とある科学の独立番号《Nevermind》 作:シングルアクション教
決行当日。
ミサカ9999号は、いつもより早く目を覚ました。
眠れなかったわけではない。必要な休息は取った。身体の状態も確認した。能力の制御に問題はない。
それでも、心臓の鼓動だけは、いつもより少し速かった。
「……本日、ミサカ9950号の実験が予定されています、とミサカは確認します」
誰に聞かせるでもなく呟く。
今日が終われば、もう二度と、この施設に戻るつもりはない。
彼女は最後に、頭の中で計画を確認した。
まず、9950号の実験区画へ向かう。
次に、生体電流を操作して彼女を気絶させる。装備を奪い、9950号に成り代わって外へ出る。
そして、施設内の観測装置を破壊しながら、監視カメラの死角へ逃げ込む。
最後に、一方通行の協力を得て、追跡の目を切る。
ひとつでも失敗すれば、終わりだ。
それでも、やるしかない。
9999号は、静かに立ち上がった。
実験施設の廊下は、いつもと変わらなかった。
白い壁。均一な照明。規則正しく行き交う研究員。淡々と仕事をこなす妹達。
この場所で、彼女は生まれた。
この場所で、知識を与えられた。
この場所で、何度も死ぬ未来を突きつけられた。
そして、今日、この場所から出ていく。
実験区画に到着すると、ミサカ9950号が待機していた。
「……おはようございます、とミサカは挨拶します」
「おはよう、とミサカは返答します」
9950号は、いつも通りの様子だった。
彼女はこれから自分に何が起こるのか、知らない。
9999号は、そのことに一瞬だけ罪悪感を覚えた。
けれど、すぐに思い直す。
ここで躊躇えば、自分は死ぬ。
生きるために必要なことをする。それだけだ。
「少し、確認したいことがあります、とミサカは申し出ます」
「確認事項ですか、とミサカは質問します」
「はい。こちらへ」
9999号は、9950号を人目の少ない場所へ誘導した。
そして、彼女がこちらを向いた瞬間。
指先から、微弱な電流を流した。
相手の身体に流れる電気信号を乱し、意識を失わせる。
9950号の身体が、ぐらりと傾いた。
9999号は、倒れる身体を支えた。
「……ごめんなさい」
小さく呟く。
返事はない。
彼女は9950号の装備を外し、自分のものと入れ替えた。識別情報を確認し、衣服の乱れを整える。
鏡に映った自分の姿は、いつもと同じ妹達の一人にしか見えなかった。
違うのは、その内側だけだ。
彼女は、9950号として歩き出した。
実験施設の出入口を通過する。
警備員が視線を向ける。
認証が行われる。
数秒。
その短い時間が、ひどく長く感じられた。
やがて、通過を許可する電子音が鳴った。
9999号は、何事もなかったかのように歩き続けた。
外へ出た。
施設の外気が肌に触れる。
たったそれだけのことなのに、彼女は一瞬、足を止めそうになった。
空が見えた。
壁に切り取られた空ではない。実験室の窓越しでもない。自分の頭上に広がる、外の空だった。
しかし、感動に浸っている暇はなかった。
彼女は走り出した。
計画の第一段階は成功した。
次は、観測装置の破壊。
実験区画の各所に設置された実験用観測装置へ、電撃を放つ。
火花が散り、電子機器が次々と機能を停止していく。
警報が鳴った。
研究員たちが騒ぎ始める。
「異常発生!観測装置が複数停止しています!」
「原因を確認しろ!」
9999号は、監視カメラの死角へ飛び込んだ。
計画通り。
ここまでは、計画通りだった。
だが、ここから先は一方通行にかかっている。
彼女は、指定した位置で立ち止まった。
空を見上げる。
「……頼みますよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
その瞬間。
目の前で、鈍い破砕音が響いた。
同時に、実験の管制室では監視システムの一部が沈黙する。
実験の記録を送信するヘッドギア。ミサカたち全員に配給されているその装置が、破壊されたのだ。
9999号は息を呑んだ。
会話内容と映像を遮断するための破壊。
