朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
二回目の配信から三回目の配信までのあいだに、俺はひとつだけ決意した。
画角の調整である。
初配信の反省会を一人で開いた結果、「カメラに映る範囲が思ったより広い」という事実に、ようやく目が向いたのだ。胸のあたりまで映り込んでいる。アバターが映るだけなら関係ないと先送りにしていたが、万が一ということもある。
(今日こそ、ちゃんと直そう)
そう思って、配信ソフトの設定画面を開いたのが、三回目の配信の開始二十分前だった。
そして、この二十分前という中途半端な時間が、命取りになった。
ソフトの画面には、見慣れない項目がずらりと並んでいた。「ソース」「シーン」「レイヤー」。どれもこれも、横文字の羅列だ。社畜時代の俺は、エクセルの関数なら何とか戦えたが、こういう映像系のソフトは完全に門外漢である。
「ええと、カメラの範囲を狭めるには……この目のマークを押せばいいのかしら」
目のマークを押した。画面のどこかが、ぱっと切り替わった気がした。
いや、気のせいだろう。たぶん。
時計を見る。開始まで、あと五分。
(まあ、いいか。プレビュー画面を見る限り、特に問題はなさそうだし)
実は、プレビュー画面など、ろくに見ていなかった。俺の目は、台本を表示した別のモニターに釘付けだったのだ。
カチッ。
配信を開始するボタンを押した。
「ごきげんよう。ダン子の家計簿ちゃんねるよ。三回目の配信になるわ。今日は、前回の続きとして、私の食費について詳しく語ってあげる」
画面の隅で、同時視聴者数の数字が「5」になった。前回より、二人増えている。
ここまでは、いつも通りだった。
コメント欄に、最初の違和感が流れたのは、開始から二分ほど経った頃である。
『あれ?』
『映像変わった?』
『アバターは?』
俺は、台本を目で追ったまま、軽く首をかしげた。
「アバター? 何の話かしら。いつも通りの、かわいらしい私でしょう」
『いや、かわいらしいっていうか』
『本物……?』
『え、ちょっと待って』
コメントが、じわじわと増えていく。五人だった視聴者が、十人になり、二十人になる。俺は、嬉しさ半分、不審さ半分で、ようやく台本から顔を上げた。
そして、配信画面のプレビューを、初めてまともに見た。
そこには、薄紫の髪と、濃い紫の瞳と、頭の左右から堂々と生えた角を持つ、とんでもない美少女が、きょとんとした顔で映っていた。
茶髪のフリー素材の少女は、どこにもいなかった。
いるのは、アウラ本人だった。
「…………」
時間が止まった。
いや、止まったのは俺だけで、配信は止まらなかった。コメントは、津波のように流れ続けている。
『うおおおお』
『アウラ様!?』
『コスプレのクオリティ高すぎない?』
『角どうやってつけてるの』
『声がアニメのままなんだが』
(待て、待て、待て、待て、待て)
内心の俺は、完全にパニックだった。いつの間に切り替わったのか。あの目のマークだ。あれのせいだ。どうしてあんなものを押してしまったのか。
しかし、パニックの度合いが高まれば高まるほど、口は勝手に動く。
「な、何かしら。突然、騒がしいわね。私の顔に、何かついているとでも言うの?」
『角がついてますw』
『その堂々とした態度、完璧すぎる』
『アウラ様の演技が板につきすぎてる』
『断頭台のダン子ってそういうことか』
最後のコメントを見て、俺は心臓が止まりそうになった。
バレている。チャンネル名の由来が、あっさりバレている。あれだけ「完璧にごまかせている」と思っていた名前が、実は全然ごまかせていなかった。
(いや、でも、ダン子は誰がどう見てもアウラだよな。俺が浅はかだった……)
ここで素直に「間違いでした」と謝って、配信を止めればよかったのだ。
しかし、俺の指は、緊急停止のボタンの場所すら思い出せずにいた。
「ふ、ふん。わ、私は、最初から、そのつもりだったのよ。あなたたち、ようやく気づいたのかしら。遅いわね」
完全に、自爆だった。
『ガチ勢だ』
『役作りが徹底してる』
『これはバズる』
視聴者数が、百を超えた。
その頃には、「検証班」と呼ばれる人々が、続々とコメント欄に集まり始めていた。
『これCGじゃないよね?』
『背景の揺れ方が自然すぎる。リアルタイムの映像だ』
『角の根元、皮膚と繋がってない? 継ぎ目が見えない』
『誰か画面キャプチャして拡大してくれ』
俺は、息を呑んだ。
世の中には、こういう人たちがいるのだ。画像を拡大し、フレームを一コマずつ止め、真偽を検証することを生きがいにしている人々が。そして、本物の角を前に、彼らの検証は、どんどん核心に迫っていく。
そこへ、ひとつのコメントが流れた。
『ていうか、動くたびに、胸元の揺れが物理演算とは全然違うんだが』
ん?
