人間には、見えているものと見えていないものがある。
これは別に、視力の話ではない。
視力検査で一番上の輪っかが見えないとか、眼鏡を忘れて黒板の文字が読めないとか、そういう話ではないのだ。
見えているのに、見ようとしないもの。
見えていないのに、見たつもりになっているもの。
そういうものの話である。
例えば。
同じ教室で毎日顔を合わせている相手のことを、僕たちはどれくらい知っているのだろう。
名前。
顔。
成績。
所属する部活動。
その程度の情報で、相手を知っていると言ってしまっていいのだろうか。
少なくとも、僕はそう思っていた。
守谷日和という少女について。
あの日までは。
*
「――戦場ヶ原!」
階段から落ちてきた少女を、僕は受け止めた。
正確には、受け止めてしまった。
考えるより先に身体が動いたのである。
こういう場合、反射神経がいいと褒められるべきなのか、それとも考えなしだと叱られるべきなのか、判断が難しい。
少なくとも、結果だけを見れば、僕の判断は間違っていなかった。
戦場ヶ原ひたぎは、床に叩きつけられずに済んだ。
僕も、彼女を落とさずに済んだ。
ただし。
問題が一つあった。
軽い。
あまりにも軽い。
腕の中にいる少女は、間違いなく人間の姿をしている。
手足があり、頭があり、髪があり、制服を着ている。
なのに。
重さがない。
まるで、厚紙で作られた人形を抱えているようだった。
「……何だ、これ」
思わず呟いた。
そのときだった。
「……あ、阿良々木くん!」
背後から、声がした。
振り返る。
守谷日和だった。
購買の袋を片手に、こちらへ駆け寄ってくる。
「……戦場ヶ原さん、大丈夫?」
守谷は、心配そうに戦場ヶ原を覗き込んだ。
戦場ヶ原の表情が、変わった。
それまで驚きに固まっていた顔が、一瞬で冷たくなる。
「……大丈夫よ」
短い返事だった。
「……でも、階段から落ちて」
「聞こえなかったのかしら。大丈夫だと言ったのだけれど」
守谷は、びくりと肩を震わせた。
「……ご、ごめんなさい」
戦場ヶ原は、何も言わなかった。
僕は、少し腹が立った。
いや、戦場ヶ原の気持ちも分からなくはない。
自分の身体に異常がある。
それを他人に知られたくない。
そういう事情があるのだろう。
だが。
だからといって、心配してくれた相手にそんな態度を取る必要があるだろうか。
「……戦場ヶ原」
僕は、口を開いた。
「守谷は心配してるだけだろ」
戦場ヶ原の視線が、僕に向いた。
「……そうね」
意外にも、彼女はあっさり頷いた。
「それは、分かっているわ」
「だったら」
「でも、阿良々木くん」
彼女は、僕の言葉を遮った。
「あなた、いつまで私を抱いているつもり?」
「……あ」
そうだった。
僕は、まだ戦場ヶ原を抱えていた。
慌てて彼女を下ろす。
戦場ヶ原は、制服の乱れを直した。
そして。
「……守谷さん」
静かに言った。
「今日のことは、忘れてくれるかしら」
守谷は、目を丸くした。
「……え?」
「私が階段から落ちたことよ」
「……あ、うん」
守谷は、頷いた。
「……誰にも言わないよ」
戦場ヶ原は、少しだけ目を細めた。
「……そう」
それから、僕を見た。
「阿良々木くん。あなたには、少し話があるわ」
嫌な予感がした。
非常に嫌な予感がした。
具体的には、今すぐ逃げ出したくなる程度には。
「……話?」
「ええ」
戦場ヶ原は、微笑んだ。
美しい笑顔だった。
ただし。
その笑顔には、温度がなかった。
「二人きりで」
*
「……あの」
守谷が、小さく声を上げた。
戦場ヶ原と僕が、同時に彼女を見る。
「……私も、少しだけ聞いていい?」
戦場ヶ原の眉が、僅かに動いた。
「……何かしら」
「……戦場ヶ原さん、怪我してない?」
沈黙。
僕は、少し拍子抜けした。
もっと踏み込んだ質問をするのかと思ったのだ。
