朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
女性用下着専門店の前に立つのは、これで三回目だった。
一回目は、店の前を素通りした。二回目は、ガラス越しにマネキンを三十秒ほど眺めて、そのまま引き返した。そして三回目の今日、俺はついに、自動ドアの前で足を止めた。
帽子は目深に。マスクは大きめ。パーカーのフードで角のあたりを隠し、全身を使って「私は怪しい者ではありません」と主張している。ただし、その格好こそが、どこからどう見ても怪しい者のそれだった。
(落ち着け。ここは店だ。客として入る場所だ。俺は客だ。何も悪いことはしていない)
そう唱えながら、一歩を踏み出す。
自動ドアが、すっと開いた。
店内は、思っていたよりも明るくて、静かで、清潔だった。ずらりと並ぶ色とりどりの商品に、反射的に目を逸らしそうになるのを、ぐっとこらえる。いや、逸らしたい。ものすごく逸らしたい。でも、ここで挙動不審になったら、それこそ店員さんに通報されかねない。
「いらっしゃいませ」
声をかけてくれたのは、落ち着いた雰囲気の、四十代くらいの女性店員さんだった。胸元には、「フィッター」と書かれた名札がついている。
「あ、あの……」
声を出した瞬間、後悔した。
「私に、見合うものを用意しなさい。ただし、できるだけ、目立たない、静かな場所で」
完全に、女王様の注文だった。
店員さんは、一瞬だけ目を丸くして、それから、ふわりと笑った。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
まったく動じていない。さすがプロである。俺は内心、土下座したい気分で、その背中についていった。
案内されたのは、店の奥にある、小さな個室の試着室だった。
「失礼ですが、普段のサイズはお分かりになりますか?」
「……先日、通販で試したのだけれど、入らなかったわ」
「あら。それは、サイズが合っていなかったのかもしれませんね。よろしければ、一度、きちんとお測りしましょうか」
優しい口調だった。強引さのかけらもない、しかし、有無を言わせない、プロの声だった。
俺は、観念して頷いた。
パーカーを脱ぎ、スウェットの上から、メジャーが回される。店員さんの手つきは、実に手際が良くて、こちらが恥ずかしがる暇もないほどだった。
「失礼しますね」
「え、ええ」
ささやかな会話の間に、測定は終わった。
店員さんは、手元のメモを見て、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
「……なるほど」
「な、何かしら?」
「いえ、失礼しました。お客様、先ほど通販でお試しになったというのは、おそらく、サイズ表の数字を自己計測で当てはめたものではないでしょうか。実は、お客様の場合、一般的な表の範囲に、少々収まりきらないタイプなんです」
「……収まりきらない」
「ええ。お客様、とても華奢でいらっしゃるので、アンダーバストが『60センチ』ほどしかおありにならないんですよ。通常の通販サイトやお店の棚ですと、一番小さくても『65センチ』からしか作られていないことがほとんどなんです。ですので、画面でお探しになっても、なかなか見つからなかったと思います。少々お待ちくださいね。バックヤードから、細身の方向けの特別なものをお持ちします」
そう言って、店員さんはカーテンの向こうに消えた。
一人取り残された試着室で、俺は鏡の中の自分と向き合った。
薄紫の髪の、濃い紫の瞳の、頭に角のある美少女が、ものすごく微妙な顔でこちらを見ている。
(収まりきらない、か……)
そういえば、通販の時も、サイズ表の数字を三回、突き合わせた。あの時は、「表が間違っているのかも」と、半分本気で疑っていたのだ。間違っていたのは、表ではなく、俺の認識だった。
しばらくして、店員さんが戻ってきた。両手に、いくつかの商品を抱えている。
「こちらが、お客様のサイズに近いものです。まずは、着け方からご説明しますね」
そこから先は、正直、記憶があやふやだ。
店員さんの指導のもと、ストラップの位置や、カップの収め方を、ひとつずつ丁寧に確認していく。俺は、ぎこちなく、ただひたすら「はい」と「ええ」を繰り返していた。
そして、すべての調整が終わった時。
「いかがですか?」
鏡の前に立った俺は、しばらく、口を開けなかった。
軽い。
まず、感想はそれだった。肩が、軽い。ずっと、何かに引っ張られているような、重心が前にずれているような感覚が、すっと消えている。体を動かしても、何かが勝手に主張してくることがない。
試しに、その場で軽く跳ねてみた。
「……!」
安定している。まるで、何かがしっかりと支えてくれているような、不思議な安心感があった。
それまで、自分の体の一部が、ずっと「勝手に動くもの」として存在していたことに、俺は、この瞬間、はじめて気づいた。
「これが……」
「いかがですか? 苦しいところは、ありませんか?」
「…………すごいわ」
声が、ほんの少しだけ、震えていた。
「世界が、変わったわ」
それは、大魔族としての口調で出てきた言葉だったが、中の俺の心境も、まったく同じだった。
(女性って、毎日こんなものを着けて生活してたのか……。いや、これは確かに、必要だ。いや、必要というか、もう、これなしの生活は考えられない)
通販で一枚買って、入らなくて返品したあの日々が、遠い昔のことのように思えた。同時に、これまで、あの状態で過ごしていた自分の無謀さにも、改めて、ぞっとした。
店員さんは、満足げに微笑んだ。
「お気に召したようで、よかったです」
会計の時が来た。
フィッティングで気に入ったものを、最低限の数点だけ選んだ。それでも、レジで提示された金額を見て、俺は一瞬、目を細めた。
決して、安い金額ではない。サイズが特殊なぶん、値段も、それなりにする。貯金が七か月しか持たない俺にとって、これは、かなりの痛手だ。
しかし。
(……いや、これは、必要経費だ)
不思議と、後悔は湧いてこなかった。さっき鏡の前で味わった、あの安定感を思い出すと、むしろ、この金額は安いとすら感じた。人はこうして、必要なものに、お金を払っていくのだ。
「ありがとうございました」
店員さんが、丁寧に頭を下げてくれた。俺も、慌てて頭を下げ返した。
「あなたの腕前、見事だったわ。感謝してあげる」
感謝の言葉が、またしても偉そうだった。しかし、店員さんは、「光栄です」と、にっこり笑って送り出してくれた。
自動ドアを出た瞬間、俺は、大きく息を吐いた。
紙袋を抱えて、店の外を歩く。足取りが、いつもより軽い。肩が軽い。何よりも、背筋が、自然と伸びている。
(いやあ、いい買い物をした)
そう思った、まさにその瞬間だった。
ふと、駅前の交差点で信号待ちをしていた時のことだ。
隣に立っていた男性が、チラリと、こちらを見た。そして、すぐに視線を逸らした。
(……ん?)
