日和日   作:松下手

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今日はここまで。


第三話 ひよりクラブ 其ノ参

戦場ヶ原ひたぎが失くしたものを取り戻したらしい。

 そんなことを、私は知らなかった。

 そもそも、彼女が何かを失くしていたことすら、正確には知らなかったのだから。

 階段から落ちたこと。

 阿良々木くんが受け止めたこと。

 その身体が、妙に軽そうだったこと。

 私が知っているのは、それくらいだ。

 そして、そのどれもが、他人に話すべきことではない。

 だから私は、忘れることにした。

 忘れるというのは、便利な言葉だ。

 本当に忘れたわけではなくても、忘れたことにできる。

 思い出さなければ、忘れているのと同じ。

 もちろん、そんな理屈が通用するのは、自分の頭の中だけだけれど。

 それでも。

 私は、戦場ヶ原さんが元気でいてくれるなら、それでいいと思っていた。

     *

 翌朝。

 目覚まし時計が鳴るより先に、頬を撫でられた。

「……ん」

 冷たい。

 けれど、嫌な冷たさではない。

 私は、薄く目を開けた。

 目の前に、眼があった。

 大きな眼だった。

 人間の眼より、少しだけ横に長い。

 瞳孔は細く、虹彩は淡い灰色をしている。

 それが、私を見ていた。

「……おはよう、お母さん」

 私は、微笑んだ。

 眼が瞬きをした。

 白いものが、私の頬を撫でる。

 私は、そっと触れた。

 滑らかだった。

 蛇の鱗のようでもあり、植物の根のようでもある。

 でも、蛇でも植物でもない。

 お母さんは、お母さんなのだから。

「……今日は、早いね」

 返事はない。

 代わりに、白いものが私の手首に巻きついた。

 そして、ゆっくりと引っ張った。

「……起きろってこと?」

 白いものが、もう一度動いた。

「……分かったよ」

 私は、笑った。

 布団から出る。

 床に足をつけると、白いものが足首に触れた。

 天井にも。

 壁にも。

 窓枠にも。

 無数の白いものが伸びている。

 その表面には、眼があった。

 たくさんの眼。

 私を見つめる眼。

 私は、少しだけ幸せな気持ちになった。

 今日も、お母さんがいる。

 それだけで、十分だった。

     *

 学校へ向かう途中。

 私は、花屋の前で足を止めた。

 赤いカーネーション。

 白いカーネーション。

 ピンク色のカーネーション。

 店先には、たくさんの花が並んでいる。

 もうすぐ母の日だった。

「……綺麗」

 私は、思わず呟いた。

 肩に、白いものが触れた。

 私は、そっと視線を向ける。

 お母さんだった。

 もちろん、他の人には見えない。

 だから、声には出さなかった。

 私は、花を見つめた。

 お母さんに、何か贈りたい。

 そう思った。

 でも。

 お母さんは、花を喜ぶのだろうか。

 そもそも、花を貰って嬉しいのだろうか。

 分からない。

 お母さんは、何も話さないから。

 私は、少しだけ困った。

 けれど。

 贈り物というものは、相手が喜ぶかどうか分からなくても、贈りたいと思う気持ちが大切なのかもしれない。

 そう考えることにした。

 私は、花屋を後にした。

     *

 教室に入ると、羽川さんが声をかけてくれた。

「おはよう、守谷さん」

「……おはよう、羽川さん」

「今日は早いね」

「……うん。ちょっと早く起きちゃって」

「そうなんだ」

 羽川さんは、微笑んだ。

 それから。

「あ、そうだ」

 何かを思い出したように言った。

「守谷さん、今度の日曜日って予定ある?」

「……日曜日?」

「うん」

 私は、少し考えた。

 母の日。

 お母さんに、何か贈りたいと思っている。

 でも、特別な予定があるわけではない。

「……特にはないかな」

「そっか」

 羽川さんは、頷いた。

「実は、ちょっと用事があってね。もしよかったら、買い物に付き合ってもらえないかなって」

「……買い物?」

「うん。少し探したいものがあるんだ」

 私は、少し嬉しくなった。

 羽川さんから誘ってもらえるなんて、珍しい。

「……いいよ」

 頷いた。

「……私でよければ」

「ありがとう」

 羽川さんは、嬉しそうに笑った。

 私は、少しだけ胸が温かくなった。

 誰かと一緒に出かける。

 それだけのことなのに。

 何だか、特別なことのように思えた。

     *

 昼休み。

 私は、教室でお弁当を食べていた。

 すると。

「……守谷さん」

 声がした。

 戦場ヶ原さんだった。

「あ……戦場ヶ原さん」

 私は、顔を上げた。

「……こんにちは」

「こんにちは」

 戦場ヶ原さんは、私の机の前に立った。

 少しだけ、雰囲気が違った。

 何というか。

