「天空都市は住民のから徴収した魔力で成り立つと言ったな。アレは嘘だ!それで賄えるのは運用魔力の三割!残り七割は、とある存在によって賄われているのだよ!!」 作:タワマン太郎
前回の前日譚的な…?
「…………」
石畳の路地に置かれた古びた木箱の上で、ラルムは抱えた膝に顎を乗せていた。
頭上には、雲ひとつない澄み渡った青空が広がっている。白亜の建物が立ち並ぶ街並みは陽光を受けて輝き、行き交う人々の表情も明るい。遠くの塔からは穏やかな鐘の音が響き、風に乗って香ばしい焼きたてパンの甘い匂いが漂ってくる。
平和で、清潔で、どこか陽気で居心地のよい街だった。
ただし。
「……おなかすいた」
それだけが、今のラルムにとって決定的な問題だった。
ラルムは自分の服の裾を指先でつまんだ。
薄い銀色の布地にほどこされた繊細な刺繍。ふわりと重なるスカート。どこかの華やかな舞踏会にでも出席するような、ひどく上等な衣装である。
当然、ポケットなどない。
財布もない。
そもそも、この世界で「お金」と呼ばれるものがどんな形をしているのかすら知らない。
ついでに言えば、ここがどこなのかも、どうして自分がこんな格好をしているのかも、いまひとつよく分かっていなかった。
唯一分かっていることといえば、自分の名前が「ラルム・エトワール」であること。
背中に、やたらと立派な銀色の翼が生えていること。
そして——。
「……パンケーキ、食べたいなぁ」
前世らしき遠い記憶の底に、ふわふわで、甘くて、バターとシロップが惜しみなくかかった食べ物があることくらいだった。
あれはおいしかった。
とっても、おいしかった。
できれば今すぐ口いっぱいに頬張りたかった。
けれど、目の前を通り過ぎる人々は、誰もラルムに声をかけてこない。
いや、正確には気付いてはいるのだろう。
時折振り返って二度見する者もいるし、背中の翼を目にして息をのむ者もいる。けれど、誰もがどこか気押されたように距離を置き、そのまま通り過ぎていく。
見知らぬ少女が路地の隅で膝を抱えて空腹に耐えていたところで、自分から関わろうとするお人好しはそう多くないのかもしれない。
ましてや、背中から十二枚もの美しい銀翼が生えているのだ。
普通なら、異質な存在として警戒し、近づくのをためらって当然であった。
ラルム自身は、そんな周囲の戸惑いをまったく理解していなかったが。
「……はぁ」
小さく吐息をつき、空を見上げる。
飛んでいけば、食べ物くらい簡単に見つかるだろうか。
いや、でも。
お店で貰うにはお金が必要なのだろうし、空を飛んでいるところを見られたらまた変な騒ぎになるかもしれない。それに、さっきから通りかかる人たちにじろじろ見られているのも、なんとなく居心地が悪い。
できれば、あまり目立ちたくなかった。
……もっとも、背中に十二枚も翼が生えている時点で「目立たない」というのは不可能な話なのだが。
「…………ねよ」
結論。
お腹が空いているときは、寝るに限る。
眠ってしまえば空腹も忘れる。
たぶん。
ラルムが木箱の上で丸くなり、まぶたを閉じかけたそのときだった。
「……あの」
頭上から、遠慮がちで柔らかな声が降ってきた。
「お腹、空いてるの?」
「……ん?」
ラルムは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、ひとりの少年だった。
年齢はラルムと同じくらいだろうか。
柔らかな金糸の髪に、澄み切った秋の空のような青い瞳。白を基調とした上品な仕立ての服には、繊細な金糸でいくつもの紋様が縫い込まれている。胸元で控えめに輝いているのは、円環と三本の光線を組み合わせた見慣れぬ聖印だった。
いかにも育ちがよさそうな少年だった。
顔立ちも驚くほど整っている。
けれど、何よりラルムの目を引いたのは、その表情だった。
