日和日   作:松下手

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第八話 ひよりマイマイ 其ノ伍

 僕、阿良々木暦は、その日、二つのことを知った。

 一つは、十一年前に死んだ少女にも、帰りたい場所があるということ。

 もう一つは。

 戦場ヶ原ひたぎという女の子が、僕の想像していた以上に、とんでもない人間だということだった。

 もっとも、後者については以前から薄々気づいていたのだけれど。

     *

「阿良々木くん」

「何だ、戦場ヶ原」

「あなた、もう少し静かに歩けないのかしら」

「僕は普通に歩いてるだろ!」

「そう。では、あなたの足音だけが妙に耳障りなのは、私の精神状態に問題があるのね」

「そこまで言うなら僕の歩き方に問題があるってことでいいよ!」

「ありがとう。理解が早くて助かるわ」

「礼を言われる筋合いがない!」

 午後の住宅街。

 僕たちは、八九寺真宵の母親がかつて住んでいた家を目指して歩いていた。

 先頭は戦場ヶ原。

 その少し後ろを羽川が歩き、さらに後ろには守谷と八九寺がいる。

 僕は最後尾だった。

 守谷の体調を考えて、歩く速度はかなり遅い。

 金曜日からほとんど休まず歩き続けていたのだから当然だ。

 本人は大丈夫だと言い張っていたが、羽川が許さなかった。

 そして羽川が許さないことを、僕たちが許すはずもなかった。

「守谷さん、足は大丈夫?」

「……うん。ありがとう、羽川さん」

「痛くなったら言ってね」

「……分かった」

「本当に?」

「……うん」

「無理しないでね?」

「……はい」

 守谷の返事が、だんだん小さくなっていく。

 どうやら完全に頭が上がらないらしい。

 まあ、仕方ない。

 僕だって羽川には頭が上がらない。

 何しろ、羽川は何でも知っている。

 いや。

 何でもは知らない。

 知っていることだけだ。

「ところで、ありゃりゃぎさん」

 八九寺が振り返った。

「何だよ、八九寺」

「あなたは、どうしてついてくるんですか?」

「どうしてって……そりゃ、お前を送るためだろ」

「そうですか。てっきり、女子小学生と一緒に歩きたいという不純な動機かと」

「そんなわけあるか!」

「失礼しました。阿良々木さんの性癖を過大評価していました」

「過大評価って何だよ!」

「では、適正評価でしたか」

「違う!」

 八九寺は、満足そうに頷いた。

「やはり、阿良々木さんは面白い方ですね」

「お前、僕をからかって楽しんでるだけだろ」

「まさか。私は礼儀正しい小学生ですよ」

「礼儀正しい小学生は初対面の相手を不審者扱いしないんだよ!」

「初対面ではありません。もう随分と親しくなったつもりでしたが」

「……お前な」

 僕は、思わず口を閉じた。

 八九寺は、何でもないことのように前を向いた。

 十一年前に死んだ少女。

 帰る場所を探し続けていた幽霊。

 そのはずなのに、こうして話していると、普通の小学生と何も変わらない。

 むしろ、普通の小学生よりずっと口が達者だ。

 そして。

 この少女は、もうすぐいなくなるのかもしれない。

 そう考えると、妙に胸の奥が重くなった。

「……阿良々木さん?」

「何だよ」

「どうしました?」

「いや、別に」

「そうですか。では、そんなに私の顔を見つめないでください。通報しますよ」

「どこにだよ!」

「警察に」

「お前、警察に見えないだろ!」

「それは盲点でした」

「自分で言うな!」

 八九寺は笑った。

 守谷も、隣で小さく笑っていた。

 その笑顔を見て、僕は少しだけ安心した。

     *

 それからしばらく歩いたところで、羽川が立ち止まった。

「守谷さん。少し休もうか」

「……え?」

「無理してない?」

「……大丈夫だよ」

「そう?」

 羽川は守谷の顔を覗き込んだ。

 守谷は、少しだけ視線を逸らした。

「……ちょっと、足は痛いかも」

「うん。じゃあ休もうね」

 羽川は、近くの小さな公園を指さした。

 守谷と八九寺が、そちらへ向かう。

 羽川も二人についていった。

 僕も行こうとした、そのとき。

「阿良々木くん」

 戦場ヶ原に呼び止められた。

「……何だ?」

「少し、いいかしら」

「別にいいけど」

