人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
月曜日の朝、目覚まし時計が鳴るよりも先に、僕は目を覚ました。
枕元のスマートフォンを手に取る。時刻は午前五時四十七分。起きるには少し早い。けれど、もう一度眠りに落ちるには、頭の中がいささか騒がしかった。
土曜日のオムライスが、まだ心のどこかに残っている。
古びた洋食屋のテーブル。湯気の向こうで、スプーンを片手にこちらを見ていた彼女。食後のプリンを前にして、あれほど得意げに笑っていた顔。
そして、別れ際の言葉。
『次はあたしが選んであげる』
あのときの彼女は、ずいぶんと気軽に言ったものだった。気軽に言ったからこそ、僕はその言葉を大切にしてしまう。約束というものは、交わした側よりも、待つ側のほうが重く受け取ってしまうことがあるらしい。
もっとも、次の休みがいつになるかさえ、僕にはわからなかった。
仕事の予定表には、すでにいくつかの会議と、締め切りの近い案件が並んでいた。今週は少なくとも一度、帰りが遅くなる。場合によっては二度か三度。土日に出勤する可能性も、まだ消えてはいない。
僕はスマートフォンを伏せ、布団から出た。
先のことを考えるのは、起きてからでいい。
そう思いながら、洗面所へ向かう。鏡の中には、三十三歳の、少し寝癖のついた男がいた。
幸福というものは、もう少し若く、もう少し身軽な人間に似合うものだと、僕は長いこと思っていた。
しかし、少なくとも今の僕は、土曜日に食べたオムライスの味を思い出すだけで、月曜日の朝をいくらか穏やかに迎えられている。
それを幸福と呼んでしまってよいのかどうか、まだ判断はつかなかった。
ただ、悪くはなかった。
*
その週は、予想どおりに忙しかった。
火曜日は、予定していた打ち合わせが長引いた。水曜日は、夕方になってから急ぎの資料作成を頼まれた。木曜日には、ようやく片づいたと思っていた案件に修正が入り、僕は誰もいなくなったフロアで、パソコンの画面としばらく睨み合うことになった。
帰宅すると、日付が変わる少し前だった。
食事を用意する気力はなく、冷蔵庫から取り出したヨーグルトを食べた。風呂に入り、洗濯物を洗濯機へ放り込み、明日のためにアラームを設定する。
それだけで、一日の終わりだった。
転職活動は、止まってはいなかった。
昼休みに求人を確認し、帰宅後に応募先の情報を調べる。履歴書の文面を少し直し、職務経歴書の表現を見直す。応募した会社からの返事はまだなく、次に応募する先も、決めきれていなかった。
何かが劇的に変わる気配はない。
けれど、以前の僕なら、疲れたという理由だけで求人サイトを閉じ、そのまま何週間も放置していたかもしれない。
今は、少なくとも一度は開く。
ほんの小さな違いだった。誰かに話すほどの成果ではない。それでも、何もしていない自分を責めることに一晩を費やすよりは、いくらかましな過ごし方だった。
金曜日の夜、ようやく仕事を終えた僕は、帰りの電車で彼女とのメッセージを開いた。
最後にやり取りをしたのは、オムライスを食べた日の夕方だった。
『今日はありがと。まあ、店選びは合格にしてあげる♡』
僕が送った『また誘ってもいいかな』という言葉に対しては、
『次はあたしが選ぶって言ったでしょ。よわよわおじさん、もう忘れたの?』
と返ってきた。
忘れるはずがなかった。
僕は画面を眺めたまま、何か送ろうかと考えた。けれど、仕事の愚痴を送るのも違う気がしたし、特に用事もないのに話しかけるのは、彼女の時間を奪うことになるのではないかと思った。
結局、スマートフォンを閉じた。
彼女には彼女の生活がある。
本を読みたい夜もあるだろうし、誰とも話さずに過ごしたい休日だってあるだろう。彼女は以前、ひとりでいる時間を大切にしていると話していた。
僕と過ごす時間が、彼女にとって、ひとりでいる時間を削ってまで手に入れたいものなのか。
そんなことを考えると、気軽に連絡することさえ難しくなる。
考えすぎなのだろう。
おそらく、彼女に言わせれば。
*
翌週の水曜日、僕は上司に呼び止められた。
「最近、少し顔色が戻ったな」
退勤間際、書類をまとめていたときだった。
「そうでしょうか」
「前は、いつ見ても死んで干からびた魚みたいな顔をしていたからな。今は、死にかけている程度で済んでいる」
