人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
土曜日の朝、おじさんは目覚まし時計が鳴るより少し早く目を覚ました。
窓の外は、薄い曇り空だった。十一月の終わりに近い空気は、カーテンの隙間から忍び込むだけでも十分に冷たい。布団の中にもう少しいたい気持ちはあったが、今日はそういうわけにもいかなかった。
午後一時。
駅の近くにある洋食屋で、彼女と待ち合わせをしている。
約束は、それだけだった。
それだけなのに、おじさんは昨夜、店までの経路を三度も確認した。営業時間も調べ直したし、財布の中身も確かめた。予約を受け付けていない店らしいので、混んでいた場合にどうするかまで考えかけて、さすがにそこまでする必要はないだろうと自分を止めた。
それでも、目が覚めてしまったものは仕方がない。
彼は布団から出て、カーテンを開けた。
空は相変わらず冴えない色をしていたが、雨は降っていない。
「……よし」
誰に向けたものでもない声が、静かな部屋に落ちた。
顔を洗い、髭を剃り、髪を整える。休日に出かけるための身支度など、以前の彼なら、適当に済ませていたはずだった。どうせ行くのは近所のスーパーか、せいぜい駅前のコンビニだ。誰かに会う予定がなければ、寝癖を直す理由さえなかった。
今日は、そうではない。
鏡の中の自分を眺め、おじさんは眉間に寄りかけた皺を指で押し広げた。
別に、若く見られたいわけではない。三十三歳が三十三歳に見えるのは、何も悪いことではないだろう。
ただ、疲れた顔をしていると思われるのは、少し困る。
「……何を気にしてるんだ、僕は」
小さく笑って、鏡から離れた。
朝食を済ませ、食器を洗い、洗濯物を干す。そこまで終えても、出発までにはまだ時間があった。
普段の休日なら、ようやく目が覚めたころに昼食をどうするか考えている時間だ。今日は逆に、時間が余っている。
スマートフォンを手に取り、メッセージ画面を開いた。
昨夜のやり取りは、最後に彼女が送ってきた「よろしい」という短い言葉で終わっている。その下に新しい通知はない。
もちろん、ないからといって、何か問題があるわけではなかった。
彼女だって休日なのだ。こちらの予定に合わせて、朝から待機しているはずもない。
おじさんは画面を閉じた。
それから、もう一度開いた。
「……だから、何をしてるんだ」
スマートフォンをテーブルに置き、少し離れたところから眺める。
何も起こらなかった。
当たり前だった。
*
家を出たのは、約束の一時間ほど前だった。
早すぎることは分かっていたが、家にいても落ち着かなかった。駅までの道を歩き、電車に乗り、いつも仕事へ向かうときとは反対側の改札を抜ける。
休日の駅は、平日とは違う顔をしていた。
通勤客の代わりに、買い物へ出かける家族連れや、友人同士らしい若者たちが行き交っている。誰も急いでいるようには見えない。駅構内の売店では、店員がゆっくりと商品の補充をしていた。
おじさんは、その光景を少し新鮮な気持ちで眺めた。
同じ駅なのに、こんなにも違うものなのか。
仕事へ向かうときには、ここはただ通り過ぎる場所だった。乗り換えを間違えないこと、電車に遅れないこと、会社に着くまでに必要な連絡を済ませること。そうした目的のために使う場所であって、そこに何があるかなど、ほとんど気に留めていなかった。
今日は、駅の壁に貼られた催し物のポスターさえ目に入った。
もっとも、だからといって、人生が急に豊かになったというわけでもないだろう。
ただ、急ぐ理由がないときに、急がずに歩くことを思い出しただけだった。
待ち合わせ場所に着いたのは、午後十二時三十五分だった。
約束まで、二十五分。
早すぎる。
さすがに自覚はあった。
彼は駅前の広場にある時計を見上げ、それから周囲を見渡した。近くに小さな書店がある。時間を潰すにはちょうどよさそうだった。
店に入ると、暖房の効いた空気と紙の匂いが迎えてくれた。
文庫本の棚を眺め、以前から気になっていた小説を手に取る。数ページ読んでみたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
