「しがみついてる、といいますか……」
「辞めたいんでしょ、今の会社」
「まあ……そうですね」
「じゃあ、辞めれば?」
「そう簡単な話では.」
「出た~~~! おじさん名物、『そんな簡単に』!」
少女は座卓に肘をつき、にっこりと笑った。
「何かを変えようとするときだけ、急に人生の複雑さを説き始めるの、ほんっと便利だよね。普段は上司の言うことにハイハイ従って、頼まれた仕事は断れなくて、疲れてても笑って、嫌なことがあっても『社会人だから』で飲み込むくせに。自分の人生を変える話になると、急に哲学者みたいな顔しちゃってさ」
「……」
「複雑なのは分かってるよ。お金も必要だし、失敗だって怖いし、家族や生活がある人もいる。そんなの、あたしだって分かる」
少女の声から、笑いが消えた。
「でもさ。それって、何もしない理由にはなっても、何もしなくていい理由にはならないでしょ」
おじさんは黙っていた。
「おじさん、毎日会社に行くじゃん。嫌だ嫌だって言いながら。帰ってきたら、疲れたって言って寝るじゃん。休みの日は、平日に失った体力を回復するために使うじゃん。で、月曜日が来たら、また同じことをする」
少女は指を一本立てた。
「それを何年も続けて、何かがよくなるの?」
「……ならない、ですね」
「でしょ。じゃあ、何のために続けてんの?」
「生活のために.」
「その生活って、何?」
おじさんは顔を上げた。
少女はまっすぐ彼を見ていた。
「会社に行くために生活して、生活するために会社に行く。疲れを取るために寝て、また疲れるために起きる。嫌なことに耐えるために休日を使って、嫌なことに耐えるための体力を回復する」
彼女は、笑った。
「ねえ、それってさ。生きてるんじゃなくて、死なないように管理されてるだけじゃないの?」
障子の向こうで、風が鳴った。
おじさんは、目の前の少女が、いつもの調子で自分をからかっているのではないと分かった。
彼女は怒っていた。
自分のために怒っているのだ。
それが分かってしまうことは、慰められることより、はるかに苦しかった。
「……君は、厳しいですね」
「当たり前じゃん」
彼女は吐き捨てるように言った。
「おじさん、自分のことになるとすぐ甘やかすから。『仕方ない』『もう歳だから』『今さら変われない』って。自分をかわいそうな人に仕立て上げて、そこに居座ってるの。傷つかなくて済むもんね。挑戦しなければ、失敗もしない。選ばなければ、間違えもしない」
「……」
「でも、その代わり、一生何も選べないんだよ」
おじさんは、膝の上で拳を握った。
少女はそれを見て、ほんの少しだけ声を落とした。
「ねえ。あたし、おじさんに成功してほしいわけじゃないんだよ」
「え?」
「転職して年収が上がれとか、夢をかなえろとか、毎日キラキラ生きろとか、そんな気持ち悪いこと言ってんじゃないの」
「気持ち悪いって……」
「だって、そういうのって、結局また別の立派な人間になれって話じゃん。今度は仕事ができる人間になれ、充実した人間になれ、人生を楽しめる人間になれって。おじさん、そうやって誰かの合格点ばっかり探してきたんでしょ」
彼女は座卓の上の菓子を一つつまみ、包み紙を弄んだ。
「そうじゃなくてさ」
しばらくして、彼女は言った。
「おじさんが、自分の人生を、自分のものだと思ってほしいだけ」
その言葉は、飾り気がなかった。
だからこそ、逃げ場がなかった。
おじさんは窓の外を見た。
山は何も答えなかった。
川も何も答えなかった。
ただ、流れていた。
彼は三十三歳になっていた。子供の頃には、三十三歳というのは、もっと立派な年齢だと思っていた。自分の家があり、家族があり、揺るがぬ信念があり、人生の大部分について答えを持っているはずの年齢だと思っていた。
ところが実際の三十三歳は、日々の支払いと睡眠時間を計算し、会社の人間関係に頭を悩ませ、コンビニの弁当を選ぶときに少しだけ健康を気にする、疲れた男だった。
