日和日   作:松下手

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最近、胃腸炎になって体重が大幅に低下しました。
これはきっと怪異のせい。


第一話 ひよりクラブ 其ノ壹

守谷日和という少女について、僕が知っていることは、それほど多くない。

 同じ高校に通っている。

 同じ学年である。

 同じクラスでもある。

 つまり、知り合うための条件は三拍子揃っているわけだが、だからといって親しい間柄であるかと聞かれれば、答えは否だ。

 世の中には、三年間同じ教室で過ごしていても、卒業するまで一度もまともに話さない相手というものがいる。

 不思議な話だ。

 一日に何時間も同じ空間で過ごしているのに、互いのことをほとんど知らない。

 電車で隣に座った見知らぬ人間の方が、よほど詳しい身の上話をしてくれることだってある。

 いや、そんな人間が隣に座ってきたら、僕は車両を移ると思うけれど。

 ともあれ。

 守谷日和は、僕にとってそういう存在だった。

 同じ教室にいる。

 顔も名前も知っている。

 挨拶くらいはする。

 けれど、それ以上ではない。

 少なくとも、あの日までは。

     *

「阿良々木くん。守谷さんのこと、知ってる?」

 ある日の昼休み。

 羽川翼が、唐突にそんなことを尋ねてきた。

「守谷?」

「うん。守谷日和さん」

「知ってるも何も、同じクラスだろ」

「そういう意味じゃなくて」

 羽川は、困ったように笑った。

「どんな子だと思う?」

「どんな子って……」

 僕は、少し考えた。

 守谷日和。

 小柄で、物静かな少女。

 いつも柔らかい表情を浮かべていて、誰かが話しかければ穏やかに応じる。

 目立つ方ではない。

 かといって、暗いわけでもない。

 むしろ、よく笑う。

 ただし、自分から会話の中心に入っていくことは少ない。

「……大人しい奴、かな」

「それだけ?」

「いや、それだけって言われても」

「阿良々木くん、同じクラスの女の子に興味なさすぎじゃない?」

「興味がありすぎても問題だろ!」

「それはそうだけど」

 羽川は、あっさり頷いた。

 何だか負けた気がする。

「守谷さん、優しい子だよ」

「……そうなのか?」

「うん。すごく」

 羽川は、少しだけ微笑んだ。

「この前、廊下で一年生の子が泣いていたんだけどね」

「おう」

「守谷さん、ずっと話を聞いてあげてたの」

「へえ」

「別に知り合いでもなかったみたいなんだけど」

「……お人好しなんだな」

「そうかもしれないね」

 羽川は、頷いた。

「でも、ちょっと心配でもあるんだ」

「心配?」

「うん」

 彼女は、教室の窓際を見た。

 そこには、守谷がいた。

 一人で。

 窓の外を眺めながら。

 何かを考えているようだった。

「……あの子、あまり自分のことを話さないから」

 羽川が、そう言った。

     *

 守谷日和に、両親はいない。

 それは、僕も知っていた。

 もっとも、本人から聞いたわけではない。

 羽川から聞いたのだ。

 彼女は幼い頃に保護され、児童養護施設で育ったらしい。

 今は事情があって、一人暮らしをしているという。

 詳しいことは知らない。

 というより、詳しく聞くべきことでもないだろう。

 他人の不幸というものは、どうしてこうも簡単に好奇心の対象になってしまうのか。

 知りたいと思うことと、知る権利があることは違う。

 少なくとも、僕はそう思う。

「……でもさ」

 僕は、窓際の守谷を見ながら言った。

「そんなに暗い奴には見えないけどな」

「うん。そうだね」

 羽川は、頷いた。

「だから、心配なのかもしれない」

「……どういう意味だ?」

「いつも笑っている人が、いつも幸せとは限らないでしょう?」

 僕は、黙った。

 羽川は、時々こういうことを言う。

 何でも知っているような顔をして。

 実際には、何でも知っているわけではないくせに。

 いや。

 羽川自身、そんなことは言っていないのだけれど。

「……まあ、そうだな」

 僕は、曖昧に頷いた。

 そのとき。

 守谷が、こちらを向いた。

 目が合った。

