「天空都市は住民のから徴収した魔力で成り立つと言ったな。アレは嘘だ!それで賄えるのは運用魔力の三割!残り七割は、とある存在によって賄われているのだよ!!」 作:タワマン太郎
それは、世界の理。
それは、世界の憤怒。
それは、世界の嘆きであり、涙であり、そして――世界そのものの意思である。
世界が自らを維持するために産み落とした、唯一無二の存在。世界に仇なす一切の万象を断罪し、世界の存続を永久に保証する、絶対不可侵の守護機構。
そこに慈悲はない。
そこに憎悪はない。
ましてや、喜怒哀楽などという不確かな生命の感情が介在する余地など、はじめから用意されてはいないのだ。
ただ、切り捨てる。
ただ、排除する。
ただ、世界という巨大なシステムにとっての『異物』を、最初から何もなかったかのように消し去る。
それは、東の空から太陽が昇ることと同義。
それは、地上を這う生物が息を吸い、吐き出すことと同義。
それは、世界が世界であり続けるための、あまりにも当然で、あまりにも絶対的な摂理。
故に、疑うことはない。
故に、迷うこともない。
故に、心など必要ない。
――そう。それはいかなる情熱も宿さない、完璧な『空っぽ』であるはずだった。
世界のためだけに存在し、世界のためだけに機能する。自らの意思すら持たず、ただあらかじめ定められた理を執行するだけの、空虚なる星の代行者。
何も感じず。
何も望まず。
何も求めず。
永劫の刻をただ静かに紡ぎ、世界を護り続ける。
……そのはずだったのだ。
そう。
『それ』の内側に、あってはならない何かが紛れ込む、運命のその瞬間までは。
◇◇◇◇◇
「人間こそが世界の支配者? 笑わせるなよ、劣等種ッ! 我らも貴様らも神々とやらも、すべては世界の気まぐれで命を繋がされているに過ぎん! ……ゆえに、もしも明日、我ら魔族がことごとく死に絶えようとも――私は、笑わん」
魔王軍序列第八位、≪黒雷≫のユファスティアは、血に濡れた薄い唇を吊り上げながら、冷ややかにそう言い放った。
彼女の眼前に横たわる初老の男は、もはや言葉を返すことすらできない。
白亜の大聖堂。ニア教の聖都アウレリアにおいて、最も神聖と称えられる中央祭壇。
かつて無数の信徒が祈りを捧げ、荘厳な讃美歌が響き渡っていたその場所は今や、見る影もなく荒れ果てていた。
木々に彫刻が施された天井は砕け、色鮮やかなステンドグラスは粉々に飛び散って床を埋め尽くしている。黒く焦げ付いた祭壇からは立ち上る煤煙が充満し、逃げ惑う信徒や重傷を負った聖騎士たちの悲鳴と怒号が、打ち破られた大門から絶え間なく流れ込んでいた。
かつて数万人の祈りを受け止めてきた神聖なる大聖堂は、ユファスティアの放つ凶悪な黒雷の魔術によって、あまりにも無惨に蹂躙されていた。
その破壊の中心に、教会の十二枢機卿が一角、オリス・フィーロアは血溜まりの中で倒れていた。
「……ユ、ファス……ティア……」
「なんだ、まだ息があったのか。軟弱な人間にしては、なかなか減らず口の叩けるしぶとさだな」
ユファスティアは手に纏わせた黒紫色の雷光を、不機嫌そうにパチパチと散らした。
だが、彼女自身の全身にも決して軽くはない傷が深く刻まれている。
威厳ある純白の軍装はあちこちがズタズタに裂け、左肩の深い傷口からは絶え間なく濃い血が溢れていた。額から頬にかけて走る裂傷は痛々しく、呼吸を繰り返すたびに折れた肋骨が胸の奥を激しく痛む。
彼女とて、無傷でこの場を制圧したわけではないのだ。
むしろ、オリスという一介の人間司祭にここまで苦戦させられ、追い詰められたこと自体、魔王軍の幹部としては屈辱的な失態であった。人間という種の持つ、土壇場での異常な執念と底力。それを読み誤っていたことは認めざるを得ない。
だが、それももう終わりだ。
聖都アウレリアを守護していた古代の結界術式は完全に破壊された。
教会騎士団の主力は、事前に仕掛けておいた魔王軍の別働隊によって都市外縁部へ足止めされており、十二人の枢機卿のうち、この最深部に駆けつけられる力を持つ者は誰一人として残っていない。
そして、最後まで凄まじい精神力で彼女の前に立ちはだかった男も、もう二度と立ち上がることはできない。
「まったく。最後まで己の立場というものを理解できなかったようだな、枢機卿殿」
ユファスティアは、自身の血と汗で汚れた足元を見下ろした。
「お前たちは、己が築き上げた文明や秩序こそが世界の中心だと信じて疑わない。魔族を討ち、異端を裁き、神の名の下に世界を整えれば、すべてが望み通りの安寧に包まれると本気で思っている」
吐き捨てるような嘲笑が、静まり返った祭壇の残骸に虚しく響く。
「だがな、オリス・フィーロア。貴様らがどれほど必死に祈りを捧げようと、どれほど知恵を絞って文明を飾ろうと、世界がその営みに応える義理など最初から存在しないのだ」
「……っ」
「太陽が昇るのも、恵みの雨が降るのも、大気に魔力が巡るのも、我らが今日まで生き延びてきたことも。すべては世界がただ気まぐれにそうしているからに過ぎん。貴様らが奉る神々とやらでさえ、その絶対的な摂理からは逃れられぬのだ」
