人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
日曜日の朝、僕は午前八時に目を覚ました。
目覚まし時計が鳴るまで、まだ三十分ほどあった。昨夜はいつもより早く床に就いたはずなのに、眠りは浅く、夢を見たような気もする。内容は覚えていなかった。
枕元のスマートフォンを手に取る。
彼女からの連絡は、まだなかった。
僕は画面を閉じた。
今日の行き先は、彼女が決めることになっている。待ち合わせの場所も時間も、昨夜の時点では教えてもらえなかった。
『明日になったら教える』
それが彼女の返事だった。
ずいぶんと勝手な話である。こちらにも休日の朝というものがあるし、準備というものがある。けれど、そう言いながらも、僕は彼女の気まぐれを少し楽しみにしていた。
何をするのか、どこへ行くのか。
わからないことが、必ずしも不安とは限らないらしい。
僕は布団から出て、顔を洗った。寝癖を直し、髭を剃り、いつもより少しだけ時間をかけて服を選んだ。派手な服を持っているわけではない。結局、手持ちの中から清潔に見えるものを選ぶだけだったが、それでも普段より鏡を見る回数は多かった。
洗濯機を回し、簡単に朝食を済ませる。
九時を過ぎた頃、ようやくスマートフォンが震えた。
『起きてる?』
『起きているよ』
『えらい。三十三歳児にしては上出来♡』
『ありがとうございます』
『じゃあ、十一時に駅前ね。いつもの改札。遅刻したら置いてくから』
続けて、待ち合わせ場所の地図が送られてきた。
僕は地図を開き、確認した。
いつもの駅から、電車で数駅。乗り換えはない。十一時なら、家を出るのは十時過ぎでいいだろう。
そこまで考えて、ふと気づいた。
行き先は、まだ知らされていない。
『ところで、今日はどこへ行くのかな』
返信は、ほとんど間を置かずに届いた。
『それは着いてからのお楽しみ』
『何か準備が必要な場所ではないよね?』
『おじさん、遊びに行くのに登山届でも書くつもり?』
『いや、そういうわけでは』
『じゃ、黙って来なさい。よわよわおじさん♡』
僕は苦笑して、スマートフォンをポケットにしまった。
彼女の言うとおり、黙ってついていくことにしよう。
今日くらいは、あらかじめ道順を調べる必要もない。
それは、普段の僕には少し難しいことだった。
*
待ち合わせの駅に着いたのは、十時四十分だった。
約束より二十分も早い。
自分でも、これは少し早すぎたと思う。けれど、家で時計を気にしながら過ごすよりは、駅で待っているほうが気楽だった。
改札のそばに立ち、行き交う人々を眺める。
休日の駅は、平日とは違う顔をしていた。仕事へ急ぐ人の代わりに、買い物袋を持った人や、子供の手を引いた家族連れが目につく。誰もが、何かしら自分の目的を持って歩いている。
僕だけが、まだ目的地を知らない。
十時五十分を過ぎたところで、スマートフォンが震えた。
『着いた』
顔を上げると、改札の向こうから彼女が歩いてくるところだった。
淡い色の上着に、歩きやすそうな靴。髪はいつもより丁寧に整えられているように見えたが、それを口にするほど僕は大胆ではなかった。
彼女は僕を見つけると、すぐに眉を上げた。
「……早くない?」
「そうかな」
「そうかな、じゃないでしょ。まだ十時五十分なんだけど」
「道に迷うといけないと思って」
「いつもの駅で迷う人、初めて見たんだけど」
「迷ったことはないよ」
「じゃあ何で二十分も前にいるの」
返す言葉がなかった。
彼女は僕の顔を見て、呆れたように笑った。
「ほんっと、面倒くさいおじさん。そんなに楽しみだったの?」
「……それは」
「はいはい。否定しなくていいよ。顔に書いてあるから」
彼女は、僕の返事を待たずに歩き始めた。
「ほら、行くよ」
「どこへ?」
「まだ秘密」
「いつまで秘密なんだろう」
「おじさんが黙って歩けるようになるまで」
僕は、彼女の後を追った。
どうやら今日は、僕の知らないことばかりになりそうだった。
*
駅を出て、商店街を抜ける。