それでも、何もかもを諦めたわけではなかった。
彼は、少女に出会ってから、何度か笑った。
ラーメンの替え玉を奪い合うようなことをした。転職サイトを開いた。履歴書を書いた。応募ボタンの上で指を止め、結局押した日もあった。
小さなことだ。
だが、その小さなことが、自分の人生の中に再び自分の手を差し入れる行為なのだと、最近は思うようになっていた。
「……ありがとう」
彼は言った。
少女は、露骨に嫌な顔をした。
「うわ。出た。感謝で話を終わらせようとする大人」
「そうではなく」
「じゃあ何」
「随分身には刺さるけれど.ちゃんと、聞いてますから」
少女は黙った。
彼は続けた。
「今すぐ全部を変えられるとは思いません。まだ怖いし、何をしたいのかも、はっきり分かっていない。でも、前よりは、自分が何を嫌だと思っているのか、分かるような気がするんです」
「……ふーん」
「それで、何を大事にしたいのかも、考えていこうと思っています」
少女は菓子の包み紙を、きれいに折り畳んだ。
「そっか」
それだけ言って、彼女は立ち上がった。
「じゃ、お風呂行こ。せっかく温泉来たのに、部屋で人生反省会とか、最悪の修学旅行じゃん」
「そうですね」
「あと、おじさん」
「はい?」
「さっきの話、忘れたら殺すから」
「殺っ.物騒ですね」
「忘れるなって意味だよ。バカ」
彼女は振り返らなかった。
しかし、その耳がほんの少し赤くなっていたことに、彼は気づいた。
気づいたが、言わなかった。
言わないことが、今は正しいように思えた。
*
露天風呂は、山の斜面に沿うように設けられていた。
もちろん、二人は別々の浴場へ向かった。
湯船に身を沈めたおじさんは、冷たい空気と熱い湯の境界に、身体をそっと預けた。
湯は少し硫黄の匂いがした。
空には、雲が薄く流れていた。
湯面に映る自分の腕を見て、彼は思った。
自分は、こんなふうに何もせずに座っていてもいいのだろうか。
仕事のことを考えなくてもいいのだろうか。
明日の予定を確認しなくてもいいのだろうか。
何かの役に立たず、誰かの期待に応えず、ただ湯に浸かっているだけで、許されるのだろうか。
その問いが浮かんだこと自体が、彼の病だった。
彼は長いこと、自分の価値を、役に立つことと同一視してきた。
仕事ができるから必要とされる。頼まれたことを断らないから嫌われない。迷惑をかけないから居場所がある。
だが、もし働けなくなったら。
もし誰の役にも立てなくなったら。
もし、誰かの期待に応えられなくなったら。
自分には、何が残るのだろう。
湯けむりの向こうで、枯れ枝が一本、風に揺れていた。
その枝は、誰の役にも立っていなかった。
誰かの期待にも応えていなかった。
それでも、そこにあった。
彼は目を閉じた。
しばらくして、浴場を出ると、脱衣所の時計は夕食の時刻が近いことを告げていた。
浴衣に着替え、部屋へ戻る。
少女は、すでに広縁に座っていた。
髪を乾かし、浴衣の袖を膝の上に畳み、窓の外を見ている。
「早いですね」
「おじさんが遅いんだよ。温泉の中でふやけて、煮崩れた大根みたいになってた?」
「そんなに長くはないです」
「三十三歳の入浴時間としては長すぎ。年寄りの湯治じゃん」
「まだ三十三歳です」
「はいはい。若い若い。気持ちだけはね」
彼女は振り向き、彼の浴衣姿を見た。
「……あれ」
「どうしました」
「なんか、普通」
「.何が」
「いや、おじさんってさ。会社の服着てると、いつも疲れた会社員って感じじゃん」
「まあ、会社員ですし」
「でも浴衣着てると、ただの疲れたおじさんだね」
「ひどくなっていませんか」
「褒めてんの。会社の肩書きがないと、ただの人間なんだなって」
彼女は窓の方へ向き直った。
「……それ、悪いことじゃないからね」
おじさんは、隣に腰を下ろした。
