日和日   作:松下手

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啓蒙を高めて脳に瞳を備えよ


第二話 ひよりクラブ 其ノ貳

人間には、見えているものと見えていないものがある。

 これは別に、視力の話ではない。

 視力検査で一番上の輪っかが見えないとか、眼鏡を忘れて黒板の文字が読めないとか、そういう話ではないのだ。

 見えているのに、見ようとしないもの。

 見えていないのに、見たつもりになっているもの。

 そういうものの話である。

 例えば。

 同じ教室で毎日顔を合わせている相手のことを、僕たちはどれくらい知っているのだろう。

 名前。

 顔。

 成績。

 所属する部活動。

 その程度の情報で、相手を知っていると言ってしまっていいのだろうか。

 少なくとも、僕はそう思っていた。

 守谷日和という少女について。

 あの日までは。

     *

「――戦場ヶ原!」

 階段から落ちてきた少女を、僕は受け止めた。

 正確には、受け止めてしまった。

 考えるより先に身体が動いたのである。

 こういう場合、反射神経がいいと褒められるべきなのか、それとも考えなしだと叱られるべきなのか、判断が難しい。

 少なくとも、結果だけを見れば、僕の判断は間違っていなかった。

 戦場ヶ原ひたぎは、床に叩きつけられずに済んだ。

 僕も、彼女を落とさずに済んだ。

 ただし。

 問題が一つあった。

 軽い。

 あまりにも軽い。

 腕の中にいる少女は、間違いなく人間の姿をしている。

 手足があり、頭があり、髪があり、制服を着ている。

 なのに。

 重さがない。

 まるで、厚紙で作られた人形を抱えているようだった。

「……何だ、これ」

 思わず呟いた。

 そのときだった。

「……あ、阿良々木くん!」

 背後から、声がした。

 振り返る。

 守谷日和だった。

 購買の袋を片手に、こちらへ駆け寄ってくる。

「……戦場ヶ原さん、大丈夫?」

 守谷は、心配そうに戦場ヶ原を覗き込んだ。

 戦場ヶ原の表情が、変わった。

 それまで驚きに固まっていた顔が、一瞬で冷たくなる。

「……大丈夫よ」

 短い返事だった。

「……でも、階段から落ちて」

「聞こえなかったのかしら。大丈夫だと言ったのだけれど」

 守谷は、びくりと肩を震わせた。

「……ご、ごめんなさい」

 戦場ヶ原は、何も言わなかった。

 僕は、少し腹が立った。

 いや、戦場ヶ原の気持ちも分からなくはない。

 自分の身体に異常がある。

 それを他人に知られたくない。

 そういう事情があるのだろう。

 だが。

 だからといって、心配してくれた相手にそんな態度を取る必要があるだろうか。

「……戦場ヶ原」

 僕は、口を開いた。

「守谷は心配してるだけだろ」

 戦場ヶ原の視線が、僕に向いた。

「……そうね」

 意外にも、彼女はあっさり頷いた。

「それは、分かっているわ」

「だったら」

「でも、阿良々木くん」

 彼女は、僕の言葉を遮った。

「あなた、いつまで私を抱いているつもり?」

「……あ」

 そうだった。

 僕は、まだ戦場ヶ原を抱えていた。

 慌てて彼女を下ろす。

 戦場ヶ原は、制服の乱れを直した。

 そして。

「……守谷さん」

 静かに言った。

「今日のことは、忘れてくれるかしら」

 守谷は、目を丸くした。

「……え?」

「私が階段から落ちたことよ」

「……あ、うん」

 守谷は、頷いた。

「……誰にも言わないよ」

 戦場ヶ原は、少しだけ目を細めた。

「……そう」

 それから、僕を見た。

「阿良々木くん。あなたには、少し話があるわ」

 嫌な予感がした。

 非常に嫌な予感がした。

 具体的には、今すぐ逃げ出したくなる程度には。

「……話?」

「ええ」

 戦場ヶ原は、微笑んだ。

 美しい笑顔だった。

 ただし。

 その笑顔には、温度がなかった。

「二人きりで」

     *

「……あの」

 守谷が、小さく声を上げた。

 戦場ヶ原と僕が、同時に彼女を見る。

「……私も、少しだけ聞いていい?」

 戦場ヶ原の眉が、僅かに動いた。

「……何かしら」

「……戦場ヶ原さん、怪我してない?」

 沈黙。

 僕は、少し拍子抜けした。

 もっと踏み込んだ質問をするのかと思ったのだ。

