僕、阿良々木暦は、その日、二つのことを知った。
一つは、十一年前に死んだ少女にも、帰りたい場所があるということ。
もう一つは。
戦場ヶ原ひたぎという女の子が、僕の想像していた以上に、とんでもない人間だということだった。
もっとも、後者については以前から薄々気づいていたのだけれど。
*
「阿良々木くん」
「何だ、戦場ヶ原」
「あなた、もう少し静かに歩けないのかしら」
「僕は普通に歩いてるだろ!」
「そう。では、あなたの足音だけが妙に耳障りなのは、私の精神状態に問題があるのね」
「そこまで言うなら僕の歩き方に問題があるってことでいいよ!」
「ありがとう。理解が早くて助かるわ」
「礼を言われる筋合いがない!」
午後の住宅街。
僕たちは、八九寺真宵の母親がかつて住んでいた家を目指して歩いていた。
先頭は戦場ヶ原。
その少し後ろを羽川が歩き、さらに後ろには守谷と八九寺がいる。
僕は最後尾だった。
守谷の体調を考えて、歩く速度はかなり遅い。
金曜日からほとんど休まず歩き続けていたのだから当然だ。
本人は大丈夫だと言い張っていたが、羽川が許さなかった。
そして羽川が許さないことを、僕たちが許すはずもなかった。
「守谷さん、足は大丈夫?」
「……うん。ありがとう、羽川さん」
「痛くなったら言ってね」
「……分かった」
「本当に?」
「……うん」
「無理しないでね?」
「……はい」
守谷の返事が、だんだん小さくなっていく。
どうやら完全に頭が上がらないらしい。
まあ、仕方ない。
僕だって羽川には頭が上がらない。
何しろ、羽川は何でも知っている。
いや。
何でもは知らない。
知っていることだけだ。
「ところで、ありゃりゃぎさん」
八九寺が振り返った。
「何だよ、八九寺」
「あなたは、どうしてついてくるんですか?」
「どうしてって……そりゃ、お前を送るためだろ」
「そうですか。てっきり、女子小学生と一緒に歩きたいという不純な動機かと」
「そんなわけあるか!」
「失礼しました。阿良々木さんの性癖を過大評価していました」
「過大評価って何だよ!」
「では、適正評価でしたか」
「違う!」
八九寺は、満足そうに頷いた。
「やはり、阿良々木さんは面白い方ですね」
「お前、僕をからかって楽しんでるだけだろ」
「まさか。私は礼儀正しい小学生ですよ」
「礼儀正しい小学生は初対面の相手を不審者扱いしないんだよ!」
「初対面ではありません。もう随分と親しくなったつもりでしたが」
「……お前な」
僕は、思わず口を閉じた。
八九寺は、何でもないことのように前を向いた。
十一年前に死んだ少女。
帰る場所を探し続けていた幽霊。
そのはずなのに、こうして話していると、普通の小学生と何も変わらない。
むしろ、普通の小学生よりずっと口が達者だ。
そして。
この少女は、もうすぐいなくなるのかもしれない。
そう考えると、妙に胸の奥が重くなった。
「……阿良々木さん?」
「何だよ」
「どうしました?」
「いや、別に」
「そうですか。では、そんなに私の顔を見つめないでください。通報しますよ」
「どこにだよ!」
「警察に」
「お前、警察に見えないだろ!」
「それは盲点でした」
「自分で言うな!」
八九寺は笑った。
守谷も、隣で小さく笑っていた。
その笑顔を見て、僕は少しだけ安心した。
*
それからしばらく歩いたところで、羽川が立ち止まった。
「守谷さん。少し休もうか」
「……え?」
「無理してない?」
「……大丈夫だよ」
「そう?」
羽川は守谷の顔を覗き込んだ。
守谷は、少しだけ視線を逸らした。
「……ちょっと、足は痛いかも」
「うん。じゃあ休もうね」
羽川は、近くの小さな公園を指さした。
守谷と八九寺が、そちらへ向かう。
羽川も二人についていった。
僕も行こうとした、そのとき。
「阿良々木くん」
戦場ヶ原に呼び止められた。
「……何だ?」
「少し、いいかしら」
「別にいいけど」
