八九寺が足を止めたのは、住宅街の一角に差しかかったときだった。
そこは、特に目立った特徴のない道だった。片側には古びたブロック塀が続き、反対側には比較的新しい住宅が何軒か並んでいる。道幅は狭く、車が二台すれ違うには少し苦労しそうだった。
僕には見覚えのない場所だったが、八九寺にとっては違ったらしい。
「……ここ、知っています」
それまで守谷と何か話していた八九寺が、突然そんなことを言った。
守谷も足を止める。
「真宵ちゃん?」
「この道です。この道を、まっすぐ行って……あそこの角を曲がるんです」
八九寺は、小さな指で前方を示した。
いつもなら、そんな仕草一つ取っても僕をからかう理由にしそうな少女が、今は冗談の一つも言わない。目を大きく見開き、まるで確かめるように何度も辺りを見回していた。
戦場ヶ原が地図を確認する。
「ええ。住所から考えても、その方向で間違いなさそうね」
「……そうですか」
八九寺は小さく頷いた。
その声には安堵があった。けれど、それだけではないように思えた。
十一年間、たどり着けなかった場所。
それが今、すぐそこにあるのだ。
僕たちは再び歩き始めた。
先頭は戦場ヶ原。その後ろを羽川と守谷が歩き、八九寺は守谷の手を握ったまま、二人の間を行ったり来たりしていた。僕は少し後ろから、その様子を見ていた。
不意に、八九寺が振り返る。
「阿良々木さん」
「何だ?」
「……ありがとうございました」
あまりにも唐突だったので、僕は一瞬、返事を忘れた。
「何だよ、急に。気持ち悪いな」
「失礼ですね。人がせっかくお礼を言っているのに」
「いや、お前が素直に礼を言うから驚いたんだよ」
「それでは取り消します」
「取り消すな!」
八九寺は、いつものように口元を緩めた。
しかし、すぐに前を向いてしまった。
僕はそれ以上、何も言わなかった。
あの少女はきっと、分かっているのだ。
この道の先で何が待っているのか。少なくとも、今までとは何かが変わるということを。
そして、その変化が必ずしも望んでいたものとは限らないということも。
*
目的地には、何もなかった。
いや、正確には何もないわけではない。雑草は生えていたし、隅には古いコンクリートの基礎らしきものが残っていた。隣家との境界にはブロック塀があり、錆びついた金網の向こうには空き缶が一つ転がっている。
けれど、そこに家はなかった。
十一年前、八九寺真宵が訪ねようとした母親の家は、もう存在していなかったのである。
「……ここよ」
戦場ヶ原が立ち止まった。
「住所は、ここで間違いないわ」
僕は彼女を見た。戦場ヶ原はそれ以上何も言わず、ただ空き地の方を向いていた。
羽川も黙っている。
守谷は、握っていた八九寺の手を見下ろしていた。
八九寺だけが、じっと空き地を見つめていた。
「……ここです」
小さな声だった。
「間違いありません。ここに、お母さんの家がありました」
僕は辺りを見回した。
どうにかして、昔の面影を探そうとしたのかもしれない。しかし、僕には十一年前のこの場所など知る由もない。どんな家が建っていて、どんな庭があって、玄関がどちらを向いていたのかさえ分からなかった。
八九寺の母親が今もこの町に住んでいるのかどうかも分からない。
あるいは、もう別の土地で暮らしているのかもしれないし、新しい家庭を築いているのかもしれない。
十一年という時間は、それだけのことが起きてもおかしくない長さだった。
けれど、八九寺には、その十一年がなかった。
彼女の時間は、あの日のまま止まっている。
母親に会いに行こうと家を出た、十一歳の少女のまま。
「……真宵ちゃん」
守谷が、そっと声をかけた。
八九寺は返事をしなかった。
ただ、繋いでいた手をゆっくりと離した。
守谷は引き止めなかった。寂しそうな顔をしたけれど、それでも手を伸ばし直すことはしなかった。
八九寺が、一歩前へ進む。
さらに、もう一歩。
その足取りには、もう迷いがなかった。
小さな靴が土を踏み、雑草の間を進んでいく。途中で八九寺は立ち止まり、何かを確かめるように右手を伸ばした。