広縁のガラスは冷たく、外の空気が薄く伝わってくる。山の端から、日が沈もうとしていた。木々の隙間に残る紅葉が、最後の光を受けて燃えていた。
二人は、しばらく黙っていた。
沈黙は、以前ほど気まずくなかった。
彼は少女といるとき、自分が何か面白いことを言わなければならない、何か役に立つことをしなければならない、という焦りを、少しずつ忘れられるようになっていた。
それは奇妙なことだった。
彼女は容赦なく罵倒する。人間性を疑うような言葉を平然と吐く。おじさんの生活習慣を笑い、判断の遅さを嘲り、彼の臆病さを遠慮なく暴く。
それなのに、彼女の前では、何もできない自分を隠す必要がなかった。
隠さないでいることが、これほど安らかなことだとは知らなかった。
「ねえ」
少女が言った。
「おじさんって、あたしのこと、どう思ってるの?」
彼はすぐには答えられなかった。
質問そのものより、彼女がそれを冗談にせず尋ねたことに戸惑ったのだ。いつもの調子で茶化してしまえば、ひとまずこの場をやり過ごせる。けれど、それでは彼女がわざわざ口にした意味まで、軽く扱ってしまう気がした。
「……一緒にいると、楽しい。いろいろ助けてもらったし、感謝もしています」
「ふうん。感謝、ね」
少女は窓の外に視線を向けた。
「じゃあ、友達?」
「そうですね。友人、が妥当かと」
「妥当なんだ」
「……ええ。君との関係を、私が勝手に定義するのも如何なものかと」
「なにそれ。おじさん、三十三歳にもなって人間関係の説明書を探してるの? しかも説明書、あたしに書かせる気?」
「そんなつもりはないですが」
「じゃあ、聞くけどさ」
少女は膝の上で指を組んだ。いつものからかうような笑みは、もうなかった。
「あたしが、ほかの人と出かけたり、ご飯を食べたりするようになっても、平気?」
彼は返事を急がなかった。
彼女が誰と会おうと、何をしようと、それを自分が制限する理由はない。そんなことは分かっている。けれど、想像したとき胸の内に生じた小さな引っかかりを、なかったことにもできなかった。
「……少し、寂しいかもしれません」
「友達なのに?」
「友達でも、寂しいことはあるでしょう」
少女は、彼の顔を確かめるように見た。
「じゃあ、あたしがおじさんのところに来なくなったら?」
「来なくなる?」
「ご飯に誘わない。連絡もしない。仕事が大変そうでも、知らんぷり。履歴書を書いたって、応募したって、もういちいち聞かない」
彼女は一つずつ、淡々と並べた。
「そうなったら、どうする?」
彼は湯呑みを持ち上げかけ、結局、手を膝に戻した。
「……困る、と思う」
「どうして?」
「君が声をかけてくれることで、私は何度も助けられましたから」
「それって、あたしが役に立つから?」
思いがけない問いだった。
彼はすぐに首を横に振ったが、それだけで答えたことにはならないと気づいた。
「助けてもらったことは、本当にありがたいんです。でも、それだけではなくて。君と話していると、普段なら考えないことを考えるし、くだらないことで笑うこともある。そういう時間が、大切に思えるんです」
「……大切、ね」
少女は、言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「それ、あたしじゃなくてもいいんじゃないの? 誰かが同じように話を聞いてくれたら、その人でも」
「そうかもしれません」
彼は正直に答えた。
少女が少しだけ顔を上げる。
「……そこは、違うって言うところじゃないの?」
「簡単に違うと言ったら、かえって嘘くさいでしょう。まだ、君のことを知っているつもりで、知らないことも多いから」
言い終えてから、彼は自分の言葉がずいぶん不器用に聞こえただろうと思った。だが、気の利いた答えを取り繕うよりは、今の自分に言えることをそのまま伝える方がいい。
