日曜日の午後。
公園の時計は、一時を少し過ぎたところだった。
金曜日の朝から数えて、もう二日以上になる。
その間に、私は随分とたくさんの道を歩いた。
知らない道も、知っているはずの道も、何度も通った道も。
けれど結局、真宵ちゃんのお母さんの家にはたどり着けなかった。
今は公園のベンチに座っている。
羽川さんが買ってきてくれたサンドイッチを食べ、お茶を飲んだところだった。
足は痛いし、眠い。
けれど、先ほどまでのように立っているだけで身体がふらつくことはなくなった。
羽川さんには、もう少し休むように言われている。
私は素直に従っていた。
何しろ、羽川さんは怖い。
怒鳴ったり、叩いたりするわけではない。
ただ、にこにこと笑いながら、こちらが反論できないことばかり言ってくる。
先ほども、私が「もう歩けるよ」と言ったら、「歩けることと、歩いていいことは違うよね」と返された。
なるほど。
確かに違う。
私は感心してしまった。
そして、座り直した。
「……日和さん」
隣から声がした。
「……なあに、真宵ちゃん」
「あなたは、もう少し自分を大切にした方がいいと思います」
「……うん」
「本当に分かっていますか?」
「……分かってるよ」
「信用できませんね」
真宵ちゃんは、ため息をついた。
小さな身体に、大きなリュックサック。
帽子の下から覗く表情は、妙に大人びている。
金曜日に初めて会ったときも思ったけれど、随分としっかりした子だ。
「おい、八九寺」
向かい側に座っていた阿良々木くんが口を挟んだ。
「お前、人のこと言えるのか?」
「何のことでしょう、阿良々木さん」
「お前だって、二日間も守谷を連れ回したんだろ」
「連れ回したとは人聞きの悪い。私は何度も帰るように言いました」
「だったらもっと強く言えよ」
「言いましたとも。日和さんが聞かなかっただけです」
「……守谷」
阿良々木くんが私を見た。
「……はい」
「お前、何でそんな頑固なんだ?」
「……頑固かな?」
「頑固だろ」
「……そうかな」
「そうだよ!」
阿良々木くんが頭を抱えた。
真宵ちゃんは、その様子を見て小さく笑っている。
「まったく、阿良々木さんは騒がしいですね」
「誰のせいだと思ってるんだ!」
「生まれつきでは?」
「僕の性格の話じゃねえよ!」
「失礼しました。育ちの問題でしたか」
「もっとひどくなった!」
私は、思わず笑ってしまった。
羽川さんも、口元に手を当てて笑っている。
戦場ヶ原さんだけは、相変わらず涼しい顔だった。
「阿良々木くん」
「何だよ」
「小学生相手にそこまで必死になるなんて、あなたにもまだ純粋な部分が残っていたのね」
「僕を何だと思ってるんだ、お前は」
「聞いていいの?」
「やっぱりいい!」
真宵ちゃんが、感心したように頷いた。
「なるほど。阿良々木さんは、こういう扱いを受ける方なのですね」
「納得するな!」
「勉強になります」
「何の勉強だよ!」
私は、もう一度笑った。
金曜日からずっと一緒にいた真宵ちゃんが、こんなふうに楽しそうにしているのは、少し珍しかった。
だから、何だか嬉しかった。
*
「さて」
戦場ヶ原さんが、携帯電話をしまった。
「そろそろ本題に入りましょう」
その一言で、阿良々木くんの表情が変わった。
「忍野から何か分かったのか?」
「ええ。少なくとも、私たちが何に巻き込まれているのかはね」
戦場ヶ原さんは、私を見た。
「守谷さん。忍野さんから、迷い牛について説明されたのでしょう?」
「……うん」
「なら、あなたにも分かると思うけれど」
彼女は、私の隣に視線を向けた。
正確には、真宵ちゃんが座っている辺りへ。
「この子は、普通の迷子ではないわ」
私は頷いた。
「……うん。警察の人にも見えなかったから」
「そう。それに、二日間も道に迷い続けた」
戦場ヶ原さんは、静かに続けた。
「ただ、迷い牛の性質を知っただけでは、まだ足りないのよ」
「……足りない?」
「ええ。どうしてこの子が、お母さんの家を探しているのか」
真宵ちゃんの肩が、小さく動いた。
私は、それに気づいた。
戦場ヶ原さんは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「その事情を、本人から聞いておきたいの」
阿良々木くんが、真宵ちゃんを見た。
「……八九寺」
「何でしょう」
「話せるか?」
真宵ちゃんは、すぐには答えなかった。
膝の上に置いた両手を見つめている。
それから、顔を上げた。
「……いいですよ」
小さな声だった。
「どうせ、いつかは話さなければいけないことですから」
*