彼女はわずかに切れ長な目を細めた。
「だからこそ、私は笑わんと言ったのだ。たとえ世界が明日、我ら魔族をあっけなく見捨てて滅ぼそうともな」
それは先ほど口にした言葉の繰り返しだった。
しかし、今度の声音には先ほどまでの勝ち誇った嘲りが削ぎ落とされていた。
ただ冷たく、淡々と、世界の不条理を事実として突きつける声。
だからこそ、そこにはいかなる交渉の余地も、救いもなかった。
「……そう、か」
オリスの擦り切れた唇が、微かに動いた。
彼の視線は、もはやユファスティアに向けられてはいなかった。彼の霞む瞳は、崩れた祭壇の影でガタガタと震えながら膝をついている、ひとりの少年を捉えていた。
美しい銀糸の刺繍が施された、純白の法衣。胸元で鈍く輝くニア教の聖印。
まだ幼さの残る面立ちと、溢れ出る涙によって濡れた大きな青い瞳。
クルル・アシュター。
ニア教が『聖者』と称え、聖都の人々が未来の希望と仰ぐ少年。
そしてオリスが実の息子のように愛し、厳しくも温かく慈しみ育ててきた子供だった。
「クル、ル……」
「……お父、さま……?」
クルルの声は掠れ、悲痛に震えていた。
彼は目の前で繰り広げられた残酷な現実を、未だ脳内で処理しきれずにいた。
つい先ほどまで、オリスは確かに自分の前に立っていたのだ。
いつも変わらない、穏やかで安心感を与える声で。
自分を背しろに庇い、「大丈夫だ、恐れることはない」と優しく微笑みかけてくれていた。
それなのに。
どうして。
どうして今、お父さまはあんな痛々しい姿で倒れているのだろう。
どうして、あれほど白く綺麗だった法衣が、赤黒い血で濡れているのだろう。
どうして。
どうして呼んでいるのに、自分を抱きしめてくれないのだろう。
「……クルル」
オリスは途切れそうな最後の力を振り絞り、倒れ伏したまま少年へと顔を向けた。
その瞳には、迫り来る死への恐怖も、己を刺した魔族への怒りや憎しみもなかった。
ただ、幼い我が子の将来を案じる、あまりにも深い慈愛の色だけがあった。
「どうか……」
血に染まった手が、力なく床を這う。
「……世界を、憎まないで……くれ」
「お父さま……?」
「お前は……どうか……笑顔で……」
カタリ、と。
言葉が途切れ、オリスの指先から力が失われた。
その瞳からすうっと光が消え去り、胸の不規則な上下がピタリと止まる。
彼という存在の命の灯火が、完全に潰えた瞬間だった。
「…………あ」
クルルは呆然と口を開けた。
「……あ、ああ……?」
目の前に横たわっているのは、誰よりも見慣れた、大好きな人だった。
朝食の席で、苦手な野菜を残した自分を優しく叱ってくれた人。
夜更かしをして難しい本を読んでいると、溜息をつきながらそっと毛布を掛けてくれた人。
聖都の外には危険が多いからと、いつだって自分と歩幅を合わせて手を引いてくれた人。
自分が『聖者』と呼ばれることに戸惑い、押し潰されそうになっていたとき、「そんな肩書きよりも、まずはクルル自身を大切にしなさい」と温かい手で頭を撫でてくれた人。
その人が。
もう二度と、目を覚まさない。
「……いや」
クルルの喉が引きつるように震えた。
「いやだ……っ!」
小さな両手が、血に染まった冷たい床を必死に掻く。
「お父さま……!? ねぇ……お父さまってば……!」
返事はない。
「嘘でしょ……お父さま……お願いだから目を開けてよ……!」
何を叫んでも、温かな声が返ってくることはなかった。
「……いやだ。いやだ、いやだ……こんなの、いやだあぁぁぁッ!!」
ぽたり、ぽたりと、涙が血溜まりに落ちて波紋を作る。
それは神に選ばれし聖者の祈りなどではなかった。世界の希望と呼ばれた少年が、与えられた使命も信仰もすべてを投げ打ち、ただ奪われた親を求めて泣き叫ぶ、一人の子供の悲痛な慟哭だった。
「お父さまぁぁぁぁぁッ!!」
大聖堂の空洞となった天井へ、絶望の叫びが虚しく反響していく。
ユファスティアは、冷めた眼差しでその光景をしばらく眺めていた。
やがて、心底興が削がれたように短く息を吐き出す。
「……くだらん」
冷酷な一言が、大聖堂の凍りついた空気をさらに冷やした。
「人間というのは、どうしてこうも脆く、愚かなのだろうな。たかが種族の一個体が死んだ程度で、まるでこの世の終わりを迎えたかのような顔をする」
「……っ!」
クルルが勢いよく顔を上げた。
涙と煤でぐしゃぐしゃになった顔に、生まれて初めての明確な『憎悪』が燃え上がっていた。
「あなた……あなたが、お父さまを……!」
「ああ。私が殺した」
ユファスティアは微塵の動揺も見せず、淡々と応じた。
「恨むならいくらでも恨むがいい。呪うなら死ぬまで呪うがいい。……だが、それで何が変わる?」
彼女は重い脚を踏み出し、ゆっくりと片手を持ち上げた。
その指先に、再び凶悪な黒紫色の雷光が集束していく。
「安心しろ。お前もすぐに、あの男と同じ場所へ送ってやる」
「……!」