そこには、何もない。
けれど彼女には、見えているのだろう。
かつてそこにあった玄関が。
母親の暮らしていた家が。
十一年前、どうしても帰りたかった場所が。
八九寺が、泣いていた。
声を押し殺すように唇を結んでいたが、涙は次々に頬を伝い、顎から零れ落ちていた。
僕は、何か言おうとした。
お母さんはいないかもしれない。
ここにはもう家がない。
そんなことは、僕が言わなくても彼女には分かっている。
だったら、せめて何か別の言葉を。
そう考えたのに、結局、何も出てこなかった。
八九寺は、泣きながら笑った。
それは、この二日間で守谷が見てきたどんな笑顔とも、そして今日初めて会った僕が見てきたどんな笑顔とも違っていた。
嬉しそうで、悲しそうで、何よりも、ひどく安心した顔だった。
八九寺は小さく頭を下げた。
そして、誰もいない空き地に向かって、言った。
「――ただいま、戻りました」
その瞬間、僕はようやく理解した。
八九寺が探していたのは、母親だけではなかったのだ。
もちろん、会いたかったのだろう。抱き締めてほしかっただろうし、顔を見て、声を聞きたかっただろう。
けれど、それと同じくらい。
あの日、途中で終わってしまった自分の帰り道を、最後まで歩きたかったのかもしれない。
たとえ玄関がなくなっていても。
たとえ、その先に母親が待っていなくても。
ここまで来て、帰ってきたと言う。
それだけのことに、十一年もかかってしまったのだ。
八九寺の輪郭が、少しずつ薄くなっていった。
僕は息を呑んだ。
守谷が一歩踏み出しかける。
けれど、羽川が何かするより先に、守谷は自分で足を止めた。
八九寺は、最後にこちらを振り返った。
涙で濡れた顔のまま、笑っていた。
「日和さん。皆さんも……本当に、ありがとうございました」
守谷が、小さく手を振った。
「……またね、真宵ちゃん」
八九寺が何かを言いかけたように見えた。
しかし、その言葉を聞く前に、少女の姿は消えた。
空き地には、風が吹いていた。
僕たちはしばらく、その場から動けなかった。
いなくなった八九寺が立っていた場所には、もう何もない。
それでも、そこから目を離すのが難しかった。
*
帰り道、守谷はあまり喋らなかった。
もっとも、それは落ち込んでいるというより、疲労が一気に押し寄せてきたせいらしかった。羽川に何度か声をかけられ、そのたびにきちんと返事はしていたが、歩く速度は行きよりもさらに遅くなっていた。
「守谷さん、もう少しだけ頑張れる?」
「……うん。大丈夫だよ」
「本当?」
「……多分」
「多分じゃ困るなあ」
羽川は苦笑しながら、守谷の腕を支えた。
守谷も今度ばかりは遠慮せず、その手を借りている。
そうして二人が歩く姿を見ながら、僕はぼんやりと考えていた。
守谷日和という女の子は、よく分からない。
困っている小学生を助けるために、二日間も道に迷い続ける。その相手が怪異だと分かっても、一緒にいることをやめなかった。
普通なら、もっと早く諦めるだろう。
諦めないにしても、どこかで自分の限界を考える。
けれど守谷は、そういうことをほとんど考えていないように見えた。
いや、考えていないというのは違うかもしれない。
彼女には彼女なりの理由があって、それが僕にはまだ見えていないだけなのだろう。
そんなことを考えていると、守谷がふと顔を上げた。
そして、誰もいない隣へ、小さく微笑みかける。
口元が少し動いた。
何かを話しているようだった。
僕には声が聞こえなかったし、もちろん、そこには誰も見えなかった。
ただ、その表情は妙に穏やかだった。
まるで、大切な誰かと一緒に歩いているような。
「……阿良々木くん?」
羽川に呼ばれて、僕は我に返った。
「ああ、何だ?」
「私、守谷さんを送っていくから。戦場ヶ原さんにも伝えておいてくれる?」
「分かった。頼むよ、羽川」
「うん。それじゃあ、また明日ね」
守谷も僕たちに向かって小さく頭を下げた。
「……今日は、ありがとう」
「気にするな。それよりちゃんと寝ろよ」
「……うん。おやすみなさい」
