朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
深夜の河川敷は、思っていたよりずっと暗かった。
街灯は遥か土手の上に一本あるきりで、足元まで届く光はたかが知れている。対岸に並ぶマンションの窓も、ほとんどが眠りについていた。聞こえるのは水の流れる音と、遠くの橋を渡る車のタイヤの響きくらいのものだ。
(よし、誰もいないな)
帽子のつばを深く引き下げたまま、ぐるりと周囲を確認する。犬の散歩の人影もなければ、ジョギングの足音もない。俺はようやく息を吐いた。
神社で得た結論は、「お金にも魔力にも近道はない」だった。実に身も蓋もない。ただ、近道がないにしても、地図くらいは持っておきたいと思ったのだ。何しろ今の俺は、自分の体に何ができて何ができないのか、さっぱり分かっていない。分かっているのは服と天秤の二つだけ。それも片方は怖くて使えない。
(まずは棚卸しだ。会社員の基本だろう)
腕を組んで、原作のアウラが使っていた魔法を思い返してみる。
(首なし軍団は、材料が要るんだよな。材料というか、その、なんだ。却下。見たくない。却下だ)
天秤以外となると、もう頭に浮かぶのは一つしかなかった。かつて人類を震え上がらせた、あの「
物騒だとは思う。思うが、これだけ人気のない川に向かって撃つ分には、被害者は水草くらいのものだ。俺は川辺に立ち、片手をすっと前に突き出した。
(できるかどうかの確認だ。できたらできたで怖いけど、確認だ)
吸い込んだ息が、冷たい。
「
口から出た声は、予想の三倍はよく通った。大魔族の声帯、無駄に性能がいい。
川面は、何事もなかったように流れている。
何も起きない。光も、風も、水しぶきの一つもない。
(……今の、対岸のマンションまで届いてないよな)
血の気が引くのを感じつつ、俺はもう一度構えた。声が小さかったのかもしれない。いや、今のは十分すぎるほど大きかった。では気合か。足を肩幅に開き、腰を落とし、指先まで魔力が流れるのをイメージして。
「
誰に何を命令しているのか、自分でも分からない。当然、川は無視した。魔力の減る感覚すらない。つまり、発動の手前で空回りしているのだ。
三回目は、手首をひねって決めポーズをつけた。ちなみに結果は同じで、ポーズだけが恥ずかしく残った。
(……はい、
天秤のときは確かに魔力が動いた。魔力そのものはある。ならば呪文の名前に頼るのが間違いなのだろう。原作でも、魔法はイメージの世界だと言っていた気がする。
そこで、はっと気づく。
「
…………。
……水面は静かに流れていった。
はー、使えねぇ。
所詮は、
今度は、魔力で具体的な物体をイメージすることにした。
(剣だ。剣でいい。いや槍でもいい。最悪、石ころでもいい。何か硬くて、投げれば人が痛がるやつ)
目を閉じて、手のひらに意識を集める。ぞわり、と魔力が動いた。天秤を出したときと同じ、体の奥から指先へ向かって何かが引っ張られていく感覚。来た。来たぞ。
目を開けると、手のひらに何かが乗っていた。
柔らかい。軽い。そして、黒い布だ。
街灯の薄明かりに透かして見る。アウラの服の一部。つまり、
「…………」
俺は剣を想像したのだ。しかも、
……。いや、一ミリも下着の要素はなかった。思い当たる原因は一つだけ、ここ数日、通販だ、サイズ測定だ、ノーブラだと、頭の中が下着のことで埋め尽くされていたせいだろう。雑念が、そのまま出力されたのだ。
(最悪だ。何で俺の魔力は、こんな正直なんだ)
夜の河原で、一人、
俺は慌てて魔力を散らした。手の中の布が、すっと溶けるように消える。同時に、体から何かが抜けていく感覚があった。天秤ほどではないが、地味に響く。