大通りから一本外れた道には、古い建物がいくつか残っていた。新しい店舗の間に、年季の入った喫茶店や小さな花屋が挟まっている。休日の午前中だからか、人通りはさほど多くなかった。
彼女は迷いなく歩いていた。
「この辺りには、よく来るの?」
僕が尋ねると、彼女は振り返らずに答えた。
「たまにね」
「買い物?」
「それもあるけど。こっちのほうが静かだから」
それだけ言って、彼女は角を曲がった。
その先に、一軒の古書店があった。
間口は狭く、看板の文字も少し色褪せている。窓際には文庫本が積まれ、ガラスの向こうに見える棚には、背表紙の色も大きさもばらばらな本が並んでいた。
彼女は店の前で立ち止まった。
「ここ」
「古本屋さん?」
「見ればわかるでしょ」
「いや、そうだけど」
「この前、話した本。あれ、ここで買ったの」
僕は、彼女が以前話していた作家の名前を思い出した。
「なるほど」
「なるほど、じゃないよ。おじさん、古本屋とか入る?」
「学生の頃は、たまに」
「へえ。意外」
「そうかな」
「今は仕事と求人サイトとコンビニしか知らない生き物かと思ってた」
「そこまでではないよ」
「じゃあ、今日は社会復帰のリハビリね」
彼女は満足そうに頷き、扉を開けた。
小さなベルが鳴った。
店内には、紙と木の匂いがあった。背の低い棚が通路を細かく区切り、奥へ進むほど薄暗くなる。天井の照明は控えめで、店の中には、ページをめくる音さえ聞こえてきそうな静けさがあった。
僕は、思わず息を深く吸った。
こういう場所に来るのは、久しぶりだった。
学生の頃は、休日に古本屋を巡ることもあった。手に取った本の値段を見て、買うかどうかを迷い、結局買わずに帰ることもあった。今思えば、ずいぶんと時間を贅沢に使っていたものだ。
いつから、そういうことをしなくなったのだろう。
「おじさん」
声をかけられて、顔を上げた。
彼女は棚の向こうから、こちらを見ていた。
「何ぼーっとしてんの。もう帰りたい?」
「いや。少し懐かしくて」
「ふうん」
彼女は、それ以上は尋ねなかった。
ただ、僕のいる棚へ近づいてきて、隣に並んだ。
「ここ、たまに掘り出し物があるんだよね。新刊で買うとちょっと高い本も、安く見つかったりするし」
「本を探すのが好きなんだね」
「好きだよ。知らない本を見つけるのも好きだし、前に読んだ本をもう一度読むのも好き」
彼女は、棚から一冊の文庫本を抜き取った。
「同じ本でも、読むときによって、違うところが気になったりするじゃん。昔は何とも思わなかった台詞が、急に刺さったりとか」
「あるね」
「おじさんにも、そういうのあるんだ」
「僕にも、一応、そういうところはあるよ」
「へえ。じゃあ、ただのATM型生物じゃなかったんだ」
「その評価は、そろそろ見直してもらえると助かるな」
「考えとく♡」
彼女は本を棚へ戻し、また別の本を手に取った。
その横顔を眺めながら、僕は思った。
彼女は、僕の知らない時間を持っている。
当たり前のことだった。僕が仕事をしている間、彼女は彼女の生活を送っている。僕が疲れて帰宅し、何も考えずに食事を済ませている夜にも、彼女は本を読み、知らない物語に触れ、自分の好きな場所を見つけているのだろう。
そのことを、僕は少しも不思議に思っていなかったはずなのに。
実際にこうして彼女の後ろを歩いてみると、彼女がひとりで過ごす時間の輪郭が、以前よりもはっきりと見えた気がした。
彼女は、誰かに構ってもらわなければ退屈でたまらない人ではない。
ひとりでも楽しめる。
ひとりでいることを、寂しさだけで埋めようとはしない。
だからこそ、彼女が僕を誘ってくれたことには、意味があるのかもしれなかった。
僕は、棚から一冊の本を手に取った。
表紙には、見覚えのない風景が描かれていた。
「それ、面白いの?」
彼女が覗き込んでくる。
「まだ読んでいないから、わからないよ」
「そりゃそうだ」
「でも、少し気になる」
「じゃあ買えば?」
「……そうだね」
僕は値札を確かめ、しばらく迷ったあと、その本を持ったままレジへ向かった。
彼女は何も言わなかった。