「聖者だか神の申し子だか知らんが、死んでしまえばただの物言わぬ肉塊だ。お前たちの奉る神とやらが、あの世で特別扱いしてくれる保証など、この世界のどこにもない」
雷光が暴圧的な音を立てて膨れ上がる。
クルルは威圧感に縛られ、ピクリとも動くことができなかった。
逃げなければ殺される。
頭では痛いほど理解していた。けれど、膝が震えて力が入らない。
倒れたオリスの遺体から目を離すことができない。手を伸ばしても、もうあの温もりには届かない。
あまりにも突然すぎた。
ほんの少し前まで、自分はこの世界の正しさを疑ったことなど一度もなかったのに。
神は人間を愛し、正しい者は報われ、悪しき者には必ず裁きが下る。
教会でそう教えられてきた。それが世界の絶対的なルールなのだと信じて疑わなかった。
なのに。
「――死ね」
ユファスティアの残忍な宣告とともに、収束された黒雷が解き放たれた。
空間を削り取りながら殺到する極大の破壊。
その死の直撃を覚悟した、まさにその瞬間だった。
天井の崩落した大聖堂の真上から、一筋の美しい白銀の光が差し込んだ。
音はなかった。
衝撃の風もなかった。
ただ、そこに存在していたはずの死の影が、いつの間にか清冽な光によって置き換えられていた。
黒雷が、消滅した。
正確には、打ち消されたのか、それとも次元の彼方へ吹き飛ばされたのかすら分からない。
クルルの目には、何が起きたのか全く理解できなかった。
ただ、目と鼻の先にいたユファスティアが、信じられないものを見たように驚愕で目を見開いている。
彼女の視線の先。
砕け散った白亜の祭壇の中央に、ひとりの少女が静かに舞い降りていた。
風もないのにふわりと棚引く、美しい淡銀の髪。
透き通るように白く儚い肌。
華奢な身体を包み込む、世界のどこにも存在しないデザインの白い衣。
そして――彼女の背中から幾重にも広がる、十二枚の圧倒的な銀翼。
それらはまるで月光そのものを精錬して作り上げたかのように静かで、神秘的で、見とれるほどに美しかった。
少女の爪先が、血に濡れた床へ静かに触れる。
たったそれだけの動作で、周囲に散らばっていた巨大な瓦礫やステンドグラスの破片が音もなく宙へ浮かび上がり、細かな光の粒子となって消滅した。
少女はゆっくりと顔を上げた。
どこか眠たげで、透き通った瞳がクルルをまっすぐに見つめる。
「……クルル?」
「……え?」
聞き覚えのある声だった。
つい最近、聖都の片隅にある小さな街並みで、何度も耳にした声。
甘い菓子を食べたいと無邪気にねだり、見たこともない道具を見つけるたびに目を輝かせていた少女。時折、世間離れしたズレた言動で自分を困惑させ、無邪気に笑っていたあの声。
「……ラル、ム……?」
クルルが呆然と呟いた、その時。
「貴様ぁぁぁッ……!」
ユファスティアの絶叫が、憎悪と底知れぬ戦慄に激しく震えた。
その表情から、大魔族としての余裕と誇りが完全に消え去っている。
彼女は目前の少女を狂おしく睨みつけ、唇を噛みちぎらんばかりに噛み締めた。
「よりにもよって……ここで来るか、星の防人ッ!」
叫びと同時に、ユファスティアは限界まで魔力を跳ね上げ、後方へと跳躍した。
「全員、迎撃姿勢! 黒雷陣を最大展開しろッ! あの女を絶対に地上へ立たせるなッ!!」
大聖堂内に散開していた魔王軍の精鋭たちが、一斉に動いた。
禍々しい闇属性の魔力が床を這い、凶暴な雷属性の魔術が天井を走る。複合魔術の巨大な術式が、幾重にも重なり合って空中に展開されていった。
炎が渦を巻いて唸り、氷が極太の槍となり、圧縮された風が鋭利な刃を生み出す。
さらに、光属性による広域拘束術式と、闇属性による精神阻害の波動が極限まで重ね掛けされた。
魔族たちは誰一人として油断していなかった。
いや、むしろ彼らの顔には、死に直面した者に特有の明らかな『恐怖』が張り付いていた。
それでも彼らは全魔力を振り絞り、術式を完成させる。ここで戦う以外の選択肢など、彼らの本能が許していなかったのだ。
「放てぇぇぇぇッ!!」
ユファスティアの悲鳴に近い号令が、大聖堂を劇的に震わせた。
幾百の魔術、あらゆる属性の破壊が、一斉にラルムという一点へと殺到する。
爆炎が全視界を赤く染め上げ、黒雷が空間そのものを焼き焦がし、絶対零度の氷槍が少女の四肢を貫かんと迫る。
その破壊の渦の中心に、ラルム・エトワールはただ直立していた。
避ける場所などない。
全方位から、殺意の塊となった魔力が押し寄せる。
だが。
少女は、ぱちぱちと不器用に瞬きをした。
「……え?」
それから、不思議そうに首を傾げる。
「なに、これ……?」
彼女自身にしてみれば、本当にただそれだけの疑問だった。
どうして見知らぬ人たちが、あんなに凄まじい顔で怒っているのだろう。
どうして、クルルはあんなに悲しそうに泣いているのだろう。
どうして、きれいだった建物がこんなに壊れてしまっているのだろう。
彼女の頭の中は、分からないことだらけだった。
けれど、目の前に飛んできた黒い雷の束だけは、なんとなく鼻につき、鬱陶しかった。
ラルムは小さく、可愛らしく息を吐いた。