「私の両親は、離婚しているんです」
真宵ちゃんは、そう切り出した。
私は、黙って聞いていた。
「小さい頃は、お父さんとお母さんと、三人で暮らしていました」
彼女は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「でも、いつからか、二人は喧嘩ばかりするようになりました」
公園の木々が、風に揺れた。
「私には、理由がよく分かりませんでした。子供でしたから」
真宵ちゃんは、少し笑った。
「まあ、今でも分からないかもしれませんけど」
「……それで、離婚したの?」
私が尋ねると、真宵ちゃんは頷いた。
「はい。私は、お父さんと暮らすことになりました」
「お母さんとは?」
「会えなくなりました」
私は、少し驚いた。
「……どうして?」
「お父さんが、会わせてくれなかったんです」
私は、何も言えなかった。
真宵ちゃんは続けた。
「最初は、寂しかったです。毎日、お母さんに会いたいと思っていました」
その声は、落ち着いていた。
まるで、他人の話をしているようだった。
「でも、時間が経つと、少しずつ慣れてしまうんです」
「……慣れる?」
「はい。お母さんがいない生活に」
真宵ちゃんは頷いた。
「朝起きても、お母さんはいません。学校から帰っても、お母さんはいません。お父さんとご飯を食べて、お風呂に入って、寝る。それが普通になっていきました」
私は、自分の膝を見た。
「……それで、ある日、気づいたんです」
真宵ちゃんの声が、少しだけ小さくなった。
「お母さんの顔が、思い出せなくなっていたことに」
私は顔を上げた。
「……え?」
「声も、少しずつ曖昧になっていました。笑った顔とか、怒った顔とか。そういうのが、だんだん分からなくなって」
真宵ちゃんは、唇を結んだ。
「……怖かったんです」
その言葉だけは、少し震えていた。
「お母さんのこと、大好きだったのに」
私は、何も言えなかった。
「大好きなのに、忘れてしまうんです。忘れたくないのに、勝手に忘れていくんです」
真宵ちゃんは、両手を強く握った。
「だから、会いに行こうと思いました」
阿良々木くんが、静かに尋ねた。
「……一人で?」
「はい」
「お父さんには?」
「内緒です」
「……そうか」
「お母さんの住所は、覚えていましたから」
真宵ちゃんは顔を上げた。
「母の日だったんです」
私は、息を止めた。
母の日。
今日と同じ。
「お母さんに会いに行こうと思ったんです。お花は買えませんでしたけど、会って、お母さんって呼んで……それだけでも、きっと喜んでくれると思ったから」
真宵ちゃんは、少しだけ笑った。
「それで、出かけました」
そこで、言葉が途切れた。
私は待った。
阿良々木くんも、羽川さんも、何も言わなかった。
戦場ヶ原さんだけが、静かに目を伏せていた。
やがて。
「……途中で、車に轢かれました」
真宵ちゃんは、そう言った。
*
意味が分かるまで、少し時間がかかった。
車に轢かれた。
それは、事故に遭ったということだ。
怪我をしたのだろうか。
痛かったのだろうか。
今は、大丈夫なのだろうか。
そんな考えが、順番に頭をよぎった。
でも。
違う。
そういう話ではない。
「……真宵ちゃん」
私は、隣の少女を見た。
「……それって」
「はい」
真宵ちゃんは、頷いた。
「私、死んじゃったんです」
静かな声だった。
あまりにも静かだった。
「十一年前の母の日に」
私は、何も言えなかった。
十一年前。
十一年。
私がまだ小さかった頃から、この子はずっと。
「……じゃあ」
ようやく声が出た。
「……ずっと、探してたの?」
「はい」
「……十一年間?」
「そうなりますね」
真宵ちゃんは、少し困ったように笑った。
「もっとも、ずっと歩いていたというわけでもないんですけど」
私は、真宵ちゃんの足元を見た。
小さな靴。
大きなリュックサック。
金曜日から、何度も見てきた姿。
それが、十一年前から変わっていないのだ。
「……そっか」
私は呟いた。
真宵ちゃんは、私を見た。
「……驚かないんですか?」
「……驚いてるよ」
「そうは見えませんが」
「……うまく顔に出ないだけかも」
真宵ちゃんは、少し笑った。
私は、その顔を見つめた。
幽霊。
死んだ人。
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
けれど。
金曜日の朝に出会った真宵ちゃんと、今ここにいる真宵ちゃんは、何も変わっていなかった。
少し生意気で。
礼儀正しくて。
時々、意地悪で。
お母さんに会いたい女の子。
それだけだった。
