日和日   作:松下手

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第九話 ひよりマイマイ 其ノ陸

 八九寺が足を止めたのは、住宅街の一角に差しかかったときだった。

 そこは、特に目立った特徴のない道だった。片側には古びたブロック塀が続き、反対側には比較的新しい住宅が何軒か並んでいる。道幅は狭く、車が二台すれ違うには少し苦労しそうだった。

 僕には見覚えのない場所だったが、八九寺にとっては違ったらしい。

「……ここ、知っています」

 それまで守谷と何か話していた八九寺が、突然そんなことを言った。

 守谷も足を止める。

「真宵ちゃん?」

「この道です。この道を、まっすぐ行って……あそこの角を曲がるんです」

 八九寺は、小さな指で前方を示した。

 いつもなら、そんな仕草一つ取っても僕をからかう理由にしそうな少女が、今は冗談の一つも言わない。目を大きく見開き、まるで確かめるように何度も辺りを見回していた。

 戦場ヶ原が地図を確認する。

「ええ。住所から考えても、その方向で間違いなさそうね」

「……そうですか」

 八九寺は小さく頷いた。

 その声には安堵があった。けれど、それだけではないように思えた。

 十一年間、たどり着けなかった場所。

 それが今、すぐそこにあるのだ。

 僕たちは再び歩き始めた。

 先頭は戦場ヶ原。その後ろを羽川と守谷が歩き、八九寺は守谷の手を握ったまま、二人の間を行ったり来たりしていた。僕は少し後ろから、その様子を見ていた。

 不意に、八九寺が振り返る。

「阿良々木さん」

「何だ?」

「……ありがとうございました」

 あまりにも唐突だったので、僕は一瞬、返事を忘れた。

「何だよ、急に。気持ち悪いな」

「失礼ですね。人がせっかくお礼を言っているのに」

「いや、お前が素直に礼を言うから驚いたんだよ」

「それでは取り消します」

「取り消すな!」

 八九寺は、いつものように口元を緩めた。

 しかし、すぐに前を向いてしまった。

 僕はそれ以上、何も言わなかった。

 あの少女はきっと、分かっているのだ。

 この道の先で何が待っているのか。少なくとも、今までとは何かが変わるということを。

 そして、その変化が必ずしも望んでいたものとは限らないということも。

     *

 目的地には、何もなかった。

 いや、正確には何もないわけではない。雑草は生えていたし、隅には古いコンクリートの基礎らしきものが残っていた。隣家との境界にはブロック塀があり、錆びついた金網の向こうには空き缶が一つ転がっている。

 けれど、そこに家はなかった。

 十一年前、八九寺真宵が訪ねようとした母親の家は、もう存在していなかったのである。

「……ここよ」

 戦場ヶ原が立ち止まった。

「住所は、ここで間違いないわ」

 僕は彼女を見た。戦場ヶ原はそれ以上何も言わず、ただ空き地の方を向いていた。

 羽川も黙っている。

 守谷は、握っていた八九寺の手を見下ろしていた。

 八九寺だけが、じっと空き地を見つめていた。

「……ここです」

 小さな声だった。

「間違いありません。ここに、お母さんの家がありました」

 僕は辺りを見回した。

 どうにかして、昔の面影を探そうとしたのかもしれない。しかし、僕には十一年前のこの場所など知る由もない。どんな家が建っていて、どんな庭があって、玄関がどちらを向いていたのかさえ分からなかった。

