これはきっと怪異のせい。
守谷日和という少女について、僕が知っていることは、それほど多くない。
同じ高校に通っている。
同じ学年である。
同じクラスでもある。
つまり、知り合うための条件は三拍子揃っているわけだが、だからといって親しい間柄であるかと聞かれれば、答えは否だ。
世の中には、三年間同じ教室で過ごしていても、卒業するまで一度もまともに話さない相手というものがいる。
不思議な話だ。
一日に何時間も同じ空間で過ごしているのに、互いのことをほとんど知らない。
電車で隣に座った見知らぬ人間の方が、よほど詳しい身の上話をしてくれることだってある。
いや、そんな人間が隣に座ってきたら、僕は車両を移ると思うけれど。
ともあれ。
守谷日和は、僕にとってそういう存在だった。
同じ教室にいる。
顔も名前も知っている。
挨拶くらいはする。
けれど、それ以上ではない。
少なくとも、あの日までは。
*
「阿良々木くん。守谷さんのこと、知ってる?」
ある日の昼休み。
羽川翼が、唐突にそんなことを尋ねてきた。
「守谷?」
「うん。守谷日和さん」
「知ってるも何も、同じクラスだろ」
「そういう意味じゃなくて」
羽川は、困ったように笑った。
「どんな子だと思う?」
「どんな子って……」
僕は、少し考えた。
守谷日和。
小柄で、物静かな少女。
いつも柔らかい表情を浮かべていて、誰かが話しかければ穏やかに応じる。
目立つ方ではない。
かといって、暗いわけでもない。
むしろ、よく笑う。
ただし、自分から会話の中心に入っていくことは少ない。
「……大人しい奴、かな」
「それだけ?」
「いや、それだけって言われても」
「阿良々木くん、同じクラスの女の子に興味なさすぎじゃない?」
「興味がありすぎても問題だろ!」
「それはそうだけど」
羽川は、あっさり頷いた。
何だか負けた気がする。
「守谷さん、優しい子だよ」
「……そうなのか?」
「うん。すごく」
羽川は、少しだけ微笑んだ。
「この前、廊下で一年生の子が泣いていたんだけどね」
「おう」
「守谷さん、ずっと話を聞いてあげてたの」
「へえ」
「別に知り合いでもなかったみたいなんだけど」
「……お人好しなんだな」
「そうかもしれないね」
羽川は、頷いた。
「でも、ちょっと心配でもあるんだ」
「心配?」
「うん」
彼女は、教室の窓際を見た。
そこには、守谷がいた。
一人で。
窓の外を眺めながら。
何かを考えているようだった。
「……あの子、あまり自分のことを話さないから」
羽川が、そう言った。
*
守谷日和に、両親はいない。
それは、僕も知っていた。
もっとも、本人から聞いたわけではない。
羽川から聞いたのだ。
彼女は幼い頃に保護され、児童養護施設で育ったらしい。
今は事情があって、一人暮らしをしているという。
詳しいことは知らない。
というより、詳しく聞くべきことでもないだろう。
他人の不幸というものは、どうしてこうも簡単に好奇心の対象になってしまうのか。
知りたいと思うことと、知る権利があることは違う。
少なくとも、僕はそう思う。
「……でもさ」
僕は、窓際の守谷を見ながら言った。
「そんなに暗い奴には見えないけどな」
「うん。そうだね」
羽川は、頷いた。
「だから、心配なのかもしれない」
「……どういう意味だ?」
「いつも笑っている人が、いつも幸せとは限らないでしょう?」
僕は、黙った。
羽川は、時々こういうことを言う。
何でも知っているような顔をして。
実際には、何でも知っているわけではないくせに。
いや。
羽川自身、そんなことは言っていないのだけれど。
「……まあ、そうだな」
僕は、曖昧に頷いた。
そのとき。
守谷が、こちらを向いた。
目が合った。
「あ……」
彼女は、少し驚いたような顔をした。
それから。
ふわりと笑った。
僕は、反射的に軽く手を上げた。
守谷も、小さく手を振り返した。
それだけだった。
それだけのことなのに。
妙に印象に残った。
たぶん、笑い方のせいだろう。
作り笑いには見えなかった。
愛想笑いにも見えなかった。
ただ、誰かと目が合ったことが嬉しい。
そんな風に見えた。
「……いい奴そうだな」
僕が呟くと、羽川は笑った。
「だから、そう言ってるでしょう?」
*
その日の放課後。
僕は、少し奇妙なものを見た。
いや。
正確には、奇妙なものを見たわけではない。
奇妙なことをしている守谷を見たのだ。
校門を出て、少し歩いたところだった。
前方に、守谷がいた。
彼女は、一人で歩いていた。
ところが。
突然、立ち止まった。
そして、誰もいない隣を見上げた。
「…………」
何かを言った。
声は聞こえなかった。
ただ、口元が動いたのは分かった。
それから。
守谷は、笑った。
誰もいない場所に向かって。
嬉しそうに。
まるで、そこに誰かがいるかのように。
「……?」
僕は、首を傾げた。
独り言だろうか。
いや、独り言にしては、少し妙だった。
何というか。
会話をしているように見えたのだ。
相手の言葉を待っているような間があって。
それに応じるように、笑っていた。
僕は、何となく声をかけづらくなった。
別に、悪いことをしているわけではない。
独り言くらい、誰だって言う。
僕だって言う。
特に、妹たちに理不尽なことを言われた後などは、一人で文句を言っていることがある。
ただ。
守谷のそれは、独り言というより。
誰かとの会話だった。
見えない誰かとの。
そんな馬鹿なことを考えた。
そして。
すぐに、その考えを打ち消した。
馬鹿馬鹿しい。
僕は、吸血鬼と出会ってからというもの、少々物事を怪異に結びつけすぎる傾向がある。
何でもかんでも怪異のせいにしていたら、世の中の不思議は全部怪異になってしまう。
それでは、忍野メメの仕事が増えるだけだ。
いや。
あいつなら、むしろ喜ぶかもしれないが。
僕は、守谷に声をかけることなく、その場を通り過ぎた。
彼女は、僕に気づかなかった。
ただ。
誰もいない隣を見上げて。
幸せそうに、笑っていた。
*
翌日。
僕は、戦場ヶ原ひたぎという少女を受け止めることになる。
その身体は、信じられないほど軽かった。
まるで、重さそのものを失ってしまったかのように。
そして。
その場には、守谷日和もいた。
このときの僕は、まだ知らなかった。
戦場ヶ原ひたぎが、重さを失った少女であることも。
守谷日和が、何を抱えて生きている少女なのかも。
ただ、一つだけ。
後になって思い返すことがある。
あの日。
階段から落ちてきた戦場ヶ原を受け止めたとき。
守谷は、驚いていた。
僕と同じように。
戦場ヶ原の異常を目の当たりにして。
けれど。
その驚き方は、少し違っていた。
僕は、ありえないものを見たと思った。
守谷は。
ありえるはずのないものが、やはり存在したのだと。
そんな風に、驚いているように見えたのだ。
もちろん。
それは、後から考えたことでしかない。
人間の記憶というものは、都合よく書き換わる。
過去の出来事に、後から意味を与えることもある。
だから。
あのときの守谷が、実際に何を考えていたのか。
僕には分からない。
ただ。
あの日から。
僕は、守谷日和という少女について。
少しずつ、知ることになる。
彼女が、どんな少女なのか。
彼女が、何を信じているのか。
そして。
彼女が、何と一緒にいるのかを。
もっとも。
最後の一つについては。
知らないままでいた方が、よかったのかもしれない。