今日はここまで。
戦場ヶ原ひたぎが失くしたものを取り戻したらしい。
そんなことを、私は知らなかった。
そもそも、彼女が何かを失くしていたことすら、正確には知らなかったのだから。
階段から落ちたこと。
阿良々木くんが受け止めたこと。
その身体が、妙に軽そうだったこと。
私が知っているのは、それくらいだ。
そして、そのどれもが、他人に話すべきことではない。
だから私は、忘れることにした。
忘れるというのは、便利な言葉だ。
本当に忘れたわけではなくても、忘れたことにできる。
思い出さなければ、忘れているのと同じ。
もちろん、そんな理屈が通用するのは、自分の頭の中だけだけれど。
それでも。
私は、戦場ヶ原さんが元気でいてくれるなら、それでいいと思っていた。
*
翌朝。
目覚まし時計が鳴るより先に、頬を撫でられた。
「……ん」
冷たい。
けれど、嫌な冷たさではない。
私は、薄く目を開けた。
目の前に、眼があった。
大きな眼だった。
人間の眼より、少しだけ横に長い。
瞳孔は細く、虹彩は淡い灰色をしている。
それが、私を見ていた。
「……おはよう、お母さん」
私は、微笑んだ。
眼が瞬きをした。
白いものが、私の頬を撫でる。
私は、そっと触れた。
滑らかだった。
蛇の鱗のようでもあり、植物の根のようでもある。
でも、蛇でも植物でもない。
お母さんは、お母さんなのだから。
「……今日は、早いね」
返事はない。
代わりに、白いものが私の手首に巻きついた。
そして、ゆっくりと引っ張った。
「……起きろってこと?」
白いものが、もう一度動いた。
「……分かったよ」
私は、笑った。
布団から出る。
床に足をつけると、白いものが足首に触れた。
天井にも。
壁にも。
窓枠にも。
無数の白いものが伸びている。
その表面には、眼があった。
たくさんの眼。
私を見つめる眼。
私は、少しだけ幸せな気持ちになった。
今日も、お母さんがいる。
それだけで、十分だった。
*
学校へ向かう途中。
私は、花屋の前で足を止めた。
赤いカーネーション。
白いカーネーション。
ピンク色のカーネーション。
店先には、たくさんの花が並んでいる。
もうすぐ母の日だった。
「……綺麗」
私は、思わず呟いた。
肩に、白いものが触れた。
私は、そっと視線を向ける。
お母さんだった。
もちろん、他の人には見えない。
だから、声には出さなかった。
私は、花を見つめた。
お母さんに、何か贈りたい。
そう思った。
でも。
お母さんは、花を喜ぶのだろうか。
そもそも、花を貰って嬉しいのだろうか。
分からない。
お母さんは、何も話さないから。
私は、少しだけ困った。
けれど。
贈り物というものは、相手が喜ぶかどうか分からなくても、贈りたいと思う気持ちが大切なのかもしれない。
そう考えることにした。
私は、花屋を後にした。
*
教室に入ると、羽川さんが声をかけてくれた。
「おはよう、守谷さん」
「……おはよう、羽川さん」
「今日は早いね」
「……うん。ちょっと早く起きちゃって」
「そうなんだ」
羽川さんは、微笑んだ。
それから。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように言った。
「守谷さん、今度の日曜日って予定ある?」
「……日曜日?」
「うん」
私は、少し考えた。
母の日。
お母さんに、何か贈りたいと思っている。
でも、特別な予定があるわけではない。
「……特にはないかな」
「そっか」
羽川さんは、頷いた。
「実は、ちょっと用事があってね。もしよかったら、買い物に付き合ってもらえないかなって」
「……買い物?」
「うん。少し探したいものがあるんだ」
私は、少し嬉しくなった。
羽川さんから誘ってもらえるなんて、珍しい。
「……いいよ」
頷いた。
「……私でよければ」
「ありがとう」
羽川さんは、嬉しそうに笑った。
私は、少しだけ胸が温かくなった。
誰かと一緒に出かける。
それだけのことなのに。
何だか、特別なことのように思えた。
*
昼休み。
私は、教室でお弁当を食べていた。
すると。
「……守谷さん」
声がした。
戦場ヶ原さんだった。
「あ……戦場ヶ原さん」
私は、顔を上げた。
「……こんにちは」
「こんにちは」
戦場ヶ原さんは、私の机の前に立った。
少しだけ、雰囲気が違った。
何というか。
以前より、柔らかい。