どうして身体が軽いのか。
何が起きたのか。
そういうことを。
しかし、守谷が尋ねたのは、ただそれだけだった。
「……怪我はしていないわ」
戦場ヶ原が答えた。
「……本当に?」
「ええ」
「……そっか」
守谷は、ほっとしたように笑った。
「……よかった」
その笑顔を見て。
戦場ヶ原は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
僕には、そう見えた。
たぶん、予想していなかったのだろう。
守谷が、秘密を暴こうとするのではなく、ただ怪我の心配をすることを。
「……それじゃ、私、行くね」
守谷は、軽く頭を下げた。
「……お大事に」
そして、階段を下りていった。
僕は、その背中を見送った。
戦場ヶ原も、しばらく彼女を見ていた。
「……変わった子ね」
ぽつりと呟いた。
「……守谷が?」
「ええ」
戦場ヶ原は、僕を見た。
「あなたも、そう思わない?」
「……まあ、少しは」
僕は、曖昧に答えた。
守谷日和。
穏やかで。
優しくて。
少しだけ、変わっている。
それだけの少女。
少なくとも。
このときの僕は、そう思っていた。
*
守谷日和は、階段を下りながら考えていた。
戦場ヶ原さん。
軽かった。
あまりにも、軽かった。
阿良々木くんが抱えている様子を見れば、それくらいは分かる。
でも。
どうしてだろう。
病気だろうか。
それとも。
もっと、別の何かだろうか。
日和は、少しだけ首を傾げた。
その肩に、冷たい感触が触れた。
白いもの。
細長い、蛇のようなもの。
日和にとっては、いつものことだった。
彼女は、周囲を見回した。
誰もいない。
それを確かめてから、小さく呟いた。
「……お母さん」
白いものが、僅かに動いた。
「……戦場ヶ原さん、変だったね」
返事はない。
「……何か、困ってるのかな」
白いものが、彼女の頬に触れた。
日和は、少しだけ笑った。
「……うん。そうだよね」
何が「そう」なのか。
誰にも分からない。
そもそも、返事などなかったのだから。
けれど。
日和にとっては、それで十分だった。
彼女は、白いものにそっと触れた。
「……ありがとう、お母さん」
そして、再び歩き始めた。
*
放課後。
僕は、戦場ヶ原に呼び出された。
人気のない廊下。
窓から差し込む夕日。
そして。
僕の口の中に、文房具が突っ込まれていた。
「――っ!」
ホッチキス。
正確には、その先端部分。
金属の冷たい感触が、口の中に触れている。
「……阿良々木くん」
戦場ヶ原は、穏やかな声で言った。
「今日のことは、忘れてくれるかしら」
僕は、答えられなかった。
物理的に。
「……あなたが今日、何を見たのか」
彼女は、続けた。
「何を感じたのか」
ホッチキスが、僅かに動いた。
「全部、忘れてほしいの」
僕は、背筋が寒くなった。
この女。
本気だ。
冗談ではない。
脅しでもない。
いや、脅しではあるのだが。
実行する気のある脅しだった。
「……それから」
戦場ヶ原は、少しだけ目を細めた。
「守谷さんにも、忘れてもらわないといけないわね」
僕は、反射的に彼女の手首を掴んだ。
「――っ」
戦場ヶ原が、僅かに目を見開く。
僕は、口の中のホッチキスを押しのけた。
「……守谷には、手を出すな」
戦場ヶ原は、黙った。
「……あいつは、何も悪くないだろ」
僕は、続けた。
「ただ、心配してただけじゃないか」
戦場ヶ原は、しばらく僕を見つめていた。
そして。
「……あなたも、何も悪くないわ」
静かに言った。
「それでも、私はこうしている」
僕は、言葉を失った。
そうだ。
彼女にとっては。
善悪の問題ではないのだ。
秘密を守ること。
それだけが、重要なのだろう。
「……守谷さんにも、同じことをするつもりなの?」
僕は、尋ねた。
戦場ヶ原は、少しだけ考えた。
「……必要なら」