「ただ、君と過ごす時間を、誰でもいいものだとは思っているわけではありません」
少女は何も言わなかった。
夕暮れの光が窓の端から退き、部屋の中に薄い影が伸びていく。
「……ねえ、おじさん」
やがて彼女は、少し声を落とした。
「あたしって、おじさんが会社を辞めたり、ちゃんと自分の生活を立て直したりするまでの、手伝い役なの?」
「違う」
今度は、彼はすぐに答えた。
「おじさんが元気になったら、あたしは用済み?」
「そんなふうには考えていません」
「でも、今はあたしがいろいろ言うから、仕方なく動いてるところもあるじゃん。仕事が変わって、毎日が少し楽になって、ほかに付き合う人もできたら……あたしに用なんてなくなるかもしれないでしょ」
彼女の声は、怒っているようにも、拗ねているようにも聞こえた。けれど、その奥にある不安を、彼は笑い飛ばすことができなかった。
「……そうならないと、今ここで約束することはできません」
少女は目を伏せた。
「そっか」
「けれど、君を何かの役目だけで見ているわけではありません。今は、君に助けられている。それは確かです。でも、それを理由に君がずっと私の面倒を見なきゃいけないなんて思っていないし、君が何をしたいのかも、ちゃんと知りたいと思ってるんです」
「……知って、どうするの」
「まずは、聞きます。分かったつもりになって、勝手に決めないように」
少女は小さく息を吐いた。
「ほんっと、面倒くさいおじさん」
「そうですね。我ながらそう思います」
「そこは否定しなよ」
「否定できるほど、器用ではないので」
彼女は一瞬だけ笑い、それから、また真面目な顔に戻った。
「あたしだって、別に、おじさんを立派な人間に改造したいわけじゃないんだよ。転職して成功しろとか、人生を楽しめとか、そんなのを押しつけたいわけじゃない」
「ええ」
「ただ、毎日つらそうなのに、何も変えないまま我慢してるのを見ると、腹が立つの。自分のことなのに、自分でどうでもいいみたいに扱ってるから」
彼女は座卓の上の菓子を手に取り、包み紙の端を折った。
「それに……あたしが誘ってばっかりなのも、たまに、ちょっと嫌になる」
「……そうでしたか」
「別に、誘うのが嫌ってわけじゃないよ。行きたいから誘ってるんだし。でも、おじさんが自分から誘ってくれたら、あたしと会いたいと思ってくれてるんだって、少しは分かるじゃん」
その言葉に、彼はようやく、今回の旅行を自分から提案したことが彼女にとってどんな意味を持ったのか、少しだけ理解した。
自分は礼を返すつもりで誘った。彼女が温泉を好きだと聞いていたから、喜んでくれるだろうと思った。それは間違いではない。けれど、彼女にとっては、誘いそのものが一つの返事にもなっていたのだ。
「……すみません、気づけなくて」
「はい、すぐ謝る。おじさんの謝罪って、もはや自動返信じゃん」
「気をつけます」
「謝る代わりに、次からは自分で誘って」
「分かりました。約束します」
「本当に?」
「はい。ただ、店選びには少し時間をもらえませんか」
「そこから? 三十三歳、外食の店選びから人生やり直し?」
「慣れていないもので。少し大目に見てくれると助かります」
少女は呆れた顔をしたが、さっきまでの張り詰めた空気は、わずかにほどけていた。
「……まあ、いいけど」
しばらく、二人とも窓の外を見ていた。
やがて少女が、ぽつりと言った。
「あたし達、友達なんだ」
その言葉は、先ほどまでの質問よりも静かだった。
彼は、すぐに返事をしようとはしなかった。
「今のところは。ただ、私自身、君との関係をそれだけだと割り切れているかと聞かれたら、少し自信がありません」
少女は彼の方を見た。
「……なにそれ、どういう意味?」
「まだ、自分でもうまく説明できないですから。何分これ程踏み込んだ間柄の関係を持ったことがないもので」
「それ、逃げてない?」