「……真宵ちゃん」
「はい」
「……お母さんのこと、今も好き?」
真宵ちゃんは目を見開いた。
それから、少しだけ俯いた。
「……はい」
「……そっか」
「でも、もう顔も覚えていないんです」
その声は、今度こそ震えていた。
「十一年も経ってしまいましたから」
私は、考えた。
もし、お母さんの顔を忘れてしまったら。
もし、声も、姿も、何も分からなくなってしまったら。
そんなことを想像しようとして。
うまくできなかった。
私のお母さんは、今もそばにいる。
こうして座っている間も、白いものが私の肩に触れている。
いつでも見える。
いつでも触れられる。
忘れようがない。
だから。
真宵ちゃんが何を失ったのか、私にはきっと、全部は分からない。
それでも。
「……会いたいんだね」
私は、そう言った。
真宵ちゃんは、ゆっくり頷いた。
「……はい」
*
「……なるほどな」
阿良々木くんが、長く息を吐いた。
彼は、真宵ちゃんの話を戦場ヶ原さんに伝えていた。
戦場ヶ原さんは、すでに忍野さんから大まかな事情を聞いていたらしい。
ただ、本人の口から語られた話を聞いても、何も言わなかった。
羽川さんは、真宵ちゃんを見つめていた。
その表情は、いつもより少し硬かった。
「……八九寺ちゃん」
「はい」
「お母さんの家には、今も誰か住んでいるの?」
羽川さんが尋ねた。
「……分かりません」
「住所は覚えているんだよね?」
「はい。でも、何度行こうとしても、たどり着けないんです」
真宵ちゃんは、膝の上に置いた手を見た。
「最初は、道を間違えているんだと思いました」
私は頷いた。
その気持ちは、よく分かる。
二日間、私も同じことを考えていた。
「でも、何度やっても駄目でした。知っている道を歩いているはずなのに、知らない場所に出てしまうんです」
「……それが、迷い牛の性質なのね」
羽川さんが呟いた。
戦場ヶ原さんが頷く。
「忍野さんによれば、迷い牛は帰宅を拒む人間を迷わせる怪異。けれど、八九寺さん自身もまた、目的地にたどり着けない存在なのだそうよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
阿良々木くんが尋ねた。
「迷い牛に惑わされない人間が、道を案内すればいい」
戦場ヶ原さんは、そう答えた。
「少なくとも、それが忍野さんの助言よ」
私は顔を上げた。
「……案内?」
「ええ。私には八九寺さんが見えない。つまり、私は迷い牛の影響を受けていない」
阿良々木くんが頷く。
「なるほど。お前が道を選べばいいわけか」
「そういうことね」
「……でも」
私は、真宵ちゃんを見た。
「……真宵ちゃんも、一緒に行けるの?」
「行けるはずよ」
戦場ヶ原さんは答えた。
「少なくとも、試す価値はあるわ」
私は、少しだけ安心した。
真宵ちゃんを置いていかなくていい。
それが、一番嬉しかった。
*
「ところで、八九寺」
阿良々木くんが、少しだけ身を乗り出した。
「一つ聞いていいか?」
「嫌です」
「即答!?」
「阿良々木さんの質問には、ろくなものがなさそうですから」
「まだ何も聞いてないだろ!」
「では、聞いてみてください」
「お、おう」
阿良々木くんは、少しだけ咳払いをした。
「お前、その……自分が死んでるってことは、前から分かってたのか?」
真宵ちゃんは、少し考えた。
「……はい。分かっていました」
「じゃあ、何で守谷には言わなかったんだ?」
「言う必要がなかったからです」
「必要がなかった?」
「日和さんは、私が幽霊でも幽霊でなくても、一緒に探してくれたでしょうから」
私は、少し驚いた。
真宵ちゃんが、こちらを見た。
「違いますか?」
「……ううん」
私は首を横に振った。
「……多分、同じだったと思う」
真宵ちゃんは、少しだけ笑った。
「ほら」
「ほら、じゃねえよ」
阿良々木くんは、呆れたように言った。
「普通は、幽霊だって分かったら驚くだろ」
「日和さんは驚いていましたよ」
「驚き方が薄いんだよ!」
「阿良々木さんは大げさすぎるのでは?」
「お前なあ……」
「それとも、幽霊が怖いのですか?」
「別に怖くねえよ」
「強がらなくても結構ですよ」
「強がってねえ!」
「では、今夜、枕元に立って差し上げましょうか」
「やめろ!」
真宵ちゃんは、にやりと笑った。
「怖いんですね」
「怖いっていうか、普通に嫌だろ!」
「では、耳元で名前を呼び続けます」
「もっと嫌だよ!」
「ありゃりゃぎさん……ありゃりゃぎさん……」
「名前を間違えるな!」
「失礼、噛みました」
「違うだろ!」
「かみまみた」
