人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで   作:メスガキに勝てない

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誰かにとっては小さくとも我にとっては偉大な一歩である


第五話

 三日という時間は、待つ者には長く、決意した者には短い。

 

 温泉旅行から戻った翌日、おじさんは上司に叱られた。二日目には、朝から予定外の仕事が舞い込み、昼休みは取引先への返信で潰れた。三日目の朝には、出社して間もなく机に積まれた書類を見て、思わず小さく息を吐いた。

 

 人生は、少しばかり前向きになった人間を見つけて、そこに道を空けてくれるほど親切ではないらしい。

 

 それでも、彼は約束を忘れなかった。

 

 三日後。自分から、彼女を誘う。

 

 旅行の帰り際、そう決めた。正確には、彼女に決めさせられたようなものだったが、最後に頷いたのは自分だ。ならば、守るのも自分の役目だろう。

 

 問題は、いつ誘うかではなかった。何と誘うか、そして、誘ったあとに何をすればいいのかが分からなかった。

 

 午前十時半。彼はパソコンの画面を見つめながら、ふと時計を見た。

 

 まだ午前中だった。

 

 退勤まで、気が遠くなるほど時間がある。今日の予定表には、定時で帰れる保証などどこにもなかった。むしろ、夕方以降に予定外の仕事が増えるのが、彼の職場では珍しくない。

 

「……今日、誘うんだったな」

 

 声には出さず、唇だけが動いた。

 

 仕事の合間にスマートフォンを確かめる。少女とのメッセージ画面を開いて、すぐに閉じる。まだ何も送っていないのだから、そこに新しい返事があるはずもない。

 

 自分でも、何をしているのかと思う。

 

 仕事に集中しようとすればするほど、三日後という言葉が頭の隅に居座った。彼女は、こちらが約束を忘れていないか、どこかで気にしているだろうか。それとも、あんなことは冗談半分だったと、もう別のことを考えているだろうか。

 

 どちらでも不思議ではない。彼女は、彼のようにひとつの言葉を何度も反芻する人間ではないように見える。

 

 いや、そう見えるだけかもしれなかった。

 

 彼は、書類に視線を戻した。

 

 まずは今日の仕事を片づけることだ。約束を守るというのは、約束のことばかり考えて、目の前の仕事を放り出すことではない。

 

 そう自分に言い聞かせたところで、仕事が早く終わるわけではなかった。

 

 *

 

 午後七時を過ぎても、彼はまだ会社にいた。

 

 七時半には、上司から追加の確認を頼まれた。八時を回るころ、ようやくひと段落ついたと思ったところへ、明日の朝までに目を通しておくべき資料が届いた。

 

 帰り支度をしている同僚の背中を、彼は少し羨ましい気持ちで見送った。

 

 羨んだところで、仕事が消えてなくなるわけではない。彼は資料を開き、必要な箇所に付箋を貼り、明日確認すべき点をメモに残した。

 

 会社を出たのは、午後九時をだいぶ過ぎてからだった。

 

 駅へ向かう道には、夜の冷たさが降りていた。ビルの窓には、まだいくつか明かりが残っている。歩道を行き交う人々は、それぞれ疲れた顔で、家へ帰るための速度を保っていた。

 

 おじさんは、駅の手前で立ち止まった。

 

 今日、誘う。

 

 三日後に自分から誘うと約束した。その約束は、今日、果たさなければならない。

 

 けれど、今から「食事に行こう」と送ったところで、今夜会えるわけではない。彼女にも予定があるだろうし、店だってこの時間からでは選びようがない。そもそも、自分が何時に帰れるかさえ分からなかったのだ。

 

 彼はスマートフォンを取り出した。

 

『お疲れさま。今日、約束していた食事のことなんだけど』

 

 そこまで打ち、消した。

 

 業務連絡のようだった。彼女に送る言葉なのに、まるで取引先に日程変更を伝える文面だ。

 

 次に、

 

『三日たったから、誘います』

 

 と打ってみた。

 

「……何だ、それは」

 

 思わず独り言が漏れた。報告書ではないのだから、約束の履行を宣言する必要はない。

 

 彼は画面を消し、しばらく考えた。

 

 店は、彼女が前に話していた洋食屋にしようと思っていた。昔ながらのオムライスが評判で、落ち着いた雰囲気らしい。候補をいくつか調べたものの、結局、彼女が行ってみたいと言っていた店が頭に残っていた。