「逃げたくはないです。ただ、分からないことを分かったふりもしたくないんです」
少女はしばらく黙っていた。
「……あたしも、今すぐ何か決めたいわけじゃない」
その言葉は、思いのほか小さかった。
「おじさんは面倒くさいし、鈍いし、自分のことになると急に判断力がなくなるし。見てるとイライラするし」
「はい」
「でも、一緒にご飯を食べたり、話したりするのは、嫌じゃない。おじさんが少し楽しそうにしてると、まあ……悪くない気分になるし」
彼はうなずいた。嬉しいと言ってしまうには、彼女はまだ慎重に言葉を選んでいた。その慎重さを、勝手に都合よく解釈したくはなかった。
「ありがとうございます」
「……うん」
少女は少し考えてから、いつもの調子を取り戻すように言った。
「じゃあ、次はいつ誘ってくれるの?」
「来週あたり、またご飯でもいかがでしょう」
「遅い」
「そう、ですか?」
「そうなの。三日後」
「三日後。少し急ですが、わかりました」
「店も時間も、自分で決めること。あたしに丸投げしたら減点だからね」
「気をつけます」
「それから、転職の応募も一件。前に応募したところの結果を待つだけじゃなくて、次も探すこと」
「……それは、少しペースが早すぎませんか」
「人生を変えるのに、のんびりしすぎなんだよ。もちろん、無理やり応募しろって意味じゃないけど。自分で決めて、ちゃんと動くこと」
「.もう一社、探してみます」
「よし。言ったからね、よわよわおじさん♡」
「努力します」
「忘れたら、履歴書の写真を全部変顔に差し替えるから」
「それは、困りますね」
「でしょ」
彼女は得意げに笑った。彼も、つられて笑った。
その笑いのあとに、少しだけ間が空いた。
「……今日、誘ってくれてありがと」
少女は、窓の方を向いたまま言った。
「来てくれて、こちらこそありがとうございます。君が楽しんでくれるに越したことはないですから」
「うん。まあ、宿もご飯も、今のところ合格点」
「それはよかった」
「でも、まだ帰りの電車があるからね。最後まで気を抜かないでよ」
「ええ」
「じゃ、お風呂も入ったし、ご飯も楽しみだし。人生の難しい話は一旦おしまい!」
彼女は立ち上がった。
「せっかく温泉に来たんだから、ちゃんと旅行しようよ」
「そうですね」
彼も立ち上がった。
二人の間には、まだ名前のつかないものがあった。けれど、今すぐに答えを出さなければならないわけでもない。少なくとも彼は、分からないまま考え続けることを、以前ほど恐ろしく感じなくなっていた。
「あとあんたいつまで敬語なの?」
「すみません」
「すみませんじゃないでしょ」
「.ごめん」
「よろしい」
*
夕食は、山の幸を中心とした会席料理だった。
先付には茸と菊花のおひたし。椀物には澄んだ出汁に浮かぶ蕪。焼き物には岩魚。小鍋には、薄切りの牛肉と根菜が静かに煮えていた。
少女は献立表を読みながら、真剣な顔で頷いた。
「よし。おじさん、今回は合格」
「何が?」
「料理の選択。いつもコンビニの新商品を選ぶときみたいな、人生どうでもいいですって顔して宿を決めてたら、どうしようかと思った」
「宿はちゃんと調べましたが」
「知ってる。口コミも見たんでしょ。露天風呂の写真を何回も見て、予約画面で値段を比較して、キャンセル規定まで確認したんでしょ」
「……なんで分かるんですか」
「おじさんだから」
「説明になってない」
「おじさんって、失敗しないための準備は死ぬほどするくせに、成功するための一歩はいつまでも踏み出さないじゃん。だから今回は、ちゃんと予約して、あたしを誘って、実際にここまで来た。それは、まあ……偉いんじゃない?」
少女は、わざとらしく咳払いした。
「……ちょっとだけね」
おじさんは、微笑んだ。
「ありがとう」
「だから感謝で話を終わらせるなって!」
「いや、今のは純粋にうれしかったんだよ」
「……っ、あーもう! 食べるよ! 岩魚! 岩魚を食べて黙れ!」