「……もう。うるさいなぁ」
そして、煩わしそうに片手を軽く一振した。
ただ、それだけ。
魔術を構築したわけではない。
詠唱も、複雑な術式の展開も、属性の選択もない。
そもそもラルムという存在は、人が『魔術』と呼ぶ概念の使い方を知らない。
彼女が行ったのは、ただ自身の内側に際限なく満ちている膨大なエネルギーを、外側へと軽く押し出しただけだった。
人間にとっては呼吸と同義の、あまりにも自然で無意識な動作。
――ズンッ。
世界そのものが、一瞬沈んだ。
音よりも先に、圧倒的な質量の『圧力』が空間を叩いた。
大聖堂を満たしていた魔族たちの魔力が、たった一瞬で跡形もなく押し潰される。
炎も、水も、氷も、土も、風も。
黒雷の嵐も、光の拘束術式も、闇の感覚阻害も。
ラルムの放った『波動』に触れた瞬間、あらゆる現象が弾け飛んだ。
魔術が相殺されたのではない。
魔術という現象を成立させるために必要な大気中の魔力そのものが、次元の異なる超高密度の魔力によって強制的に押し流され、存在の形を保てなくなったのだ。
「な――」
ユファスティアの驚愕の声が途切れる。
次の瞬間、彼女の身体は不可視の衝撃によって激しく宙を舞った。
「が、はぁッ!?」
凄まじい衝撃が全身の骨を砕く勢いで貫く。
展開していた幾重もの防御術式が一瞬で粉砕され、肺に含まれていた空気が残らず吐き出された。
彼女だけではない。
周囲にいた魔王軍の精鋭たちが、一丸となって吹き飛ばされていた。
強固な石壁に叩きつけられ動かなくなる者。
天井を突き破って遙か上空へと弾き飛ばされる者。
床を何度も跳ねながら瓦礫の山へと消えていく者。
その誰一人として、自分が何によって攻撃されたのか理解できていなかった。
ただ、抗いようのない絶対的な力に押し流された。ただ、それだけの事実。
ラルムは、振り払った自分の小さな手を見つめた。
「……あれ?」
それから、困ったように周囲を見回す。
さっきまで威勢よく叫んでいた黒い服の人たちが、ほとんど姿を消していた。
大聖堂の床には巨大な亀裂が走り、壁は大きく崩れ落ち、天井からは白い粉塵が雪のように降り注いでいる。
「……あー」
ラルムは少しだけ気まずそうに、白い頬を掻いた。
「また、やっちゃった……?」
もっとも、彼女にとっては本当に「軽く手を振った」だけなのだ。
人間が朝起きて背伸びをする。
猫が機嫌よく尻尾を振る。
鳥が空へ向かって翼を広げる。
それらと何ひとつ変わらない、生命としての自然な動作。
ただ――ラルム・エトワールという規格外の存在にとっての何気ない動作は、この世界に生きるあらゆる生物にとって、天災に等しい致命的な暴力になり得る。
ただ、それだけの違いだった。
「……まあ、いっか」
彼女は考えるのをあっさりと諦めた。
それよりも、今の彼女にとって大切なのは――
「クルル」
ラルムは、傷つき倒れていた少年の前に優しくしゃがみ込んだ。
クルルは金縛りに遭ったように動けなかった。
目の前で起きた超常の光景を、脳が拒絶していた。
自分たちを絶望の淵に突き落とした恐ろしい魔族たちが、一瞬で一掃された。
聖都が誇る最精鋭の守護騎士たちすら束になって敵わなかった大魔族が、まるで不快な虫を払うかのように。
そして、それを一瞬で成し遂げた少女は、今、何事もなかったかのような呑気な表情で自分を見つめている。
美しい淡銀の髪。
透き通るような肌。
背中に広がる十二枚の銀翼。
そして、聞き慣れた、どこか抜けたあたたかい表情。
「……ラルム」
「うん」
ラルムは嬉しそうに頷いた。
それから、そっと自分から手を差し伸べる。
小さく、華奢で、柔らかそうで、どこからどう見ても特別な力など宿っていないように見える手。
けれど、その手を見つめた瞬間、クルルの押し潰されそうだった胸の奥で、小さく確かな温もりが灯った。
「一緒に行こう」
少女は、当たり前のようにそう言った。
「……え?」
「ここ、もう危ないみたいだし。クルルも、こんな悲しい場所にいたくないでしょ?」
ラルムは少しだけ困ったように、けれど優しく笑った。
「わたしもね、まだ自分のこととか、この世界のこととか、よく分かってないことがいっぱいあるんだ。でもね、クルルと一緒なら……なんとかなるかなって」
その言葉に、クルルは息を呑んだ。
どうして。
どうして、この子は。
こんな絶望的な状況で、自分のことをこんなにもまっすぐに信じてくれるのだろう。
出会ってから、まだ二週間ほどしか経っていないのだ。
世間のルールすら知らないラルムに、自分のような未熟な聖者が教えてあげられることなど、ほんのわずかしかない。
それなのに。
彼女は何の見返りも求めず、何の条件も付けず、当たり前のように手を差し伸べてくれる。
まるで、自分が隣にいることを最初から疑っていないかのように。
「……っ」
クルルはぎゅっと唇を噛み締めた。
そして、胸の奥底から込み上げてくる感情とともに、問いかけた。
「……どうして」
溢れ出る涙で声が途切れる。