店を出るとき、僕の手提げ袋を見て、少しだけ口元を緩めた。
「買ったんだ」
「うん」
「へえ。おじさん、ちゃんと自分のためにお金使えるんだ」
「本くらいはね」
「成長したねえ」
「ずいぶんと低いところから評価されている気がするな」
「気のせいじゃない?」
彼女は笑った。
その笑い声を聞きながら、僕は手提げ袋を持ち直した。
今日、彼女が連れてきてくれた場所で、僕は一冊の本を買った。
ただそれだけのことなのに、何かを受け取ったような気がしていた。
*
古書店を出たあと、僕たちは少し歩いて、小さな喫茶店へ入った。
古い木枠の窓があり、店内には丸いテーブルがいくつも並んでいた。壁際の棚には雑誌が置かれ、カウンターの向こうでは、年配の店員が静かにコーヒーを淹れている。
彼女は、窓際の席を選んだ。
「ここも、よく来るの?」
「本を買ったあとにね。家に帰る前に、ちょっと休むの」
「いいね」
「でしょ。誰かと来たのは、あんまりないけど」
彼女は、メニューを開いた。
僕は、その言葉を聞き流すことができなかった。
「……今日は、僕と来てよかった?」
尋ねてから、少し後悔した。
まるで、彼女の時間を無駄にしていないか、採点してほしいと頼んでいるようだった。
彼女はメニューから目を上げた。
「何それ」
「いや。せっかくの休日なのに、僕に付き合わせてしまったかなと思って」
「おじさんさあ」
彼女は、わざとらしく大きなため息をついた。
「自分から誘ってほしいって思ってたら、今度は一緒にいて楽しいか心配するの? 忙しいねえ」
「……そういうつもりでは」
「じゃあ、どういうつもり?」
僕は答えられなかった。
彼女は、しばらく僕の顔を見ていた。
やがて、少しだけ声を落とした。
「別に、つまんなかったら来てないよ」
「うん」
「ここ、あたしが好きな場所なの。ひとりで来るのも好き。でも、今日はおじさんと来てもいいかなって思ったから、連れてきたの」
彼女は、そこで一度言葉を切った。
「それじゃ、だめ?」
最後の一言だけが、いつもの調子ではなかった。
僕は、首を横に振った。
「だめなわけがないよ」
「なら、よし」
彼女は、いつもの顔に戻った。
「ほら、注文しなよ。おじさん、こういうときまで考え込むと、コーヒー一杯頼むのに三十分かかるでしょ」
「そこまではかからないと思う」
「じゃあ二十九分?」
「……注文します」
「よろしい♡」
僕たちは、それぞれコーヒーを頼んだ。
しばらくして運ばれてきたカップから、ほのかな湯気が立ち上った。
彼女は砂糖を入れずに飲んだ。僕も同じように口をつける。苦味のあとに、微かな甘い香りが残った。
彼女は窓の外を眺めながら、最近読んだ本の話をした。
物語の結末が気に入らなかったこと。登場人物のひとりが、どうにも好きになれなかったこと。それでも最後まで読んでしまったこと。
僕は、わからないところを尋ねながら聞いていた。
彼女の話は、ときどき飛躍した。好きだと言っていた登場人物を突然けなし始めたり、脇役の台詞を思い出して笑ったりする。話の筋を追うだけなら、少しばかり難しい。
それでも、聞いているのは楽しかった。
僕が仕事の話をするとき、彼女はいつも、要点だけを聞いて遠慮なく感想を言う。時には厳しいことも言うし、僕が言い訳を始めると、すぐに見抜いてしまう。
けれど、今日の彼女は違った。
好きな本について話す彼女は、僕のことをからかうのと同じくらい熱心に、自分の考えを言葉にしていた。
その姿を見ていると、彼女が普段、どんなふうに物事を考えているのか、少しだけわかるような気がした。
もちろん、すべてを理解したわけではない。
彼女が何を大切にしていて、何を嫌い、どんなときに寂しさを感じるのか。そんなことは、まだほとんど知らない。
それでも、知らないことを知りたいと思った。
彼女の好きな本を知りたい。
好きな場所を知りたい。
ひとりでいるとき、何を考えているのかも。
そう思ったとき、僕はようやく、彼女のことを知りたいのだと認めることができた。
それが何を意味するのかは、まだ考えないことにした。
*
喫茶店を出たのは、午後一時を少し回った頃だった。