「それは改善しているのでしょうか」
「しているんじゃないか。知らんけど」
上司は、いつもの調子で笑った。
この人は、人の様子をよく見ている。こちらが隠しているつもりのことまで、存外あっさりと見抜いてしまう。そのくせ、核心を突くときには、妙に遠回しな言い方をする。
「週末、何かあったのか」
「食事に行きました」
「ほう」
その一言に、上司の目がわずかに細くなった。
「誰と」
「……知り合いとです」
「知り合いねえ」
僕は書類を鞄にしまった。
それ以上、話すつもりはなかった。彼女とのことを、職場で面白おかしく話題にするのは、どうにも落ち着かない。
しかし、上司は引き下がらなかった。
「その知り合いといると、顔色が戻るのか」
「どうでしょう。たまたまかもしれません」
「そういうことにしておこう」
彼は机の上のペンを転がしながら、何でもないことのように言った。
「大事にしろよ。仕事以外に、帰りたい場所があるのは悪いことじゃない」
僕は返事をしなかった。
帰りたい場所。
その言葉は、僕が思っていたよりも深いところへ沈んだ。
彼女の住んでいる場所を、僕は知らないわけではない。何度か訪ねたこともある。けれど、彼女の部屋を帰る場所と呼ぶのは、あまりに図々しい。
彼女は僕の家に来ることもあるが、だからといって、そこが彼女にとっての帰る場所になるわけでもない。
そもそも僕たちは、そういう関係なのだろうか。
互いに気を許しているとは思う。食事に誘えば来てくれる。こちらが疲れているときには、遠慮のない言葉で叱りながら、時折、驚くほど優しいことを言う。
僕も、彼女と過ごす時間を大切に思っている。
しかし、そのことに名前をつけようとすると、途端に言葉が見つからなくなる。
「何を難しい顔をしている」
「いえ。少し考え事を」
「考えるのは仕事だけにしておけ。私生活まで稟議にかけるなよ」
「……気をつけます」
「本当に気をつけたほうがいいぞ、お前は」
上司は笑い、僕の肩を軽く叩いた。
「では、また明日」
僕は頭を下げて、職場を出た。
夜風は冷たかった。
駅へ向かう道すがら、上司の言葉を何度も思い返した。
仕事以外に、帰りたい場所がある。
僕にとって、それはまだ場所ではなかった。
彼女と食事をした店の、窓際の席かもしれない。湯気の立つ料理を挟んで、どうでもいい話をしていた時間かもしれない。あるいは、彼女が隣にいて、僕のつまらない失敗を笑ってくれる、その一瞬のことかもしれなかった。
どれも、帰る場所というには頼りない。
けれど、もう一度そこへ行きたいと思う気持ちは、確かにあった。
*
次に彼女から連絡が来たのは、その週の金曜日だった。
『おじさん、生きてる?』
夕食を終え、洗い物をしていた僕は、濡れた手をタオルで拭いてから返信した。
『何とか』
すぐに既読がついた。
『何とかってなに。生活能力よわよわおじさん、ついに食事を取ることも忘れた?』
『今日は食べたよ』
『えらいじゃん。幼児かな?』
『三十三歳です』
『知ってる♡』
短いメッセージが、いくつか続いた。
彼女は、最近読んだ本の話をした。僕は題名を聞いたが、知らない作家だった。彼女は、どうせおじさんはそういうところからして遅れているのだと笑い、今度会ったときに貸してやってもいいと言った。
僕は、ぜひ、と返した。
しばらくして、彼女から新しいメッセージが届いた。
『そういえば、次の休み』
そこで文章が途切れた。
僕は画面を見つめた。
数秒後、続きが届く。
『今月は忙しい?』
思わず、息を止めていた。
すぐに返事をしたかった。けれど、軽率に予定を約束して、あとから仕事で取り消すことになったら申し訳ない。
僕は翌週の予定を頭の中で確認した。平日は会議と締め切りが重なっている。土曜と日曜は、今のところ出勤の予定はない。ただし、金曜日までに案件が片づいていれば、という条件つきだった。
『日曜日なら、今のところ空いているよ。ただ、仕事が入る可能性はあるから、確実とは言えないけれど』
送信してから、少し言い訳がましかったかもしれないと思った。
彼女からの返信は、すぐには来なかった。
僕は洗い物の続きをした。皿を拭き、食器棚へ戻す。流し台を洗い、台所の床に落ちた水滴を布巾で拭く。
スマートフォンが震えたのは、すべてを終えたあとだった。
『じゃあ日曜日。仕事が入らなかったらね』