「どうして、みんな……こんな酷いことをするの……?」
ラルムはすぐには答えなかった。
ただ、少年の言葉を静かに受け止めるように聴いていた。
「お父さまは……誰よりも優しい人だったんだ。ぼくが間違ったことをしたら真剣に叱ってくれて、悲しいときはずっと寄り添ってくれて……ぼくが『聖者』だから大切にしてくれたんじゃない。ただの……クルルというぼく自身のことを、大切にしてくれたんだ」
言葉を吐き出すたびに、焼けるように胸が痛んだ。
「なのに、どうして……? どうしてあんなに良い人が、殺されなきゃいけなかったの……!?」
クルルの視線が、物言わぬ肉塊となったオリスへと注がれる。
答えなど返ってくるはずもない。死者は何も語らないのだから。
「ぼくは……聖者なんだって、ずっと周りから言われて育ってきた。ニア教を象徴する存在で、みんなの希望で、神さまに選ばれた特別な子供なんだって……」
自分でも何を言いたいのか分からなくなっていた。
けれど、言葉を止めてしまえば、恐怖と悲しみで二度と立ち上がれなくなる気がしたのだ。
「でも、ぼくは何もできなかった……! お父さまを守ることもできなかった! ここにいる人たちも、誰一人助けられなかった……!」
遠くから、街の人々の絶望的な悲鳴が風に乗って聞こえてくる。
聖都はまだ燃えているのだ。大聖堂だけではない。街の至る所で魔族が暴れ、罪もない人々が逃げ惑い、命を落としている。
毎朝、窓の外から笑顔で手を振ってくれた子供たち。
街角で焼き立てのパンを分けてくれた優しい老夫婦。
名前も知らないけれど、確かにこの聖都で一緒に生きていた温かな人々。
彼らを見捨てて、自分だけが逃げ出していいのだろうか。
「……ぼくは、みんなを見捨てたくないよ……」
その言葉だけは、嘘偽りのない本心だった。
「怖いよ。すごく怖い……。お父さまがいなくなって、これから何を信じて生きていけばいいのかも分からない。ぼくたちを守るはずだった人たちが、どうしてお父さまを助けてくれなかったのかも……何も分からないんだ」
クルルは震える両手で、法衣の胸元を固く握りしめた。
オリスが惨殺された理由。
聖都アウレリアが誇る絶対の守護結界が、なぜこれほど容易く突破されたのか。
なぜ魔族の精鋭たちが、寸分の狂いもなく教会の防衛網の隙を突くことができたのか。
そして――どうして一部の聖騎士たちは、救援要請が出ているにもかかわらず、最初からこの大聖堂に近づこうとしなかったのか。
疑問はいくらでも溢れてくる。
そして、そのすべての疑問が、ひとつの恐ろしい推論へと収束していた。
「……もしかしたら」
クルルは震える声で言葉を紡いだ。
「人間の中にも……お父さまを死に追いやった人たちが、いるのかもしれない」
口に出した瞬間、全身の血が引き破られるような冷たさに襲われた。
自分がこれまで信じてきた美しい世界。
守られてきたぬくもりある箱庭。
正しいことをしていれば、神様が見守ってくれる。困っている人がいれば手を差し伸べるべきだ。誰も傷つけてはいけない。
そんな当たり前の倫理を、疑ったことすらなかった。
けれど、目の前で父を殺したのは魔族だ。
そして、その魔族の手引きをしたのは、もしかすると自らが信じていた人間側だったのかもしれない。
正義を掲げる聖職者の中に、醜い悪意がある。
信仰を説く人々の胸の中に、裏切りと野心が渦巻いている。
人々を守るべき組織が、保身のために誰かを容易く犠牲にする。
それを認めてしまえば、これまで生きてきた自分の世界は、二度と元の形には戻らない。
「……分からないよ」
クルルは泣きながら、自嘲するように笑った。
「何が正しくて、何が間違っているのか。誰を信じればよくて、誰を疑えばいいのか。どうすればみんなを救えるのか……ぼくには、何も分からないんだ……!」
それでも。
足元が崩れ去るような絶望の中でも、たったひとつだけ。
「……でも、ぼくは知りたい」
クルルは強く顔を上げた。
涙に濡れた瞳で、まっすぐにラルムを見つめ返す。
「この世界の本当の姿を、もっと知りたい。聖都の外にはどんな世界が広がっているのか。人間以外の人たちは、どんな想いで生きているのか。魔族はどうして人間を憎むのか。神さまは本当に、ぼくたちの祈りを聞いているのか……」
彼は深く、震える息を吸い込んだ。
「お父さまが信じようとした世界が、本当はどんな場所だったのか……ぼく自身のこの目で、確かめたいんだ」
教会の箱庭で大切に守られてきた少年は今、初めて自分の足で、果てしない世界へと歩み出そうとしていた。
それは聖者としての義務でもなければ、教義に従うためでもない。誰かに命じられたからでもない。
ただ――大切なものを奪われた理由すら知らぬまま、生きていくことだけは絶対にしたくなかったからだ。
「……ラルム」
「うん?」
「ぼくと、一緒に来てくれる……?」
ラルムは一瞬だけきょとんとした。
それから、何を今更と言いたげに、当たり前の動作で大きく頷いた。
「うん。いいよ!」
「……ありがとう」
クルルは差し伸べられた少女の手を見つめた。