午後十二時四十二分。
まだ、十八分ある。
「……今日は時計を見ないようにしよう」
本を棚に戻した。
無理な目標だった。
*
「おじさーん」
聞き慣れた声がしたのは、午後十二時五十五分だった。
彼が振り向くと、少女が人混みの向こうから歩いてくるところだった。
厚手のコートに、落ち着いた色のマフラー。肩には小さなバッグをかけている。髪はいつもより丁寧に整えられているように見えたが、それを口にしたら、何を言われるか分かったものではない。
彼女は彼の前まで来ると、まず時計を見た。
「……なに。もう来てんの?」
「うん。少し早く着いただけだよ」
「少し?」
少女は駅の時計を見上げた。
「待ち合わせまで五分あるじゃん。おじさん、時間の計算できる? 小学校からやり直したほうがいいんじゃない?」
「いや、道に迷うといけないと思って」
「駅前で迷子になる三十三歳、あまりにも弱すぎるでしょ。地図アプリに見捨てられた男じゃん」
「迷ったわけじゃないよ」
「じゃあ、なんでそんなに早いの?」
「……家にいても、落ち着かなかったからかな」
言ってから、おじさんは少しだけ後悔した。
もっと別の答えがあっただろう。電車の時間を勘違いしたとか、買い物を済ませてきたとか。いくらでも無難な理由は作れたはずだった。
少女は、きょとんとした顔で彼を見ていた。
それから、口元を少しだけ歪めた。
「……ふーん」
「うん」
「なにそれ。遠足前の小学生?」
「そうかもしれないな」
「否定しなよ。そこは」
「否定しても、君は信じないだろう?」
「……っ」
少女は一瞬、言葉に詰まった。
そして、すぐに顔を背けた。
「な、なに。ちょっとは口が回るようになったじゃん。温泉で脳みそ茹でられた効果が、今さら出てきたわけ?」
「そうなのかもしれない」
「調子に乗んな、よわよわおじさん♡」
彼女はいつものように笑った。
その声を聞いて、おじさんはようやく肩の力を抜いた。
昨日からずっと、何か失敗をしてしまうのではないかと思っていた。店選びが気に入られなかったら。会話が途切れたら。彼女が退屈そうな顔をしたら。
けれど、目の前の彼女は、いつもと同じように彼をからかっている。
それだけで、少し安心した。
「じゃあ、行こうか。店はこっちだよ」
「はーい。……あ、ちょっと待って」
少女はバッグの肩紐を直した。
「今日、ちゃんと道を覚えてるんでしょうね?」
「昨日、何度か確認したから大丈夫だと思う」
「何度か?」
「……三回くらい」
「三回も?」
「念のためだよ」
少女は、しばらく彼の顔を見つめていた。
やがて、堪えきれなくなったように吹き出した。
「ははっ、何それ! たかがオムライス食べに行くだけなのに、旅行のしおりでも作る勢いじゃん!」
「そこまではしてないよ」
「してないんだ。残念。おじさんの手作りしおり、ちょっと見たかったのに。『十二時五十五分、少女と合流。十三時、オムライスを摂取』とか書いてあるやつ」
「摂取って……」
「『食後、プリンの有無を確認。午後二時、人生について反省』」
「人生については、食事中に反省しなくてもいいだろう」
「えー? おじさんの人生、毎日反省会しなきゃダメじゃん」
「厳しいなあ」
「当然でしょ。あたし、今日は監督だから。ちゃんとエスコートできるか、見ててあげる♡」
彼女は胸を張った。
おじさんは苦笑し、歩き出した。
その隣に、少女が並んだ。
*
洋食屋は、駅から十分ほど歩いた商店街の一角にあった。
古い看板に描かれた文字は、少し色褪せている。窓辺には小さな鉢植えが並び、木製の扉には真鍮の取っ手がついていた。店内からは、バターを熱したときの香ばしい匂いが漂っている。
少女は、入口の前で立ち止まった。
「……へえ。思ってたより、ちゃんとした店」
「ちゃんとした店、というのは?」
「もっとこう、チェーン店みたいなところを想像してた。おじさん、店選びとか苦手そうだし」
「それは否定できないな」
「否定しなよ!」
彼女は彼の腕を軽く叩いた。