 どうして身体が軽いのか。

 何が起きたのか。

 そういうことを。

 しかし、守谷が尋ねたのは、ただそれだけだった。

「……怪我はしていないわ」

 戦場ヶ原が答えた。

「……本当に?」

「ええ」

「……そっか」

 守谷は、ほっとしたように笑った。

「……よかった」

 その笑顔を見て。

 戦場ヶ原は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 僕には、そう見えた。

 たぶん、予想していなかったのだろう。

 守谷が、秘密を暴こうとするのではなく、ただ怪我の心配をすることを。

「……それじゃ、私、行くね」

 守谷は、軽く頭を下げた。

「……お大事に」

 そして、階段を下りていった。

 僕は、その背中を見送った。

 戦場ヶ原も、しばらく彼女を見ていた。

「……変わった子ね」

 ぽつりと呟いた。

「……守谷が?」

「ええ」

 戦場ヶ原は、僕を見た。

「あなたも、そう思わない?」

「……まあ、少しは」

 僕は、曖昧に答えた。

 守谷日和。

 穏やかで。

 優しくて。

 少しだけ、変わっている。

 それだけの少女。

 少なくとも。

 このときの僕は、そう思っていた。

     *

 守谷日和は、階段を下りながら考えていた。

 戦場ヶ原さん。

 軽かった。

 あまりにも、軽かった。

 阿良々木くんが抱えている様子を見れば、それくらいは分かる。

 でも。

 どうしてだろう。

 病気だろうか。

 それとも。

 もっと、別の何かだろうか。

 日和は、少しだけ首を傾げた。

 その肩に、冷たい感触が触れた。

 白いもの。

 細長い、蛇のようなもの。

 日和にとっては、いつものことだった。

 彼女は、周囲を見回した。

 誰もいない。

 それを確かめてから、小さく呟いた。

「……お母さん」

 白いものが、僅かに動いた。

「……戦場ヶ原さん、変だったね」

 返事はない。

「……何か、困ってるのかな」

 白いものが、彼女の頬に触れた。

 日和は、少しだけ笑った。

「……うん。そうだよね」

 何が「そう」なのか。

 誰にも分からない。

 そもそも、返事などなかったのだから。

 けれど。

 日和にとっては、それで十分だった。

 彼女は、白いものにそっと触れた。

「……ありがとう、お母さん」

 そして、再び歩き始めた。

     *

 放課後。

 僕は、戦場ヶ原に呼び出された。

 人気のない廊下。

 窓から差し込む夕日。

 そして。

 僕の口の中に、文房具が突っ込まれていた。

「――っ!」

 ホッチキス。

 正確には、その先端部分。

 金属の冷たい感触が、口の中に触れている。

「……阿良々木くん」

 戦場ヶ原は、穏やかな声で言った。

「今日のことは、忘れてくれるかしら」

 僕は、答えられなかった。

 物理的に。

「……あなたが今日、何を見たのか」

 彼女は、続けた。

「何を感じたのか」

 ホッチキスが、僅かに動いた。

「全部、忘れてほしいの」

 僕は、背筋が寒くなった。

 この女。

 本気だ。

 冗談ではない。

 脅しでもない。

 いや、脅しではあるのだが。

 実行する気のある脅しだった。

「……それから」

 戦場ヶ原は、少しだけ目を細めた。

「守谷さんにも、忘れてもらわないといけないわね」

 僕は、反射的に彼女の手首を掴んだ。

「――っ」

 戦場ヶ原が、僅かに目を見開く。

 僕は、口の中のホッチキスを押しのけた。

「……守谷には、手を出すな」

 戦場ヶ原は、黙った。

「……あいつは、何も悪くないだろ」

 僕は、続けた。

「ただ、心配してただけじゃないか」

 戦場ヶ原は、しばらく僕を見つめていた。

 そして。

「……あなたも、何も悪くないわ」

 静かに言った。

「それでも、私はこうしている」

 僕は、言葉を失った。

 そうだ。

 彼女にとっては。

 善悪の問題ではないのだ。

 秘密を守ること。

 それだけが、重要なのだろう。

「……守谷さんにも、同じことをするつもりなの?」

 僕は、尋ねた。

 戦場ヶ原は、少しだけ考えた。

「……必要なら」

 その答えに、僕は眉をひそめた。

「……やめろ」

「……どうして?」

「……どうしてって」

 僕は、言葉を探した。