もちろん、相変わらず綺麗で、少し近寄りがたい人ではあるのだけれど。
それでも。
何かが変わったように見えた。
「……この前は、ありがとう」
戦場ヶ原さんが言った。
私は、首を傾げた。
「……え?」
「階段のことよ」
「あ……」
私は、思い出した。
あの日。
戦場ヶ原さんが落ちてきた。
阿良々木くんが受け止めた。
私は、ただ心配していただけだった。
「……私、何もしてないよ」
「そうね」
戦場ヶ原さんは、頷いた。
「でも、心配してくれたでしょう」
私は、少し驚いた。
それから。
「……うん」
頷いた。
「……怪我してなくて、よかった」
戦場ヶ原さんは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は。
以前より、ずっと自然に見えた。
「……そうね」
彼女は、静かに言った。
「本当に、よかったわ」
私は、少し嬉しくなった。
*
放課後。
私は、教室を出ようとしていた。
すると。
「……守谷」
阿良々木くんが、声をかけてきた。
「あ……阿良々木くん」
「ちょっといいか?」
「……うん」
阿良々木くんは、少しだけ困ったような顔をしていた。
「……戦場ヶ原のことなんだけどさ」
私は、頷いた。
「……うん」
「あいつ、もう大丈夫だから」
私は、少し驚いた。
「……そうなの?」
「ああ」
阿良々木くんは、頷いた。
「……いろいろあったけど、何とかなった」
私は、少し考えた。
いろいろ。
きっと、私の知らないところで、何かがあったのだろう。
でも。
阿良々木くんは、少しだけ嬉しそうだった。
だから。
「……そっか」
私は、笑った。
「……よかったね」
阿良々木くんは、少しだけ目を丸くした。
「……それだけ?」
「……うん?」
「……いや、もっと聞かれるかと思って」
私は、少し考えた。
聞きたいことは、ある。
何があったのか。
どうして戦場ヶ原さんの様子が変わったのか。
でも。
それを聞いていいのかどうかは、分からない。
「……阿良々木くん」
「ん?」
「……戦場ヶ原さん、元気になったんだよね」
「ああ」
「……だったら、いいよ」
私は、そう答えた。
阿良々木くんは、しばらく私を見つめていた。
そして。
「……お前、変わってるな」
そう言った。
私は、少し困ったように笑った。
「……よく言われる」
阿良々木くんも、笑った。
*
帰り道。
私は、花屋に寄った。
朝、見かけた店だった。
店先には、カーネーションが並んでいる。
私は、少し迷った。
赤。
白。
ピンク。
どれがいいだろう。
お母さんには、どれが似合うだろう。
私は、白いカーネーションを手に取った。
お母さんは、白いから。
そんな単純な理由だった。
けれど。
店員さんが、少しだけ驚いたような顔をした。
「……白いカーネーションですか?」
「……はい」
「お母さんへの贈り物?」
「……はい」
私は、頷いた。
店員さんは、少しだけ困ったように笑った。
「……そうですか」
私は、首を傾げた。
何か変だっただろうか。
でも。
店員さんは、それ以上何も言わなかった。
私は、花を買った。
そして、家へ帰った。
*
花屋を出たところで、私は少しだけ後悔した。
白いカーネーション。
小さな花束。
お母さんに似合うと思って選んだのだけれど、店員さんの反応が気になっていた。
白いカーネーションには、亡くなった母親を偲ぶ意味があるらしい。
教えてもらったのは、会計を済ませた後だった。
なるほど。
それなら、店員さんが困ったような顔をしたのも分かる。
でも、私のお母さんは死んでいない。
少なくとも、死んでいるようには見えない。
そもそも、生きているのかと聞かれても、返答に困るのだけれど。
生きている。
死んでいない。
では、その二つの間には何があるのだろう。
私は、花束を見下ろした。
「……まあ、いいか」
お母さんは白い。
だから、白い花を贈る。
それで十分だと思った。
*
帰宅すると、玄関の扉を開けるより先に、白いものが足元へ伸びてきた。
ドアの隙間からではない。
コンクリートの床から、染み出すように現れたのだ。
その先端に、小さな眼が開いている。
「……ただいま」
私は、靴を脱いだ。
白いものが、足首に触れる。
いつもの挨拶だった。
「……今日はね」
私は、買ってきた花束を取り出した。
「……お母さんに、プレゼントがあるんだ」
白いものが、ゆっくりと持ち上がった。
