子供を拾った。
などと言うと、随分と物騒に聞こえる。
犬や猫ならともかく、人間の子供を拾うというのは、あまり一般的な表現ではないだろう。
けれど、ほかに適切な言葉が見つからなかった。
金曜日の朝、通学途中の道端で出会った女の子。
大きなリュックサックを背負い、帽子を被った小学生くらいの女の子。
お母さんに会いたいと言った、その子の手を取って。
私は今、学校とは反対方向へ歩いている。
どうしてこんなことになったのだろう。
答えは簡単だ。
私がそうすると決めたからだった。
*
「……それで、あなたは」
「はい」
「お母さんのお家は、どこにあるの?」
女の子はリュックサックを下ろし、ごそごそと中を探った。
出てきたのは、一枚の紙だった。
「ここです」
私は受け取って、書かれた住所を読んだ。
町内の住所だった。
少なくとも、歩いて行けない距離ではない。
「……そっか。じゃあ、まずはこっちかな」
「分かるんですか?」
「……たぶん」
「頼りないですね」
「……ごめんね」
「謝られると、こちらが悪いことを言ったみたいになるじゃないですか」
私は思わず笑ってしまった。
この子は、なかなか口が達者らしい。
「……あ、そうだ。名前、聞いてもいい?」
「八九寺真宵です」
「……はちくじ、まよいちゃん?」
「はい」
「……私は守谷日和。よろしくね」
「よろしくお願いします、守谷さん」
「……日和でいいよ」
「では、日和さん」
真宵ちゃんは、きちんと頭を下げた。
私もつられて頭を下げる。
道端で向かい合ってお辞儀をする女子高生と小学生。
傍から見たら、少し妙な光景だったかもしれない。
「……じゃあ、行こうか」
「はい」
私は手を差し出した。
真宵ちゃんは少し迷ってから、その手を握った。
小さな手だった。
私の手のひらに、すっぽりと収まるくらいの。
その感触が、妙に嬉しかった。
*
三十分後。
私たちは、見覚えのある交差点に立っていた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「……ここ、さっき通ったよね」
「そうでしたっけ」
「……うん。あそこの自動販売機、覚えてる」
私は道端の自動販売機を指差した。
赤い機械の側面に、剥がれかけた広告が貼られている。
その広告が、妙に印象に残っていた。
「……道、間違えちゃったかな」
「日和さん、方向音痴なんですか?」
「……そんなことないと思うんだけど」
「自覚のない方向音痴が一番厄介だと聞きます」
「……厳しいね、真宵ちゃん」
「事実を申し上げているだけです」
私は、少し困った。
住所は合っている。
曲がる道も、間違えていないはずだった。
けれど、同じ場所に戻ってきてしまった。
仕方がない。
もう一度、道を確認しよう。
そう思って携帯電話を取り出したところで、時刻が目に入った。
午前八時二十六分。
「あ」
「どうしました?」
「……学校」
すっかり忘れていた。
正確には、忘れようとしていた。
今から向かっても遅刻は確実だ。
でも、真宵ちゃんを一人にはできない。
私は少し迷った末、学校へ電話をかけた。
体調が悪いので休みます、と伝える。
嘘をついてしまった。
電話を切った後、胸の奥が少し痛んだ。
「日和さん」
「……うん?」
「学校、よかったんですか」
「……うん。今日はお休み」
「私のせいですか?」
真宵ちゃんは、じっと私を見た。
私は首を振る。
「……私が決めたことだから」
「そうですか」
真宵ちゃんは、それ以上何も言わなかった。
私は携帯電話を鞄にしまい、もう一度住所を確かめた。
「……今度こそ、ちゃんと行こうね」
「期待しています」
「……頑張ります」
どうやら、年下の女の子に信用されるのは難しいらしい。
*
午前十一時。
私たちは、まだ歩いていた。
目的地には着いていない。
それどころか、さっきまでいた場所がどこだったのかも、少し怪しくなってきた。
道を尋ねるたびに、違う方向を教えられる。
地図で確かめた道を歩いても、いつの間にか別の場所へ出てしまう。
工事中の道路に行き当たることもあれば、行き止まりにぶつかることもあった。
「……不思議だね」
「何がですか?」