その答えに、僕は眉をひそめた。
「……やめろ」
「……どうして?」
「……どうしてって」
僕は、言葉を探した。
守谷は、優しい。
ただ、心配していただけだ。
そんな奴が、こんな目に遭う必要はない。
それに。
何となく。
あいつには、これ以上嫌な思いをしてほしくなかった。
理由は、よく分からない。
同情なのかもしれない。
お節介なのかもしれない。
ただ。
そう思った。
「……僕が、何とかする」
戦場ヶ原は、目を細めた。
「……何とか?」
「ああ」
僕は、頷いた。
「……お前の、その身体のことも」
戦場ヶ原は、黙った。
「……何とかできるかもしれない」
僕は、続けた。
「……だから、少しだけ時間をくれ」
戦場ヶ原は、しばらく僕を見つめていた。
そして。
「……面白いことを言うのね」
小さく笑った。
「……あなたに、何ができるというの?」
僕は、答えた。
「……僕には、知り合いがいる」
怪異に詳しい男。
忍野メメ。
あいつなら。
何か、分かるかもしれない。
*
翌日。
守谷日和は、教室で一人の少女に声をかけられた。
「……守谷さん」
戦場ヶ原ひたぎだった。
「……あ、戦場ヶ原さん」
日和は、少し驚いた。
普段、ほとんど話したことがない相手だったからだ。
「……昨日は、大丈夫だった?」
日和が尋ねると、戦場ヶ原は僅かに眉を動かした。
「……ええ」
短い返事。
「……そっか」
日和は、ほっとしたように笑った。
戦場ヶ原は、しばらく彼女を見つめていた。
それから。
「……少し、話せるかしら」
そう言った。
「……私と?」
「ええ」
日和は、少し迷った。
けれど。
「……うん」
頷いた。
「……いいよ」
*
人気のない廊下。
戦場ヶ原は、日和に向き直った。
「……昨日のことだけれど」
「……うん」
「……誰かに話した?」
日和は、首を振った。
「……ううん」
「……本当に?」
「……うん」
日和は、頷いた。
「……戦場ヶ原さん、忘れてほしいって言ってたから」
戦場ヶ原は、少しだけ目を細めた。
「……随分と素直なのね」
「……そうかな」
「……普通は、もっと聞きたがるものだと思うけれど」
日和は、少し考えた。
「……気にはなるよ」
正直に答えた。
「……でも」
彼女は、戦場ヶ原を見た。
「……嫌なこと、無理に聞かれたくないでしょう?」
戦場ヶ原は、黙った。
「……私も、そうだから」
日和は、少しだけ笑った。
その言葉に。
戦場ヶ原は、僅かに表情を変えた。
「……あなたも?」
「……うん」
日和は、頷いた。
「……誰にも言いたくないこと、あるよ」
戦場ヶ原は、しばらく彼女を見つめていた。
そして。
「……そう」
静かに言った。
「……なら、いいわ」
日和は、ほっとした。
話が終わったのだと思った。
けれど。
「……一つだけ、聞いてもいいかしら」
戦場ヶ原が、続けた。
「……うん?」
「……あなた」
戦場ヶ原は、少しだけ言葉を選んだ。
「……昨日、何を見たの?」
日和は、首を傾げた。
「……戦場ヶ原さんが、階段から落ちたところ」
「……それだけ?」
「……うん」
日和は、少し考えた。
「……あと、阿良々木くんが受け止めたところ」
戦場ヶ原は、黙った。
「……それから」
日和は、少しだけ声を小さくした。
「……何だか、すごく軽そうだった」
戦場ヶ原の表情が、僅かに強張った。
日和は、慌てた。
「……あ、ごめんなさい」
「…………」
「……変なこと言っちゃったね」
戦場ヶ原は、何も言わなかった。
日和は、少しだけ俯いた。
そして。
「……でも」
小さく続けた。
「……もし、困ってるなら」
戦場ヶ原が、顔を上げた。
「……私でよければ、話くらいは聞くよ」
沈黙。
長い沈黙だった。
戦場ヶ原は、日和を見つめていた。
何かを探るように。
何かを疑うように。
そして。
「……あなた」