「そこは『君のために一生懸命探しました』とか言うところでしょ。何、あっさり認めてんの?」
「……一生懸命探したのは、本当だよ」
少女の手が止まった。
「……え?」
「前に、ここへ行ってみたいって言っていただろう。だから、覚えていたんだ」
「……」
彼女は看板へ視線を戻した。
「……ふーん」
声が、少しだけ小さくなった。
「まあ、覚えてたことくらいは褒めてあげてもいいけど」
「ありがとう」
「でも、料理がまずかったら減点だからね」
「それは店の人に申し訳ないな」
「おじさんの責任でしょ。選んだんだから」
「そうだな。気に入ってもらえるといいんだけど」
彼女は、扉に手をかけた。
「……まあ、食べてみないと分かんないし。入ろ」
店内は、思ったよりも賑わっていた。
窓際の席には若い夫婦が座り、奥のテーブルでは年配の男性が新聞を読みながら食事をしている。カウンターの向こうでは、白髪の店主がフライパンを振っていた。油の弾ける音と、食器の触れ合う音が、店の中に穏やかな活気を作っている。
店員に案内され、二人は壁際のテーブルに座った。
少女はメニューを開いた途端、目を輝かせた。
「……うわ、何これ。ハンバーグもあるし、ナポリタンもある。エビフライもあるじゃん」
「オムライスを食べに来たんじゃなかったのか?」
「オムライスは食べるよ。これは別の話」
「そうか」
「そうなの。おじさん、人生経験が足りないね。食べたいものが複数あるときは、まず全部検討するのが基本だから」
「なるほど。勉強になるよ」
「でしょ?」
少女は得意げに頷き、メニューをさらにめくった。
「……あ、プリンもある」
「よかったな」
「クリームソーダもある」
「それも頼むのか?」
「うーん……」
彼女は真剣な顔で考え込んだ。
その様子があまりにも真剣だったので、おじさんは思わず笑ってしまった。
「何笑ってんの?」
「いや。真剣に悩んでいるなと思って」
「当たり前でしょ。こういう選択を雑にするから、人生がつまんなくなるんだよ」
「……そうかもしれないな」
彼はメニューに目を落とした。
ハンバーグ。ナポリタン。エビフライ。どれもおいしそうだったが、今日は自分もオムライスを頼もうと思っていた。
彼女が行きたいと言った店で、彼女が食べたがっていたものを、自分も同じように味わってみたかった。
「僕もオムライスにしようかな」
そう言うと、少女が顔を上げた。
「……え、なんで?」
「おいしそうだから」
「いや、おじさん、ハンバーグとか好きそうじゃん」
「好きだよ。でも、今日はオムライスを食べてみたい」
少女は、メニューを持ったまま彼を見つめていた。
「……ふーん」
「何か変かな?」
「別に。自分で食べたいもの決めてるの、珍しいなと思っただけ」
「そんなに珍しいかい?」
「珍しいよ。前のおじさんだったら、あたしがオムライスって言った瞬間、『じゃあ僕もそれで』とか言ってたでしょ」
「……そうかもしれない」
「自分の意思、どこに置いてきたの? 会社のロッカー?」
「会社に置いてきたのなら、明日取りに行かないとな」
少女は一瞬、目を丸くした。
それから、口元を押さえて笑った。
「……なにそれ。ちょっと面白いじゃん」
「それはよかった」
「でも、調子に乗るなよ。今のは三点くらいだから」
「ずいぶん厳しい採点だな」
「おじさんの人生、赤点ギリギリなんだから、甘くできるわけないでしょ♡」
店員が注文を取りに来た。
少女はオムライスとプリンを頼み、クリームソーダについては、最後まで悩んだ末に保留にした。おじさんは同じくオムライスを注文し、食後にコーヒーを頼んだ。
注文を終えると、少女は水の入ったグラスを両手で包んだ。
「……ねえ」
「うん?」
「今日、仕事は大丈夫だったの?」
「今日は休みだからね」
「そうじゃなくて。土曜日にちゃんと休めるの、珍しいんじゃないの?」
彼は少し考えた。
「毎週、必ず休めるわけじゃないよ。仕事の具合によっては、出勤することもある」
「ふーん」
「今回は、予定が入っているから休めるように調整したんだ」
口にしてから、彼は少しだけ緊張した。