小さな手。けれど、痛いほどに温かい手。
その手を取れば、もう二度とこれまでの平穏な暮らしには戻れない。
聖者として慈しまれ、不自由なく守られていた日々。オリスの側で笑っていた穏やかな時間。何も知らずに済んでいた幸せな箱庭。
そのすべてが、二度と届かない過去になる。
それでも。
クルルは自分の手を伸ばした。
そして、ラルムの小さな手を、しっかりと握りしめた。
「……一緒に、行くよ」
「うんっ!」
ラルムの花が咲くような笑顔を見て、クルルはまた泣きそうになった。
けれど今度は、悲しみだけの涙ではなかった。
胸の奥に残る欠落感は、一生消えないだろう。オリスが生き返ることもない。聖都の人々を全員救える保証もない。
それでも――自分にはまだ、やれることが残されている。
世界を知ること。
人を知ること。
そして、自分が何を信じ、何を守って生きていくのかを見つけること。
それが、父から命を託された自分が踏み出すべき、唯一の一歩だった。
「……じゃあ、いこっか!」
ラルムが軽やかに立ち上がる。
背中に展開された十二枚の銀翼が、静かに、大きく羽ばたいた。
翼から零れ落ちる粒子は、大聖堂を焼き尽くす炎の光とも、魔族の不吉な雷光とも違っていた。
どこまでも静かで、柔らかで。
まるで、長い夜の終わりに差し込む、最初の朝明(あさあけ)の光のようだった。
「……え、えっと。ラルム?」
「ん?」
「どこへ行くの……?」
「……んー」
ラルムは人差し指を顎に当て、しばらく真剣に考え込んだ。
「……とりあえず、ここじゃないところ?」
「……え?」
「だってここ、煙くさいし、危ないし。あと……わたし、ちょっとお腹すいちゃった」
「…………」
クルルは目を丸くした。
こんな絶望的な状況で。
育ての親を奪われ、聖都が火の海と化し、目の前で凄まじい戦闘が繰り広げられた直後だというのに。
この少女は、本気で真顔のまま「お腹が空いた」と言ったのだ。
あまりにも不条理で。
あまりにも場違いで。
けれど、いつも通りの彼女のペースに、クルルは思わず「ふふっ」と小さく笑ってしまった。
頬を伝う涙は、温かかった。
ほんの少しだけ、固まっていた心が解けた気がした。
「……そうだね」
クルルはラルムの手をしっかりと握り直した。
「ぼくも……お腹、空いちゃったかもしれない」
「ほんと!? じゃあ、美味しいもの探しに行こう!」
ラルムの顔がぱっと華やぐ。
その無垢な明るさに導かれるように、クルルはもう一度だけ微笑んだ。
そして――銀の翼が大きく打たれた。
轟音はなかった。
周囲を薙ぎ払う暴風も、不快な衝撃波も、破壊の魔力奔流もない。
ラルムは、腕の中に抱えたクルルの華奢な身体を傷つけないよう、信じられないほど繊細に己の力を制御していた。
彼女の腕に抱えられる形で、クルルの身体がふわりと宙へ浮かび上がる。
崩壊した大聖堂の天井を抜け、二人の身体は真っ直ぐに青空へと昇っていった。
眼下には、未だ黒煙を上げて燃える聖都アウレリア。
逃げ惑う小さな人々。崩れ落ちる象徴の塔。
そして――その先にどこまでも、どこまでも広がっている、見たこともない広大な世界。
クルルは一度だけ振り返った。
そこには、自分のすべてだった大切な場所があった。確かに、あったのだ。
けれど、少年はゆっくりと目を閉じた。
「……さようなら、お父さま」
流れる風が、その小さな声を遠くへとさらっていく。
空からの返事はなかった。
それでもクルルは、前を向いてもう一度だけ呟いた。
「……行ってきます」
銀色の翼が空を鮮やかに切り裂く。
二人の小さな影は、眩しい白い雲の彼方へと消えていった。
◇◇◇◇◇
白亜の大聖堂の巨大な瓦礫の山の下で、ユファスティアはゆっくりと意識を取り戻した。
「……っ、が……はっ……!?」
喉の奥から込み上げる濃い血を吐き出し、彼女は激痛に耐えながら震える腕で身体を起こそうとした。
だが――身体が満足に動かない。
左腕の骨は複雑に折れ曲がり、肋骨は砕け、肺に刺さっていた。全身を覆っていた頑強な魔力障壁は跡形もなく破砕され、体内の魔力の脈流も惨めなほど乱れていた。
たった一度。
あの少女が、鬱陶しそうに手を振っただけで。
「……なん、だ……いまのは……っ」
声が恐怖に震えていた。
魔王軍序列第八位。
数百年という途方もない刻を生き、数多の惨烈な戦場を渡り歩き、幾つもの人間の国家を灰燼に帰してきた大魔族。
≪黒雷≫のユファスティア。
その名を聞いただけで、周辺諸国の武将や熟練の魔導士たちが恐怖に慄くほどの存在。
彼女自身、己の極めた魔術と絶対的な力に、揺るぎないプライドを持っていた。
人間相手など論外。同胞である魔族の中に限定しても、正面から彼女を破れる者など片手で数えるほどしか存在しない。
それなのに。
あの少女は。
自分が持つ最悪にして最大の魔術を、何ひとつ躊躇することなく叩きつけた。
八つの属性を極めた術者たちの複合術式。空間すら歪める黒雷の嵐。
そのすべてを、ただの「一振り」で吹き飛ばしたのだ。
