人生へたへたおじさんが通りすがりのメスガキに幸せにされるまで 作:メスガキに勝てない
買った本を読み終えるまでに、五日かかった。
五日というのは、長いのか短いのか、よくわからない。
学生の頃なら、一晩で読み切っていたかもしれない。休日の午後、気に入った本を手に取って、そのまま夕方まで読み耽る。腹が減れば何か食べ、眠くなれば横になり、目が覚めれば続きを開く。誰にも急かされず、何かに追われることもなく、ただ物語の中にいることができた。
今は、そういうわけにはいかなかった。
朝は決まった時刻に起き、電車に乗り、仕事をする。帰宅すれば食事や洗濯が待っていて、疲れ切った頭では、数ページ読むだけでも精一杯の日がある。
それでも、寝る前に少しずつ読み進めた。
火曜日は十二ページ。水曜日は八ページ。木曜日は、途中で眠ってしまった。金曜日の夜にようやく最後まで辿り着いたとき、僕は本を閉じて、しばらく表紙を眺めていた。
結末は、予想していたものとは少し違った。
登場人物のひとりが、最後まで自分の気持ちを言葉にできないまま、物語は終わる。彼は大切なものを失ったのかもしれないし、あるいは、初めから何も手にしていなかったのかもしれない。
作者は、その答えを読者に委ねていた。
僕は、そういう終わり方が嫌いではなかった。
すべてが説明されてしまうと、物語はそこで終わってしまう。けれど、言葉にされなかったものが残っていれば、読者は本を閉じたあとも、しばらくその世界に留まっていられる。
僕は奥付を確認し、本をテーブルの上へ置いた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
明日は土曜日だった。
今週も、仕事は相変わらずだった。急な修正が入り、予定していた作業が後ろへずれ込み、金曜日の午後には上司から追加の資料作成を頼まれた。幸い、週末の出勤は避けられたものの、月曜日に片づけなければならない仕事がいくつか残っている。
転職活動も、目立った進展はなかった。
先に応募した会社からは、まだ返事がない。次の応募先については、候補を二社まで絞ったところだった。求人票に書かれた条件を眺めていると、今の職場よりましな場所が本当にあるのか、疑わしくなることもある。
それでも、探すことはやめていなかった。
求人サイトを閉じ、僕はスマートフォンを手に取った。
彼女とのメッセージを開く。
最後にやり取りをしたのは、二日前だった。僕が本を読み始めたと伝えると、彼女は「途中で寝落ちして、読んだ気になってるだけじゃないでしょうね」と返してきた。
僕は、読み終えたことを伝えようかと思った。
けれど、感想を話すなら、会ったときのほうがいい気がした。
文字で送ってしまえば、きっと彼女は何かしら返事をくれるだろう。彼女のことだから、僕の感想のどこかを見つけて、意地悪なことを言うかもしれない。
それを想像すると、少し笑ってしまう。
僕はスマートフォンを置き、代わりに本を手に取った。
表紙の角が、ほんのわずかに折れていた。
読み終えた本は、もう買ったときの本ではなかった。僕がページをめくり、指で押さえ、眠気に負けて伏せた時間が、そこには残っている。
それは、彼女が好きな場所から持ち帰ったものだった。
僕は本を本棚へしまわず、テーブルの端に置いたままにした。
次に会ったとき、感想を話そう。
そして、今度は僕の好きな場所へ、彼女を連れていけたらいい。
そう考えたところで、ひとつ問題があることに気づいた。
僕の好きな場所とは、どこだろう。
*
土曜日の朝、僕は部屋の中を歩き回っていた。
別に、何かを探していたわけではない。
ただ、彼女に見せられるような場所を考えていた。
駅前の商業施設。以前、同僚に連れていかれた居酒屋。職場の近くにある、昼食を食べるためだけの定食屋。たまに立ち寄る書店。
どれも、悪い場所ではない。
けれど、彼女にわざわざ見せたいかと尋ねられれば、答えに窮した。