 八九寺の母親が今もこの町に住んでいるのかどうかも分からない。

 あるいは、もう別の土地で暮らしているのかもしれないし、新しい家庭を築いているのかもしれない。

 十一年という時間は、それだけのことが起きてもおかしくない長さだった。

 けれど、八九寺には、その十一年がなかった。

 彼女の時間は、あの日のまま止まっている。

 母親に会いに行こうと家を出た、十一歳の少女のまま。

「……真宵ちゃん」

 守谷が、そっと声をかけた。

 八九寺は返事をしなかった。

 ただ、繋いでいた手をゆっくりと離した。

 守谷は引き止めなかった。寂しそうな顔をしたけれど、それでも手を伸ばし直すことはしなかった。

 八九寺が、一歩前へ進む。

 さらに、もう一歩。

 その足取りには、もう迷いがなかった。

 小さな靴が土を踏み、雑草の間を進んでいく。途中で八九寺は立ち止まり、何かを確かめるように右手を伸ばした。

 そこには、何もない。

 けれど彼女には、見えているのだろう。

 かつてそこにあった玄関が。

 母親の暮らしていた家が。

 十一年前、どうしても帰りたかった場所が。

 八九寺が、泣いていた。

 声を押し殺すように唇を結んでいたが、涙は次々に頬を伝い、顎から零れ落ちていた。

 僕は、何か言おうとした。

 お母さんはいないかもしれない。

 ここにはもう家がない。

 そんなことは、僕が言わなくても彼女には分かっている。

 だったら、せめて何か別の言葉を。

 そう考えたのに、結局、何も出てこなかった。

 八九寺は、泣きながら笑った。

 それは、この二日間で守谷が見てきたどんな笑顔とも、そして今日初めて会った僕が見てきたどんな笑顔とも違っていた。

 嬉しそうで、悲しそうで、何よりも、ひどく安心した顔だった。

 八九寺は小さく頭を下げた。

 そして、誰もいない空き地に向かって、言った。

「――ただいま、戻りました」

 その瞬間、僕はようやく理解した。

 八九寺が探していたのは、母親だけではなかったのだ。

 もちろん、会いたかったのだろう。抱き締めてほしかっただろうし、顔を見て、声を聞きたかっただろう。

 けれど、それと同じくらい。

 あの日、途中で終わってしまった自分の帰り道を、最後まで歩きたかったのかもしれない。

 たとえ玄関がなくなっていても。

 たとえ、その先に母親が待っていなくても。

 ここまで来て、帰ってきたと言う。

 それだけのことに、十一年もかかってしまったのだ。

 八九寺の輪郭が、少しずつ薄くなっていった。

 僕は息を呑んだ。

 守谷が一歩踏み出しかける。

 けれど、羽川が何かするより先に、守谷は自分で足を止めた。

 八九寺は、最後にこちらを振り返った。

 涙で濡れた顔のまま、笑っていた。

「日和さん。皆さんも……本当に、ありがとうございました」

 守谷が、小さく手を振った。

「……またね、真宵ちゃん」

 八九寺が何かを言いかけたように見えた。

 しかし、その言葉を聞く前に、少女の姿は消えた。

 空き地には、風が吹いていた。

 僕たちはしばらく、その場から動けなかった。

 いなくなった八九寺が立っていた場所には、もう何もない。

 それでも、そこから目を離すのが難しかった。

     *

 帰り道、守谷はあまり喋らなかった。

 もっとも、それは落ち込んでいるというより、疲労が一気に押し寄せてきたせいらしかった。羽川に何度か声をかけられ、そのたびにきちんと返事はしていたが、歩く速度は行きよりもさらに遅くなっていた。