休みを調整した、という言い方は、彼女に負担を感じさせるかもしれない。わざわざ自分のために休んだのだと、恩に着せるつもりはなかった。
けれど、少女は水をひと口飲んだあと、いつもの調子で言った。
「へえ。やればできるじゃん」
「……うん」
「まあ、仕事が忙しいのは分かるけどさ。休みの日まで仕事のことばっか考えてたら、ほんとにおじさんの人生、会社の付属品で終わっちゃうからね」
「気をつけるよ」
「気をつけるじゃなくて、休むの。休むのも仕事のうち、って言うでしょ」
「そうだな」
「……あたしだって、毎日誰かと会いたいわけじゃないし。一人で本を読んでるほうが楽しい日もあるし」
彼女は、グラスの水面を見つめながら続けた。
「でも、たまにはこういうのも、悪くないじゃん」
その声は、店内のざわめきに紛れそうなほど小さかった。
おじさんは、すぐには答えなかった。
彼女が一人の時間を大切にすることは知っている。誰かに気を遣い続けるのは、彼女にとっても疲れることなのだろう。だから、誘ったからといって、いつでも来てくれると思ってはいけない。
今日来てくれたことを、当たり前にしてはいけない。
「……そうだね。来てくれて、ありがとう」
彼がそう言うと、少女はすぐに顔を上げた。
「えっ、何? 急に」
「いや、来てくれて嬉しかったから」
「……っ、だから!」
彼女は水のグラスを置いた。
「そういうの、いちいち言わなくていいの! こっちがどう反応していいか分かんなくなるでしょ!」
「ごめん」
「謝るな!」
彼女は、赤くなった頬を隠すようにメニューで顔を扇いだ。
「……ほんっと、面倒くさいおじさん」
「うん」
「……でも、まあ」
彼女はメニューの陰から、ちらりと彼を見た。
「誘ってくれたのは、ありがと」
おじさんは、微笑んだ。
「どういたしまして」
「……だから、そういうところ!」
少女はメニューを閉じ、テーブルに置いた。
その耳が、まだ少し赤かった。
*
オムライスが運ばれてきたのは、それから十分ほどしてからだった。
黄色い卵に包まれたライスの上には、濃い色のデミグラスソースがかかっている。皿の端には、彩りのよい野菜が添えられていた。湯気と一緒に、バターの香りが立ち上る。
少女は、目の前の皿をじっと見つめた。
「……うわ。おいしそう」
「本当だね」
「写真撮っていい?」
「もちろん」
彼女はスマートフォンを取り出し、少し角度を変えながら何枚か撮影した。撮り終えると、満足そうに頷き、スマートフォンをしまった。
「よし。いただきます」
「いただきます」
二人はスプーンを手に取った。
少女は、まず卵とライスを一緒にすくい、口に運んだ。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「……ん」
おじさんは、少しだけ不安になった。
「どうした?」
「……おいしい」
彼女は、もうひと口食べた。
「うん。おいしい。卵、ふわふわだし、ソースもちゃんと濃いのに、しつこくない」
「よかった」
「……あ、ちょっと待って。これ、当たりかもしれない」
「当たり?」
「そう。おじさんにしては、店選び大成功。これは事件だよ。新聞に載せなきゃ」
「そこまでかい?」
「『三十三歳男性、奇跡の店選び。専門家も驚き』」
「専門家って誰だよ」
「知らない。あたし」
彼女は胸を張った。
「はい、これでおじさんの人生に一つ、実績ができました。おめでとうございます」
「ありがとう。履歴書に書いてもいいかな」
「やめなよ。面接官に『この人、オムライス屋を選んだことしか誇れるものがないんだ』って思われるよ」
「それは困るな」
二人は笑った。
おじさんも、オムライスをひと口食べた。
卵は柔らかく、ライスにはほどよく味がついている。デミグラスソースの甘みとほのかな苦みが、卵のまろやかさによく合っていた。
「……おいしいな」
「でしょ?」
少女は得意げに頷いた。
「おじさん、こういうの、もっと食べたほうがいいよ。毎日コンビニのお弁当とか、適当なもので済ませてるんでしょ」
「最近は、少し自炊もしているよ」
「……ほんとに?」