「あ……」

 彼女は、少し驚いたような顔をした。

 それから。

 ふわりと笑った。

 僕は、反射的に軽く手を上げた。

 守谷も、小さく手を振り返した。

 それだけだった。

 それだけのことなのに。

 妙に印象に残った。

 たぶん、笑い方のせいだろう。

 作り笑いには見えなかった。

 愛想笑いにも見えなかった。

 ただ、誰かと目が合ったことが嬉しい。

 そんな風に見えた。

「……いい奴そうだな」

 僕が呟くと、羽川は笑った。

「だから、そう言ってるでしょう?」

     *

 その日の放課後。

 僕は、少し奇妙なものを見た。

 いや。

 正確には、奇妙なものを見たわけではない。

 奇妙なことをしている守谷を見たのだ。

 校門を出て、少し歩いたところだった。

 前方に、守谷がいた。

 彼女は、一人で歩いていた。

 ところが。

 突然、立ち止まった。

 そして、誰もいない隣を見上げた。

「…………」

 何かを言った。

 声は聞こえなかった。

 ただ、口元が動いたのは分かった。

 それから。

 守谷は、笑った。

 誰もいない場所に向かって。

 嬉しそうに。

 まるで、そこに誰かがいるかのように。

「……?」

 僕は、首を傾げた。

 独り言だろうか。

 いや、独り言にしては、少し妙だった。

 何というか。

 会話をしているように見えたのだ。

 相手の言葉を待っているような間があって。

 それに応じるように、笑っていた。

 僕は、何となく声をかけづらくなった。

 別に、悪いことをしているわけではない。

 独り言くらい、誰だって言う。

 僕だって言う。

 特に、妹たちに理不尽なことを言われた後などは、一人で文句を言っていることがある。

 ただ。

 守谷のそれは、独り言というより。

 誰かとの会話だった。

 見えない誰かとの。

 そんな馬鹿なことを考えた。

 そして。

 すぐに、その考えを打ち消した。

 馬鹿馬鹿しい。

 僕は、吸血鬼と出会ってからというもの、少々物事を怪異に結びつけすぎる傾向がある。

 何でもかんでも怪異のせいにしていたら、世の中の不思議は全部怪異になってしまう。

 それでは、忍野メメの仕事が増えるだけだ。

 いや。

 あいつなら、むしろ喜ぶかもしれないが。

 僕は、守谷に声をかけることなく、その場を通り過ぎた。

 彼女は、僕に気づかなかった。

 ただ。

 誰もいない隣を見上げて。

 幸せそうに、笑っていた。

     *

 翌日。

 僕は、戦場ヶ原ひたぎという少女を受け止めることになる。

 その身体は、信じられないほど軽かった。

 まるで、重さそのものを失ってしまったかのように。

 そして。

 その場には、守谷日和もいた。

 このときの僕は、まだ知らなかった。

 戦場ヶ原ひたぎが、重さを失った少女であることも。

 守谷日和が、何を抱えて生きている少女なのかも。

 ただ、一つだけ。

 後になって思い返すことがある。

 あの日。

 階段から落ちてきた戦場ヶ原を受け止めたとき。

 守谷は、驚いていた。

 僕と同じように。

 戦場ヶ原の異常を目の当たりにして。

 けれど。

 その驚き方は、少し違っていた。

 僕は、ありえないものを見たと思った。

 守谷は。

 ありえるはずのないものが、やはり存在したのだと。

 そんな風に、驚いているように見えたのだ。

 もちろん。

 それは、後から考えたことでしかない。

 人間の記憶というものは、都合よく書き換わる。

 過去の出来事に、後から意味を与えることもある。

 だから。

 あのときの守谷が、実際に何を考えていたのか。

 僕には分からない。

 ただ。

 あの日から。

 僕は、守谷日和という少女について。

 少しずつ、知ることになる。

 彼女が、どんな少女なのか。

 彼女が、何を信じているのか。

 そして。

 彼女が、何と一緒にいるのかを。

 もっとも。

 最後の一つについては。

 知らないままでいた方が、よかったのかもしれない。

 

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