『確かに、これ、衣装の下に何もつけてないのでは?』
『検証班です。ノーブラ確定です』
『マジで?』
『マジで』
俺の思考が、真っ白になった。
ノーブラ。
その単語の意味を、俺は一瞬で理解した。理解した上で、全身の血液が顔面に集まってくるのを、はっきりと感じた。
(あ、あああああ!?)
思い出した。通販の下着は入らなくて返品した。
思い出した。「まあ、一時的なものだ。まあ、いいか」と自分に言い聞かせた。
思い出した。あの時、「一時的」の後に続く期間を、一切、考えていなかった。
(いやいやいや、よくないだろ、全然よくないだろ、俺!)
しかし、現実は容赦がない。コメント欄は「ノーブラ」の話題で、完全に盛り上がっていた。
『この子、気づいてないのかな』
『気づいてて、あえて堂々としてるなら、それはそれで強い』
『さすが断頭台のアウラ。羞恥心すら超越している』
いや、違う。羞恥心がありすぎて、頭が真っ白になっているだけだ。
そして、口である。
「そ、それが何だと言うの!? あなたたち、下賤な人間の価値観で、私を測らないでちょうだい!」
完璧な、尊大さだった。
その時に胸を張ったのもよくなかった。ぷるんと揺れるのがしっかりと配信されて、コメント欄の流れが加速する。
声は上ずり、耳まで赤くなっているはずなのだが、コメント欄の反応は予想の斜め上だった。
『堂々としすぎてて草』
『アウラ様、強い』
『これはもう本物』
『登録しました』
『登録した』
『登録完了』
登録者数のカウンターが、目まぐるしく回り始めた。
十人、五十人、二百人。俺は、頭を抱えて、画面を見つめていた。
(止めなきゃ、止めなきゃ、止めなきゃ)
ようやく、配信終了のボタンを見つけた。震える指でクリックする。
ぷつん、と画面が暗転した。
部屋に、静寂が戻った。
俺は、椅子の背もたれにずるずると沈み込み、天井を見上げた。
「…………終わった」
何が終わったのか、自分でも分からなかった。たぶん、いろんなものだ。
翌朝、恐る恐るスマホを手に取った。
通知が、止まらなかった。
SNSの通知欄は、ありえない数字の羅列になっていた。「いいね」と「リポスト」と「フォロー」と「リプライ」が、洪水のように押し寄せている。画面をスクロールしても、スクロールしても、終わらない。
配信の切り抜き動画が、すでに数十本、投稿されていた。タイトルは、どれもこれも、似たようなものだった。
「【悲報】フリー素材のはずが本人が映る事故が発生」
「クオリティが高すぎる断頭台のアウラ様コスプレイヤー現る」
「このコスプレ、何者?」
再生数は、数十万。数百万の動画もある。
俺は、チャンネルの管理画面を開いた。
登録者数、三万二千人。
一晩で、三万人増えたのだ。
「……え」
声が裏返った。
いや、喜ぶべきなのだろう。これは、数字の上では、大成功だ。収益化の条件が、登録者千人以上と、再生時間数千時間。登録者数は、とっくに条件を超えている。
しかし、再生時間のほうを見て、俺は愕然とした。
まだ、足りない。
昨日の配信は、たった数十分。これでは、総再生時間は、必要な数字の足元にも及ばない。つまり、収益化の申請は、まだできない。
(……バズったのに、一円にもならないのか)
俺は、静かに目を閉じた。
この時点で、すでに、嫌な予感はしていた。