戦場ヶ原は、僕の隣に立った。
公園の方を見る。
羽川は守谷をベンチに座らせ、飲み物を渡していた。
八九寺は、何やら守谷に話しかけている。
こちらには気づいていないようだった。
「……何の話だ?」
僕が尋ねると、戦場ヶ原は答えなかった。
代わりに、少しだけ僕に近づいた。
「阿良々木くん」
「だから何だよ」
「あなた、今日のことをどう思っているの?」
「今日のこと?」
「八九寺さんのことよ」
僕は、公園の方を見た。
「……どうって言われてもな」
十一年前に死んだ少女。
母親の家を探し続けていた幽霊。
そして、二日間もその少女に付き合った守谷。
考えることは、いくらでもあった。
「……何とかしてやりたいとは思うよ」
「そう」
「お前だって、そう思ってるんだろ?」
「ええ」
戦場ヶ原は、あっさり頷いた。
「そうね。私も、そう思っているわ」
少しの沈黙。
僕は、何となく落ち着かなくなった。
「……何だよ」
「何が?」
「いや、何か言いたそうだから」
「そうね」
戦場ヶ原は、僕を見た。
「言いたいことはあるわ」
「だったら言えよ」
「でも、ここでは少し困るの」
「……何で?」
「聞かれたくないから」
僕は、ますます分からなくなった。
「誰に?」
「羽川さんと、守谷さんに」
「……は?」
戦場ヶ原は、涼しい顔をしている。
僕は、公園の方を見た。
三人はまだ、こちらを見ていない。
「……何だよ。そんなに秘密の話なのか?」
「ええ」
戦場ヶ原は、一歩近づいた。
「とても」
僕は、思わず身体を引いた。
「……戦場ヶ原?」
「動かないで」
「いや、何を――」
彼女の顔が、僕の耳元に近づいた。
柔らかい髪が、頬に触れた。
そして。
「――I LOVE YOU」
小さな声が、耳に届いた。
*
時間が止まった。
いや、実際に止まったわけではない。
ただ、僕の頭が完全に停止した。
戦場ヶ原は、何事もなかったかのように身体を離した。
「……じゃあ、行きましょうか」
「…………」
「阿良々木くん?」
「…………」
「どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」
「……お、お前」
「何かしら」
「……今」
「今?」
「……何て」
戦場ヶ原は、少しだけ首を傾げた。
「英語が分からなかったの?」
「分かるわ!」
「そう。よかった」
彼女は、満足そうに頷いた。
「高校三年生にもなって、あの程度の英語が理解できないのでは困るものね」
「そういう問題じゃねえ!」
「では、どういう問題?」
「……いや、その」
僕は、言葉に詰まった。
戦場ヶ原は、少しだけ笑った。
「返事は、後でいいわ」
「……え?」
「今は、八九寺さんのことが先でしょう?」
そう言って、彼女は公園へ歩き出した。
僕は、その背中を呆然と見つめていた。
何なんだ。
何なんだ、この女は。
つい先日まで、まともに会話したこともなかった相手だぞ。
それが。
今。
僕に。
好きだと。
言った。
しかも英語で。
何故だ。
何故英語なんだ。
日本語で言え。
いや、日本語だったらもっと困ったかもしれない。
僕は、しばらくその場から動けなかった。
「阿良々木くーん!」
公園から、羽川の声がした。
「何してるの? 行くよー!」
「……あ、ああ!」
僕は、慌てて歩き出した。
そのとき。
「ありゃりゃぎさん」
八九寺が、こちらを見ていた。
「……何だよ」
「顔が赤いですよ」
「うるさい!」
「何かいいことでもあったんですか?」
「何もねえよ!」
「そうですか。では、何か悪いことをしたんですね」
「どうしてそうなる!」
「警察に自首するなら、今のうちですよ」
「僕は何もしてねえ!」
八九寺は、楽しそうに笑った。
守谷は、不思議そうに僕を見ていた。
羽川は、少しだけ首を傾げている。
戦場ヶ原だけが、何事もなかったように歩いていた。
僕は、頭を抱えたくなった。