「……こんなに迷うなんて」
「日和さんの方向感覚が壊滅的だからでは?」
「……そうなのかな」
「否定してくださいよ」
真宵ちゃんが呆れたように言った。
私は笑った。
それから、近くの公園を見つけた。
「……少し休もうか」
「私は平気です」
「……でも、お昼も近いし」
そう言うと、真宵ちゃんは少し考えた。
「それなら、休憩もやむを得ませんね」
私たちは公園のベンチに座った。
私は鞄から水筒を取り出す。
朝、持ってきたお茶だった。
「……飲む?」
「結構です」
「……そっか」
私はお茶を飲んだ。
冷たくて、おいしかった。
真宵ちゃんは、隣で足をぶらぶらさせている。
朝からずっと歩いているのに、疲れた様子がない。
子供は元気だ。
そう思った。
私が小学生の頃も、こんなに元気だっただろうか。
あまり覚えていない。
施設にいた頃は、よく一人で本を読んでいた気がする。
外で遊ぶのが嫌いだったわけではない。
ただ、ほかの子たちが家族の話をすると、何となく居心地が悪かった。
そんなことを思い出していると、真宵ちゃんが私を見上げた。
「日和さん」
「……なあに?」
「どうして、私に付き合ってくれるんですか?」
私は少し考えた。
「……お母さんに会いたいんでしょう?」
「はい」
「……だったら、会えた方がいいと思うから」
「それだけですか?」
「……うん」
真宵ちゃんは、納得していないようだった。
「見ず知らずの子供ですよ」
「……もう名前も知ってるよ」
「そういう問題ではありません」
「……そうなの?」
「そうです」
私は、少し困ってしまった。
どう説明すればいいのだろう。
私にとっては、それほど難しい話ではなかった。
困っている子がいる。
助けたいと思った。
だから、一緒にいる。
それだけなのに。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……お母さん、好き?」
少女は、すぐには答えなかった。
ぶらぶらさせていた足が止まる。
「……好きです」
小さな声だった。
「……そっか」
私は微笑んだ。
「……私も、お母さんが大好きなんだ」
肩に、白いものが触れた。
私は視線を動かさなかった。
真宵ちゃんには見えないだろうから。
「……だから、会わせてあげたいなって」
真宵ちゃんは、しばらく私を見つめていた。
そして、ふいと顔を背けた。
「……変な人です」
「……よく言われるよ」
それから、私たちはまた歩き始めた。
*
午後三時。
足が痛くなってきた。
それでも、真宵ちゃんは元気だった。
私は少し感心した。
こんなに歩いているのに、息も切らしていない。
途中で何度か休憩しているとはいえ、すごい体力だ。
「……真宵ちゃん、疲れてない?」
「はい」
「……すごいね」
「日和さんが貧弱なのでは?」
「……そうかもしれない」
「だから否定してください」
私は笑った。
真宵ちゃんも、少し笑った。
朝より、ずっと話しやすくなっていた。
最初は少し警戒されているようだったけれど、今はそうでもないらしい。
それが嬉しかった。
ただ。
道は、見つからなかった。
住所に書かれた場所へ近づいているはずなのに、いつも途中で違う道へ出てしまう。
何度も地図を見直した。
何度も人に尋ねた。
それでも駄目だった。
私は、少しだけ不安になった。
このまま、見つからなかったらどうしよう。
真宵ちゃんは、お母さんに会えないままなのだろうか。
そんなことを考えると、足の痛みよりも胸の奥が苦しくなった。
*
午後七時。
空は、すっかり暗くなっていた。
街灯が灯り、車のヘッドライトが道路を照らしている。
私は、とうとう決心した。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……お巡りさんに、相談してみようか」
真宵ちゃんの表情が変わった。
「……警察ですか」
「……うん」
私は頷いた。
「……私だけじゃ、どうしても見つけられないみたいだから」
真宵ちゃんは、何も言わなかった。
少しだけ俯いている。
私は、その手を握り直した。
「……大丈夫。ちゃんと説明するから」
それから、近くを巡回していた警察官に声をかけた。