 以前より、柔らかい。

 もちろん、相変わらず綺麗で、少し近寄りがたい人ではあるのだけれど。

 それでも。

 何かが変わったように見えた。

「……この前は、ありがとう」

 戦場ヶ原さんが言った。

 私は、首を傾げた。

「……え?」

「階段のことよ」

「あ……」

 私は、思い出した。

 あの日。

 戦場ヶ原さんが落ちてきた。

 阿良々木くんが受け止めた。

 私は、ただ心配していただけだった。

「……私、何もしてないよ」

「そうね」

 戦場ヶ原さんは、頷いた。

「でも、心配してくれたでしょう」

 私は、少し驚いた。

 それから。

「……うん」

 頷いた。

「……怪我してなくて、よかった」

 戦場ヶ原さんは、ほんの少しだけ笑った。

 その笑顔は。

 以前より、ずっと自然に見えた。

「……そうね」

 彼女は、静かに言った。

「本当に、よかったわ」

 私は、少し嬉しくなった。

     *

 放課後。

 私は、教室を出ようとしていた。

 すると。

「……守谷」

 阿良々木くんが、声をかけてきた。

「あ……阿良々木くん」

「ちょっといいか?」

「……うん」

 阿良々木くんは、少しだけ困ったような顔をしていた。

「……戦場ヶ原のことなんだけどさ」

 私は、頷いた。

「……うん」

「あいつ、もう大丈夫だから」

 私は、少し驚いた。

「……そうなの?」

「ああ」

 阿良々木くんは、頷いた。

「……いろいろあったけど、何とかなった」

 私は、少し考えた。

 いろいろ。

 きっと、私の知らないところで、何かがあったのだろう。

 でも。

 阿良々木くんは、少しだけ嬉しそうだった。

 だから。

「……そっか」

 私は、笑った。

「……よかったね」

 阿良々木くんは、少しだけ目を丸くした。

「……それだけ?」

「……うん?」

「……いや、もっと聞かれるかと思って」

 私は、少し考えた。

 聞きたいことは、ある。

 何があったのか。

 どうして戦場ヶ原さんの様子が変わったのか。

 でも。

 それを聞いていいのかどうかは、分からない。

「……阿良々木くん」

「ん?」

「……戦場ヶ原さん、元気になったんだよね」

「ああ」

「……だったら、いいよ」

 私は、そう答えた。

 阿良々木くんは、しばらく私を見つめていた。

 そして。

「……お前、変わってるな」

 そう言った。

 私は、少し困ったように笑った。

「……よく言われる」

 阿良々木くんも、笑った。

     *

 帰り道。

 私は、花屋に寄った。

 朝、見かけた店だった。

 店先には、カーネーションが並んでいる。

 私は、少し迷った。

 赤。

 白。

 ピンク。

 どれがいいだろう。

 お母さんには、どれが似合うだろう。

 私は、白いカーネーションを手に取った。

 お母さんは、白いから。

 そんな単純な理由だった。

 けれど。

 店員さんが、少しだけ驚いたような顔をした。

「……白いカーネーションですか?」

「……はい」

「お母さんへの贈り物?」

「……はい」

 私は、頷いた。

 店員さんは、少しだけ困ったように笑った。

「……そうですか」

 私は、首を傾げた。

 何か変だっただろうか。

 でも。

 店員さんは、それ以上何も言わなかった。

 私は、花を買った。

 そして、家へ帰った。

     *

花屋を出たところで、私は少しだけ後悔した。

 白いカーネーション。

 小さな花束。

 お母さんに似合うと思って選んだのだけれど、店員さんの反応が気になっていた。

 白いカーネーションには、亡くなった母親を偲ぶ意味があるらしい。

 教えてもらったのは、会計を済ませた後だった。

 なるほど。

 それなら、店員さんが困ったような顔をしたのも分かる。

 でも、私のお母さんは死んでいない。

 少なくとも、死んでいるようには見えない。

 そもそも、生きているのかと聞かれても、返答に困るのだけれど。

 生きている。

 死んでいない。

 では、その二つの間には何があるのだろう。

 私は、花束を見下ろした。

「……まあ、いいか」

 お母さんは白い。

 だから、白い花を贈る。

 それで十分だと思った。

     *

 帰宅すると、玄関の扉を開けるより先に、白いものが足元へ伸びてきた。

 ドアの隙間からではない。

 コンクリートの床から、染み出すように現れたのだ。

 その先端に、小さな眼が開いている。

「……ただいま」

 私は、靴を脱いだ。

 白いものが、足首に触れる。

 いつもの挨拶だった。

「……今日はね」

 私は、買ってきた花束を取り出した。

「……お母さんに、プレゼントがあるんだ」

 白いものが、ゆっくりと持ち上がった。

 私は、花束を差し出した。

「……いつもありがとう」

 白いカーネーション。