「まだ夕方だけどな」
「……そうだね」
守谷は少し笑った。
そのまま羽川に付き添われ、二人は住宅街の向こうへ歩いていった。
僕は、その背中が見えなくなるまで見送った。
そして振り返ったところで、ようやく思い出した。
そうだ。
僕には今、八九寺のこととは別に、重大な問題が残されているのだった。
*
「さて、阿良々木くん」
隣から声がした。
戦場ヶ原ひたぎだった。
彼女は、何事もなかったような顔をしている。
そう。何事もなかったような顔だ。
さっき僕の耳元で、とんでもないことを言った人間の顔とは、とても思えない。
「……なあ、戦場ヶ原」
「何かしら」
「さっきのことなんだけど」
「八九寺さんのこと?」
「いや、そうじゃなくて……」
「守谷さんのこと?」
「それでもない」
「では、羽川さん?」
「どうして全部女の子なんだよ!」
「あなたが今日、女の子のことばかり気にしていたからではなくて?」
戦場ヶ原は、しれっとした顔でそう言った。
僕は思わず口を閉じる。
確かに否定しづらい。
八九寺のことも、守谷のことも、羽川のことも気にかけていた。けれど、それは別にやましい理由があったからではない。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
「……英語のことだよ」
僕が言うと、戦場ヶ原は少しだけ目を細めた。
「英語?」
「だから、さっき耳元で言っただろ」
「ああ」
彼女は、ようやく思い出したように頷いた。
「I LOVE YOU、のことね」
「そんなに普通に言うな!」
「なぜ? 何か問題でも?」
「問題しかねえよ!」
「そう。では、やはり発音に問題があったのかしら」
「発音は完璧だったよ!」
「ありがとう。あなたに褒められると、自信がつくわ」
「だから、そういう話じゃなくて!」
僕は深く息を吐いた。
このままでは埒が明かない。
戦場ヶ原は、僕がどれだけ慌てようと平気な顔で話を逸らすことができる女だ。こちらが付き合えば付き合うほど、会話の主導権を奪われる。
だから、僕は思い切って聞いた。
「……あれ、本気なのか?」
戦場ヶ原は、僕を見た。
今度は冗談を言わなかった。
「本気よ」
あまりにも簡単な返答だった。
言葉を飾ることも、照れて誤魔化すこともない。
ただ、その一言だけで、僕の逃げ道を全部塞いでしまった。
僕は思わず視線を逸らした。
「……何で、僕なんだよ」
「理由が必要?」
「必要だろ。普通は」
「普通、ね」
戦場ヶ原は、小さく笑った。
「あなたは、随分と普通にこだわるのね」
「そりゃあ、普通じゃないことばっかり起きてるからな」
「それもそうね」
彼女は、僕の隣を歩き始めた。
僕も自然と歩調を合わせる。
夕暮れの住宅街には、僕たち以外の人影がほとんどなかった。遠くから犬の鳴き声が聞こえ、どこかの家から夕飯の匂いが漂ってくる。
あまりにも平凡な景色だった。
今日、幽霊の女の子を見送ったばかりだというのに。
僕は、しばらく考えてから口を開いた。
「……戦場ヶ原。僕たち、まだお互いのことをそんなに知らないだろ」
「そうね」
「知り合ってから、まだそんなに経ってないし。まともに話すようになったのだって、つい最近だ」
「ええ」
「だから、その……」
言い淀む僕を、戦場ヶ原は急かさなかった。
僕は、ようやく言葉を見つけた。
「もう少しお互いのことを知ってから、そういう関係になるべきなんじゃないかと思うんだ」
口にしてから、少し後悔した。
いかにも臆病な言い訳のように聞こえたからだ。
けれど、嘘ではなかった。
僕は戦場ヶ原のことを、まだよく知らない。
体重を奪われていたこと。家庭の事情。あの母の日に至るまでの、彼女が抱えてきたもの。
そうした重大なことは知っている。
けれど、好きな食べ物も、休日の過ごし方も、どんな音楽を聴くのかも知らない。
悲しいときにどうするのか。嬉しいときにどんな顔をするのか。何を言われると怒るのか。
恋人になるというのは、そういうことまで知った上でするものなのではないだろうか。