彼女は箸を取った。
彼も箸を取った。
焼きたての岩魚は、皮が香ばしく、身はほろりとほどけた。塩の加減が絶妙で、口に含むと、川魚特有の淡い香りが鼻に抜ける。
おじさんは、ゆっくりと噛んだ。
味わう、という行為を、彼は久しぶりに思い出していた。
仕事の会食では、相手の話を聞きながら食べた。上司の機嫌をうかがいながら食べた。取引先の言葉を聞き逃さないようにしながら食べた。料理が運ばれてきても、会話の流れを気にして、冷める前に食べることさえ忘れた。
食事は、栄養補給だった。
時間を潰すための作業だった。
腹を満たし、明日また働くための燃料だった。
しかし今、目の前にある魚は、ただ魚としてそこにあった。
おいしい。
その感想だけで、十分だった。
「……うまいな」
彼が言うと、少女は口をもぐもぐさせたまま頷いた。
「ん。おいしい」
それから、彼女は彼を見た。
「……ねえ」
「はい?」
「おじさん、今、ちゃんと食べてるね」
「そうだね」
「前はさ、ご飯食べてても、なんかずっと別のこと考えてたじゃん。仕事とか、金とか、明日の予定とか」
「……うん」
「今は?」
彼は、岩魚の皿を見た。
「今は、魚がうまいなって思ってる」
少女は、一瞬だけ目を細めた。
「……そっか」
それだけ言って、彼女はまた食事に戻った。
しかし、その横顔は、先ほどまでよりも少しだけ穏やかだった。
食事の終盤、デザートに林檎のコンポートが運ばれてきた。
少女は一口食べて、満足そうに頷いた。
「……これ、好き」
「よかった」
「うん」
彼女は、スプーンを置いた。
「……おじさん」
「うん?」
「次も、誘ってね」
「え?」
スプーンの先を、くるくると回しながら。
「おじさんから誘ってくれるの、フレンチと、今回で二回目じゃん。まだまだ、あたしから誘った回数の方が多いし」
「そういえば、そうだね」
「ご飯も、旅行も。あたしが行きたいところだけじゃなくて、おじさんが行きたいところにも連れてってよ」
「分かった」
「それから、仕事のことも。あたしに叱られる前に、自分で考えて、自分で決めて。あたしは、おじさんの上司じゃないんだから」
「……そうだな」
「でも」
彼女は、少しだけ視線を逸らした。
「……たまには、叱ってほしいって言ってもいいよ」
彼は笑った。
「それは、ぜひお願いしたいな」
「はあ? 調子に乗んな。あたしの罵倒を定期購読する気? おじさん、精神までサブスク依存症なの?」
「解約しないように頑張るよ」
「そこは自立しろよ!」
彼女は笑った。
彼も笑った。
食事を終えた二人が廊下へ出ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
山の夜は深い。
遠くの宿の灯りが、木々の間に小さく浮かんでいる。
二人は並んで歩いた。
肩が触れそうで、触れない距離だった。
それまでなら、彼はその距離に意味を与えなかっただろう。
ただ歩いているだけだ。
ただ同じ宿に泊まっているだけだ。
ただ、仲のいい友人同士なのだ。
そう言って、心の中に生まれたものを、すべて無害な言葉で包み込んだだろう。
しかし今は、そうしなかった。
彼女が隣にいることがうれしい。
彼女と、これからも会いたい。
そして、彼女が自分をどう思っているのか、もっと知りたい。
それを、彼は否定しなかった。
*
部屋へ戻ると、座卓の上に布団が二組、並べて敷かれていた。
もちろん、互いに十分な距離を取ってある。
少女は布団を見るなり、眉を吊り上げた。
「……ねえ、おじさん」
「うん?」
「これ、あたしの布団、もうちょっと窓から離していい?」
「寒いのか?」
「寒いっていうか、窓際で寝たら、朝起きたときに凍死体みたいになりそうじゃん。おじさんの隣に移動したら、暖房代わりになる?」
「僕は暖房器具じゃないぞ」