「うん。簡単なものだけど。野菜を炒めたり、味噌汁を作ったり」
少女は、疑わしそうに目を細めた。
「……その味噌汁、ちゃんと味噌入ってる?」
「入ってるよ」
「水に味噌を溶いただけで、味噌汁を名乗ってない?」
「そこまでひどくないと思う」
「思う、って何。自分の料理の味も分かんないの?」
「……今度、もう少し工夫してみるよ」
「うん。そうしな。料理も転職も、やって終わりじゃないんだから。改善、改善」
「耳が痛いな」
「耳だけで済んでよかったね♡」
彼女は、また笑った。
おじさんは、彼女の話を聞きながら、ゆっくりと食事を続けた。
こうして誰かと向かい合って食べることが、以前は少し苦手だった。
何を話せばいいのか分からない。沈黙が続けば、相手を退屈させているのではないかと気になる。自分の話が面白くなければ、無理に話題を探してしまう。
今だって、そうした不安がなくなったわけではない。
けれど、彼女は黙って食べているときも、別に不機嫌そうには見えなかった。思いついたことがあれば話し、話すことがなければ、料理を味わっている。
沈黙を、失敗だと考えなくてもいいのかもしれない。
おじさんは、スプーンを置いて水を飲んだ。
「……どうしたの?」
少女が尋ねた。
「いや。おいしいものを食べていると、黙ってしまうものだなと思って」
「はあ? 今さら何言ってんの。食事中にずっと喋り続けるほうが疲れるでしょ」
「それもそうだね」
「おじさん、会話を途切れさせちゃいけないって、勝手に焦ってそうだもんね」
彼は、少し驚いた。
「……そう見える?」
「見えるよ。仕事でも、相手が黙ると『何か問題があったのでは』とか考えて、余計なこと言っちゃうタイプでしょ」
「……否定しづらいな」
「でしょ。人間、黙ってるときに考えてることなんて、それぞれなんだから。別に全部、おじさんの責任じゃないんだよ」
少女は、オムライスをひと口食べた。
「……まあ、あたしが黙ってるときは、だいたいおじさんのことを呆れてるときだけど」
「それは分かりやすいな」
「分かりやすいなら改善しなよ」
「努力します」
「努力じゃなくて実行」
「はい」
「返事だけは一人前だね♡」
おじさんは笑った。
彼女も笑った。
そのあと、二人はしばらく黙って食べた。
今度の沈黙は、さっきよりも少しだけ気楽だった。
*
食事を終えるころには、店内の混雑も落ち着いていた。
少女は、空になった皿を見て満足そうに息をついた。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
店員が食器を下げに来ると、彼女はメニューをもう一度開いた。
「……さて」
「まだ何か頼むのか?」
「プリン」
「食べるんだね」
「食べるよ。最初からそのつもりだったし」
彼女は迷いなくプリンを注文した。おじさんはコーヒーを頼み、テーブルの上が片づくのを待った。
やがて運ばれてきたプリンは、少し深めの器に入っていた。表面は滑らかで、底には濃い色のカラメルがたまっている。
少女はスプーンを入れ、ひと口食べた。
「……あー、これもおいしい」
「よかったな」
「うん。おじさん、今日は合格」
「それはよかった」
「ただし、まだ一回だからね。今日うまくいったからって、次も成功するとは限らないから」
「分かってるよ」
「本当に? 成功体験ひとつで、急に自信満々になるタイプじゃない?」
「僕は、そんなに単純じゃないと思うけど」
「自分ではそう思ってるんだ」
「……君は、僕をどういう人間だと思ってるんだ?」
少女は、プリンをすくう手を止めた。
「えー?」
少し考えてから、彼女は言った。
「……面倒くさくて、考えすぎで、すぐ自分を後回しにして、何でも悪いほうに考えて。あと、生活能力がよわよわ」
「ずいぶんな言われようだな」
「でも」
少女は、スプーンの上のプリンを見つめた。
「……約束したことは、ちゃんと覚えてる人」
おじさんは、何も言わなかった。
「今回だって、あたしが前に言った店、覚えてたでしょ。自分から誘うっていうのも、ちゃんとやったし」
彼女は、顔を上げた。
