ノ ミ 以 下 さ ん 風 妹 作:匿名太郎
「──ケイっ! ケイっ、無事か!? 生きてるか!? 傷はないか、どこも切られてないな!?」
「……っ!? な、なに……っ、いきなり触らないでよ、鬱陶しい!!」
眩い光が収まった瞬間、ナツキ・ケイの視界に飛び込んできたのは、見慣れた日本のコンビニの駐車場ではなかった。
石畳の敷き詰められた街路。飛び交う異国の言語。肌を刺す見知らぬ空気。そして何より──尋常ではない形相で自分の両肩を掴み、狂ったように全身を確認してくる兄・スバルの姿だった。
スバルの手はガタガタと酷く震えており、その瞳は血走り、呼吸は過呼吸を起こしたかのように浅く荒い。
「よかった……よかった……! お前が生きてる、手がある、首が繋がってる……! ああくそっ、夢じゃない、マジで戻ってきた……! 今度は絶対に……絶対にお前を死なせねえ……!!」
「……は? なに言ってるのアンタ。正気?」
ケイは冷ややかな視線を向け、スバルの手を力任せにピシャリと叩き落とした。
整った顔立ちに浮かぶのは、隠しきれない不快感と強い警戒心だ。
(……何なの? 転移の衝撃で頭でもおかしくなったわけ?)
急な環境の変化に対する驚きよりも先に、目の前で半狂乱になっている兄への不気味さが勝っていた。
周りを見渡せば、二足歩行のトカゲや亜人たちが歩く異常な光景。本来ならパニックを起こすのは自分もなはずだ。なのに、兄の取り乱し方は「状況が分からないことによるパニック」ではなく、「何か恐ろしいものを体験した直後」のそれに見えた。
「ケイ、聴け! 俺から離れるな! 一歩もだ! ここがどこだとか、なんでこんな場所に来たとかはどうでもいい! とにかく俺の視界から外れるな、いいな!?」
「……あのさあ」
ケイは冷たく目を細め、静かに、しかし威圧的に言い放った。
「急に大声出して、脈絡のないこと言って人を恐怖に陥れないでくれる? 状況の整理もできていないのに命令口調で言われても不快なだけなんだけど。第一、なんでアンタがそんなにパニックになってるの? こんな状況で混乱してるのは分かるけど、その支離滅裂な言動は私の『思考を巡らせる権利』と『精神的安寧を得る権利』に対する侵害よ。少しは落ち着いて頭使いなさいよ」
マシンガンのように叩きつけられる反論。
普段なら「うぐっ……反抗期キツい……」と凹むはずのスバルだったが、今の彼は違っていた。ケイのあまりに厳しい物言いなど耳に入っていないかのように、ギラギラとした目で周囲の路地裏を警戒している。
「責めるならあとでいくらでも受け止めてやる! だけど今はダメだ! 頼むから俺の言うことを聞いてくれ……ッ!」
スバルの声は切実すぎて、掠れていた。
(……なんなのよ、このバカ兄)
冷や汗が背筋を伝い落ちる。
自分が中学でどれだけ成績優秀で頭が回ろうと、ここはあまりにも異常な世界だ。自分の身体能力は女子中学生の中でも少しマシな程度で、腕相撲ではこのダメ兄貴にすら勝てない。
己の無力さに対する恐怖を隠すために、いつもの強気な長文で鎧をまとっているというのに──スバルの異様な態度が、その鎧を内側から崩してくる。
(部屋に引きこもってた癖に……なんでそんな、死線をくぐろうとしてる奴みたいな顔してるのよ……)
元の世界で、学校でうまくやり、人気者だった自分を見るスバルの目が、時に複雑なコンプレックスを孕んでいたことをケイは知っている。
だが、今のスバルの目に宿っているのは、そんな卑屈な劣等感ではない。ただひたすらに、妹を失う恐怖への執着だけだった。
「……チッ、分かったわよ。別にアンタに従うわけじゃないけど、こんなわけのわからない場所で一人行動するほど愚かじゃないから」
ケイはふんっと顔を背けつつも、スバルのジャージの裾をキュッと小さく掴んだ。
強がりと脆さ。それが、ナツキ・ケイという少女の本質だった。
だが、異世界の洗礼はすぐさま二人に襲いかかった。