「知ってる。暖房器具ならもっと役に立つもん」
「ひどいな……」
「じゃあ、こっちでいいや」
彼女は自分の布団を少しだけ動かした。
二組の布団の間隔が、ほんのわずかに狭くなった。
それだけだった。
しかし、彼は、そのわずかな変化を意識してしまった。
少女はそれを見抜き、意地悪く笑った。
「なに? また意識してんの? おじさん、心拍数がうるさいんですけど。温泉でのぼせた? それとも三十三歳の心臓、そろそろ交換時期?」
「……よく見てるね」
「そりゃ見るでしょ。おじさん、分かりやすいもん」
彼女は布団に座り、膝を抱えた。
「……ねえ」
「うん?」
「さっき決めたこと、忘れないでよ」
「次も、僕から誘うことだね」
「それだけじゃないけど。仕事のことも、自分で考えること」
「分かってるよ。まずは、もう一社探してみる」
「よし。『忙しかった』とか『疲れてた』とか、いつもの言い訳で流したらダメだからね」
「気をつけるよ」
「あと、次のお店。変なチェーン店とか、会社の人と行くような堅苦しい店を選んだら減点だから」
「注文が多いなあ」
「当たり前でしょ。誘うって決めたのはおじさんなんだから」
彼は苦笑した。
「そうだね。ちゃんと考えてみるよ」
少女は少しだけ表情を緩めた。
「……じゃあ、とりあえず、それでいい」
彼女は布団に潜り込み、掛け布団を鼻のあたりまで引き上げた。
「おやすみ、人生の迷子」
「おやすみ」
「……あ、あと」
「まだあるのか?」
「あるよ。おじさん、明日、朝風呂行くからね」
「そうなのか」
「そう。せっかく温泉来たんだから、朝も入る。で、朝ご飯食べて、チェックアウトまでゆっくりする。帰りの電車で寝てもいいけど、降りる駅を間違えたら、山に置き去りにしてやるから」
「分かったよ」
「……それと」
彼女は、もう一度だけ目を開けた。
「今日、来てよかった」
おじさんは、微笑んだ。
「僕も、来てよかったと思う」
「……ふん」
少女は、顔を布団に埋めた。
「……なら、よかった」
部屋の灯りが消えた。
暗闇の中で、旅館の古い柱が、時折、かすかに鳴った。
おじさんは、天井を見つめていた。
眠れなかった。
不安だったからではない。
明日、会社へ行くことを考えていたからでもない。
彼は、これからのことを考えていた。
店を探すこと。予約をすること。自分から彼女を誘うこと。転職の応募をすること。そして、彼女の気持ちを、これからもっと知っていくこと。
どれも、これまでの彼なら、重荷と呼んだかもしれない。
しかし今は、違った。
それらは、未来だった。
失敗するかもしれない未来。思い通りにならないかもしれない未来。それでも、自分で選び、手を伸ばすことのできる未来だった。
「……ねえ、おじさん」
暗闇の中で、少女の声がした。
「起きてる?」
「……起きてるよ」
「明日、寝坊したら置いてくからね」
「分かった。目覚ましをかけておくよ」
「よし。じゃ、おやすみ。よわよわおじさん」
「おやすみ」
彼女は黙った。
おじさんは、静かに息を吸った。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
冬が近づいていた。
何かが終わり、何かが始まる季節だった。
人間は、年を取る。
身体は衰え、選択肢は少しずつ狭まり、取り返しのつかないことも増えていく。若い頃に信じていた可能性の大半は、いつか現実の前で形を失う。
だが、失われるものがあるからといって、残されたものまで捨てる必要はない。
三十三歳の男には、まだ明日があった。
明日、仕事へ行くかもしれない。
また疲れるかもしれない。
臆病になり、言い訳を探し、何も決められなくなる日もあるだろう。
それでも、三日後に会いたい人がいる。
自分から誘うと決めた人がいる。
その人と、これからどんな関係になっていくのか、知りたいと思っている。