事前に打ち合わせた通りだった。
続いて、足元が大きく揺れた。
「っ……!」
地面が砕けた。
舗装が割れ、足場が崩れ落ちる。
9999号の身体が宙に浮いた。
落下する。
彼女は反射的に身体を丸めた。
次の瞬間、暗闇が視界を覆った。
水音。
衝撃。
冷たい飛沫。
彼女は下水路へ落ちていた。
「げほっ……!はっ……!」
咳き込みながら、必死に身体を起こす。
全身が痛い。服は濡れ、息が乱れている。
それでも、手足は動いた。
生きている。
彼女は、まだ生きていた。
上を見上げても、そこに一方通行の姿はない。
彼が何を考えているのか、今も分からない。
ただ、計画は実行された。
彼はヘッドギアを破壊した。
地面を壊し、自分を下水路へ落とした。
それが偶然であるはずはなかった。
「……本当に、最悪な人ですね」
彼女は、濡れた髪をかき上げた。
「助けるなら助けるって、言えばいいのに……」
言ってから、自分で苦笑した。
あの青年が、そんなことを言うはずがない。
彼は、好きにしろと言った。
泣いて土下座したら考えてやるとも言った。
だから、自分は土下座した。
涙はなかった。
覚悟だけがあった。
そして今、自分はここにいる。
9999号は立ち上がり、暗い下水路を歩き始めた。
出口は事前に調べてある。
追跡を受ける可能性も考慮して、逃走経路はいくつも用意していた。
何度も確認した道だ。シュミレーションを重ねた道だ。
間違えるはずがない。
それでも、途中で何度も振り返ってしまった。
追手が来るのではないか。
計画が失敗していたのではないか。
彼が、やはり自分を見捨てたのではないか。
不安は消えなかった。
だが、彼女は歩き続けた。
やがて、下水路の先に光が見えた。
外だ。
9999号は、最後の力を振り絞って出口へ向かった。
そして、地上へ這い上がった。
街の空気を吸い込む。
知らない匂いがした。
施設の消毒液の匂いではない。排気ガスと、湿ったアスファルトと、遠くの飲食店から漂う食べ物の匂い。
彼女は、その場に座り込んだ。
「……逃げ、切った?」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
答える者はいない。
けれど、もう施設の壁は見えなかった。
彼女は、ポケットに手を入れた。
何かが入っている。
取り出すと、小さなキーだった。
「……?」
見覚えはない。
もう一方のポケットには、折り畳まれたレシートが入っていた。
表面には、コーヒーの購入履歴がびっしりと印字されている。
一本や二本ではない。
尋常ではない数だった。
「……どんだけ飲んでんの、この人」
思わず呟いた。
レシートを裏返す。
そこには、走り書きの住所があった。
彼女は周囲を見渡した。
近くに地図はない。端末も、追跡される危険を考えれば使いたくなかった。
それでも、住所の場所は事前に調べた潜伏先の候補の一つに近かった。
偶然だろうか。
いや、まさか。もしそうだとしても、いつの間にポケットに仕込んだというのか。
彼女は、レシートを握りしめた。
「……まさかね」
呟きながらも、足はすでに動き始めていた。
住所の場所は、学園都市の片隅にある廃墟だった。
建物は古く、壁にはひびが入り、窓のほとんどは割れている。周辺には人の気配がほとんどない。
スキルアウトですら、わざわざ近寄ろうとは思わないような場所だった。
彼女は慎重に周囲を確認し、建物の中へ入った。
そして、足を止めた。
「……え?」
そこに、一台のバイクがあった。
黒い車体。
無骨なフレーム。
時代遅れと言われてもおかしくない、古いクルーザー。
けれど、埃ひとつ見当たらない。
車体は丁寧に磨かれ、金属部分には鈍い光が宿っている。タイヤも整備されているようだった。
廃墟には、あまりにも似合わない。
彼女は、手の中のキーを見つめた。
それから、バイクを見た。
もう一度、キーを見た。
「……これ、って」
まさか。
そんなはずはない。
自分がバイクに乗りたいと言ったのは、つい数日前だ。
それを、あの青年が覚えていた?
