午前六時十七分。
守谷日和は、自分がどこにいるのか分からなかった。
知らない住宅街の、知らない公園。
知らないベンチに腰掛けて、知らない空を見上げている。
いや、空くらいは知っている。
昨日も見た。
一昨日も見た。
生まれてから何度だって見てきたはずだ。
ただ、今日の空は、ひどく腹立たしいほど青かった。
徹夜明けの人間にとって、朝日とは希望の象徴などではない。
昨夜の失敗を容赦なく照らし出す、巨大な照明器具である。
「……朝だ」
「おはようございます」
隣から声がした。
八九寺真宵だった。
帽子を被り、大きなリュックサックを背負った小さな女の子。
昨日の朝、私が出会った迷子。
そして、どうやら普通の人間ではないらしい女の子。
「……おはよう、真宵ちゃん」
「よく眠れましたか?」
「……うん。ちょっとだけ」
「二時間ほどです」
「……そんなに?」
「そんなに、ではありません。たったの二時間です」
真宵ちゃんは呆れた顔をした。
「日和さん、もう帰りましょう」
私は自分の足を見下ろした。
靴擦れ。
筋肉痛。
膝の違和感。
歩くという行為が、これほど多くの部位の協力によって成立しているとは知らなかった。
人体は複雑だ。
そして今、その協力体制は崩壊寸前だった。
「……そうだね」
私が答えると、真宵ちゃんは目を丸くした。
「え?」
「……一度、ちゃんと休まないと」
「……帰るんですか?」
「うん。帰って、ご飯食べて、足を休ませて……」
私はそこで言葉を切った。
真宵ちゃんの表情が、わずかに曇ったからだ。
「……真宵ちゃんも、一緒にね」
「…………」
「お風呂もあるし、着替えは……私の服だと大きすぎるかな」
「日和さん」
「……なあに?」
「私を家に連れて帰るつもりですか?」
「……うん」
「見ず知らずの子供を?」
「……もう見ず知らずじゃないよ」
「昨日知り合ったばかりです」
「……昨日からずっと一緒にいるよ」
「時間の問題ではありません!」
真宵ちゃんは両手を上げた。
「普通、そういうことはしないんです!」
昨日から、何度も言われている。
どうやら私は、普通というものに対して、少しばかり認識が甘いらしい。
「……でも、真宵ちゃんを一人にはできないし」
「私は大丈夫です」
「……それ、昨日も言ってたよ」
「昨日も今日も大丈夫なんです!」
私は笑った。
真宵ちゃんは笑わなかった。
代わりに、少し困ったような顔をした。
「……日和さんは、本当に帰るつもりなんですか」
「……うん?」
「自分のお家に」
私は首を傾げた。
「……帰るよ?」
「…………そうですか」
真宵ちゃんは、それきり黙ってしまった。
私は、どうしてそんなことを聞くのか分からなかった。
*
結論から言えば、私たちは帰れなかった。
少なくとも、二人一緒には。
「……あれ?」
見覚えのある交差点だった。
昨日、何度も通った場所。
赤い自動販売機。
剥がれかけた広告。
もう、すっかり顔馴染みになってしまった。
顔馴染みになる相手は、できれば人間がよかった。
「……おかしいな」
「またここですね」
「……うん」
私は携帯電話の地図を確認した。
現在地は、確かに表示されている。
自宅までの道順も出ている。
それなのに、指示された通りに歩くと、いつの間にか違う場所へ出てしまう。
昨夜までは、真宵ちゃんのお母さんの家へ行けなかった。
今度は、私の家にも帰れない。
私は画面を見つめた。
そして、ようやく一つの可能性に思い至った。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……もしかして、道に迷ってるのって、私たちじゃないのかな」
「では、誰が迷っているんですか」
「……道?」
「道路に責任を転嫁し始めましたか」
真宵ちゃんは、呆れたように言った。
私は笑わなかった。
昨日、警察官には真宵ちゃんが見えなかった。