 

 だが、日取りをどうするか。

 

 平日の夜は、仕事が何時に終わるか分からない。今日のように遅くなれば、彼女を待たせることになる。約束を守ろうとして、別の迷惑をかけるのは本末転倒だ。

 

 ならば、次の休日はどうだろう。

 

 予定があるかもしれない。断られるかもしれない。そもそも、休日にわざわざ自分と食事をすることを、彼女がどれほど望んでいるのかも分からない。

 

 そこまで考えたところで、彼は自分の臆病さに苦笑した。

 

 誘う前から、断られたあとのことまで考えている。

 

 それでは、いつまでたっても何も始まらない。

 

 彼は、もう一度メッセージを開いた。

 

『遅くなってごめん。今日、仕事が終わったよ。旅行のときに話した食事のことだけど、今度の休みに一緒に行かないか。前に行ってみたいって言っていた洋食屋を考えてる。都合が悪かったら、別の日でも大丈夫』

 

 読み返してみる。

 

 少し長い。遠慮も多い。けれど、今の自分が書けるのは、たぶんこのくらいだった。

 

 彼は送信した。

 

 送ってしまえば、もう取り消せない。

 

 それなのに、胸の中にあったものが、ほんの少しだけ軽くなった。

 

 *

 

 返事は、すぐには来なかった。

 

 駅のホームで電車を待ちながら、彼はスマートフォンを何度も見そうになるのをこらえた。返事を急かすつもりはない。彼女にも彼女の生活がある。自分が仕事を終えた時間に、いつでも画面を見ているとは限らない。

 

 そう考えてポケットにしまった直後、スマートフォンが震えた。

 

『おっそ』

 

 続けて、もう一通。

 

『三日後って約束したの、忘れてたかと思ったんだけど? よわよわおじさん、約束ひとつ守るのに何日かかるの? ♡』

 

 彼は、口元が緩むのを感じた。

 

『ごめん。忘れていたわけじゃないよ。仕事が思ったより長引いてしまって』

 

『言い訳乙』

 

『今から誘っても、今日の食事には間に合わないから。次の休みはどうかなと思って』

 

 しばらくして、返事が来た。

 

『……今度の休みって、土曜日?』

 

『そう。予定があるなら、別の日にしよう』

 

『別に、予定があるとは言ってないけど』

 

 そのあと、数秒ほど間が空いた。

 

『……あの店、覚えてたんだ』

 

 彼は画面を見つめた。

 

『前に行ってみたいって言っていただろう』

 

『ふーん』

 

 短い返事だった。けれど、そこに続く言葉はすぐには来なかった。

 

 彼女がどういう顔で画面を見ているのか、彼には分からない。少し嬉しそうにしているのかもしれないし、いつものように、何かからかう言葉を探しているのかもしれない。

 

 やがて、メッセージが届いた。

 

『土曜日なら、たぶん大丈夫。何時にするの?』

 

 彼は、そこでまた指を止めた。

 

 何時にするか。そこが大事だった。平日のように、仕事が終わってから慌てて向かうわけではない。休日なら、店の営業時間を調べ、余裕をもって待ち合わせを決められる。

 

 それでも、あまり早い時間に指定するのは気が引けた。彼女が休日をどう過ごしているのか、彼はまだよく知らない。

 

『昼過ぎはどうかな。午後一時くらいなら、僕は大丈夫だと思う』

 

 送信してから、彼は一瞬、画面を見つめた。

 

 今度は、すぐに返事が来た。

 

『お昼? オムライス食べに行くんだから、ちょうどいいじゃん』

 

 その次のメッセージには、猫が得意げに胸を張るスタンプがついていた。

 

『いいよ。じゃあ、土曜日の一時。遅刻したら減点だからね♡』

 

『分かった。遅れないようにするよ』

 

『そこは「任せて」くらい言いなよ。自信なさすぎて、こっちまで不安になるんだけど』

 

 彼は小さく笑った。

 

『任せて。土曜日は、ちゃんと時間に着くよ』

 

『よろしい』

 

 やり取りは、それでひとまず終わった。

 

 彼はスマートフォンをポケットにしまい、到着した電車に乗った。窓に映る自分の顔は、相変わらず疲れていた。明日も仕事はあるし、転職活動だって、応募した会社から返事が来るかどうか分からない。今日の残業がなくなるわけでも、明日から上司が優しくなるわけでもない。