「あの……すみません」
警察官は、こちらを振り返った。
「はい、どうしました?」
「……迷子の子がいて」
「迷子?」
「……はい。お母さんのお家を探してるんですけど、どうしても見つからなくて」
警察官は、辺りを見回した。
「その子は?」
「……え?」
「迷子の子供。どこにいるの?」
私は、隣を見た。
真宵ちゃんが立っている。
私の手を握って。
「……ここです」
私は、真宵ちゃんを示した。
警察官は、何もない場所を見た。
そして、眉をひそめた。
「……君ねえ」
「……はい?」
「そういう悪戯は、他所でやってくれないかな」
私は、言葉を失った。
「……え?」
「迷子なんて、どこにもいないじゃないか」
「……でも」
私は、真宵ちゃんを見た。
確かにいる。
手も握っている。
帽子も、リュックサックも。
全部、見えている。
「……ここに、いるんです」
「もういいから」
警察官の声が、少し冷たくなった。
「高校生でしょう? 人をからかうようなことをしてないで、早く帰りなさい」
私は、何も言えなかった。
警察官は、それ以上取り合ってくれなかった。
立ち去っていく背中を、私は呆然と見送った。
*
「……日和さん」
真宵ちゃんが、私を呼んだ。
私は、返事をしなかった。
正確には、返事ができなかった。
頭の中で、いくつものことが繋がっていく。
朝から歩き続けているのに、疲れた様子のない真宵ちゃん。
何度道を確認しても、目的地にたどり着けないこと。
そして。
警察官には、真宵ちゃんが見えなかったこと。
私は、そっと肩へ視線を向けた。
白いものが、そこにいた。
いつもどおり。
誰にも見えない、私のお母さん。
たくさんの眼が、私を見つめている。
私は、ゆっくりと息を吐いた。
そうか。
そういうことも、あるのかもしれない。
「……日和さん?」
真宵ちゃんが、もう一度呼んだ。
私は、彼女を見た。
小さな女の子。
お母さんに会いたいと言った子。
私の手を握っている子。
この子は。
もしかしたら。
お母さんと同じように、普通の人には見えない存在なのかもしれない。
でも。
それが、何だというのだろう。
「……真宵ちゃん」
「……はい」
「……もう少し、探してみようか」
真宵ちゃんは、目を丸くした。
「……え?」
「……まだ、見つかってないから」
「……日和さん」
少女は、私を見つめた。
「怖くないんですか?」
私は、少し考えた。
「……何が?」
「……私が」
その声は、朝から聞いてきたどの声よりも小さかった。
私は、真宵ちゃんの手を見た。
握っている。
ちゃんと、触れられる。
少し冷たい。
けれど、確かにそこにいる。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……私にもね、ほかの人には見えない、大切な人がいるんだ」
真宵ちゃんは、黙った。
「……だから、見えないことは、怖いことじゃないよ」
私は、微笑んだ。
「……それに、真宵ちゃんは何も悪いことしてないでしょう?」
少女は、答えなかった。
私は、そっと手を握り直した。
「……行こうか」
真宵ちゃんは、しばらく俯いていた。
それから。
「……はい」
小さく答えた。
*
午後十時。
私たちは、まだ歩いていた。
何度も休憩した。
コンビニで飲み物を買った。
ベンチに座って足を休めた。
それでも、目的地には着かなかった。
私は、さすがに疲れていた。
足が重い。
肩も痛い。
眠気もある。
けれど、真宵ちゃんは元気だった。
私は、もう驚かなかった。
きっと、そういう子なのだ。
そう思うことにした。
「……日和さん」
「……うん?」
「もう帰った方がいいですよ」
私は、首を振った。
「……まだ、見つかってないよ」
「でも、日和さんが倒れてしまいます」
「……大丈夫」
「大丈夫そうには見えません」
私は、少し笑った。
「……真宵ちゃん、優しいね」
「茶化さないでください!」
怒られてしまった。
でも。
少し嬉しかった。
真宵ちゃんが、私を心配してくれている。
それが、何だか嬉しかった。
*
午前二時。
私たちは、住宅街のベンチに座っていた。
私は、靴を脱いで足を休めていた。