防御術式で防いだのではない。
超人的な速度で回避したのではない。
術式構造を解明し、対抗術式で相殺したわけでもない。
ただ――圧倒的な質量で押し潰した。
まるで、自分の足元に止まっていた小さな羽虫を、手払いで散らすかのように。
「……冗談……だろう……?」
ユファスティアは、自分の煤けた手を見つめた。
指先が、ガタガタと酷く震えている。止めようとしても、どうしても止まらない。
恐怖。
そんな原始的な感情を、己がまだ持ち合わせていたことに、彼女自身が何より衝撃を受けていた。
幾度となく死線を潜り抜けてきた。
伝説と称えられた人間の勇者を屠ったこともある。
古の時代から生きる巨大な竜種と死闘を演じたこともある。
魔王軍の上位幹部同士による、苛烈を極めた権力闘争を生き延びてきた。
どんな強敵を相手にしても、「自分が根本から劣っている」などと思ったことは一度としてなかった。
どれほど巨大な力を持っていようと、強者には必ず攻略の隙がある。強大な魔術には必ず相応の代償と隙が存在する。どれほど卓越した存在であろうと、この世界の理から完全に逸脱することなど不可能なのだから。
そう信じて、生きてきた。
だが。
あの少女には、何があった?
術式の展開などなかった。
詠唱もなかった。
属性の選択すら存在しなかった。
ただ――『そこ』に魔力があった。
それも、自分たちが理解している「大気中の魔力」という概念そのものを、根本から覆してしまうほどの超高密度のエネルギーが。
――星の防人。
魔王城の奥深くに眠る、禁忌の古文書にのみ記された曖昧な呼び名。
世界の均衡が致命的に損なわれた時、あるいは世界そのものが崩壊の危機に直面した時にのみ、突如として姿を現すとされる絶対の守護機構。
神々が世界を創り、生命が地上で繁栄を始めるよりも遥か古の時代から、途切れ途切れの断片的な記録だけが残されている謎の存在。
それは神ではない。
天使でもない。
魔族でも、人間でもない。
世界を守るためだけに産み落とされた、世界の「外側」にすら足を踏み入れている異物。
魔王はかつて、幹部集会において静かに語っていた。
「もしも戦場で、十二枚の銀の翼を持つ少女に遭遇することがあれば――いかなる理由があろうと、決して敵対してはならない」と。
「もしもその少女が目の前に舞い降りたなら、己の持つ力や誇りを示そうなどと考えるな」と。
「そして、もしも彼女の視線が貴様を捉えたなら――ただ、神に祈れ」と。
「……陛下……」
ユファスティアの渇いた喉から、擦れた声が漏れ出た。
「……私は……」
言葉が、続かない。
彼女は激痛に耐えながら、ゆっくりと上空へ顔を上げた。
崩れ落ちた大聖堂の天井の向こう。
そこには雲ひとつない青空が、どこまでもどこまでも果てしなく広がっている。
そこに、あの少女の姿はもうなかった。
あの圧倒的な存在感も、絶望的な魔力の気配も、何ひとつ感じられない。
まるで最初から、あそこに何も存在していなかったかのように。
その「静けさ」が、何よりも恐ろしかった。
ユファスティアほどの高位の魔族であれば、全力で魔力を解放すれば、周囲数千キロにわたって己の存在を主張することができる。
魔力とは生命の輝きであり、力の大きさは存在の強度を示す。それがこの世界の絶対の常識なのだ。
だが、あの少女は違った。
世界を容易く破壊できるほどの力を秘めながら、存在の輪郭そのものが曖昧だった。
魔力を放出したのではない。彼女が動いた瞬間、世界という空間そのものが、一瞬だけ彼女の形へと変貌したかのような不気味さ。
あれは、意思を持った生命体なのか。
それとも――
「……勝てるわけが、ない……」
その言葉を口にした瞬間、ユファスティアは自嘲するように目を伏せた。
自分が数百年という時間をかけて積み上げてきたもの。
死を繰り替えしながら磨き上げた魔術の真理。
数多の戦場で培った圧倒的な経験と戦術。
そのすべてが、あの少女の前では何の意味も持たない。
差があるのではないのだ。
勝敗や優劣を測るための「尺度」そのものが、彼女と自分たちの間には存在しない。
強者と弱者。
勝者と敗者。
生者と死者。
そうした世界における一切の区分すら、あの少女の前では無に帰す。
自分は、あの存在にとって「敵」としてすら認識されていなかったのだ。
不快な埃のように、ただ払われただけ。
「……く、ふふ……はは……」
ユファスティアの唇から、乾いた笑いが漏れた。
その頬を、冷たい冷汗が伝って流れる。
「……陛下。申し訳……ありません……」
彼女は空を見上げたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……あれは……我ら魔族の力でどうこうできるような代物では……ありません……」
その日、ユファスティアは生まれて初めて理解した。
絶対者である魔王が、心の底から恐れていたものの正体を。
そして同時に、彼女の胸の中にひとつの解けない疑問が浮かび上がった。
――なぜ、あの少女は自分たちを殺さずに去ったのか?