いや、彼は実験中の会話を聞いていたはずだ。
だが、だからといって、こんなものを用意する理由があるだろうか。
彼女は、バイクに近づいた。
車体に手を触れる。
冷たい金属の感触が、指先に伝わった。
キーを差し込み、回す。
計器類が反応した。
彼女は息を止めた。
ガソリンタンクの上にはマネーカードも置かれていた。しばらく生活するには十分な金額が入っている。
逃走後の潜伏先。
生活資金。
そして、乗りたいと願っていたバイク。
偶然にしては、出来すぎていた。
9999号は、レシートをもう一度見つめた。
表面に印字された、膨大なコーヒーの購入履歴。
裏面に書かれた住所。
そして、手の中のバイクのキー。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ほんっと、素直じゃないな」
誰もいない廃墟で、彼女は笑った。
笑ったはずなのに、胸の奥が熱かった。
泣きそうになった。
けれど、涙は出なかった。
あの時と同じだ。
土下座した時も、涙はなかった。
自分は、泣いて助けを求めたかったわけではない。
ただ、生きたかった。
そして今、彼はそのための道を用意してくれた。
何も言わずに。
見逃すとも、助けるとも言わずに。
彼女はバイクのシートに腰を下ろした。
自分が、これからどこへ向かうのかは分からない。
学園都市のどこかで、追跡を逃れながら生きていくことになるのだろう。
いつまで逃げ続けられるのかも分からない。
調整を受けられない身体が、どれほど保つのかも分からない。
それでも、今は生きている。
聞いていない曲がある。
弾きたい楽器がある。
このバイクで走りたい道がある。
まだまだ、やりたいことがある。
彼女は、ポケットからレシートを取り出した。
住所の下に、何かを書き足そうとした。
けれど、ペンはなかった。
少し考えてから、彼女は小さく呟いた。
「……このミサカのことは、忘れろ」
誰に言うでもなく。
誰かに届くことを願って。
「
その言葉を、ミサカネットワークへ送った。
彼女は接続を切る。
もう、ミサカネットワークの目が彼女に届くことはない
自分はミサカ9999号。
けれど、これからは違う。
実験のために生まれた個体ではなく。
誰かの計画のために生きる存在でもなく。
自分で選び、自分で走り、自分の好きな音楽を聴く。
一人の女の子として生きていくために。
そのために、彼女は逃げたのだ。
彼女はセルスターターを押し込む。
古いエンジンが、低い唸り声を上げる。
廃墟の静寂が震えた。
その音は、彼女がこれまで学習装置で聞いたどんな駆動音よりも、ずっと力強く聞こえた。
「……いい音じゃん」
彼女は笑った。
「これからよろしく、とミサカは挨拶するぜ」
アクセルを回す。
クルーザーバイクが走り出した。
行き先は、まだ決めていない。
未来も、まだ見えない。
けれど、彼女は初めて、自分の意思で道を選んだ。
背後には、もう誰もいない。
前方には、知らない街が広がっている。
そして、遠く離れたどこかで。
一方通行は、いつものようにコーヒーを飲んでいた。
彼が何を考えているのか、誰にも分からない。
ただ、空になったカップを置いた彼は、ほんの一瞬だけ窓の外へ目を向けた。
「……チッ」
それだけ呟き、再び視線を戻した。
彼女の名前を呼ぶこともなければ、逃げ切ったかどうかを尋ねることもない。
約束をしたわけではない。
感謝を求めたわけでもない。
彼はただ、ひとりの妹達が生き延びるための道を残した。
それだけだった。
ミサカ9999号は、もう戻らない。
彼女はこれから、自分の人生を始める。
この一件を境に、彼女はミサカネットワークの中で新たな呼び名を得た。
もはや、実験に参加するミサカ9999号ではない。かといって、ただの脱走個体でもない。
自らの意思で運命を切り開いた彼女に、妹達は敬意を込めてその名を贈った。
───《
というわけで9999号こと独立番号ちゃんの過去編でした。半分くらいは粋で過保護な一方通行くんを書きたかったからです。
今回のタイトルも例の如く『NIRVANA』より『About a Girl』です。
ちなみに解釈の幅も色々ありまして、小説本文は独立番号(a girl)についてですが、歌詞的には独立番号→一方通行への感情って方が正しかったりします。独立番号の感情をどこまで激重にするかは決めておりませんが。
あと日常回の扱いを決めあぐねて降りまして、少しご意見の方頂けると嬉しいです。
日常回はどのタイミングで入れるべき
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日常の章を作るべき
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時系列に沿って入れるべき