僕の休日は、長いこと、仕事の疲れを取り除くために使われてきた。家で眠る。近所で食事をする。日用品を買い足す。たまに映画を見ることもあったが、見終わったあとに誰かと感想を話すわけでもない。
それらは、僕にとって必要な時間だった。
しかし、好きな場所と呼べるかどうかは、また別の話だった。
彼女は、古書店を案内してくれた。
彼女がひとりで過ごす時間の中にある場所だった。そこへ僕を連れていくことは、彼女自身の一部を、少しだけ見せてくれることだったのだと思う。
では、僕はどうすればいいのだろう。
僕の生活は、彼女のそれほど豊かではない。
いや、豊かではないと決めつけるのも、少し違うのかもしれない。
ただ、長い間、自分のために何かを選ぶことを怠ってきた。
仕事に都合のいいもの。疲れていても簡単に済ませられるもの。失敗しても傷つかずに済むもの。そういうものを選ぶことには、ずいぶん慣れていた。
自分が何を好きなのかを考える機会は、いつの間にか減っていた。
僕は、窓の外を眺めた。
秋の空は高く、雲がゆっくり流れていた。
ふと、思い出した。
昔、よく歩いた場所がある。
街の中心から少し離れたところにある、大きな公園だった。学生の頃、講義のない日に、駅から遠回りしてそこへ行くことがあった。特別な景色があるわけでもない。広い芝生と、池と、何本もの木があるだけの公園だった。
僕は、そこのベンチで本を読んだり、何もせずに座っていたりした。
風が吹くと、木々の葉が一斉に揺れる。
池には鴨がいて、時折、子供たちが餌をやろうとして親に止められていた。
そんな、何でもない場所だった。
社会人になってからは、ほとんど行かなくなった。
行かなくなった理由は、思い出せなかった。
忙しくなったからだろうか。休日を有効に使わなければならないと、勝手に思い込んだからだろうか。
僕はスマートフォンで公園の名前を検索した。
今も、そこにあるらしい。
電車で三十分ほど。駅から歩いて十五分。
遠くはない。
ただ、彼女が気に入るかどうかはわからなかった。
何もない場所だ。古書店のように本を探せるわけでも、喫茶店のようにコーヒーを飲めるわけでもない。散歩をして、疲れたら座る。それだけの場所だった。
彼女は、退屈するかもしれない。
そう思ったとき、僕は少しだけ苦笑した。
彼女が僕を古書店へ連れていってくれたとき、僕は退屈しなかった。
彼女が好きな場所だったからだ。
ならば、僕も、彼女が気に入るかどうかばかりを気にする必要はないのかもしれない。
自分が好きだった場所を、好きだったものとして見せればいい。
それで彼女が退屈したなら、そのときは一緒に別の場所へ行けばいいのだ。
ずいぶんと当たり前のことだった。
僕は、彼女とのメッセージを開いた。
しばらく文章を考えてから、打ち込む。
『今度、僕がよく行っていた場所に、一緒に行ってみないかな』
送信する直前、指が止まった。
彼女が忙しかったらどうしよう。興味がなかったら。そもそも、僕が誘うことを、彼女は望んでいるのだろうか。
いつもの考えが、いくつも浮かんだ。
僕は、一度息を吐いた。
そして、送信した。
*
返事が来るまで、十分ほどかかった。
その十分の間に、僕は洗濯物を取り込み、台所を片づけ、読み終えた本をもう一度手に取った。
スマートフォンが震えた。
『なにそれ。おじさんにも行きつけの場所とかあるんだ』
僕は、思わず笑った。
『昔、よく行っていた公園があるんだ。今もあるみたいだから、久しぶりに行ってみようかと思って』
『公園?』
『うん。特別なものは何もないけれど』
『何もないのに誘うの?』
彼女らしい返事だった。
僕は、少し考えてから答えた。
『何もないところが、好きだったんだと思う』
送信すると、しばらく既読がつかなかった。
僕は、その間にコーヒーを淹れた。
湯を注ぎ、粉が膨らむのを眺める。コーヒーの香りが、静かな部屋に広がった。
カップを持ってテーブルへ戻ると、ようやく返事が届いていた。
『ふうん』
それだけだった。
続きがあるのかと思って待っていると、さらに一通。
『いいよ。行ってあげる』