靴擦れができていた。
痛い。
かなり痛い。
けれど、歩けないほどではない。
「……日和さん」
「……うん?」
「もう、やめましょう」
真宵ちゃんが言った。
私は、顔を上げた。
「……どうして?」
「どうしても何もありません!」
真宵ちゃんは、少し怒っていた。
「朝からずっと歩いているんですよ! 学校まで休んで!」
「……うん」
「普通、そこまでしません!」
私は、少し考えた。
確かに。
普通ではないのかもしれない。
でも。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……お母さんに、会いたいんでしょう?」
真宵ちゃんは、口を閉じた。
「……だったら、もう少しだけ」
「……日和さん」
少女は、俯いた。
「……もう、いいんです」
私は、少し驚いた。
「……え?」
「もう、いいんです。日和さんは帰ってください」
私は、真宵ちゃんを見つめた。
その顔は、少し悲しそうだった。
私は、ゆっくりと首を振った。
「……嫌だよ」
「……どうして」
「……真宵ちゃんを、一人にしたくないから」
少女は、何も言わなかった。
私は、少しだけ笑った。
「……ごめんね。頑固で」
「……本当に、頑固です」
「……うん」
私は、頷いた。
「……よく言われる」
真宵ちゃんは、少しだけ笑った。
*
午前四時。
私は、とうとう歩けなくなった。
足が動かない。
膝が震える。
立ち上がろうとしても、力が入らなかった。
「……あれ」
私は、少し困った。
「……おかしいな」
「おかしくありません!」
真宵ちゃんが、怒った。
「これだけ歩けば、誰だってそうなります!」
「……そうだよね」
「そうですよ!」
私は、ベンチに座り直した。
身体が重かった。
眠かった。
頭も、少しぼんやりしている。
「……ごめんね」
私は、真宵ちゃんを見た。
「……まだ、お母さんのところに連れていってあげられなくて」
真宵ちゃんは、何も言わなかった。
私は、少しだけ笑った。
「……私、役に立たないね」
「……そんなこと」
真宵ちゃんが、何かを言いかけた。
けれど、言葉を止めた。
私は、背もたれに身体を預けた。
肩に、お母さんがいた。
白いものが、私の首筋に触れている。
いつもどおり。
私は、そっと指で触れた。
冷たい。
安心する。
「……真宵ちゃん」
「……はい」
「……少しだけ、休んでもいい?」
真宵ちゃんは、しばらく私を見つめていた。
それから。
「……はい」
小さく答えた。
「……ゆっくり、休んでください」
私は、微笑んだ。
「……ありがとう」
目を閉じた。
ほんの少しだけ。
足を休めるだけ。
そう思っていた。
けれど、身体はもう限界だった。
意識が、ゆっくりと遠のいていく。
最後に聞こえたのは、真宵ちゃんの声だった。
「……本当に、変な人です」
その声は。
少しだけ、泣きそうに聞こえた。
*
八九寺真宵は、ベンチに座る少女を見つめていた。
守谷日和。
朝、偶然出会った女子高生。
自分のために学校を休み、一日中歩き続けた人。
警察官に自分の姿が見えないと分かっても、逃げなかった人。
そして。
とうとう、疲れ果てて動けなくなってしまった人。
「……馬鹿ですね」
真宵は、小さく呟いた。
返事はない。
日和は、静かに呼吸している。
真宵は、その顔を見つめた。
こんな人は、初めてだった。
自分が何者なのか、薄々気づいているはずなのに。
それでも、普通の女の子として接してくれた。
母親に会いたいという願いを、笑わなかった。
諦めなかった。
最後まで。
「……どうして」
真宵は、唇を噛んだ。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか」
答えはなかった。
日和は、眠っている。
真宵は、そっと手を伸ばした。
日和の制服の袖を握る。
小さな手で。
ぎゅっと。
「……ありがとうございます」
誰にも聞こえない声だった。
夜明け前の空は、まだ暗い。
けれど、東の空が、ほんの少しだけ明るくなり始めていた。
真宵は、日和の隣に座った。
そして、待つことにした。
この人が目を覚ますまで。
今度は、自分が。
一人にしないでいようと思った。