それなのに、私は見える。
触れることもできる。
私には、そういう存在に心当たりがあった。
だからこそ、昨夜から考えていた。
真宵ちゃんは、私のお母さんと同じように、人間とは違う存在なのかもしれない。
そして、その存在と一緒にいることで、何か不思議なことが起きているのかもしれない。
「……ちょっと、試してもいい?」
「何をですか?」
「……ここで待っててくれる?」
真宵ちゃんの顔が強張った。
私は慌てて付け加えた。
「……あ、すぐ戻るよ。あそこの角まで行くだけ」
「……分かりました」
私は、真宵ちゃんから手を離した。
ほんの数十メートル先の角を目指して歩く。
曲がる。
そして、立ち止まった。
見覚えのある通りだった。
自宅へ続く道。
何度も歩いたことがある。
私は振り返った。
真宵ちゃんは、交差点の向こうに立っていた。
小さく手を振っている。
私は手を振り返した。
それから、戻った。
「……分かったかもしれない」
「何がですか?」
「……真宵ちゃんと一緒にいると、道が分からなくなるみたい」
真宵ちゃんは、私を見上げた。
「……そうですか」
驚いてはいなかった。
私は、その顔を見て、何となく察した。
「……知ってたの?」
「…………」
真宵ちゃんは答えなかった。
代わりに、帽子のつばを少し下げた。
私は責める気にはなれなかった。
だって、真宵ちゃん自身も帰れないのだから。
「……そっか」
私は頷いた。
「……じゃあ、どうしようかな」
「帰ればいいじゃないですか」
「……真宵ちゃんは?」
「私は、ここにいます」
「……一人で?」
「はい」
私は考えた。
昨日からずっと考えていることだった。
この子を、一人にしていいのだろうか。
人間ではないかもしれない。
迷子という言葉が、そもそも正しくないのかもしれない。
それでも。
私の目の前にいるのは、お母さんに会いたがっている小さな女の子だった。
「……じゃあ、もう少しだけ、一緒にいようか」
真宵ちゃんは、眉を寄せた。
「日和さん。話を聞いていましたか?」
「……うん」
「では、どうしてそうなるんですか」
「……だって」
私は、少し笑った。
「……帰り道が分かったからって、真宵ちゃんを置いて帰る理由にはならないよ」
真宵ちゃんは、何も言わなかった。
*
土曜日の昼。
私は、ようやくまともな食事を取った。
コンビニで買ったおにぎりを、公園のベンチで食べる。
鮭。
昆布。
それから、温かいお茶。
いつもなら何でもない昼食が、今日はご馳走に思えた。
人間というものは、空腹になると幸福の基準が著しく下がるらしい。
「……真宵ちゃんも食べる?」
「結構です」
「……昨日から、何も食べてないよね」
「お腹が空かないんです」
真宵ちゃんは、さらりと言った。
私はおにぎりを持ったまま、彼女を見た。
「……そっか」
「驚かないんですね」
「……ちょっと驚いたよ」
「ちょっとですか」
「……うん」
私は、もう一口おにぎりを食べた。
お母さんも、食事をしない。
私が何かを差し出しても、食べることはない。
花束は受け取ってくれたけれど、食べ物を食べているところは見たことがなかった。
そういう存在も、いるのだ。
私はそう思っている。
「……日和さんのお母さんは」
真宵ちゃんが、ふいに尋ねた。
「どんな人なんですか?」
私は、少しだけ手を止めた。
肩に、白いものが触れている。
細長い身体。
いくつもの眼。
私を見つめる、いつものお母さん。
「……優しい人だよ」
「そうですか」
「……うん。いつも一緒にいてくれるの」
「いつも?」
「……いつも」
真宵ちゃんは、不思議そうな顔をした。
「学校にもですか?」
「……うん」
「それは、過保護ですね」
私は思わず笑った。
「……そうかも」
「授業参観が毎日開催されているようなものじゃないですか」
「……確かに」
真宵ちゃんは、少し得意そうな顔をした。