昼食にはまだ早いような、遅いような時間だったが、彼女は満足そうだった。
「さて、次どうする?」
僕が尋ねると、彼女は少し考えた。
「うーん。今日はこれでいいかな」
「もう帰るの?」
「何、その顔。もっと遊びたかった?」
「いや、そういうわけでは」
「嘘つき」
彼女は笑った。
「今日は、本屋と喫茶店。それで十分。あたし、休日に予定を詰め込みすぎるの好きじゃないんだよね」
「そうなんだ」
「おじさんも、休みの日くらい休みなよ。仕事でよわよわになってるんだから」
「気をつけるよ」
「ほんとに?」
「……努力します」
「はい、出ました。努力します。何も約束してないのと同じ言葉」
彼女は呆れたように肩をすくめた。
けれど、その声には、どこか楽しげな響きがあった。
駅へ向かう道を、僕たちは並んで歩いた。
さっきまでいた喫茶店のコーヒーの香りが、まだ口の中に残っている。手提げ袋の中では、買ったばかりの本が静かに揺れていた。
「ねえ、おじさん」
「うん?」
「さっきの本、ちゃんと読むんだよ」
「もちろん」
「積ん読にしたら、あたしが笑いに行くから」
「それは困るな」
「感想も聞かせてね」
「わかった。読んだら話すよ」
彼女は、満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ次に会うときの話題ができたね」
僕は、思わず彼女を見た。
次に会うとき。
彼女は、ごく自然にそう言った。
次の予定は決まっていない。何曜日になるのかも、どこへ行くのかもわからない。仕事の都合で、しばらく会えない可能性だってある。
それでも彼女は、次に会うことを、当たり前のように口にした。
「……そうだね」
僕は、できるだけ自然に返事をした。
彼女は、こちらの顔を見て、目を細めた。
「何、その顔」
「どんな顔?」
「嬉しいことがあったのに、隠そうとして失敗してる顔」
「そんな顔はしていないと思うけれど」
「してるよ。よわよわおじさん♡」
彼女は笑いながら、先へ歩いていった。
僕は、その背中を追った。
*
駅に着くと、ちょうど電車が来るところだった。
彼女は改札の前で立ち止まり、僕の手提げ袋を指さした。
「本、落とさないようにね」
「うん」
「あと、ちゃんとご飯食べること」
「それは、さっきも言われたね」
「何度でも言うよ。おじさんは放っておくと、すぐ生活能力が消滅するから」
「そんなにひどくはないと思うんだけどな」
「じゃあ、今度会ったときに生活能力テストしてあげる」
「どんなテストなんだろう」
「冷蔵庫の中身を見せる」
「それは……少し考えさせてほしい」
「ほらね!」
彼女は声を上げて笑った。
僕も、つられて笑った。
電車の到着を告げるアナウンスが流れる。彼女は改札へ向かいかけて、ふと思い出したように振り返った。
「今日は、ありがとね」
僕は少し驚いた。
「お礼を言うのは、僕のほうだよ。案内してくれてありがとう。楽しかった」
「……ん」
彼女は、ほんの少しだけ目を逸らした。
「なら、よかった」
それから、いつもの調子で付け加える。
「まあ、あたしが選んだんだから、楽しくて当然だけどね」
「そうだね」
「そこは否定しなさいよ」
「いや、本当にそう思ったから」
彼女は何か言い返そうとして、やめた。
ほんの一瞬、言葉に迷ったように見えた。
やがて、小さく息を吐いて笑った。
「……じゃあ、またね。おじさん」
「うん。また」
彼女は改札を抜け、人波の向こうへ消えていった。
僕は、しばらくその場に立っていた。
追いかける理由はない。引き留める理由もない。
ただ、今日という一日が、もう終わってしまったことを、少し惜しく思っていた。
彼女が選んだ場所は、僕が普段なら立ち寄らないような古書店と喫茶店だった。
特別なことは何もしていない。本を買い、コーヒーを飲み、話をした。それだけだ。
けれど、僕は彼女の好きな場所をひとつ知った。
彼女がどんな本を読み、何を面白いと思い、どんなふうに休日を過ごすのか。その一端を知ることができた。