「守谷さん、もう少しだけ頑張れる?」

「……うん。大丈夫だよ」

「本当?」

「……多分」

「多分じゃ困るなあ」

 羽川は苦笑しながら、守谷の腕を支えた。

 守谷も今度ばかりは遠慮せず、その手を借りている。

 そうして二人が歩く姿を見ながら、僕はぼんやりと考えていた。

 守谷日和という女の子は、よく分からない。

 困っている小学生を助けるために、二日間も道に迷い続ける。その相手が怪異だと分かっても、一緒にいることをやめなかった。

 普通なら、もっと早く諦めるだろう。

 諦めないにしても、どこかで自分の限界を考える。

 けれど守谷は、そういうことをほとんど考えていないように見えた。

 いや、考えていないというのは違うかもしれない。

 彼女には彼女なりの理由があって、それが僕にはまだ見えていないだけなのだろう。

 そんなことを考えていると、守谷がふと顔を上げた。

 そして、誰もいない隣へ、小さく微笑みかける。

 口元が少し動いた。

 何かを話しているようだった。

 僕には声が聞こえなかったし、もちろん、そこには誰も見えなかった。

 ただ、その表情は妙に穏やかだった。

 まるで、大切な誰かと一緒に歩いているような。

「……阿良々木くん?」

 羽川に呼ばれて、僕は我に返った。

「ああ、何だ?」

「私、守谷さんを送っていくから。戦場ヶ原さんにも伝えておいてくれる?」

「分かった。頼むよ、羽川」

「うん。それじゃあ、また明日ね」

 守谷も僕たちに向かって小さく頭を下げた。

「……今日は、ありがとう」

「気にするな。それよりちゃんと寝ろよ」

「……うん。おやすみなさい」

「まだ夕方だけどな」

「……そうだね」

 守谷は少し笑った。

 そのまま羽川に付き添われ、二人は住宅街の向こうへ歩いていった。

 僕は、その背中が見えなくなるまで見送った。

 そして振り返ったところで、ようやく思い出した。

 そうだ。

 僕には今、八九寺のこととは別に、重大な問題が残されているのだった。

     *

「さて、阿良々木くん」

 隣から声がした。

 戦場ヶ原ひたぎだった。

 彼女は、何事もなかったような顔をしている。

 そう。何事もなかったような顔だ。

 さっき僕の耳元で、とんでもないことを言った人間の顔とは、とても思えない。

「……なあ、戦場ヶ原」

「何かしら」

「さっきのことなんだけど」

「八九寺さんのこと?」

「いや、そうじゃなくて……」

「守谷さんのこと?」

「それでもない」

「では、羽川さん?」

「どうして全部女の子なんだよ!」

「あなたが今日、女の子のことばかり気にしていたからではなくて?」

 戦場ヶ原は、しれっとした顔でそう言った。

 僕は思わず口を閉じる。

 確かに否定しづらい。

 八九寺のことも、守谷のことも、羽川のことも気にかけていた。けれど、それは別にやましい理由があったからではない。

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

「……英語のことだよ」

 僕が言うと、戦場ヶ原は少しだけ目を細めた。

「英語?」

「だから、さっき耳元で言っただろ」

「ああ」

 彼女は、ようやく思い出したように頷いた。

「I LOVE YOU、のことね」

「そんなに普通に言うな!」

「なぜ? 何か問題でも?」

「問題しかねえよ!」

「そう。では、やはり発音に問題があったのかしら」

「発音は完璧だったよ!」

「ありがとう。あなたに褒められると、自信がつくわ」

「だから、そういう話じゃなくて!」

 僕は深く息を吐いた。

 このままでは埒が明かない。

 戦場ヶ原は、僕がどれだけ慌てようと平気な顔で話を逸らすことができる女だ。こちらが付き合えば付き合うほど、会話の主導権を奪われる。

 だから、僕は思い切って聞いた。

「……あれ、本気なのか?」

 戦場ヶ原は、僕を見た。

 今度は冗談を言わなかった。

「本気よ」

 あまりにも簡単な返答だった。

 言葉を飾ることも、照れて誤魔化すこともない。

 ただ、その一言だけで、僕の逃げ道を全部塞いでしまった。

 僕は思わず視線を逸らした。

「……何で、僕なんだよ」

「理由が必要?」

「必要だろ。普通は」

「普通、ね」

 戦場ヶ原は、小さく笑った。

「あなたは、随分と普通にこだわるのね」

「そりゃあ、普通じゃないことばっかり起きてるからな」

「それもそうね」

 彼女は、僕の隣を歩き始めた。

 僕も自然と歩調を合わせる。

 夕暮れの住宅街には、僕たち以外の人影がほとんどなかった。遠くから犬の鳴き声が聞こえ、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。