そして、いつもの言葉。
『ただし、つまんなかったらおじさんのせいだからね♡』
僕は、カップを置いた。
『わかった。ありがとう』
『あと、いつ?』
僕は、仕事の予定を確認した。
来週の土曜日は、今のところ空いている。ただ、月曜日に持ち越した仕事の進み具合によっては、平日の残業が増える可能性があった。
確実な約束をするには、少し早い。
けれど、先延ばしにしすぎるのも違う気がした。
『来週の土曜日は、今のところ空いているよ。仕事が入らなければ、だけど』
『また仕事が入らなければ、かあ』
彼女の返事には、少し間があった。
『まあ、おじさんの仕事が大変なのは知ってるし。確定したら教えて』
『ありがとう。できるだけ早く連絡するよ』
『うん』
そこでやり取りは終わった。
僕はスマートフォンを伏せ、コーヒーを飲んだ。
彼女は、来てくれると言った。
それだけで、十分だった。
来週の土曜日がどうなるかは、まだわからない。仕事が入るかもしれないし、彼女の都合が悪くなるかもしれない。
けれど、少なくとも僕は、自分から誘うことができた。
自分の好きだった場所へ、彼女を連れていきたいと思った。
その気持ちを、言葉にすることができた。
僕にとっては、それだけでも、小さな前進だった。
*
その週の仕事は、最後まで僕を解放してくれなかった。
月曜日、火曜日と残業が続き、水曜日には、先方からの返答待ちだった案件が動き出した。木曜日は、別の部署との調整に時間を取られた。
金曜日の夕方、ようやく一息ついたと思ったところで、上司が僕の机に書類を置いた。
「悪い。これ、月曜の午前中までに目を通しておいてくれ」
「……わかりました」
「そんな顔をするな。土日に出てこいとは言ってない」
「はい」
「本当だぞ。家でやれ。いや、家でもやるなと言いたいところだが、まあ、そこは大人の事情だ」
上司は苦笑した。
僕は書類を受け取り、鞄にしまった。
月曜日の朝までに目を通す必要がある。土曜日に出勤することはないにしても、休日のどこかで時間を取らなければならないだろう。
来週の土曜日は、まだ先だ。
それまでに、今抱えている仕事を少しでも減らしておきたい。
職場を出たのは、午後八時を過ぎてからだった。
駅へ向かう途中、僕はスマートフォンを取り出した。
彼女に、まだ何も連絡していない。
来週の予定は、確定したら知らせると約束した。今のところ、土曜日に出勤する予定はない。ただし、金曜日までに仕事が片づいている保証もない。
僕は、正直に伝えることにした。
『来週の土曜日だけど、今のところ仕事は入っていないよ。ただ、月曜日に締め切りの仕事が残っているから、平日の進み具合によっては予定が変わるかもしれない』
送信して、少し待つ。
返事は、電車に乗ってから届いた。
『りょーかい』
続けて、
『無理そうなら無理って言ってね。あたし、別に公園に行くために生きてるわけじゃないし』
僕は、窓に映る自分の顔を見た。
彼女は、いつもこういう言い方をする。
こちらに気を遣わせないように、わざと軽い調子で言う。来られなくても構わない。予定が変わっても気にしない。そういうふうに、逃げ道を用意してくれる。
それは優しさなのだろう。
けれど、僕には、その優しさに甘えすぎてはいけないような気もした。
彼女が自分の時間を大切にしていることを、僕は知っている。
だからこそ、会いたいと思ったときには、その気持ちを曖昧にしないほうがいい。
僕は、少し考えてから返信した。
『ありがとう。もし予定が変わりそうなら、早めに伝えるよ。僕は、できれば一緒に行きたいと思っている』
送信したあと、顔が熱くなった。
電車の中で、誰かに見られているわけでもないのに、妙に落ち着かない。
言い過ぎただろうか。
重たく受け取られただろうか。
また、余計なことを考え始めたところで、スマートフォンが震えた。
『……ん』
その一文字を見て、僕は困ってしまった。
どう返せばいいのかわからない。
しばらくして、もう一通届いた。
『じゃあ、ちゃんと仕事片づけなさい。よわよわおじさん♡』