得たものは、なし。減ったものは、魔力。
川の音だけが、さらさらと続いていた。
(……結論。俺にできるのは、服と天秤だけ)
あまりにも明快な結論である。いっそ清々しいほどだった。俺はゆっくりと腕を組み直し、夜風に薄紫の髪をなびかせて、胸を張る。誰もいないのだから、せめて格好くらいはつけたい。
「ふ、ふん。今日のところは、このくらいで勘弁してあげるわ!」
川は、何も答えなかった。
(……誰に言ってるんだ、俺)
対岸のマンションの窓が、一つだけ、ぽっと明るくなった気がした。見なかったことにして、俺は足早に土手を上がった。
翌日の夕方、俺は家計簿を睨んでいた。
睨んだところで数字は増えないが、減らす方法ならある。コンビニの横を素通りして、歩いて四十分の安いスーパーまで足を延ばすことだ。往復で一時間半と少し。時給換算すると割に合わない気もするけれど、前回「近道はない」と学んだ俺には、遠回りこそが近道に見えてきていた。
帽子を目深にかぶり、マスクで顎まで覆って、玄関を出る。薄暗くなりかけた住宅街を、ひたすら歩いた。
目的の店は、チラシの写真よりもずっと大きかった。入口の山積みワゴンに、値引きシールの貼られた総菜が並んでいる。ここは天国かと思った。
「お米、五キロ。お茶の二リットル、六本パック。じゃがいも、玉ねぎ、卵に、豆腐。……あ、豆腐は半額シール付きね。なかなかの戦果だわ」
カゴの中身を確認して、うなずく。重さのことは、あまり考えていなかった。安いものを、とにかく安いうちに買う。サラリーマン時代に染みついた習性である。
レジの店員は、二十歳くらいのお姉さんだった。商品をスキャンしながら、ちらりと俺の細い腕に目をやる。
「あの、お客様。お持ち帰り、大丈夫ですか? 台車、お貸ししましょうか」
そう言われて、はじめて袋の山を見た。米袋にお茶の六本パックが二つ、野菜類。ざっと二十キロはあるだろう。
(あ、確かに多いな。素直に借りようか)
そう口を開いたつもりだった。
「不要よ。この程度、軽いものだわ」
出てきたのは、胸を張った、堂々たる大魔族の声だった。店員さんが、固まる。後ろに並んでいたおばあさんも、固まる。
(違うんです。意地じゃなくて。いや意地は意地なんですけど、そうじゃなくて……)
撤回する機会は、永遠に失われた。俺は両手に袋を提げ、決然とした足取りで自動ドアを抜けた。
そして気づいた。軽い。
「あれ?」
右手の袋に、米五キロとお茶二リットルの二本。左手にも、お茶の残りと、野菜。それなのに、指に食い込んでくるはずのビニール紐の重みが、さっぱりない。
「最近のレジ袋って、すごいわね……。技術の進歩ね」
感心しながら、住宅街への道を歩く。歩幅は軽く、息も上がらない。往路で痛くなりかけた足の裏も、不思議と気にならなかった。
途中の信号待ちで、ふと魔力を確かめてみた。体の中にコップがあって、そこに水が溜まっている。そんな感覚だ。昨夜、河川敷でパンツを出して消した分は、半日かけてゆっくり戻りつつあった。そのはずだった。
「……思ったより、少ないな」
水位が低い。昨夜の消費を差し引いても、もっと残っているはずだ。首をかしげ、やがて一つの結論に辿り着く。
(ああ、そうか。歩いたからだ。この体、動くだけで魔力が減るんだ。燃費が悪い)
腑に落ちた。妙に納得して、俺は頷く。そして、荷物の軽さと魔力の減り方を結びつけることは、最後までなかった。
信号が青に変わる。俺は軽い足取りで、家に向かって歩き出した。
帰り道の途中に、小さな公園がある。住宅街を抜ける近道で、昼間は子どもたちの声が絶えない。夜はその逆で、人気がまるでなかった。