 守谷は、優しい。

 ただ、心配していただけだ。

 そんな奴が、こんな目に遭う必要はない。

 それに。

 何となく。

 あいつには、これ以上嫌な思いをしてほしくなかった。

 理由は、よく分からない。

 同情なのかもしれない。

 お節介なのかもしれない。

 ただ。

 そう思った。

「……僕が、何とかする」

 戦場ヶ原は、目を細めた。

「……何とか?」

「ああ」

 僕は、頷いた。

「……お前の、その身体のことも」

 戦場ヶ原は、黙った。

「……何とかできるかもしれない」

 僕は、続けた。

「……だから、少しだけ時間をくれ」

 戦場ヶ原は、しばらく僕を見つめていた。

 そして。

「……面白いことを言うのね」

 小さく笑った。

「……あなたに、何ができるというの?」

 僕は、答えた。

「……僕には、知り合いがいる」

 怪異に詳しい男。

 忍野メメ。

 あいつなら。

 何か、分かるかもしれない。

     *

 翌日。

 守谷日和は、教室で一人の少女に声をかけられた。

「……守谷さん」

 戦場ヶ原ひたぎだった。

「……あ、戦場ヶ原さん」

 日和は、少し驚いた。

 普段、ほとんど話したことがない相手だったからだ。

「……昨日は、大丈夫だった?」

 日和が尋ねると、戦場ヶ原は僅かに眉を動かした。

「……ええ」

 短い返事。

「……そっか」

 日和は、ほっとしたように笑った。

 戦場ヶ原は、しばらく彼女を見つめていた。

 それから。

「……少し、話せるかしら」

 そう言った。

「……私と?」

「ええ」

 日和は、少し迷った。

 けれど。

「……うん」

 頷いた。

「……いいよ」

     *

 人気のない廊下。

 戦場ヶ原は、日和に向き直った。

「……昨日のことだけれど」

「……うん」

「……誰かに話した?」

 日和は、首を振った。

「……ううん」

「……本当に?」

「……うん」

 日和は、頷いた。

「……戦場ヶ原さん、忘れてほしいって言ってたから」

 戦場ヶ原は、少しだけ目を細めた。

「……随分と素直なのね」

「……そうかな」

「……普通は、もっと聞きたがるものだと思うけれど」

 日和は、少し考えた。

「……気にはなるよ」

 正直に答えた。

「……でも」

 彼女は、戦場ヶ原を見た。

「……嫌なこと、無理に聞かれたくないでしょう?」

 戦場ヶ原は、黙った。

「……私も、そうだから」

 日和は、少しだけ笑った。

 その言葉に。

 戦場ヶ原は、僅かに表情を変えた。

「……あなたも?」

「……うん」

 日和は、頷いた。

「……誰にも言いたくないこと、あるよ」

 戦場ヶ原は、しばらく彼女を見つめていた。

 そして。

「……そう」

 静かに言った。

「……なら、いいわ」

 日和は、ほっとした。

 話が終わったのだと思った。

 けれど。

「……一つだけ、聞いてもいいかしら」

 戦場ヶ原が、続けた。

「……うん?」

「……あなた」

 戦場ヶ原は、少しだけ言葉を選んだ。

「……昨日、何を見たの?」

 日和は、首を傾げた。

「……戦場ヶ原さんが、階段から落ちたところ」

「……それだけ?」

「……うん」

 日和は、少し考えた。

「……あと、阿良々木くんが受け止めたところ」

 戦場ヶ原は、黙った。

「……それから」

 日和は、少しだけ声を小さくした。

「……何だか、すごく軽そうだった」

 戦場ヶ原の表情が、僅かに強張った。

 日和は、慌てた。

「……あ、ごめんなさい」

「…………」

「……変なこと言っちゃったね」

 戦場ヶ原は、何も言わなかった。

 日和は、少しだけ俯いた。

 そして。

「……でも」

 小さく続けた。

「……もし、困ってるなら」

 戦場ヶ原が、顔を上げた。

「……私でよければ、話くらいは聞くよ」

 沈黙。

 長い沈黙だった。

 戦場ヶ原は、日和を見つめていた。

 何かを探るように。

 何かを疑うように。

 そして。

「……あなた」

 静かに言った。

「……変わっているのね」

 日和は、少し困ったように笑った。

「……よく言われる」

 戦場ヶ原は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 それは、笑顔と呼ぶにはあまりにも小さな変化だった。