そして、予感は的中した。
SNSのコメント欄を、さらに下へスクロールしていくと、見覚えのある書き込みが並び始めたのだ。
『背景の壁紙、どこかで見た気がする』
『窓のカーテンの隙間から、電柱の影が見えた。影の向きから、方角を割り出せるかも』
『遠くで聞こえてた電車の音、あの路線っぽいな』
『特定班、集合!』
俺は、スマホを取り落とした。
特定である。とうとう、特定班が動き出したのだ。
画面のこちら側で、顔面蒼白になった。壁紙。電柱の影。電車の音。どれも、自分では気にも留めなかった要素ばかりだ。しかし、特定班にとっては、それらすべてが、立派な手がかりになる。
(もし、ここがバレたら)
家に、人が来る。窓の外に、カメラを構えた人が立つ。いや、それだけならまだしも、元の職場の人間が、この動画を見つけたらどうなるか。後輩が、あの徹夜明けの目で、この動画を見たら。鬼塚課長が、この動画を見たら。
そして、何より。
(フリーレンが、この動画を見つけたら)
現実のフリーレンがいるはずはない。いるはずはない。でも、万が一、もし、本当に。
俺は、パソコンを起動し、チャンネルの管理画面を開いた。
迷いは、なかった。いや、あった。ものすごくあった。
三万二千人の登録者。数百万回の再生。これだけの数字を前に、「削除」のボタンを押すのは、あまりにも惜しい。もし、このまま配信を続ければ、収益化の条件を満たせる日が、そう遠くない未来に来るかもしれない。
でも、それ以上に、怖かった。
自宅の住所がバレる未来が。元の職場の人間にバレる未来が。そして、世界のどこかにいるかもしれない、あの白髪の魔法使いに、バレる未来が。
「……ごめんなさい」
つぶやきは、いつものアウラ口調ではなかった。いや、口調は尊大なままだったが、声の奥が、かすかに震えていた。
設定画面を開き、スクロールして、一番下の項目を探す。
チャンネルの削除。
クリックすると、確認のダイアログが出た。
『この操作は元に戻せません。本当にチャンネルを削除しますか?』
俺は、画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
窓の外から、朝の鳥の声が聞こえる。部屋の中には、パソコンのファンの音だけが響いている。
その沈黙の中で、俺は、涙目で、マウスをクリックした。
「うう、さようなら、三万二千人の私のファンたち……!」
画面が暗転し、「チャンネルを削除しました」という素っ気ないメッセージが表示された。
ちなみに、収益はゼロである。
一円も、入っていない。
俺は、椅子に座ったまま、深いため息をついた。
「……今回の収穫は、『ノーブラ』という言葉の恐ろしさを知ったことだけね」
口から出た言葉は、あくまでも尊大で、あくまでも的を射ていた。
そう、それが、最大の問題だった。
配信のコメント欄で、あれほど堂々と指摘された、あの事実。胸のサイズが合わない下着を返品して、「一時的なもの」と放置したあの一件。
バズりの余韻も、チャンネル削除の喪失感も、全部すっ飛ばして、頭に残ったのは、その一点だけだった。
(さすがに、このままじゃダメだ)
俺は、静かに立ち上がった。
貯金は、あと七か月。その中から、ちょっとだけ、出費を覚悟する日が来たらしい。