異形を恐れるような警戒はない。
珍しいものを見るような好奇の色もない。
ただ、目の前で困っている誰かを見つけたから、声をかけた。
そんな、透き通るほど当たり前で優しい顔をしていた。
「……おなか、すいた」
ラルムは素直に答えた。
「やっぱり」
少年は、ほっと胸を撫で下ろすように微笑んだ。
「よかった。何か困っているのかなって思って」
「……おなか、すいてるだけ」
「うん。そうみたいだね」
少年はくすりと小さく笑った。
それから何かを思い出したように、自分の手に持っていた小さな紙袋を見下ろす。
「これ、よかったら食べる?」
差し出された紙袋の隙間から、香ばしくて甘い匂いがふわりと漂ってきた。
ラルムの目が、ぱちりと開く。
「……!」
袋の中を覗き込むと、小さな焼き菓子がいくつも入っていた。
表面には細かな砂糖がまぶされ、ところどころに香ばしい木の実が練り込まれている。見た目は素朴だが、焼きたてらしく、紙袋越しにもほんのりと温かみが伝わってきた。
「さっき、お店で買ったんだ。ぼくはもうお腹いっぱい食べたから、これは余っていて……」
「たべていいの?」
「もちろん」
「……ほんとに?」
「うん」
「……ぜんぶ?」
少年は少しだけ目を丸くした。
それから、今度は楽しそうに声を漏らして笑う。
「うん。全部食べていいよ」
「……!」
ラルムの顔が、一瞬でぱあっと明るくなった。
「ありがと!」
両手で大事そうに紙袋を受け取り、さっそくひとつ取り出す。
ぱくり。
「…………!」
おいしい。
甘い。
外側はサクッと香ばしく、中は驚くほどしっとりしている。噛みしめるたびに木の実の芳醇な風味と砂糖の上品な甘みが、口の中いっぱいに広がっていく。
これだ。
これを求めていた。
ラルムは夢中になって焼き菓子を頬張った。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
あっという間に、紙袋の中身が減っていく。
少年はその様子を、どこか誇らしげで嬉しそうに眺めていた。
「……おいしい?」
「おいしい!」
「そっか。よかった」
「……これ、なんていうの?」
「木の実の焼き菓子だよ。聖都ではよく売っているんだ」
「せいと?」
「うん。ここは聖都アウレリア。ニア教の総本山がある街なんだよ」
「……にあきょう?」
「ええと……」
少年は困ったように少しだけ首をひねった。
「神さまを信じて、みんなで仲よく助け合って暮らし過ごしましょう、っていう教えかな」
「ふぅん……」
ラルムは最後のひとつを口に放り込み、指についた砂糖を舐めた。
神さま。
教え。
聖都。
知らない言葉ばかりだったけれど、今はどうでもよかった。
「……おいしかった」
それは、お腹を満たされた少女の、偽りのない心からの感謝だった。
「よかった。……あ、そうだ」
少年はそこでようやく我に返ったように背筋を正した。
「ぼく、クルル。クルル・アシュターっていうんだ」
「……くるる?」
「うん」
「……かわいいなまえ」
「えっ?」
予想外の感想だったのか、クルルの頬がぽっと赤くなった。
「そ、そうかな……。ありがとう」
「わたしはラルム。ラルム・エトワール」
「ラルム……」
クルルはその音を慈しむように、口の中でそっと繰り返した。
「素敵な名前だね」
「……そう?」
「うん。なんだか、夜空に光る星みたいな名前だ」
「……ほし?」
「エトワールって、古い言葉で『星』っていう意味じゃなかったかな。違っていたらごめんね」
「……ふぅん」
ラルムは自分の胸に手を当て、そっとその名前を噛みしめた。
星。
きらきらしていて、綺麗で、高いところにあるもの。
自分の名前にそんな響きがあるのなら、悪くない。