あまり好きな道ではないけれど、遠回りすると家までさらに十五分かかる。大量の荷物を持っているわけだし、と、自分に言い訳して、俺は公園に足を踏み入れた。
ところが数歩進んだところで、足が止まった。
奥のほうから、声が聞こえる。
笑い声ではない。男の、荒い声だ。
「だからさあ、昨日のあれ、どうしてくれんの?」
「俺ら、ただ酒買おうとしただけなんだけど?」
遊具の陰から、そっと様子をうかがう。街灯がひとつだけ、頼りなく滑り台の周りを照らしていた。
その光の輪の中に、五つの人影があった。
四人は、若い。高校生か、二十歳前後か。金髪のジャージ、スカジャン、細身でピアスだらけの男。四人とも手に缶チューハイを持ち、顔が赤い。
そして、その四人に囲まれて背中を滑り台の柱に押しつけられているのが、中年の男性だった。
眼鏡をかけ、くたびれたポロシャツを着ている。お腹がふくらんでいて、いかにも人の良さそうな顔つきの、あの人。
(……コンビニの店長だ)
サンライズマートのレジ横で、いつも「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる店長だった。確か、名札には「山花田」とあった。私服姿は初めて見たが、顔と声で分かる。
「それは……年齢確認ができなかったから、お売りできなかっただけで」
店長の声は、震えていた。
「ご迷惑をおかけしたのなら、申し訳ない。でも、もう遅いから、君たち、今日は帰りなさい」
「は? 帰れ?」
金髪ジャージが、手の缶を地面に叩きつけた。
乾いた金属音が、夜の公園に響く。中身が飛び散り、店長の革靴を濡らした。
(うわ、うわ、うわ)
俺の心臓が、跳ね上がった。
「こっちが客なのに、恥かかされたんだよ。分かる?」
「なあオッサン、迷惑料って知ってる? 財布、出せや」
「あ、ついでに店の金も全部持ってこいや」
図々しい要求と共に、スカジャンが一歩踏み出し、店長の眼鏡を指ではじいた。眼鏡が、ふっ飛ぶ。からん、と砂の上に落ちる音がした。
店長は、何も言わなかった。眼鏡のない顔で、ぎゅっと唇を結んだまま、四人を見返している。足は小刻みに震えているのに、一歩も引こうとしなかった。
「聞こえてんのかよ!」
金髪の手が、店長の胸ぐらをつかんだ。ポロシャツの襟が、ぎりぎりと絞られる。滑り台の柱に、店長の背中が押しつけられる鈍い音。
「……お店の、お金は、渡せない。それだけは」
「はあ? 何カッコつけてんの」
ピアスの男が、後ろからけらけら笑った。
俺は、遊具の陰で固まっていた。
(どうする。どうする。どうする)
心臓が、耳の中でうるさい。
魔法。天秤を使うか。いや、昨夜からの魔力は、ろくに残っていない。使えるかどうかも怪しい。それに、使えたとして、今の魔力では恐らく……逆に自分が服従する。
あんな連中に服従したら、今の自分なら何をされるか分かったものじゃない。
じゃあ殴り込むのか。喧嘩なんか、生まれてこのかた一度もしたことがない。四人相手に、この華奢な体で。
(無理。無理だ。絶対無理)
逃げるのが、一番賢い。分かっている。誰かが通りかかるかもしれないし、俺じゃなくても、他の誰かがきっと。
でも、店長の足は、ずっと震えていた。
金髪が、空いているほうの腕を大きく振りかぶった。拳が、街灯の光を受けて、白く見える。
(…………ああ、もう)
考えている時間は、ないやつだ。
俺はポケットからスマホを引っぱり出した。指が、勝手に動く。画面を開き、電話のアイコンを叩き、テンキーを呼び出す。
親指が、震えたまま、1を押した。
>ドイツ語ならなんでもかっこよく見える説。