人混みを避けて路地裏へ足を踏み入れた途端、暗がりから笑い声を漏らす三人の男たちが姿を現したのだ。
小柄な男、大柄な男、そして痩せ型の男。手に光るナイフと、卑しい視線。
「カモが二匹、それも上等な身なりをしてやがる。おい、そっちの可愛いお嬢ちゃん。身ぐるみ剥がされたくなかったら──」
男の一人がケイの整った美貌に卑しい目を向けた瞬間、ケイの頭の中で何かがプチりと弾けた。
「ねえ」
ケイの声は、凍りつくほど冷たかった。
一歩前へ踏み出し、取り巻きの男たちを鋭い眼光で射殺すように見つめる。
「不躾に人の顔を品定めして、挙句の果てに脅迫? 正気? 私が今、どれだけ混乱して、どれだけ不快な思いをしてるか理解できてないの? 人のプライベートな領域に無許可で踏み込んでおいて『身ぐるみ剥がす』? それは明確な『私の尊厳と所有権に対する侵害』よ?法制度がどうなってようと、私の権利を侵そうとする存在を私が許すと思う?」
「あ、ああん……!? なんだこのガキ、急にベラベラと──」
「喋るなと言ってるの! アンタたちのその汚い声で私の鼓膜を振動させること自体が害悪なのよ。自分の立場の危うさも理解できないでイキがってるゴミ虫が、調子に乗ってんじゃないわよ。私は優しいから、多少の不条理なら見逃してあげる。でも、貴方たちの発言は守るべき一線を越えているんじゃないかしら? ──それは、流石の私でも許さないわよ」
「ケイ、タイム! タイムだから! 相手完全にブチ切れてるから!!」
スバルが慌ててケイの前に飛び出し、妹を庇うように両腕を広げた。
男たちはケイの異常な剣幕と怒涛の挑発に一瞬圧倒されていたが、すぐに顔を真っ赤にしてナイフを抜いた。
「このアマ……ナメやがって! ぶち殺してやる!!」
「ひぃやっ!? ケイ、走るぞ!!」
「言われなくても走るわよ! アンタが余計な隙見せるからでしょ!!」
突発的な危機に対し、ケイの脳は回転していた。
恐怖で足が震えそうになるのを気合でねじ伏せ、周囲の地形、男たちの足取り、逃走経路を割り出す。
「右の路地へ折れて! あっちの方が足場が悪いから大柄な奴のスピードが落ちる!」
「おうっ!その賢さをさっき活かしてほしかった!」
路地裏を駆け抜け、間一髪で追手を振り切った二人。息を荒らして壁に背をもたれかけるケイの肩は、小さく震えていた。
(危なかった……。死ぬかと思った……。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの……!?)
「ケイ、大丈夫か? 怪我はないか!?」
「ハァ……ハァ……触らないでって言ってるでしょ……! アンタの無計画な行動のせいで、私の生存する権利が危機に瀕したのよ……!」
兄を責め立てながらも、ケイの瞳には恐怖の涙がうっすらと浮かんでいた。
そんな二人の前に、ふわりと一筋の銀髪が揺れた。
「──ちょっと、そこのふたり。大丈夫?」
路地裏の出口に立っていたのは、透き通るような美しい銀髪と、紫紺の瞳を持つハーフエルフの少女──エミリアだった。その肩には、小さな灰色の猫の精霊・パックが乗っている。
「あっ……!」
スバルの顔色が劇的に変わった。歓喜と、安心と、そして何より──激しい罪悪感と切なさが混ざり合った、酷く複雑な表情。
「サテ……じゃなくて、エミリア……!」
「え? なんで私の名前を……? ううん、それよりふたりとも、怪我はないかしら?」
怪しむエミリアに対し、スバルは必死で取り繕う。
しかし、その一連のやり取りを横で見つめていたケイの脳は、一つの違和感を感じていた。
(……おかしいわ。)
ケイは冷たい眼光で、兄の横顔を睨みつけた。
(なんでアナタは、初めて会ったはずのあの人の名前を知ってるの? なんであの人が『来る』ことを知っていたみたいに……あの瞬間、あんな顔をしたの?)
スバルが隠している秘密。
異世界という理不尽な舞台で、ナツキ・ケイの疑念と恐怖は、静かに、そして確実に深まっていくのだった。