もっとも、前世の記憶の残滓を深く掘り返せば、「星」という言葉に妙な懐かしさと親近感を覚える明確な理由が、何かあったような気もする。
けれど、やっぱりよく分からなかった。
それよりも。
「……くるる」
「なに?」
「もうひとつ、ない?」
「えっ」
クルルは手元にあった空の紙袋を見つめ、それからラルムの顔を見返した。
ラルムは、仔犬のような期待に満ちた瞳でじっと彼を見つめている。
「…………」
「…………」
「……ふふっ」
クルルは堪えきれずに吹き出してしまった。
「ご、ごめんね。もう本当にないんだ」
「……そっかぁ」
わかりやすく、ラルムの翼がしょんぼりと垂れ下がった。
背中の十二枚すべてが、寸分違わず同じ角度で力なく下を向いている。その愛らしくも極端な反応に、クルルはまた声をあげて笑った。
「……あのね、ラルム」
「……ん?」
「よかったら、一緒にお店に行かない?」
「……!」
瞬時に、銀色の翼がぴんと跳ね上がった。
「……あまいもの、ある?」
「あると思うよ」
「……いっぱい?」
「えっと……お店に並んでいる分なら、全部」
「……いく!」
迷いのない即答だった。
クルルは弾んだ声で頷いた。
「うん。じゃあ、行こう」
そう言って、自然な動作で手を差し出す。
ラルムはその白く滑らかな手を見つめた。
知らない人の手だ。
この世界に来てから、まともに会話を交わした人間など彼が初めてだった。
けれど、不思議なほど怖さはなかった。
この少年は、見ず知らずの自分に温かい焼き菓子をくれた。
何も訊かずに。
見返りも求めずに。
ただ「お腹が空いている」という理由だけで。
「……うん」
ラルムは差し出された小さな手を握り返した。
温かくて、柔らかい。
自分を外界から隔てる壁を優しく溶かしてくれるような、不思議な手だった。
◇◇◇
聖都アウレリアの街並みは、ラルムの目には輝く宝箱のように映った。
幾重にも重なる石造りの美しい街並み。
色鮮やかな布が躍る露店。
路地裏を無邪気に駆け抜けていく子どもたち。
ゴトゴトと重厚な音を立てて走る馬車。
見たこともない果物、読めない文字が躍る看板、漂う未知のスパイスの匂い。
そのひとつひとつに、ラルムの瞳はくるくると輝いた。
「……あれ、なに?」
「あれは果物屋さんだよ。甘くて美味しい実がたくさんあるんだ」
「……あれは?」
「あっちはパン屋さん。朝はすごくいい匂いがするんだ」
「……あれは?」
「あれは……武器屋さん、かな」
「……あれは?」
「……えっと、あれは……なんだろう? おまじないの道具屋さん……かな?」
「……そっかぁ」
ラルムは深く納得したように頷いた。
クルルは思わず苦笑する。
自分とて、この聖都のすべてを知っているわけではない。
けれど、ラルムのように景色の一つひとつを「生まれて初めて見た」というような純粋な驚きとともに歩いたことはなかった。
この少女は、本当に不思議だった。
身に纏う高貴な服も、異異たる十二枚の銀翼も、どこか浮世離れした話し方も。
何ひとつとして「普通」ではない。
それなのに、当の本人はどこまでも自然体で、自分がどれほど特別な存在であるかを1ミリも自覚していないようだった。
通り過ぎる人々が翼を見て足を止め、固まっているのを見るたびに、ラルムは不思議そうに首を傾げる。
「……みんな、どうしたの?」
「……えっと」
クルルは答えに詰まった。
十二枚もの神々しい翼を生やした少女が街を歩いていれば、誰もが息を呑み、地にひれ伏すか驚愕するのが当然だ。だが、それをどう言葉にしていいか分からない。
「……ラルムの翼が、あまりにも綺麗だからじゃないかな」
「……きれい?」
「うん。とっても」
「……ふぅん」
ラルムは身体を捻って自分の背中を振り返ろうとした。
当然、自分の背中にあるものを自分の目で直接見ることはできない。少しの間クルクルと回ってみたものの、すぐに諦めたように前を向いた。