殺す価値すら感じなかったのか。
それとも、あの絶対の破壊機構の中に、何か別の「感情」のようなバグが生じているのか。
答えが出ることのない問いを抱えたまま、彼女は震える身体を抱きしめるようにして、静かに目を閉じた。
生きている。
自分はまだ、生きている。
その抗えない事実が、これほどの恐怖をもたらすとは、思いもしなかった。
◇◇◇◇◇
[聖都通信]号外
発行:聖都アウレリア新聞公社
聖暦723年 5月26日発行
◇◇◇
聖都中央大聖堂襲撃事件――枢機卿オリス・フィーロア猊下、死去。聖者クルル・アシュター猊下、行方不明に。
聖暦723年、5月26日未明、ニア教総本山たる聖都アウレリアにおいて、前代未聞の大大規模な襲撃事件が発生した。
教会広報部の公式発表によれば、魔王軍序列第八位の大魔族≪黒雷≫のユファスティアを中心とする魔族の精鋭部隊が、聖都の誇る古代守護結界を突破し、中央大聖堂内部への直接侵入を果たした模様である。
この激しい襲撃の際、ニア教十二枢機卿の一角を占めるオリス・フィーロア猊下が致命傷を負い、その後、死亡が確認された。
オリス猊下は長年にわたり教会の中枢を担い、孤児救済や慈善事業に尽力してきた人格者として広く知られる。また、聖者クルル・アシュター猊下の後見人として、同人の養育と教育に深く携わっていた。
教会広報部は今回の凄惨な事件について、「ニア教の権威のみならず、人類全体に対する明白かつ重大な挑戦である」と強い不快感を表明し、魔族に対する徹底抗戦の姿勢を強調した。
◇◇◇
■ 大聖堂内部における異常な魔力反応の謎
一方、事件現場付近に居合わせた複数の聖騎士および教会関係者の証言によると、襲撃の最中、大聖堂内部において極めて異常かつ大規模な魔力反応が観測されたという。
その反応は既存の殲滅級魔術の数倍を遥かに上回るものであり、大聖堂の天井および周辺建造物に不可解な甚大被害をもたらしたとされる。
しかしながら、この驚異的な魔力反応の発生源および詳細について、教会広報部は「現在調査中」とするにとどめ、詳しい情報の公表を強く拒んでいる。
さらに、事件発生直後より、聖者クルル・アシュター猊下の所在が確認できなくなっている。
教会は当初、「魔族の手による強奪および誘拐」の可能性を示唆していたものの、現場に残された魔力の痕跡からは、通常の誘拐事件とは著しく異なる状況が推測される。
現場近くにいた複数の目撃者の証言によれば、戦いの終盤、大聖堂上空に銀色の十二枚の翼を持つ謎の少女が出現。その後、聖者猊下を伴って上空の雲の彼方へと飛び去ったという。
当該少女の身元および所属については、現在も一切特定されていない。
◇◇◇
■ 教会内部における裏切りと不自然な対応への疑念
なお、複数の情報筋は、今回の襲撃事件において教会内部の一部関係者が不審な行動を取っていた可能性を強く指摘している。
都市防衛結界の発動遅延、聖騎士団主力に対する不自然な出動命令の遅れ、事件発生前後における教会上層部間通信記録の通信途絶など、意図的な手引きを疑わせる事実が少なくない。
これらが混乱による単なる伝達ミスなのか、あるいは教会内部に魔族と通じた内通者が存在することを示す証拠なのか、現時点では解明されていない。
教会は急速な事態収拾のため内部調査委員会の設立を発表したが、委員会の構成員および具体的な調査対象については公表を控えさせている。
◇◇◇
■ 揺らぐ世界情勢と各国の動向
事件の影響は聖都アウレリアの壁を越え、大陸全土へと急速に波及している。
王国情報局の分析によれば、魔王軍は今回の襲撃と前後して各地で軍事活動を著しく活発化させており、聖都周辺の主要街道における魔族目撃情報は前月比で急増。各国の軍事的緊張感は極限まで高まりつつある。
また、エルフ諸国連合および聖法国の一部関係者が、今回の事件について「既知の魔族勢力による単純な軍事侵攻とは一線を画する、世界の理に関わる重大な転換点である」とする独自の声明を出したことも判明した。彼らが何を根拠にそのような見解を示したのかは明らかになっていない。
聖者クルル・アシュター猊下は、ニア教信徒のみならず、諸国の人々にとっても平和と希望の象徴として愛されてきた存在である。
同猊下の失踪は、ニア教会の権威失墜のみならず、今後の諸国間の政治的均衡にも多大な影響を及ぼすことは必至である。
オリス枢機卿の悲劇的な死。
聖者クルル猊下の不自然な失踪。
そして、聖都を襲撃した正体不明の「銀翼の少女」。
今回の事件の裏には、未だ公表されていない巨大な影が潜んでいる。
聖都通信編集部は今後も関係各所への綿密な取材を継続し、真実の解明に努める所存である。