それだけのことが、彼にとっては、十分すぎるほどの理由だった。
幸福とは、人生のすべてに満足することではないのかもしれない。
自分の人生を、自分のものとして引き受けること。
誰かに与えられた役割ではなく、自分の意志で誰かを大切にすること。
そして、明日が来ることを、ほんの少しだけ楽しみに思うこと。
その程度の、ささやかなことなのかもしれない。
彼は、暗闇の中で、小さく笑った。
隣の布団から、すぐに声が飛んできた。
「……なに笑ってんの。キモいんだけど」
「いや、なんでもないよ」
「うっわ、絶対なんか考えてるじゃん。おじさん、寝る前に人生の総括でも始めた? 明日死ぬの?」
「死なないよ」
「じゃあ寝ろ。明日も生きるんでしょ」
「……そうだな」
「ん」
今度は、少女も何も言わなかった。
おじさんは、目を閉じた。
彼女の言葉は、いつも容赦がなかった。
その容赦のなさが、彼を傷つけることもある。
けれど、彼女は彼を傷つけるためだけに、言葉を投げているのではなかった。
彼が自分を見捨てようとするたび、彼女は彼を叱った。
彼が自分の人生を諦めようとするたび、彼女は彼に問いを突きつけた。
そして今夜、彼女は初めて、自分自身の弱さを彼に見せた。
彼は、そのことを忘れないだろう。
彼女を、自分の人生を立て直すための道具にしない。
彼女の好意を、都合のいい救いとして消費しない。
彼女が何を望み、何に傷つき、何を大切にしているのか。
それを、これから知っていく。
彼は、まだ立派な大人ではなかった。
しかし、少なくとも今夜、彼は自分の人生から逃げなかった。
そして、隣の布団には、明日も会いたい人がいた。
冬の夜は深かった。
それでも、彼は、もう暗闇をただの終わりだとは思わなかった。
翌朝。
窓の外は、薄い霜に覆われていた。
おじさんが目を覚ますと、少女はすでに起きていて、浴衣姿のまま窓際に立っていた。
「……おはよう」
彼が声をかけると、少女は振り返った。
「遅い。朝風呂行くって言ったじゃん」
「まだ時間はあるだろう」
「おじさんの『まだ時間はある』は信用できないの。人生の大事なことも、いつもそれで先延ばしにするから」
「分かった、分かった。すぐ行くよ」
彼が起き上がると、少女は満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ、朝ご飯も食べて、帰る準備して」
「分かったよ」
「あと、おじさん」
「うん?」
少女は、少しだけ口元を緩めた。
「……次、忘れないでよ」
彼は笑った。
「忘れないよ。店を決めたら、連絡する」
少女は、また顔を赤くした。
「……っ、だから、いちいち言うなってば!」
彼女は彼の枕を掴み、再び投げつけた。
窓の外では、冬の朝日が山を照らし始めていた。
彼は笑いながら、枕を受け止めた。
三日後、彼は彼女を誘うだろう。
そのために店を探し、時間を決め、彼女の好みを考えるだろう。
そして、転職の応募もするだろう。
うまくいくかどうかは、分からない。
彼女との関係が、どんな名前を持つことになるのかも、分からない。
けれど、分からないからこそ、彼は次の一歩を踏み出すのだ。
人生は、答えを出してから始めるものではない。
答えのないまま、誰かと向き合い、何かを選び、その結果を引き受けていくものなのだ。
「ほら、行くよ、おじさん!」
少女が廊下から叫んだ。
「はいはい、今行く!」
彼は立ち上がった。
そして、彼女の後を追った。
冬の入口には、まだ、二人の足跡がなかった。
これから先、どこへ向かうのか。
それは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
彼はもう、誰かに連れ出されるのを待つだけの男ではなかった。
今度は、自分の意志で、彼女の隣を歩こうとしていた。
私は。僕は。一体どうしたいんだろう。どう、なりたいんだろう。