私は、そんな彼女を見ながら考えた。
この子は、私のお母さんを見たらどう思うのだろう。
怖がるだろうか。
驚くだろうか。
それとも。
私と同じように、普通に受け入れてくれるだろうか。
分からない。
だから、言わない。
お母さんのことは、私だけの秘密だった。
*
午後四時。
私たちは、また歩いていた。
足の痛みは、昨日よりひどくなっている。
けれど、昨夜のように無理をするつもりはなかった。
休みながら。
ゆっくりと。
何度も地図を確認しながら。
それでも、目的地にはたどり着けない。
「……日和さん」
「……うん?」
「もう、諦めた方がいいと思います」
真宵ちゃんが言った。
私は、彼女を見た。
「……真宵ちゃんは、諦めたいの?」
「…………」
「……お母さんに会いたくなくなった?」
真宵ちゃんは、唇を噛んだ。
しばらくして、小さく首を振った。
「……会いたいです」
「……そっか」
私は頷いた。
「……じゃあ、もう少し探そう」
「どうして、そんなに簡単に言えるんですか」
「……簡単じゃないよ」
私は、少しだけ笑った。
「……足、すごく痛いし」
「だったら!」
「……でも、真宵ちゃんが会いたいって言うから」
真宵ちゃんは、黙った。
私は、空を見上げた。
夕方の空だった。
昨日も、この空を見た。
同じように歩いて。
同じように迷って。
同じように、真宵ちゃんと話していた。
不思議だった。
こんなに長い時間を一緒に過ごしているのに、まだ会ったばかりのような気もする。
逆に、ずっと前から知っているような気もする。
「……日和さん」
「……なあに?」
「あなたは、私が何者なのか、気にならないんですか」
私は少し考えた。
「……気になるよ」
正直に答えた。
真宵ちゃんが顔を上げる。
「でも……」
私は続けた。
「……聞いていいのか、分からないから」
「…………」
「……真宵ちゃんが話したくなったら、教えてね」
真宵ちゃんは、しばらく私を見つめていた。
それから、ぽつりと言った。
「……ずるい人ですね」
「……え?」
「そんなふうに言われたら、隠している私が悪いみたいじゃないですか」
私は慌てた。
「……そんなつもりじゃ」
「分かっています」
真宵ちゃんは、少しだけ笑った。
「分かっているから、困るんです」
*
土曜日の夜。
私は、携帯電話を見つめていた。
着信はない。
メールもない。
当然だった。
私は一人暮らしで、家族に連絡を入れる必要がない。
学校には昨日、欠席を伝えている。
今日は土曜日。
友達と連絡先を交換したことも、ほとんどない。
羽川さんとは、明日買い物に行く約束をしているけれど、電話番号は知らなかった。
今になって、少し困った。
「……どうしました?」
真宵ちゃんが尋ねた。
「……明日、友達と約束してるんだ」
「友達?」
「……うん。買い物に行こうって」
「それは、行った方がいいのでは?」
「……そうだね」
私は頷いた。
羽川さんは、きっと待ってくれる。
約束の時間に行かなければ、心配してくれるかもしれない。
それは、嬉しいことだった。
でも。
心配をかけるのは、嫌だった。
「……明日までに、何とかしたいな」
私は呟いた。
真宵ちゃんは、何も言わなかった。
私たちは、公園のベンチに座っていた。
昨日とは違う公園だった。
けれど、景色は少し似ている。
街灯。
滑り台。
誰もいない砂場。
そして、帰れない二人。
「……日和さん」
真宵ちゃんが、静かに言った。
「私、もういいんです」
私は、彼女を見た。
「……え?」
「お母さんの家を探すのは、もういいです」
私は、少しだけ驚いた。
真宵ちゃんは、膝の上で手を握っていた。
「……日和さんに、これ以上迷惑をかけたくありません」
私は、しばらく何も言えなかった。