 あまりにも平凡な景色だった。

 今日、幽霊の女の子を見送ったばかりだというのに。

 僕は、しばらく考えてから口を開いた。

「……戦場ヶ原。僕たち、まだお互いのことをそんなに知らないだろ」

「そうね」

「知り合ってから、まだそんなに経ってないし。まともに話すようになったのだって、つい最近だ」

「ええ」

「だから、その……」

 言い淀む僕を、戦場ヶ原は急かさなかった。

 僕は、ようやく言葉を見つけた。

「もう少しお互いのことを知ってから、そういう関係になるべきなんじゃないかと思うんだ」

 口にしてから、少し後悔した。

 いかにも臆病な言い訳のように聞こえたからだ。

 けれど、嘘ではなかった。

 僕は戦場ヶ原のことを、まだよく知らない。

 体重を奪われていたこと。家庭の事情。あの母の日に至るまでの、彼女が抱えてきたもの。

 そうした重大なことは知っている。

 けれど、好きな食べ物も、休日の過ごし方も、どんな音楽を聴くのかも知らない。

 悲しいときにどうするのか。嬉しいときにどんな顔をするのか。何を言われると怒るのか。

 恋人になるというのは、そういうことまで知った上でするものなのではないだろうか。

 少なくとも僕は、そう思っていた。

 戦場ヶ原はしばらく黙っていた。

 僕は、その沈黙に耐えられなくなりそうだった。

 断られたと受け取られたかもしれない。

 いや、実際、断ろうとしているようなものだ。

 嫌いだからではない。

 むしろ、僕は戦場ヶ原と話すのが好きだった。

 皮肉を言われるのは腹立たしいし、彼女の冗談は時々本気で命の危険を感じるけれど、それでも一緒にいる時間は不思議と楽しい。

 だからこそ、軽々しく返事をしていいとは思えなかった。

 すると、戦場ヶ原が言った。

「阿良々木くん。あなた、少し勘違いしているわ」

「……勘違い?」

「ええ。私は、あなたのことを全部知っているから好きになったわけではないの」

 彼女は、前を向いたまま続けた。

「あなたと話していると楽しいのよ。会話をしていると、時間が過ぎるのが早い。くだらないことを言い合っているだけなのに、もっと続けたいと思ってしまう」

 僕は黙って聞いていた。

「それに、あなたには分からないことがたくさんあるわ。どうして他人のためにそこまで無茶をするのか。どうして損だと分かっていることを平気でするのか。普段はあんなに頼りないくせに、肝心なところでは妙に頑固なのも、不思議で仕方がない」

「……褒めてるのか、それ」

「もちろん。私なりに」

 戦場ヶ原は微笑んだ。

「だから、もっと知りたいの」

 そこで初めて、彼女はこちらを向いた。

「阿良々木くんがどんな人間なのか。何を考えているのか。どうして、そんなふうに生きているのか。そういうことを、これから少しずつ知っていきたいと思ったのよ」

「…………」

「あなたは、全部知ってから付き合うべきだと言うけれど、私は違うと思うわ。知らないからこそ、もっと近くにいたいと思うことだってあるでしょう?」

 僕は、返事ができなかった。

 その考え方を、否定する理由が見つからなかったからだ。

 何より、僕自身も戦場ヶ原のことをもっと知りたいと思っていた。

 あの皮肉屋の少女が、普段はどんなふうに過ごしているのか。

 何が好きで、何が嫌いなのか。

 どんなことを考え、どんなことに笑うのか。

 そういうことに興味がある。

 確かに、それを知るために付き合うという考え方もあるのだろう。

「……それにね」

 戦場ヶ原が、少し声を低くした。

「私には、もう一つ理由があるの」

「何だ?」

「あなたの周りには、女の子が多すぎるわ」

 僕は、足を止めかけた。

「……は?」

「羽川さんに、守谷さん。ほかにもいるのでしょう? あなたのことだから」

「いや、待て。何の話だ」

「そのままの意味よ」

 戦場ヶ原は、少しも悪びれなかった。

「羽川さんは容姿端麗、成績優秀、気配りもできる。非の打ち所がないという言葉は、ああいう人のためにあるのでしょうね」

「……まあ、羽川はすごい奴だけど」

「守谷さんだって、随分と可愛らしいじゃない。顔立ちも整っているし、物腰も柔らかい。ああいう女の子を放っておけない男の人は多いと思うわ」

 僕は、今日の守谷を思い出した。

 皺だらけの制服に、乱れた髪。

 まともに眠っていないせいで、ひどい顔色だった。

 けれど、確かに守谷は整った顔立ちをしている。

 本人にその自覚があるかどうかは分からないが。

「それはそうかもしれないけど、だから何だよ」

「あなたは、そういう女の子たちと親しいのでしょう?」

「羽川とは友達だし、守谷とはクラスメイトだ。それだけだぞ」

「今は、ね」

 戦場ヶ原は、そこを強調した。

「今は?」

「ええ。これから先も、そのままとは限らないでしょう」

 僕は眉を寄せた。

「……お前、まさか嫉妬してるのか?」

「そうね」

 即答だった。

 僕は、また言葉を失った。

「嫉妬しているわ。正直に言うと、かなり」

 戦場ヶ原は平然と続けた。

「羽川さんは、私よりずっと前からあなたのことを知っている。守谷さんは、今日のことがきっかけであなたと仲良くなるかもしれない。どちらも魅力的な女の子だもの。私がのんびりしているうちに、あなたが誰かを好きになってしまう可能性だってあるわ」