そして彼女は、僕と過ごすために、自分の好きな場所を選んでくれた。
それは、彼女が僕に合わせてくれたということとは、少し違う気がした。
彼女は自分の好きなものを、自分の好きなままに差し出してくれたのだ。
僕は、それを受け取った。
だから今度は、僕の好きなものを、彼女に見せることができたらいいと思う。
何があるだろう。
考えてみると、すぐには思いつかなかった。
仕事以外の自分について、僕はあまりにも何も知らなかった。好きだったはずのことを、いつの間にか後回しにしてきた。休日は疲れを取るための時間で、趣味は余裕がある人間のものだと、いつからか決めつけていた。
彼女と過ごす時間は、僕に何かを与えてくれる。
けれど、それは彼女が僕の空白を埋めてくれるという意味ではないのだろう。
僕自身が、空白の中に何を置きたいのかを考えるようになった。
彼女の好きなものを知るだけではなく、自分の好きなものも思い出したい。
そして、いつかそれを彼女に話したい。
そのためには、まず、今日買った本を読まなければならない。
僕は手提げ袋を持ち直し、改札を抜けた。
*
帰宅したのは、午後二時半を少し過ぎた頃だった。
部屋は、朝出かけたときと何も変わっていなかった。テーブルの上には求人情報を印刷した紙が置かれ、流し台はきれいなまま、洗濯物はベランダで乾いている。
いつもの部屋だった。
僕は買ってきた本を取り出し、テーブルの上に置いた。
それから、しばらく表紙を眺めた。
読み始めるのは、夕食のあとでもいい。転職活動のために調べておきたい会社もある。月曜日には仕事が待っている。
やるべきことは、いくらでもあった。
それでも、僕は本を開いた。
最初の数ページを読み、登場人物の名前を覚え、物語の舞台を頭の中に描いてみる。
文章を追ううちに、窓の外の音が遠くなっていった。
気づけば、三十分ほどが経っていた。
スマートフォンが震えた。
『ちゃんと帰れた?』
彼女からだった。
『帰れたよ。買った本を読み始めたところ』
送信すると、すぐに返事が来た。
『え、早。ちゃんと読んでるじゃん』
『約束したからね』
『よろしい。えらいえらい』
続けて、もう一通。
『今日は楽しかった?』
僕は、その問いをしばらく見つめた。
駅で別れるときにも、同じことを伝えたはずだった。けれど、彼女はもう一度、尋ねてきた。
何か意味があるのだろうか。
それとも、ただ確認したかっただけなのだろうか。
僕にはわからない。
わからないからこそ、余計な意味を足さずに、思ったことを返すことにした。
『楽しかったよ。君の好きな場所を知ることができて、よかった』
送信してから、少しだけ緊張した。
彼女からの返事は、しばらく来なかった。
僕は本を閉じずに待った。数分後、画面が光った。
『……そっか』
そのあとに、もう一通。
『じゃあ、また連れてってあげてもいいよ』
さらに、少し間を置いて。
『次は別のところね。おじさん、同じ場所ばっかりだとすぐ飽きそうだし』
僕は笑った。
『ありがとう。楽しみにしているよ』
『だから素直すぎるってば。調子狂うんだけど』
最後に、彼女はいつもの言葉を添えた。
『まあ、いいけど♡』
僕はスマートフォンを伏せた。
それから、もう一度本を開いた。
次に会う日が、いつになるのかはわからない。
来週かもしれないし、仕事が立て込めば、もう少し先になるかもしれない。互いの予定が合わず、しばらく会えないことだってあるだろう。
僕たちは、まだ何も決めていない。
どんな関係なのか、これからどうなりたいのか。言葉にして確かめたことは、一度もなかった。
ただ、彼女は次に会うことを口にした。
僕は、その言葉を嬉しいと思った。
それだけで、今は十分だった。
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めていた。
僕は、彼女の好きな場所で買った本を読み続けた。
いつか、読み終えた感想を話そう。
そのときには、彼女がどんな顔をするだろう。
そんなことを考えながら、僕は一頁ずつ、先へ進んだ。
君は、一体どんな人なんだろう。