それから、ゆっくりと尋ねた。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……本当に、もう会いたくないの?」
真宵ちゃんは、答えなかった。
私は、少しだけ笑った。
「……だったら、いいよ」
「……え?」
「……真宵ちゃんが本当に諦めたなら、私も無理には探さない」
真宵ちゃんは、私を見た。
「……でも」
私は続けた。
「……私に悪いから諦めるなら、嫌だな」
少女は、唇を噛んだ。
私は、そっと手を差し出した。
「……もう少しだけ、頑張ってみようか」
真宵ちゃんは、しばらく私の手を見つめていた。
そして。
ゆっくりと、その手を握った。
*
日曜日。
母の日。
午前九時四十分。
羽川翼は、待ち合わせ場所に立っていた。
約束の時間は、午前十時。
少し早く着いてしまった。
それ自体は、いつものことだった。
羽川は時計を見た。
それから、周囲を見回した。
守谷日和の姿は、まだない。
まあ、当然だろう。
まだ約束の時間ではないのだから。
羽川は、近くのベンチに腰掛けた。
今日の買い物は、特別なものではない。
ただ、少しだけ家を離れていたかった。
母の日。
その言葉は、羽川にとって、あまり居心地のいいものではなかった。
だから、守谷を誘った。
彼女なら、余計なことを聞かない気がしたから。
そして。
午前十時。
守谷日和は、現れなかった。
午前十時十分。
まだ、現れない。
午前十時二十分。
羽川は、少しだけ眉を寄せた。
守谷は、約束を忘れるような子だっただろうか。
少なくとも、そうは思えなかった。
羽川は携帯電話を取り出した。
そして、気づいた。
守谷の連絡先を、知らない。
「……あれ」
思わず声が出た。
そういえば、交換していなかった。
学校では話す。
けれど、休日に会うのは初めてだった。
羽川は、少し考えた。
それから、携帯電話の連絡先を開いた。
阿良々木暦。
その名前を見つけて、少しだけ迷った。
けれど。
守谷が何か困っているのなら。
自分一人で探すより、誰かに相談した方がいい。
羽川は、電話をかけた。
*
「もしもし、阿良々木くん?」
『……羽川?』
「うん。ごめんね、急に」
『いや、別にいいけど。どうしたんだ?』
「ちょっと、聞きたいことがあって」
『何だ?』
「守谷さんの連絡先、知ってる?」
電話の向こうで、少し間が空いた。
『……守谷?』
「うん」
『いや、知らないけど』
「そっか……」
『何かあったのか?』
羽川は、少し考えた。
そして。
「……今日、守谷さんと約束してたんだけど」
『ああ』
「まだ、来ないんだ」
『……遅刻じゃないのか?』
「そうかもしれないけど」
羽川は、時計を見た。
午前十時三十二分。
「……何となく、気になって」
電話の向こうで、阿良々木が黙った。
それから。
『……分かった』
そう言った。
『ちょっと、探してみる』
「……ありがとう」
羽川は、携帯電話を握り直した。
そのとき。
遠くの道を、二人の少女が歩いているのが見えた。
制服ではない。
けれど、見覚えのある後ろ姿だった。
羽川は、目を凝らした。
「……あ」
守谷日和だった。
ただし。
いつもの彼女とは、随分と様子が違った。
髪は乱れ、顔色は悪い。
歩き方も、どこかおぼつかない。
そして。
もう一人は、大きなリュックサックを背負った小学生くらいの女の子だった。
女の子の方は、特に変わった様子もない。
「……守谷さん?」
羽川は、思わず立ち上がった。
日和は、まだこちらに気づいていない。
小さく笑いながら。
隣の少女に手を差し伸べている。
羽川は、携帯電話を耳に当てたまま、彼女達を見つめた。
「……阿良々木くん」
『ん?』
「……守谷さん、見つけた」
『え?』
羽川は、ゆっくりと歩き出した。
「……でも」
少しだけ、声が低くなった。
「……何だか、様子がおかしいの」
電話の向こうで、阿良々木が息を呑んだ。
羽川は、日和へ向かって歩き始めた。