静かに言った。
「……変わっているのね」
日和は、少し困ったように笑った。
「……よく言われる」
戦場ヶ原は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも小さな変化だった。
けれど。
日和は、少し嬉しくなった。
*
その日の放課後。
日和は、阿良々木暦に声をかけられた。
「……守谷」
「……あ、阿良々木くん」
「……ちょっといいか?」
「……うん」
阿良々木は、少しだけ迷っていた。
戦場ヶ原のこと。
彼女の身体のこと。
そして。
守谷が、どこまで知っているのか。
「……昨日のことなんだけど」
日和は、頷いた。
「……戦場ヶ原さん?」
「ああ」
阿良々木は、続けた。
「……あいつ、ちょっと事情があるみたいでさ」
「……うん」
「……だから、あまり気にしないでやってほしい」
日和は、少し考えた。
そして。
「……分かった」
頷いた。
阿良々木は、少し驚いた。
「……それだけ?」
「……うん?」
「……いや、もっと何か聞かれるかと思って」
日和は、少し笑った。
「……聞いてほしいの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「……じゃあ、聞かない」
日和は、穏やかに言った。
「……阿良々木くんが、話したくなったら聞くよ」
阿良々木は、しばらく彼女を見つめていた。
そして。
「……守谷ってさ」
「……うん?」
「……本当に、変わってるな」
日和は、少し困ったように笑った。
「……今日、二回目」
「……え?」
「……戦場ヶ原さんにも、言われた」
阿良々木は、思わず笑った。
「……あいつと意見が合うとはな」
日和も、小さく笑った。
その肩に。
白いものが、静かに巻きついていた。
阿良々木には、見えない。
何も。
何一つ。
ただ。
日和が、少しだけ横を向いたことには気づいた。
「……守谷?」
「……え?」
「……どうかしたか?」
日和は、慌てて首を振った。
「……ううん。何でもない」
阿良々木は、首を傾げた。
日和は、少しだけ残念に思った。
もしかしたら。
阿良々木くんなら。
そう期待したのだ。
けれど。
やっぱり、見えない。
お母さんは、そこにいるのに。
すぐ隣にいるのに。
誰にも、見えない。
日和は、そっと視線を戻した。
そして、いつものように笑った。
「……それじゃ、また明日」
「ああ。またな」
阿良々木は、手を振った。
日和も、小さく手を振り返した。
その背後で。
白いものの表面に、眼が一つ開いた。
阿良々木暦を、見ていた。
ただ。
見ていた。
*
その夜。
守谷日和は、自分の部屋で考えていた。
戦場ヶ原ひたぎ。
阿良々木暦。
二人とも、何かを隠している。
それは、分かった。
けれど。
何を隠しているのかまでは、分からない。
「……お母さん」
日和は、ベッドに座ったまま呟いた。
「……私、余計なことしちゃったかな」
白いものが、彼女の髪を撫でた。
「……戦場ヶ原さん、嫌だったかな」
返事はない。
「……でも、心配だったんだ」
日和は、少しだけ俯いた。
「……困ってる人、放っておけないよ」
白いものが、彼女の肩に巻きついた。
日和は、そっとそれに触れた。
「……うん」
小さく笑った。
「……ありがとう」
その笑顔は、穏やかだった。
安心していた。
幸せそうだった。
彼女は、知らない。
自分が、少しずつ怪異の事件へ近づいていることを。
白いものは、彼女を見つめていた。
その眼差しに、人間の感情はなかった。
ただ。
所有するものを、見失わないために。
見ていた。
日和は、目を閉じた。
「……おやすみ、お母さん」
白いものが、彼女の身体を包み込んだ。
まるで、抱きしめるように。
日和は、安心して眠りについた。
その寝顔を。
無数の眼が、見つめていた。