 

 それでも、土曜日の午後一時に、彼女と食事をする約束ができた。

 

 たったそれだけのことだった。

 

 けれど、彼にとっては、思っていたよりも大きなことだった。

 

 *

 

 帰宅したのは、午後十時半を回っていた。

 

 上着を脱ぎ、手を洗い、冷蔵庫の中を確かめる。夕食は駅で買ったおにぎりで済ませるつもりだったが、流しの横に置いたままの野菜が目に入った。

 

 彼は少し迷い、鍋を出した。

 

 味噌汁を作るほどの気力はなかった。野菜を切り、卵と一緒に炒める。それだけの簡単なものを作り、遅い夕食をとった。

 

 食べ終えてから、土曜日の予定をスマートフォンのカレンダーに入れた。

 

 午後一時。洋食屋。

 

 店の場所をもう一度確かめ、営業時間も確認する。予約が必要な店ではなさそうだったが、休日の昼どきは混むかもしれない。少し早めに着いておこう。道に迷わないよう、駅からの経路も調べておく。

 

 そこまでやって、彼はようやくスマートフォンを置いた。

 

 これまでの自分なら、誰かと食事をする約束を、こんなに丁寧に確かめたりはしなかった。相手に任せるか、決まったことにただ従うか。自分が何をしたいかを考えるより先に、面倒を避けることを考えていた。

 

 今も、臆病さが消えたわけではない。

 

 メッセージを送るまでに、何度も文章を書き直した。彼女の返事を待つあいだには、断られた場合の言い訳まで考えかけた。

 

 それでも、送った。

 

 彼女が前に口にした店を覚えていた。自分から行き先を考え、日取りを提案した。彼女の都合を確かめながら、ひとつの約束を形にした。

 

 それは、人生を一変させるような出来事ではない。まして、彼女の気持ちを確かめられたわけでもなかった。

 

 ただ、彼女は土曜日に会うことを承知してくれた。

 

 今は、それで十分だった。

 

 *

 

 布団に入る前、彼はもう一度、メッセージ画面を開いた。

 

 新しい通知はない。

 

 彼は、何か付け足して送ろうかと考えた。今日は遅くなってしまったことをもう一度謝るべきだろうか。店の場所を送ったほうがいいだろうか。それとも、もう一言くらい、楽しみにしていると伝えてもいいのだろうか。

 

 考えてから、やめた。

 

 約束はできた。必要なことは伝えた。これ以上言葉を重ねて、彼女に返事を求めるようなことはしたくなかった。

 

 彼は画面を閉じ、枕元に置いた。

 

 三日後に誘う。その約束は守った。

 

 その先のことは、まだ分からない。

 

 土曜日、どんな話をするのか。彼女は店を気に入ってくれるのか。自分はまた緊張して、妙なことを言ってしまうのか。考えれば不安はいくらでも浮かんだが、今夜は、それをひとつずつ解決しようとは思わなかった。

 

 明日は仕事だ。朝になれば、いつもの電車に乗り、いつもの会社へ向かう。転職活動も続けなければならない。生活は、少しも簡単になっていない。

 

 それでも、土曜日には約束がある。

 

 誰かが自分を引っ張ってくれるのを待つのではなく、自分から声をかけて、決めた約束だった。

 

 彼は、目を閉じた。

 

 温泉で交わした約束は、これで終わったわけではない。むしろ、ようやく始まったばかりなのだろう。

 

 彼女の気持ちを、勝手に決めつけることはできない。自分の気持ちだって、まだ上手に扱えない。だからこそ、焦らず、ひとつずつ覚えていけばいい。

 

 約束を守ること。

 自分から誘うこと。

 相手の都合を聞くこと。

 そして、仕事のことも、逃げずに少しずつ進めること。

 

 今の彼にできるのは、そのくらいだった。

 

 けれど、そのくらいのことを、彼はこれまで長いあいだ、できずにいたのだ。

 

 夜は静かだった。窓の外を車が一台通り過ぎ、遠くで電車の音がした。

 

 おじさんは、三日後ではなく、土曜日の午後一時を思い浮かべながら眠りに落ちた。

 

 約束は守った。

 

 あとは、当日、ちゃんと店にたどり着くことだ。

 

 その程度のことを、彼はひどく真面目に考えていた。

 




ちゃんと誘えるんじゃん。……誘って、くれるんだ。
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