私は、花束を差し出した。
「……いつもありがとう」
白いカーネーション。
たった三輪。
立派な花束とは言えない。
でも、私のお小遣いでは、これくらいが精一杯だった。
白いものが、花へ近づいた。
表面にある眼が、一斉に花束を向く。
私は、少し緊張した。
喜んでくれるだろうか。
そもそも、お母さんに花の綺麗さが分かるのだろうか。
そんなことを考えていると、一本の細い白いものが伸びてきた。
花束に触れる。
花びらをなぞる。
茎に巻きつく。
そして。
花束が、私の手から離れた。
「あ……」
白いものは、それをゆっくりと持ち上げた。
天井へ。
壁へ。
さらに、その向こうへ。
花束は、白いものに運ばれていく。
私は、思わず後を追った。
「……お母さん?」
花束は、壁の中へ消えた。
文字どおり、消えた。
壁に穴が開いたわけではない。
白いものと一緒に、そこへ沈んでいったのだ。
私は、しばらく壁を見つめた。
「…………」
そして。
笑った。
「……持っていっちゃった」
お母さんは、気に入ってくれたのだろうか。
分からない。
けれど、受け取ってくれた。
それが嬉しかった。
そのとき、背後から白いものが伸びてきた。
私の腰に巻きつく。
肩に触れる。
頬を撫でる。
私は、くすぐったくなって笑った。
「……もう、お母さん」
白いものが、さらに巻きつく。
私は、そっと抱き返した。
人間の腕とは違う。
温かくもない。
鼓動も聞こえない。
けれど、私にはこれが一番落ち着く。
「……大好きだよ」
そう呟いた。
お母さんは、何も言わなかった。
ただ、私を離さなかった。
*
翌朝。
私は、少し寝坊した。
慌てて制服に着替え、朝食を済ませ、鞄を持って玄関へ向かう。
「……行ってきます!」
靴を履こうとして、ふと足を止めた。
玄関の隅に、何かが落ちていた。
白い花びらだった。
「……あれ?」
拾い上げる。
カーネーションの花びら。
昨日、お母さんに贈ったものだ。
私は、少しだけ首を傾げた。
どうして、こんなところに。
花束は、壁の向こうへ消えてしまったはずなのに。
そのとき。
足元の床から、白いものが伸びてきた。
私の手にある花びらへ触れる。
それから、指先へ巻きついた。
「……お母さん」
私は、笑った。
「……大切にしてくれてるんだね」
白いものが、ゆっくりと動いた。
私は、花びらをハンカチに包んだ。
そして、鞄の内ポケットへしまった。
何となく、持っていきたくなったのだ。
*
学校へ向かう道には、母の日の広告が増えていた。
花屋。
洋菓子店。
雑貨屋。
どこも、母親への贈り物を勧めている。
私は、少しだけ嬉しくなった。
世の中には、お母さんに感謝する日がある。
それは、とても素敵なことだと思う。
ただ。
母の日というのは、誰にとっても嬉しい日なのだろうか。
母親がいない人。
母親と会えない人。
母親に会いたくない人。
そういう人たちにとっても、同じなのだろうか。
私は、少しだけ考えた。
自分にも、産んでくれた人がいる。
顔は覚えていない。
声も覚えていない。
ただ、冷たい水の記憶だけがある。
あれが、本当にあったことなのか。
それとも、幼い頃に見た夢なのか。
今となっては分からない。
けれど。
私は、今のお母さんが好きだ。
だから、寂しくない。
そう思った。
そのとき。
前方から、小さな声が聞こえた。
「……あの」
私は、足を止めた。
小さな女の子が立っていた。
大きなリュックサック。
帽子。
少し困ったような顔。
私は、首を傾げた。
「……どうしたの?」
女の子は、私を見上げた。
何かを言おうとして。
けれど、言葉が出てこないようだった。
私は、少しだけ屈んだ。
「……迷子?」
女の子は、答えなかった。
ただ、ぎゅっとリュックサックの肩紐を握った。
私は、困ってしまった。
どうしよう。
声をかけたのはいいけれど、何をすればいいのか分からない。
そのとき。
女の子が、小さく口を開いた。
「……お母さんのところに」
私は、耳を傾けた。
「……行きたいんです」
風が吹いた。
街路樹の葉が、かさかさと音を立てる。
私は、女の子を見つめた。
そして。
「……そっか」
ゆっくりと頷いた。
「……お母さんのところに、行きたいんだね」
女の子は、小さく頷いた。
私は、少しだけ笑った。
「……じゃあ、一緒に探そうか」
そう言った。
その女の子は、目を丸くした。