「……そんなこと、分からないだろ」

「分からないわね。だから困っているのよ」

 あまりにも堂々としていた。

 僕は思わず笑いそうになったが、戦場ヶ原の表情を見て、その笑いを飲み込んだ。

 彼女は、少しだけ緊張しているように見えた。

 いつもなら何でもない顔で吐き出すはずの言葉を、今日は一つずつ確かめるように話している。

「私、欲張りなのかもしれないわね」

 戦場ヶ原は言った。

「あなたともっと話したいし、もっと一緒にいたい。あなたのことを知りたいし、あなたにも私のことを知ってほしい」

 そこまで言って、彼女は一度口を閉じた。

「……それに、できることなら、あなたには私を一番に選んでほしい」

 その声は、いつもよりずっと静かだった。

「だから、さっさと私のものにしておかないと、後悔しそうなのよ」

 僕は、隣を歩く少女を見た。

 戦場ヶ原ひたぎ。

 つい最近まで、クラスでほとんど誰とも話さなかった女の子。

 誰かに触れられることを嫌い、他人との関わりを避け、自分の周りに高い壁を築いていた少女。

 その彼女が今、自分から誰かと関わろうとしている。

 もっと知りたいと。

 一緒にいたいと。

 自分を選んでほしいと。

 そう言っているのだ。

 思えば、戦場ヶ原はずっとそうだったのかもしれない。

 言葉は辛辣で、態度も決して優しくはない。

 けれど、肝心なことについて嘘をつく人間ではなかった。

 怖いものは怖い。

 嫌いなものは嫌い。

 そして、好きなものは好き。

 その意思表示だけは、驚くほど率直なのだ。

 僕は、少しだけ考えた。

 僕が先ほど言った「もっとお互いを知ってから」という言葉。

 それは確かに一つの考え方だろう。

 けれど、もしかすると僕は、決断するのが怖かっただけなのかもしれない。

 誰かと付き合う。

 その関係がうまくいくかどうかなんて、今の僕には分からない。

 いつか喧嘩するかもしれないし、互いに嫌な部分を知ることになるかもしれない。

 だけど、そんなことは、何年友達でいたって分からないのではないだろうか。

 大切なのは、今この瞬間に、どうしたいと思っているか。

 そう考えたとき、答えは意外と簡単だった。

 僕は、戦場ヶ原ともっと一緒にいたかった。

「……なあ、戦場ヶ原」

「何かしら」

「一つだけ、確認させてくれ」

「どうぞ」

「僕で、本当にいいのか?」

 戦場ヶ原は、不愉快そうに眉を寄せた。

「その質問、あまり好きではないわ」

「……悪い」

「私があなたを選んだのよ。どうしてあなたに、私の選択を疑われなければならないの?」

 僕は苦笑した。

「……それもそうだな」

「ええ。そうよ」

 少しの沈黙があった。

 戦場ヶ原は、僕の返事を待っていた。

 その表情に、いつもの余裕はなかった。

 僕は、それを見て初めて気づいた。

 彼女だって、不安なのだ。

 あれほど堂々と告白して、あれほど平然と嫉妬を口にして、それでも僕に断られるかもしれないと思っている。

 それを考えたら、何だかおかしかった。

 もちろん、笑い事ではないのだけれど。

 僕は、彼女の方へ身体を向けた。

「……戦場ヶ原」

「ええ」

「僕は、お前のことをまだよく知らない」

「そうね」

「でも、もっと知りたいとは思ってる」

 戦場ヶ原は黙っていた。

「お前と話してるのは楽しいし、一緒にいるのも嫌じゃない。というか、むしろ、これからも一緒にいたいと思ってる」

 そこまで言って、僕は少し照れくさくなった。

 改めて自分の気持ちを言葉にするというのは、思っていた以上に恥ずかしいものだった。

 それでも、最後まで言わなければならない。

「だから……僕でよければ、付き合ってほしい」

 戦場ヶ原は、しばらく僕を見つめていた。

 そして、ゆっくりと目を細めた。

「……そう」

 小さな返事だった。

 いつもなら、ここで何か皮肉の一つでも飛んでくるところだ。

 けれど、彼女は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ顔を赤くしていた。

 僕はその表情を見て、胸の奥が妙に温かくなった。

「……何だよ」

「別に」

「何か言えよ」

「今、考えているところよ」

「何を?」

「あなたをどうやって飼い慣らそうかしら、と」