 けれど。

 日和は、少し嬉しくなった。

     *

 その日の放課後。

 日和は、阿良々木暦に声をかけられた。

「……守谷」

「……あ、阿良々木くん」

「……ちょっといいか?」

「……うん」

 阿良々木は、少しだけ迷っていた。

 戦場ヶ原のこと。

 彼女の身体のこと。

 そして。

 守谷が、どこまで知っているのか。

「……昨日のことなんだけど」

 日和は、頷いた。

「……戦場ヶ原さん?」

「ああ」

 阿良々木は、続けた。

「……あいつ、ちょっと事情があるみたいでさ」

「……うん」

「……だから、あまり気にしないでやってほしい」

 日和は、少し考えた。

 そして。

「……分かった」

 頷いた。

 阿良々木は、少し驚いた。

「……それだけ?」

「……うん?」

「……いや、もっと何か聞かれるかと思って」

 日和は、少し笑った。

「……聞いてほしいの?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「……じゃあ、聞かない」

 日和は、穏やかに言った。

「……阿良々木くんが、話したくなったら聞くよ」

 阿良々木は、しばらく彼女を見つめていた。

 そして。

「……守谷ってさ」

「……うん?」

「……本当に、変わってるな」

 日和は、少し困ったように笑った。

「……今日、二回目」

「……え?」

「……戦場ヶ原さんにも、言われた」

 阿良々木は、思わず笑った。

「……あいつと意見が合うとはな」

 日和も、小さく笑った。

 その肩に。

 白いものが、静かに巻きついていた。

 阿良々木には、見えない。

 何も。

 何一つ。

 ただ。

 日和が、少しだけ横を向いたことには気づいた。

「……守谷?」

「……え?」

「……どうかしたか?」

 日和は、慌てて首を振った。

「……ううん。何でもない」

 阿良々木は、首を傾げた。

 日和は、少しだけ残念に思った。

 もしかしたら。

 阿良々木くんなら。

 そう期待したのだ。

 けれど。

 やっぱり、見えない。

 お母さんは、そこにいるのに。

 すぐ隣にいるのに。

 誰にも、見えない。

 日和は、そっと視線を戻した。

 そして、いつものように笑った。

「……それじゃ、また明日」

「ああ。またな」

 阿良々木は、手を振った。

 日和も、小さく手を振り返した。

 その背後で。

 白いものの表面に、眼が一つ開いた。

 阿良々木暦を、見ていた。

 ただ。

 見ていた。

     *

 その夜。

 守谷日和は、自分の部屋で考えていた。

 戦場ヶ原ひたぎ。

 阿良々木暦。

 二人とも、何かを隠している。

 それは、分かった。

 けれど。

 何を隠しているのかまでは、分からない。

「……お母さん」

 日和は、ベッドに座ったまま呟いた。

「……私、余計なことしちゃったかな」

 白いものが、彼女の髪を撫でた。

「……戦場ヶ原さん、嫌だったかな」

 返事はない。

「……でも、心配だったんだ」

 日和は、少しだけ俯いた。

「……困ってる人、放っておけないよ」

 白いものが、彼女の肩に巻きついた。

 日和は、そっとそれに触れた。

「……うん」

 小さく笑った。

「……ありがとう」

 その笑顔は、穏やかだった。

 安心していた。

 幸せそうだった。

 彼女は、知らない。

 自分が、少しずつ怪異の事件へ近づいていることを。

 

 白いものは、彼女を見つめていた。

 その眼差しに、人間の感情はなかった。

 ただ。

 所有するものを、見失わないために。

 見ていた。

 日和は、目を閉じた。

「……おやすみ、お母さん」

 白いものが、彼女の身体を包み込んだ。

 まるで、抱きしめるように。

 日和は、安心して眠りについた。

 その寝顔を。

 無数の眼が、見つめていた。

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