「だから、まあ……そういうところは、悪くないんじゃない?」
言い終えると、彼女はすぐにプリンを口に運んだ。
まるで、今の言葉を食べてしまうつもりでいるようだった。
おじさんは、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
嬉しかった。
けれど、嬉しいとそのまま言えば、彼女はまた赤くなって怒るだろう。からかうための材料を、わざわざ自分から渡す必要はない。
それに、彼女の言葉を大げさに受け取るのも違う気がした。
悪くない。
彼女は、そう言っただけだ。
それ以上の意味があるのかどうかは、まだ分からない。
だから彼は、ただ頷いた。
「……ありがとう。そう言ってもらえると、少し安心するよ」
少女は、スプーンを持ったまま彼を見た。
「……うん」
それから、少しだけ眉を寄せた。
「……ほんっと、素直になったね。前は、こういうこと言ったら、すぐ『いや、そんなことは』とか『僕なんて』とか言ってたのに」
「今でも、そう思うことはあるよ」
「じゃあ、何で言わないの?」
彼は、少し考えた。
「君がそう思ってくれたことまで、否定したくないからかな」
少女の手が止まった。
店の奥で、食器の触れ合う音がした。窓の外を、自転車に乗った人が通り過ぎていった。
少女は、しばらく黙っていた。
やがて、彼女は顔を背けた。
「……なにそれ」
「うん?」
「……そういうの、ずるい」
「ずるい?」
「こっちが褒めてあげたのに、変な返し方するから。何て言えばいいか分かんなくなるじゃん」
「……ごめん」
「謝るなってば!」
彼女は、スプーンを置いて頬を膨らませた。
「……もう。おじさん、今日はちょっとだけ、よかったよ」
「うん」
「ちょっとだけだからね」
「分かった」
「次も同じくらいできるとは思わないこと」
「気をつけるよ」
「だから、そこは自信持ちなよ!」
少女は、とうとう笑い出した。
おじさんも笑った。
自信を持てと言われても、すぐに持てるわけではない。けれど、彼女の言葉を、何もかも冗談として片づける必要もないのだろう。
彼は、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
*
店を出たのは、午後二時を少し回ったころだった。
空は朝と同じように曇っていたが、雨は降っていない。商店街には買い物客が増え、八百屋の店先では、店員が段ボール箱を運んでいた。
少女は、店の看板を振り返った。
「……また来てもいいかもね」
「気に入ってもらえたなら、よかったよ」
「うん。オムライスもプリンも合格。おじさんの店選びも、今回だけは合格」
「ありがとう」
「でも、次はあたしが行きたいところだから」
彼は頷いた。
「そうだったね。何か考えているところがあるの?」
「あるけど、まだ教えない」
「そうか」
「おじさんがまた勝手に調べ始めたら困るし」
「……そんなに信用がないかな」
「あると思う? 店の営業時間を何回も確認する人だよ?」
「三回だけだよ」
「三回も確認したんでしょ!」
少女は笑った。
「まあ、いいじゃん。次はあたしが決めるから。おじさんは、ちゃんと来ればいいの」
「分かった。都合が合う日を教えてくれたら、予定を調整するよ」
「……うん」
彼女は、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「じゃあ、また今度ね」
その言葉は、具体的な日時を決める約束ではなかった。次に会う日がいつになるかは、まだ分からない。彼女にも予定があるし、彼の仕事だって相変わらず先が読めない。
それでも、次があるかどうかを確かめるために、無理に言葉を重ねる必要はないと思えた。
今日、彼は自分から誘った。
彼女は応じてくれた。
二人で食事をして、話をして、笑った。
今は、それでよかった。
駅へ向かう途中、少女がふと足を止めた。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「転職のこと。ちゃんと進めてる?」
おじさんは、少し背筋を伸ばした。