「わざとじゃない!」
私は、声を上げて笑ってしまった。
羽川さんも笑っている。
戦場ヶ原さんは、呆れたように阿良々木くんを見ていた。
「……阿良々木くん」
「何だよ」
「あなた、幽霊の女の子と随分楽しそうね」
「楽しくねえよ!」
「そう。なら、私も安心だわ」
「何が!?」
「将来、あなたが死んでも、退屈しなさそうだから」
「縁起でもないこと言うな!」
真宵ちゃんが、また笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
十一年前から、ずっと一人で。
お母さんの家を探していた女の子。
そんな子が、今、こうして笑っている。
それが、何だか嬉しかった。
*
しばらくして、阿良々木くんが立ち上がった。
「よし」
彼は、真宵ちゃんを見た。
「八九寺」
「何でしょう、阿良々木さん」
「お前、お母さんの家に行きたいんだよな」
「……はい」
「だったら、行こうぜ」
真宵ちゃんは、少し驚いたように目を見開いた。
「……いいんですか?」
「何が?」
「だって、私は……」
「幽霊だから?」
阿良々木くんは、肩をすくめた。
「今さらだろ。僕だって、普通じゃないことには多少慣れてるんだ」
真宵ちゃんは、黙った。
「それに」
阿良々木くんは、私を見た。
「守谷が二日間も付き合ったんだ。ここで放り出したら、こいつが報われないだろ」
「……阿良々木くん」
「何だよ」
「……ありがとう」
「いや、お前に礼を言われることじゃないけどな」
私は、少し笑った。
真宵ちゃんは、阿良々木くんを見つめていた。
それから。
「……阿良々木さん」
「何だ?」
「あなた、意外といい人ですね」
「意外とって何だよ」
「見た目は不審者なのに」
「余計な一言をつけるな!」
「失礼しました。見た目も中身も不審者でした」
「悪化してる!」
真宵ちゃんは、楽しそうに笑った。
阿良々木くんは、頭を抱えている。
私は、また笑ってしまった。
*
「さて、守谷さん」
羽川さんが、私を見た。
「あなたは、どうする?」
「……え?」
「このまま一緒に行くつもり?」
私は、真宵ちゃんを見た。
彼女は、少しだけ不安そうな顔をしていた。
私は、迷わなかった。
「……うん」
羽川さんは、ため息をついた。
「やっぱりね」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。ただし」
羽川さんは、人差し指を立てた。
「無理はしないこと。途中で具合が悪くなったら、ちゃんと言うこと。それから、今日は絶対に家に帰って、ちゃんと寝ること」
「……はい」
「約束だよ?」
「……うん。約束する」
羽川さんは、ようやく笑った。
「なら、私も一緒に行く」
私は、少し驚いた。
「……いいの?」
「もちろん。守谷さんを一人にしたら、また二日くらい歩き続けそうだし」
「……そんなこと、ないよ」
「本当かな?」
「…………」
私は、何も言えなかった。
阿良々木くんが笑っている。
真宵ちゃんも笑っている。
戦場ヶ原さんは、静かに携帯電話をしまった。
「では、話は決まったようね」
彼女は、私たちを見渡した。
「八九寺さんのお母さんの住所は、分かっているのでしょう?」
「はい」
真宵ちゃんが答えた。
阿良々木くんが、その住所を戦場ヶ原さんに伝える。
戦場ヶ原さんは頷いた。
「なら、私が案内するわ」
私は、真宵ちゃんを見た。
彼女は、少しだけ俯いていた。
その表情は、よく分からなかった。
嬉しいのか。
怖いのか。
それとも、別の何かなのか。
十一年間。
ずっと探していた場所へ、今から向かう。
きっと、簡単な気持ちではないのだろう。
「……真宵ちゃん」
私は、そっと声をかけた。
「……うん?」
真宵ちゃんが顔を上げる。
「……一緒に行こう」
私は、手を差し出した。
金曜日の朝と同じように。
真宵ちゃんは、その手を見つめた。
しばらくして。
「……はい」
小さく頷いた。
そして、私の手を握った。
小さな手だった。
十一年前から、変わらない手。
私は、その手をそっと握り返した。
お母さんに会いたい。
たったそれだけの願いを、十一年間も抱えていた女の子。
その願いが叶うかどうか、私には分からない。
けれど。
せめて、彼女が行きたい場所まで。
一緒に歩いていこうと思った。
私の肩に、白いものがそっと触れた。
いつもどおり。
お母さんは、何も言わなかった。
私は、少しだけ微笑んだ。
そして、真宵ちゃんの手を握ったまま、立ち上がった。
まだ、歩き出してはいない。
けれど。
今度こそ、帰り道が見つかるような気がした。