僕は、ようやく息を吐いた。
『努力します』
『またそれ!』
画面の向こうで、彼女が呆れている姿が目に浮かんだ。
僕は小さく笑った。
車窓の外では、夜の街が流れていた。
*
土曜日の朝、僕はいつもより早く目を覚ました。
窓の外は曇っていた。雨が降るほどではなさそうだったが、空気は冷たく、冬が近づいていることを感じさせた。
朝食を済ませ、洗濯機を回す。
そのあと、テーブルに書類を広げた。
月曜日までに確認しなければならない資料は、思っていたよりも多かった。すべてを丁寧に読み込むには、半日ほどかかるだろう。
僕は、午前中を仕事に使うことにした。
休日に仕事をすることを、以前の僕は、ただの損失だと思っていた。休みが削られる。自分の時間が失われる。会社のために、自分の生活を差し出している。
それは、間違ってはいない。
けれど、今は、仕事を片づけることで守れる時間があることも知っていた。
来週の土曜日。
彼女と公園を歩く時間。
何もない場所を、何もないまま楽しむ時間。
それを守るために、今できることをする。
僕は書類を一枚ずつ読み、必要な箇所に印をつけた。昼前には、ひと通り目を通し終えることができた。
残った作業を整理し、月曜日に確認する事項を書き出す。
時計を見ると、午後一時を少し回っていた。
思ったよりも早く終わった。
僕は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
それから、テーブルの端に置いてあった本を手に取った。
読み終えた本を、もう一度開く。
気になった台詞のところに、栞を挟んでおいた。彼女に話したいと思った箇所だった。
僕はそのページを読み返した。
初めて読んだときには、登場人物の弱さばかりが気になった。なぜ彼は、自分の気持ちを伝えないのか。なぜ、相手に尋ねることを恐れるのか。
今になって読み返すと、その弱さが、少しだけわかるような気がした。
言葉にしてしまえば、相手の返事を受け取らなければならない。
何も言わずにいれば、可能性だけは残しておける。
相手が自分をどう思っているのか、確かめなければ、傷つかずに済む。
けれど、それでは何も始まらない。
僕は本を閉じた。
自分のことを考えていたのか、物語の登場人物のことを考えていたのか、途中からわからなくなっていた。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
来週の土曜日、僕は彼女に会いたい。
そして、僕の好きだった場所を見せたい。
それだけは、もう疑わなくてもよかった。
*
夕方、彼女からメッセージが届いた。
『おじさん、生きてる?』
僕は、すぐに返した。
『生きているよ。今日は仕事を片づけていた』
『休日まで働いてるの? 社畜じゃん』
『月曜日までに確認しなければならない資料があってね。午前中で終わったから、午後は休んでいたよ』
『ふうん。えらいじゃん』
珍しく、素直な言葉だった。
僕が少し驚いていると、すぐに続きが来た。
『まあ、休日に仕事しなきゃいけない時点で、えらいも何もないんだけどね』
『……それは、そうだね』
『で、例の公園。来週の土曜日でいいの?』
僕は、予定表を確認した。
今のところ、問題はない。月曜日に出す資料も、ひと通り確認できた。来週の仕事が急に増える可能性はあるが、それはいつものことだった。
『うん。今のところ大丈夫だよ』
『じゃあ、行こ』
その短い言葉を見て、僕は笑った。
『ありがとう。楽しみにしているよ』
『また素直。ほんと調子狂う』
しばらくして、もう一通。
『……あたしも、ちょっと楽しみ』
僕は、その文面を眺めた。
彼女は、いつも最後の一歩を踏み出す前に、少しだけ立ち止まる。
僕も同じだった。
嬉しいことを、嬉しいと伝える。それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
けれど、以前よりは少しだけ、言葉にできるようになっていた。
僕は返信した。