少なくとも僕は、そう思っていた。
戦場ヶ原はしばらく黙っていた。
僕は、その沈黙に耐えられなくなりそうだった。
断られたと受け取られたかもしれない。
いや、実際、断ろうとしているようなものだ。
嫌いだからではない。
むしろ、僕は戦場ヶ原と話すのが好きだった。
皮肉を言われるのは腹立たしいし、彼女の冗談は時々本気で命の危険を感じるけれど、それでも一緒にいる時間は不思議と楽しい。
だからこそ、軽々しく返事をしていいとは思えなかった。
すると、戦場ヶ原が言った。
「阿良々木くん。あなた、少し勘違いしているわ」
「……勘違い?」
「ええ。私は、あなたのことを全部知っているから好きになったわけではないの」
彼女は、前を向いたまま続けた。
「あなたと話していると楽しいのよ。会話をしていると、時間が過ぎるのが早い。くだらないことを言い合っているだけなのに、もっと続けたいと思ってしまう」
僕は黙って聞いていた。
「それに、あなたには分からないことがたくさんあるわ。どうして他人のためにそこまで無茶をするのか。どうして損だと分かっていることを平気でするのか。普段はあんなに頼りないくせに、肝心なところでは妙に頑固なのも、不思議で仕方がない」
「……褒めてるのか、それ」
「もちろん。私なりに」
戦場ヶ原は微笑んだ。
「だから、もっと知りたいの」
そこで初めて、彼女はこちらを向いた。
「阿良々木くんがどんな人間なのか。何を考えているのか。どうして、そんなふうに生きているのか。そういうことを、これから少しずつ知っていきたいと思ったのよ」
「…………」
「あなたは、全部知ってから付き合うべきだと言うけれど、私は違うと思うわ。知らないからこそ、もっと近くにいたいと思うことだってあるでしょう?」
僕は、返事ができなかった。
その考え方を、否定する理由が見つからなかったからだ。
何より、僕自身も戦場ヶ原のことをもっと知りたいと思っていた。
あの皮肉屋の少女が、普段はどんなふうに過ごしているのか。
何が好きで、何が嫌いなのか。
どんなことを考え、どんなことに笑うのか。
そういうことに興味がある。
確かに、それを知るために付き合うという考え方もあるのだろう。
「……それにね」
戦場ヶ原が、少し声を低くした。
「私には、もう一つ理由があるの」
「何だ?」
「あなたの周りには、女の子が多すぎるわ」
僕は、足を止めかけた。
「……は?」
「羽川さんに、守谷さん。ほかにもいるのでしょう? あなたのことだから」
「いや、待て。何の話だ」
「そのままの意味よ」
戦場ヶ原は、少しも悪びれなかった。
「羽川さんは容姿端麗、成績優秀、気配りもできる。非の打ち所がないという言葉は、ああいう人のためにあるのでしょうね」
「……まあ、羽川はすごい奴だけど」
「守谷さんだって、随分と可愛らしいじゃない。顔立ちも整っているし、物腰も柔らかい。ああいう女の子を放っておけない男の人は多いと思うわ」
僕は、今日の守谷を思い出した。
皺だらけの制服に、乱れた髪。
まともに眠っていないせいで、ひどい顔色だった。
けれど、確かに守谷は整った顔立ちをしている。
本人にその自覚があるかどうかは分からないが。
「それはそうかもしれないけど、だから何だよ」
「あなたは、そういう女の子たちと親しいのでしょう?」
「羽川とは友達だし、守谷とはクラスメイトだ。それだけだぞ」
「今は、ね」
戦場ヶ原は、そこを強調した。
「今は?」
「ええ。これから先も、そのままとは限らないでしょう」
僕は眉を寄せた。
「……お前、まさか嫉妬してるのか?」
「そうね」
即答だった。
僕は、また言葉を失った。
「嫉妬しているわ。正直に言うと、かなり」
戦場ヶ原は平然と続けた。
「羽川さんは、私よりずっと前からあなたのことを知っている。守谷さんは、今日のことがきっかけであなたと仲良くなるかもしれない。どちらも魅力的な女の子だもの。私がのんびりしているうちに、あなたが誰かを好きになってしまう可能性だってあるわ」
「……そんなこと、分からないだろ」