「やっぱり言わなくてよかった!」

 戦場ヶ原は、そこでようやく笑った。

 いつもの、少し意地悪そうな笑顔だった。

「冗談よ、阿良々木くん」

「お前の冗談は冗談に聞こえないんだよ」

「そう。では、これからはもっと分かりやすくするわ」

「そうしてくれ」

「まずは首輪からかしら」

「何も分かってねえ!」

 僕が抗議すると、戦場ヶ原は楽しそうに笑った。

 それから、不意に僕の手を取った。

 細くて、白い指だった。

 僕は、思わず手元を見下ろした。

 戦場ヶ原は、前を向いている。

「……何よ」

「いや」

「恋人同士が手を繋ぐのは、不自然なことかしら」

「……不自然じゃないけど」

「なら、問題ないわね」

 彼女は、少しだけ指に力を込めた。

 僕も、それに応えるように握り返した。

 その瞬間、戦場ヶ原がこちらを見た。

 目が合う。

 彼女は何か言いかけて、結局、何も言わなかった。

 僕も何も言わなかった。

 今度の沈黙は、不思議と居心地がよかった。

 夕暮れの住宅街を、僕たちは並んで歩いた。

 どちらからともなく、少しだけ歩く速度を落とした。

 急いで帰る理由は、もうなかった。

     *

 今日、八九寺真宵という少女が、十一年ぶりに帰り道を見つけた。

 その帰り道の終点には、家も母親もいなかった。

 けれど、彼女は最後に「ただいま」と言った。

 僕には、あの言葉が忘れられそうになかった。

 家に帰るということは、どういうことなのだろう。

 建物があることだろうか。

 家族が待っていることだろうか。

 それとも、自分が帰ってきたと思えることなのだろうか。

 答えは分からない。

 今日、守谷が話していたことも思い出す。

 彼女にとって、家は必ずしも特別な場所ではないらしい。

 だからこそ、帰りたい場所を探していた八九寺に、あれほど長く付き合えたのかもしれない。

 もちろん、本人に聞いたわけではないから、これは僕の勝手な想像だ。

 けれど、少なくとも一つだけ確かなことがある。

 八九寺にとっての帰る場所と、守谷にとっての帰る場所は、きっと同じではなかった。

 そして今、隣には戦場ヶ原がいる。

 つい先ほどまで、僕たちはただのクラスメイトだった。

 それが今は、恋人同士になっている。

 手を繋いで、同じ道を歩いている。

 まったく、人生というものは何が起こるか分からない。

「阿良々木くん」

 戦場ヶ原が声をかけてきた。

「何だ?」

「明日から、学校ではどうしましょうか」

「……どうするって?」

「私たちの関係よ」

「ああ……」

 僕は少し考えた。

「別に、隠す必要はないんじゃないか?」

「そうね。私もそう思うわ」

「ただ、あんまり騒がれるのは嫌だけどな」

「心配ないわ。騒ぐような相手は、私が黙らせるから」

「平和的な方法で頼むぞ」

「もちろん。あなたは私を何だと思っているの?」

「その質問には答えない方がよさそうだ」

「賢明ね」

 戦場ヶ原は小さく笑った。

 僕も笑った。

 そして、ふと思った。

 僕はこれから、彼女とどんな時間を過ごすのだろう。

 今日のように、くだらない冗談を言い合うのだろうか。

 時には喧嘩もするのだろうか。

 知らなかった一面を見つけて、驚いたり、呆れたりするのだろうか。

 きっと、そうなのだろう。

 それでいい。

 今日、すべてを知る必要はないのだ。

 明日も会えばいい。

 明後日も話せばいい。

 そうして少しずつ、互いのことを知っていけばいい。

 僕は、隣を歩く戦場ヶ原の横顔を見た。

 彼女は前を向いたまま、少しだけ口元を緩めていた。

「……戦場ヶ原」

「何かしら」

「これから、よろしくな」

 彼女は僕を見た。

 少しだけ驚いたような顔をして、それから笑った。

「ええ。よろしく、阿良々木くん」

 繋いだ手が、少しだけ温かくなったような気がした。

 気のせいかもしれない。

 けれど、別にそれでもよかった。

 僕たちは、そのまま夕暮れの道を歩いていった。

 帰る場所は、それぞれにある。

 けれどこれからは、時々こうして、同じ道を歩くことになるのだろう。

 そう思うと、少しだけ楽しみだった。

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