 戦場ヶ原は、僕の隣に立った。

 公園の方を見る。

 羽川は守谷をベンチに座らせ、飲み物を渡していた。

 八九寺は、何やら守谷に話しかけている。

 こちらには気づいていないようだった。

「……何の話だ?」

 僕が尋ねると、戦場ヶ原は答えなかった。

 代わりに、少しだけ僕に近づいた。

「阿良々木くん」

「だから何だよ」

「あなた、今日のことをどう思っているの?」

「今日のこと?」

「八九寺さんのことよ」

 僕は、公園の方を見た。

「……どうって言われてもな」

 十一年前に死んだ少女。

 母親の家を探し続けていた幽霊。

 そして、二日間もその少女に付き合った守谷。

 考えることは、いくらでもあった。

「……何とかしてやりたいとは思うよ」

「そう」

「お前だって、そう思ってるんだろ?」

「ええ」

 戦場ヶ原は、あっさり頷いた。

「そうね。私も、そう思っているわ」

 少しの沈黙。

 僕は、何となく落ち着かなくなった。

「……何だよ」

「何が?」

「いや、何か言いたそうだから」

「そうね」

 戦場ヶ原は、僕を見た。

「言いたいことはあるわ」

「だったら言えよ」

「でも、ここでは少し困るの」

「……何で?」

「聞かれたくないから」

 僕は、ますます分からなくなった。

「誰に?」

「羽川さんと、守谷さんに」

「……は?」

 戦場ヶ原は、涼しい顔をしている。

 僕は、公園の方を見た。

 三人はまだ、こちらを見ていない。

「……何だよ。そんなに秘密の話なのか?」

「ええ」

 戦場ヶ原は、一歩近づいた。

「とても」

 僕は、思わず身体を引いた。

「……戦場ヶ原?」

「動かないで」

「いや、何を――」

 彼女の顔が、僕の耳元に近づいた。

 柔らかい髪が、頬に触れた。

 そして。

「――I LOVE YOU」

 小さな声が、耳に届いた。

     *

 時間が止まった。

 いや、実際に止まったわけではない。

 ただ、僕の頭が完全に停止した。

 戦場ヶ原は、何事もなかったかのように身体を離した。

「……じゃあ、行きましょうか」

「…………」

「阿良々木くん?」

「…………」

「どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして」

「……お、お前」

「何かしら」

「……今」

「今?」

「……何て」

 戦場ヶ原は、少しだけ首を傾げた。

「英語が分からなかったの?」

「分かるわ!」

「そう。よかった」

 彼女は、満足そうに頷いた。

「高校三年生にもなって、あの程度の英語が理解できないのでは困るものね」

「そういう問題じゃねえ!」

「では、どういう問題?」

「……いや、その」

 僕は、言葉に詰まった。

 戦場ヶ原は、少しだけ笑った。

「返事は、後でいいわ」

「……え?」

「今は、八九寺さんのことが先でしょう?」

 そう言って、彼女は公園へ歩き出した。

 僕は、その背中を呆然と見つめていた。

 何なんだ。

 何なんだ、この女は。

 つい先日まで、まともに会話したこともなかった相手だぞ。

 それが。

 今。

 僕に。

 好きだと。

 言った。

 しかも英語で。

 何故だ。

 何故英語なんだ。

 日本語で言え。

 いや、日本語だったらもっと困ったかもしれない。

 僕は、しばらくその場から動けなかった。

「阿良々木くーん!」

 公園から、羽川の声がした。

「何してるの? 行くよー!」

「……あ、ああ!」

 僕は、慌てて歩き出した。

 そのとき。

「ありゃりゃぎさん」

 八九寺が、こちらを見ていた。

「……何だよ」

「顔が赤いですよ」

「うるさい!」

「何かいいことでもあったんですか?」

「何もねえよ!」

「そうですか。では、何か悪いことをしたんですね」

「どうしてそうなる!」

「警察に自首するなら、今のうちですよ」

「僕は何もしてねえ!」

 八九寺は、楽しそうに笑った。

 守谷は、不思議そうに僕を見ていた。

 羽川は、少しだけ首を傾げている。

 戦場ヶ原だけが、何事もなかったように歩いていた。

 僕は、頭を抱えたくなった。

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