「分からないわね。だから困っているのよ」
あまりにも堂々としていた。
僕は思わず笑いそうになったが、戦場ヶ原の表情を見て、その笑いを飲み込んだ。
彼女は、少しだけ緊張しているように見えた。
いつもなら何でもない顔で吐き出すはずの言葉を、今日は一つずつ確かめるように話している。
「私、欲張りなのかもしれないわね」
戦場ヶ原は言った。
「あなたともっと話したいし、もっと一緒にいたい。あなたのことを知りたいし、あなたにも私のことを知ってほしい」
そこまで言って、彼女は一度口を閉じた。
「……それに、できることなら、あなたには私を一番に選んでほしい」
その声は、いつもよりずっと静かだった。
「だから、さっさと私のものにしておかないと、後悔しそうなのよ」
僕は、隣を歩く少女を見た。
戦場ヶ原ひたぎ。
つい最近まで、クラスでほとんど誰とも話さなかった女の子。
誰かに触れられることを嫌い、他人との関わりを避け、自分の周りに高い壁を築いていた少女。
その彼女が今、自分から誰かと関わろうとしている。
もっと知りたいと。
一緒にいたいと。
自分を選んでほしいと。
そう言っているのだ。
思えば、戦場ヶ原はずっとそうだったのかもしれない。
言葉は辛辣で、態度も決して優しくはない。
けれど、肝心なことについて嘘をつく人間ではなかった。
怖いものは怖い。
嫌いなものは嫌い。
そして、好きなものは好き。
その意思表示だけは、驚くほど率直なのだ。
僕は、少しだけ考えた。
僕が先ほど言った「もっとお互いを知ってから」という言葉。
それは確かに一つの考え方だろう。
けれど、もしかすると僕は、決断するのが怖かっただけなのかもしれない。
誰かと付き合う。
その関係がうまくいくかどうかなんて、今の僕には分からない。
いつか喧嘩するかもしれないし、互いに嫌な部分を知ることになるかもしれない。
だけど、そんなことは、何年友達でいたって分からないのではないだろうか。
大切なのは、今この瞬間に、どうしたいと思っているか。
そう考えたとき、答えは意外と簡単だった。
僕は、戦場ヶ原ともっと一緒にいたかった。
「……なあ、戦場ヶ原」
「何かしら」
「一つだけ、確認させてくれ」
「どうぞ」
「僕で、本当にいいのか?」
戦場ヶ原は、不愉快そうに眉を寄せた。
「その質問、あまり好きではないわ」
「……悪い」
「私があなたを選んだのよ。どうしてあなたに、私の選択を疑われなければならないの?」
僕は苦笑した。
「……それもそうだな」
「ええ。そうよ」
少しの沈黙があった。
戦場ヶ原は、僕の返事を待っていた。
その表情に、いつもの余裕はなかった。
僕は、それを見て初めて気づいた。
彼女だって、不安なのだ。
あれほど堂々と告白して、あれほど平然と嫉妬を口にして、それでも僕に断られるかもしれないと思っている。
それを考えたら、何だかおかしかった。
もちろん、笑い事ではないのだけれど。
僕は、彼女の方へ身体を向けた。
「……戦場ヶ原」
「ええ」
「僕は、お前のことをまだよく知らない」
「そうね」
「でも、もっと知りたいとは思ってる」
戦場ヶ原は黙っていた。
「お前と話してるのは楽しいし、一緒にいるのも嫌じゃない。というか、むしろ、これからも一緒にいたいと思ってる」
そこまで言って、僕は少し照れくさくなった。
改めて自分の気持ちを言葉にするというのは、思っていた以上に恥ずかしいものだった。
それでも、最後まで言わなければならない。
「だから……僕でよければ、付き合ってほしい」
戦場ヶ原は、しばらく僕を見つめていた。
そして、ゆっくりと目を細めた。
「……そう」
小さな返事だった。
いつもなら、ここで何か皮肉の一つでも飛んでくるところだ。
けれど、彼女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ顔を赤くしていた。
僕はその表情を見て、胸の奥が妙に温かくなった。
「……何だよ」
「別に」
「何か言えよ」
「今、考えているところよ」
「何を?」
「あなたをどうやって飼い慣らそうかしら、と」