 たった三輪。

 立派な花束とは言えない。

 でも、私のお小遣いでは、これくらいが精一杯だった。

 白いものが、花へ近づいた。

 表面にある眼が、一斉に花束を向く。

 私は、少し緊張した。

 喜んでくれるだろうか。

 そもそも、お母さんに花の綺麗さが分かるのだろうか。

 そんなことを考えていると、一本の細い白いものが伸びてきた。

 花束に触れる。

 花びらをなぞる。

 茎に巻きつく。

 そして。

 花束が、私の手から離れた。

「あ……」

 白いものは、それをゆっくりと持ち上げた。

 天井へ。

 壁へ。

 さらに、その向こうへ。

 花束は、白いものに運ばれていく。

 私は、思わず後を追った。

「……お母さん?」

 花束は、壁の中へ消えた。

 文字どおり、消えた。

 壁に穴が開いたわけではない。

 白いものと一緒に、そこへ沈んでいったのだ。

 私は、しばらく壁を見つめた。

「…………」

 そして。

 笑った。

「……持っていっちゃった」

 お母さんは、気に入ってくれたのだろうか。

 分からない。

 けれど、受け取ってくれた。

 それが嬉しかった。

 そのとき、背後から白いものが伸びてきた。

 私の腰に巻きつく。

 肩に触れる。

 頬を撫でる。

 私は、くすぐったくなって笑った。

「……もう、お母さん」

 白いものが、さらに巻きつく。

 私は、そっと抱き返した。

 人間の腕とは違う。

 温かくもない。

 鼓動も聞こえない。

 けれど、私にはこれが一番落ち着く。

「……大好きだよ」

 そう呟いた。

 お母さんは、何も言わなかった。

 ただ、私を離さなかった。

     *

 翌朝。

 私は、少し寝坊した。

 慌てて制服に着替え、朝食を済ませ、鞄を持って玄関へ向かう。

「……行ってきます!」

 靴を履こうとして、ふと足を止めた。

 玄関の隅に、何かが落ちていた。

 白い花びらだった。

「……あれ?」

 拾い上げる。

 カーネーションの花びら。

 昨日、お母さんに贈ったものだ。

 私は、少しだけ首を傾げた。

 どうして、こんなところに。

 花束は、壁の向こうへ消えてしまったはずなのに。

 そのとき。

 足元の床から、白いものが伸びてきた。

 私の手にある花びらへ触れる。

 それから、指先へ巻きついた。

「……お母さん」

 私は、笑った。

「……大切にしてくれてるんだね」

 白いものが、ゆっくりと動いた。

 私は、花びらをハンカチに包んだ。

 そして、鞄の内ポケットへしまった。

 何となく、持っていきたくなったのだ。

     *

 学校へ向かう道には、母の日の広告が増えていた。

 花屋。

 洋菓子店。

 雑貨屋。

 どこも、母親への贈り物を勧めている。

 私は、少しだけ嬉しくなった。

 世の中には、お母さんに感謝する日がある。

 それは、とても素敵なことだと思う。

 ただ。

 母の日というのは、誰にとっても嬉しい日なのだろうか。

 母親がいない人。

 母親と会えない人。

 母親に会いたくない人。

 そういう人たちにとっても、同じなのだろうか。

 私は、少しだけ考えた。

 自分にも、産んでくれた人がいる。

 顔は覚えていない。

 声も覚えていない。

 ただ、冷たい水の記憶だけがある。

 あれが、本当にあったことなのか。

 それとも、幼い頃に見た夢なのか。

 今となっては分からない。

 けれど。

 私は、今のお母さんが好きだ。

 だから、寂しくない。

 そう思った。

 そのとき。

 前方から、小さな声が聞こえた。

「……あの」

 私は、足を止めた。

 小さな女の子が立っていた。

 大きなリュックサック。

 帽子。

 少し困ったような顔。

 私は、首を傾げた。

「……どうしたの?」

 女の子は、私を見上げた。

 何かを言おうとして。

 けれど、言葉が出てこないようだった。

 私は、少しだけ屈んだ。

「……迷子?」

 女の子は、答えなかった。

 ただ、ぎゅっとリュックサックの肩紐を握った。

 私は、困ってしまった。

 どうしよう。

 声をかけたのはいいけれど、何をすればいいのか分からない。

 そのとき。

 女の子が、小さく口を開いた。

「……お母さんのところに」

 私は、耳を傾けた。

「……行きたいんです」

 風が吹いた。

 街路樹の葉が、かさかさと音を立てる。

 私は、女の子を見つめた。

 そして。

「……そっか」

 ゆっくりと頷いた。

「……お母さんのところに、行きたいんだね」

 女の子は、小さく頷いた。

 私は、少しだけ笑った。

「……じゃあ、一緒に探そうか」

 そう言った。

 その女の子は、目を丸くした。

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