続けて、もう一通。
『場所はあたしが決める。文句は受け付けませーん♡』
僕は、ようやく肩の力を抜いた。
『楽しみにしているよ』
そう返すと、彼女からはすぐに、
『うわ、素直。こわ』
と返ってきた。
それから、少し間があって。
『……あたしも、まあ、楽しみにしてるけど』
僕は、その一文を何度か読み返した。
画面の中の彼女は、いつものように少し意地悪で、けれど、最後のところだけは妙に慎重だった。
こちらが喜びすぎないように、わざと軽く言ったのかもしれない。
あるいは、本当に、それ以上の意味などないのかもしれない。
僕にはわからなかった。
わからないまま、その言葉を大事にしておきたかった。
*
土曜日は、朝から落ち着かなかった。
予定が確定しているわけではない。金曜日までの仕事の返答次第では、出勤する可能性がある。だから僕は、あまり期待しすぎないようにしていた。
それでも、午前中に目が覚めると、部屋を片づけてしまった。
洗濯物を干し、掃除機をかけ、冷蔵庫の中身を確認する。求人サイトも開いた。次に応募しようと思っている会社の募集要項を読み返し、必要な書類を整理した。
やるべきことを済ませていると、気持ちが少しだけ落ち着いた。
昼過ぎ、スマートフォンに職場から連絡が入った。
案件の修正について、月曜日の朝に対応すればよいという内容だった。今日も、明日も。出勤する必要はなくなった。
僕は、画面を閉じてから、しばらくその場に立っていた。
休みになった。
彼女に会える。
それだけのことだった。
けれど、その二つが続けて頭に浮かんだことが、僕には少し不思議だった。
以前なら、休日はただ、仕事から解放されるための時間だった。眠り、食べ、洗濯をして、翌週のために体力を戻す。余裕があれば、映画を見たり、散歩をしたりする。
それが今では、休日が決まると、そこに彼女のいる可能性を考えてしまう。
彼女の予定が空いているかどうか。どこへ行くのか。何を食べるのか。どんな顔で笑うのか。
僕の生活の中に、彼女のための小さな余白ができていた。
それは、僕が自分で作った余白だった。
そのことを、少しだけ誇らしく思った。
彼女に連絡を入れる。
『仕事は入らずに済みそうです。日曜日、予定どおり大丈夫だよ』
返信は数分後に届いた。
『よかったじゃん。じゃあ、明日はちゃんと寝坊しないこと』
『まだ場所も聞いていないのに?』
『だから、あたしが決めるって言ったでしょ。おじさんは黙ってついてくればいいの』
『わかりました』
『よろしい♡』
そこでやり取りは終わった。
行き先はわからない。
待ち合わせの時間も、まだ決まっていない。
けれど、明日、彼女に会うことだけは決まった。
僕はスマートフォンを机に置き、窓の外を見た。
秋は、いつの間にか深くなっていた。
街路樹の葉は色を変え、夕方の空気には冬の気配が混じっている。季節は、僕が何を決めようと決めまいと、勝手に進んでいく。
仕事も、転職活動も、思うようには進まない。
自分の人生について、明確な答えが出たわけでもない。
それでも、日曜日には、彼女と出かける。
それは約束と呼ぶには、まだ少し曖昧だった。互いの予定が合えば会う。それだけのことだ。彼女は彼女の生活を持ち、僕は僕の生活を持っている。その間に、たまたま重なる時間がある。
けれど、その時間を、僕はただの偶然として扱いたくなかった。
僕が誘ったとき、彼女は来てくれた。
彼女が誘ってくれたとき、僕は行こうと思った。
その繰り返しの中で、何かが少しずつ形を持ち始めているような気がした。
まだ、名前をつけるには早い。
名前をつけた途端、今あるものが壊れてしまうのではないかという恐れも、正直に言えばあった。
それでも、何も言わずに、このまま曖昧なままでいたいわけでもなかった。
僕は三十三歳になって、ようやく、自分の欲しいものを考え始めたのかもしれない。
明日の行き先を知らないまま、僕は少しだけ笑った。
次の休みまでの距離は、まだ長い。
けれど、その距離を縮めるために、僕にできることがある。
少なくとも、次に会ったとき、彼女の話をちゃんと聞こう。
そして、また会いたいと思ったら、そのことを自分の言葉で伝えよう。
それくらいのことなら、今の僕にもできるはずだった。
忙しいの、わかってるのに。またゾンビみたいになったらやだなぁ