「少しずつね。求人を見て、次に応募するところを考えているよ」
「まだ考えてる段階?」
「……うん。仕事が忙しくて、まとまった時間が取れない日もあるから」
少女は、彼をじっと見た。
その目に、いつものからかいだけではないものが混じっている気がした。
「……そっか」
彼女は、それ以上すぐには言わなかった。
「でも、止めるつもりはないんでしょ?」
「もちろん。少しずつでも、続けるよ」
「……なら、いい」
少女は前を向いた。
「いきなり全部変えろなんて言わないよ。そんなの、簡単じゃないだろうし。でも、忙しいって言って何もやらなくなったら、今までと同じじゃん」
「そうだね」
「だから、少しずつでもやること。応募先を探すのも、書類を見直すのも。おじさんが自分で決めて、進めること」
「分かった」
「……よし」
彼女は、満足そうに頷いた。
それから、いつもの調子に戻って言った。
「まあ、今日のところは、オムライスを食べるっていう大仕事をやり遂げたんだから、褒めてあげるよ。よわよわおじさんにしては、よくできました♡」
「ありがとう。次はもう少し難しいことにも挑戦するよ」
「うん。まずは自分の人生を、他人任せにしないところからね」
「……努力するよ」
「実行!」
「はい」
二人は、また笑った。
駅に着くと、少女は改札の前で立ち止まった。
「……じゃ、あたし、こっちだから」
「うん。今日は来てくれてありがとう」
「……もう、それは聞いた」
「そうだったね」
「何回言うの。おじさん、記憶力までよわよわ?」
「それは困ったな」
「ほんとだよ。じゃあ、またね」
彼女は手を軽く振った。
「気をつけて帰ってね」
「おじさんもね。帰ったら、ちゃんと休むこと。あと、転職のことも忘れないこと」
「分かったよ」
「……よし」
少女は改札を通り、数歩進んだところで振り返った。
「……あ、オムライス、おいしかった!」
「うん。僕もおいしかったよ」
「……じゃあね!」
彼女は、今度こそ人混みの向こうへ消えていった。
おじさんは、しばらく改札の前に立っていた。
手を振るのを忘れてしまったことに、少し遅れて気づいた。いや、最後には振ったはずだ。彼女が振り返ったとき、自分も手を上げた。
そんなことを、わざわざ思い返している。
「……まったく」
彼は苦笑した。
たかが食事だ。
店を調べて、待ち合わせをして、オムライスを食べた。それだけのことだった。
けれど、彼は今日、自分で決めた予定を、自分で実行した。彼女が行きたいと言っていた店を覚えていて、そこへ誘い、彼女が楽しんでいるのを見て、嬉しいと思った。
それは、誰かに言われたからやったことではなかった。
自分がそうしたいと思ったから、そうしたのだ。
駅の時計を見ると、午後二時半を少し過ぎていた。
帰って、洗濯物を取り込み、少し休もう。余力があれば、転職サイトを開いて、応募先の候補をひとつ調べてみてもいい。
週が明ければ、また仕事だ。
相変わらず、上司は厳しいだろう。予定どおりに帰れる保証もない。転職活動がうまくいくかどうかだって、まだ分からない。
何も解決してはいなかった。
それでも、今日のことは、きっと覚えているだろう。
彼女がオムライスを食べて目を輝かせたこと。
プリンを前に真剣に悩んでいたこと。
自分の言葉に赤くなって、怒ったふりをしていたこと。
そして、帰り際に、もう一度だけ振り返ってくれたこと。
それらを思い返すだけで、胸の奥が少し温かくなった。
おじさんは、改札を抜けた。
今度は、時計を何度も確かめる必要はなかった。
約束した食事は、無事に終わった。
次の約束は、まだ決まっていない。
それでも、彼は以前より少しだけ、次の休日を楽しみに思っていた。
その気持ちを、まだ彼女に伝えるつもりはなかった。
伝えれば、きっとまた、からかわれる。
そして自分は、うまく言い返せずに困るのだろう。
それでも、いつかは。
そんなことを考えながら、おじさんは家へ帰る電車に乗った。
窓の外では、冬の近い街が、ゆっくりと後ろへ流れていった。
心の奥が暖かい。前を向くって、こういうことなんだろうか。