この視線には、見覚えがあった。
そう、ここ数日、外出するたびに、感じていた視線である。コンビニでも、商店街でも、電車の中でも、男性から、じろじろと見られていた。最初は、「角が目立つからだろう」と思っていた。「外国人の美少女が珍しいのだろう」とも思っていた。
しかし、今、改めて思い返すと、その視線の先は、頭の角ではなかったような気がする。
もう少し、下。
というか、だいぶ、下。
(…………あ)
俺は、足を止めた。
ここ数日、ノーブラで外出していた。しかも、サイズが特殊な。さっき店員さんが言っていた、「収まりきらない」ほどの。それが、歩くたびに、階段を上るたびに、電車が揺れるたびに、揺れていたとしたら。
揺れて、いたとしたら。
そこに、視線が集まらないはずが、なかった。
(あれは、角だけを見ていたんじゃなかったんだ)
コンビニ。商店街。駅のホーム。夜の路地。そのすべての場面が、頭の中で、一気に再生された。
あの時の視線も、この時の視線も、全部、そういうことだったのだ。
しかも、自分は、それに気づかないまま、堂々と、胸を張って歩いていた。いや、緊張すると尊大さが増すから、むしろ普段以上に胸を張っていた。
(うわあああああ)
内心の叫びは、声にならなかった。
信号が青に変わった。人の波が動き出す。俺は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
「…………げんなりするわ」
つぶやきは、いつものアウラ口調だった。声は、いつになく低かった。
帰宅して、紙袋をちゃぶ台の上に置く。
袋の中の、やさしい色合いの布を眺めて、俺は、小さく息をついた。いろいろあったが、とにかく、これで、ひとつの問題が解決した。解決したのだ。
そう思って、スマホを手に取ったのが、いけなかった。
恐る恐る、SNSを開く。
あのチャンネルを削除してから、もう数日が経っている。さすがに、騒ぎも収まっているだろう。そう思っていた。
しかし。
検索窓に、予測変換が出ていた。俺は、何も入力していない。なのに、勝手に、ひとつの候補が表示されていたのだ。
『アウラ様 ノーブラ』
俺は、そっと目を閉じた。
開いた。
候補は、消えていなかった。
タップするつもりはなかった。いや、見ないほうがいい。絶対に、見ないほうがいい。頭では、そう分かっていた。しかし、指が、勝手に、動いてしまった。
画面が切り替わる。
トレンドの欄に、見覚えのある単語が並んでいた。
『リアルノーブラアウラ様』
そのワードは、検索結果の上位に、堂々と君臨していた。
俺は、ぱたん、とスマホを伏せた。
それ以上、何も見なかった。いや、実際には、画面の隅に、切り抜き画像が、いくつか見えてしまっていた。あの配信の、あの瞬間の、あの、驚いて口を開けた顔が、ちゃんと、保存されて、拡散されているのが、見えてしまった。
でも、それ以上は、見ないことにした。
いくら削除しても、一度ネットに流れたものは、簡単には消えない。それは、俺だって、知識としては知っている。だから、これ以上、見る意味はない。見れば見るほど、精神が削られていくだけだ。
俺は、伏せたスマホをそっと引き出しの奥にしまい、そのまま、立ち上がった。
「……もう、見ないわ」
声は、静かだった。
「SNSなんて、私の精神衛生上、有害でしかないもの」
どこに拡散されて、どれくらい広がっているのか。その行き先は、考えないことにした。いや、考えたくなかった。
ちゃぶ台の上では、紙袋が、静かに座っている。
今回の稼ぎは、ゼロである。それどころか、通販の返品手数料と、下着代の分だけ、貯金は確実に減っている。収益化の条件に届かなかったどころか、そもそも、チャンネル自体が、もうこの世に存在しない。
得たものは、女性用の下着の、素晴らしいフィット感と。
そして、これまでの人生で、一番、恥ずかしい記憶だけだった。
「……リアルノーブラアウラ……」
つぶやいた言葉が、狭い部屋に、むなしく響いた。
なんか原作にもそんな魔法があったような気がする。
たぶん、気のせいだ。
窓の外では、夕日が、ゆっくりと沈んでいく。その光が、紙袋の影を、長く、長く、畳の上に伸ばしていた。
貯金は、あと七か月。魔力は、まだ、取り戻せていない。
俺の「現代社会でお金を稼ぐ方法探し」は、まだ、始まったばかりだった。