「やっぱり言わなくてよかった!」
戦場ヶ原は、そこでようやく笑った。
いつもの、少し意地悪そうな笑顔だった。
「冗談よ、阿良々木くん」
「お前の冗談は冗談に聞こえないんだよ」
「そう。では、これからはもっと分かりやすくするわ」
「そうしてくれ」
「まずは首輪からかしら」
「何も分かってねえ!」
僕が抗議すると、戦場ヶ原は楽しそうに笑った。
それから、不意に僕の手を取った。
細くて、白い指だった。
僕は、思わず手元を見下ろした。
戦場ヶ原は、前を向いている。
「……何よ」
「いや」
「恋人同士が手を繋ぐのは、不自然なことかしら」
「……不自然じゃないけど」
「なら、問題ないわね」
彼女は、少しだけ指に力を込めた。
僕も、それに応えるように握り返した。
その瞬間、戦場ヶ原がこちらを見た。
目が合う。
彼女は何か言いかけて、結局、何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
今度の沈黙は、不思議と居心地がよかった。
夕暮れの住宅街を、僕たちは並んで歩いた。
どちらからともなく、少しだけ歩く速度を落とした。
急いで帰る理由は、もうなかった。
*
今日、八九寺真宵という少女が、十一年ぶりに帰り道を見つけた。
その帰り道の終点には、家も母親もいなかった。
けれど、彼女は最後に「ただいま」と言った。
僕には、あの言葉が忘れられそうになかった。
家に帰るということは、どういうことなのだろう。
建物があることだろうか。
家族が待っていることだろうか。
それとも、自分が帰ってきたと思えることなのだろうか。
答えは分からない。
今日、守谷が話していたことも思い出す。
彼女にとって、家は必ずしも特別な場所ではないらしい。
だからこそ、帰りたい場所を探していた八九寺に、あれほど長く付き合えたのかもしれない。
もちろん、本人に聞いたわけではないから、これは僕の勝手な想像だ。
けれど、少なくとも一つだけ確かなことがある。
八九寺にとっての帰る場所と、守谷にとっての帰る場所は、きっと同じではなかった。
そして今、隣には戦場ヶ原がいる。
つい先ほどまで、僕たちはただのクラスメイトだった。
それが今は、恋人同士になっている。
手を繋いで、同じ道を歩いている。
まったく、人生というものは何が起こるか分からない。
「阿良々木くん」
戦場ヶ原が声をかけてきた。
「何だ?」
「明日から、学校ではどうしましょうか」
「……どうするって?」
「私たちの関係よ」
「ああ……」
僕は少し考えた。
「別に、隠す必要はないんじゃないか?」
「そうね。私もそう思うわ」
「ただ、あんまり騒がれるのは嫌だけどな」
「心配ないわ。騒ぐような相手は、私が黙らせるから」
「平和的な方法で頼むぞ」
「もちろん。あなたは私を何だと思っているの?」
「その質問には答えない方がよさそうだ」
「賢明ね」
戦場ヶ原は小さく笑った。
僕も笑った。
そして、ふと思った。
僕はこれから、彼女とどんな時間を過ごすのだろう。
今日のように、くだらない冗談を言い合うのだろうか。
時には喧嘩もするのだろうか。
知らなかった一面を見つけて、驚いたり、呆れたりするのだろうか。
きっと、そうなのだろう。
それでいい。
今日、すべてを知る必要はないのだ。
明日も会えばいい。
明後日も話せばいい。
そうして少しずつ、互いのことを知っていけばいい。
僕は、隣を歩く戦場ヶ原の横顔を見た。
彼女は前を向いたまま、少しだけ口元を緩めていた。
「……戦場ヶ原」
「何かしら」
「これから、よろしくな」
彼女は僕を見た。
少しだけ驚いたような顔をして、それから笑った。
「ええ。よろしく、阿良々木くん」
繋いだ手が、少しだけ温かくなったような気がした。
気のせいかもしれない。
けれど、別にそれでもよかった。
僕たちは、そのまま夕暮れの道を歩いていった。
帰る場所は、それぞれにある。
けれどこれからは、時々こうして、同じ道を歩くことになるのだろう。
そう思うと、少しだけ楽しみだった。