『それなら、よかった』
『何がよかったの』
『君も楽しみにしてくれているなら、僕も嬉しいから』
送信して、今度こそスマートフォンを伏せた。
すぐに返事が来たが、僕は少しだけ時間を置いてから画面を見た。
『……ばか』
そのあとに、小さなハートの絵文字がひとつ付いていた。
僕は、何も返さなかった。
返せなかったのではない。
今は、この言葉をそのまま受け取っておきたかった。
*
夜、風呂から上がると、部屋は静まり返っていた。
僕は冷蔵庫から水を取り出し、コップに注いだ。テーブルの上には、読み終えた本と、月曜日に確認する書類が並んでいる。
どちらも、僕が自分で選んだものだった。
仕事は、まだ辞められない。
転職活動も、すぐに結果が出るわけではない。何社に応募すればうまくいくのか、どんな職場なら自分に合っているのか、確かな答えは見つかっていない。
自分の将来について、わからないことは多かった。
けれど、わからないからといって、何も選ばずにいる必要はないのだろう。
僕は求人情報を整理し、次に応募する会社を一社、決めた。
応募書類の最終確認は、明日することにした。焦って雑に済ませるより、そのほうがいい。
それから、スマートフォンを手に取った。
彼女とのメッセージには、最後に送った『君も楽しみにしてくれているなら、僕も嬉しいから』という言葉が残っていた。
読み返すと、少し恥ずかしかった。
けれど、取り消したいとは思わなかった。
僕は、三十三歳になった。
人生の大半を、自分が何を望んでいるのかを考えるよりも、何をすべきかを考えることに費やしてきた。
働くこと。生活を維持すること。人に迷惑をかけないこと。疲れていても、明日には起き上がれるようにしておくこと。
それらは、どれも必要なことだった。
ただ、それだけでは、休日の使い方さえわからなくなってしまう。
彼女は、僕に何かを教えようとしているわけではないだろう。
ただ、自分の好きな場所へ僕を連れていってくれた。僕が誘えば、来てくれると言った。僕が本を読んだと伝えれば、喜んでくれた。
彼女は彼女の生活を送りながら、その中に、僕と過ごす時間を少しずつ作ってくれている。
僕もまた、僕の生活の中に、彼女のための時間を作りたいと思った。
それは、彼女に依存することとは違う。
彼女に僕の人生を埋めてもらうのではなく、僕自身が、自分の人生を少しずつ広げていく。その中で、彼女と一緒に過ごせる場所が増えていけばいい。
次の土曜日、僕たちは公園へ行く。
昔、僕が好きだった場所だ。
彼女が気に入るかどうかはわからない。つまらないと言われるかもしれないし、鴨を見て笑うだけで終わるかもしれない。
それでもいい。
僕が好きだったものを、彼女に見せてみたい。
そして、彼女が何を思うのか、聞いてみたい。
僕はコップの水を飲み干し、明日のために照明を落とした。
暗くなった部屋の中で、テーブルの上の本が、窓から差し込む街灯の光を受けていた。
その本を、彼女は選んだわけではない。
彼女が好きな場所で、僕が自分で選んだ本だった。
そう考えると、少しだけ不思議な気持ちになった。
彼女と出会ってから、僕は何かをもらってばかりいるような気がしていた。
けれど、彼女と出かけるために予定を考え、自分の好きだった場所を思い出し、読んだ本の感想を誰かに話したいと思うようになったのは、僕自身の変化でもあるのだろう。
彼女が僕を変えてくれた、などと言えば、きっと彼女は嫌な顔をするに違いない。
たぶん、こう言うだろう。
――勝手に変わっただけでしょ。あたしの手柄にしないでくれる?
僕は、暗闇の中で小さく笑った。
そうかもしれない。
それでも、彼女がきっかけだったことは、間違いなかった。
来週の土曜日。
僕は、彼女を公園へ連れていく。
何もない場所を、何もないまま、一緒に歩く。
その時間がどんなものになるのか、まだ僕にはわからない。
けれど、わからないまま楽しみにできることが、今の僕には、ひどく新鮮だった。
なんか、前とはちょっと違う……かなぁ? 気のせいかな。