「……じゃあ、いいや」
「……そ、そう?」
「うん。クルルがきれいって言うなら、きれいなんだと思う」
あまりにも無防備で、まっすぐな返答だった。
クルルは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
こんなにも何の疑いもなく、出会ったばかりの人間の言葉を信じられる少女がいるのだろうか。
いや——。
自分だって、かつてはそうだったはずだ。
育ての親であるオリスの言葉を信じ、聖典の教えを信じ、この世界は誰もが救われる優しい場所なのだと信じ切っていた。
だからこそ、クルルはこの少女の側にいると、どこか救われるような穏やかな気持ちになれるのだった。
世界にはまだ、こんなにも素直に、何も恐れずに笑える存在がいるのだと。
「……ねえ、クルル」
「なに?」
「……あのお店、すごくいいにおいがする」
ラルムが指差した先には、木漏れ日に包まれた小さな菓子店があった。
ガラス窓の向こうには焼き立てのパイが並び、店頭には蜜をたっぷり塗ったパンが香ばしい匂いを撒き散らしている。
クルルは優しく微笑んだ。
「……うん。行ってみようか」
「……うん!」
少女の翼が、弾む心に合わせるように微かに揺れた。
その幸福そうな笑顔を見つめながら、クルルは心の中でそっと祈るように思うのだった。
この子と一緒にいたら、きっと毎日が新しい発見に満ちているだろう。
まだ彼女が知らない世界の美しさを、たくさん教えてあげたい。
自分が知っている優しい場所を、すべて見せてあげたい。
そして、いつか。
この子が己の持つ翼の意味を知り、どうして周囲が驚いていたのかを悟るときが来ても——
きっと二人で「あの時はそうだったね」と笑い合える。
そんな、温かく穏やかな未来を信じて疑わなかった。
それが——ほんの二週間後に、自分たちの運命を根底から切り裂く凄惨な悲劇の前触れだとは、この時のクルルは知る由もなかった。
◇◇◇
その日の夕刻。
聖都アウレリアの中心に聳え立つ、中央大聖堂の執務室。
西日に染まる部屋の中で、ひとりの初老の男が羊皮紙の書類に静かに目を通していた。
ニア教・十二枢機卿の一角、オリス・フィーロア。
彼は眼鏡の奥の目を緩め、窓の外に広がる黄金色の街並みを眺めながら、深く穏やかな笑みを浮かべた。
「……今日は、ずいぶんと賑やかな一日だったようだな」
デスクの上には、クルルが提出した他愛のない日誌が置かれていた。
街で迷子になりかけたこと。
お腹を空かせた不思議な少女に出会ったこと。
木の実の焼き菓子を分けてあげたこと。
そして——また明日も会う約束をしたこと。
オリスは、たどたどしくも嬉しさが滲み出るクルルの筆跡を撫で、小さく頷いた。
「……良い友が得られたか。クルル」
彼はまだ知らない。
その少女が、どのような宿命を背負った存在なのかを。
世界の理そのものを歪めかねない、絶大な力を秘めた存在であることを。
そして——彼女がこの地に降臨した本当の理由が、世界そのものの破滅を食い止めるための「器」に過ぎないということを。
けれど、今のオリスにとって重要だったのは、たったひとつ。
孤独を抱えていたクルルが、今日、心から笑っていたということ。
それだけで、祈りを捧げる理由としては十分だった。
「……どうかこの慈悲深き光の下で、幼き子らの未来が穏やかでありますように」
オリスは胸元で聖印を結び、静かに目を閉じた。
窓の向こうでは、沈みゆく夕陽が聖都を眩いばかりの黄金と朱に染め上げていた。
静寂と平穏に満ちた、完璧な一日。
街の誰もが、明日もまた同じように温かな陽が昇り、穏やかな日常が続くと信じて疑わなかった。
その平和が、どれほど儚く、脆いガラス細工のようなものであるかを——
まだ、誰も知らなかった。