朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
親指が、残りの数字をなぞった。1、0。最後に発信。
呼び出し音は、一回鳴っただけで途切れた。
「はい、110番、警察です。事件ですか、事故ですか」
落ち着いた女性の声だった。ただしその声は、スマホのスピーカーから、夜の公園いっぱいに響き渡った。
(え?)
画面を見ると、スピーカーのアイコンが光っている。震える指が、どこかで余計なものを押していたらしい。
「もしもし? 聞こえていますか? 事件ですか、事故ですか」
遊具の向こうで、五人の動きがぴたりと止まった。金髪の拳は、振りかぶった形のまま宙で固まっている。四つの顔が、一斉にこちらを向いた。
(終わった。物陰から小声で通報して、あとは気配を消す予定だったのに)
見つかった以上、背中を向ければ追いかけられる。隠れ続けても、同じことだ。ならば、残された道はひとつしかない。
不思議なことに、足はもう動いていた。遊具の陰から一歩、二歩と進んで、街灯の光の輪に踏み込む。右の肘には米と水の袋をぶら下げたまま、左手でスマホを高く掲げた。胸を張り、顎を引く。
口が、勝手に開いた。
「そこまでにしておきなさい」
自分の声とは思えなかった。低くも高くもなく、凛として、そして途方もなく偉そうな声。夜の公園の空気が、それだけでぴんと張り詰めた。
四人の視線が、俺に突き刺さる。
(ひいいい)
心臓が口から飛び出しそうだった。しかし実際に口から出ていくのは、全然違う言葉だった。
「あなたたち、酔った勢いで、ずいぶん楽しそうなことをしているじゃない。でも残念ね。警察ならもう呼んだわよ」
スマホを軽く振ってみせる。
「ほら、聞こえるでしょう? 今、場所を伝えようとしていたところよ」
絶妙な間合いで、スピーカーが律儀に続けた。「もしもし、場所はどちらですか? 近くに目印になるものはありますか?」
効果は、予想よりずっと覿面だった。
金髪の喉が、ごくりと鳴った。ピアスだらけの男は、思わず後ずさって、自分の缶チューハイを落としそうになっている。ただ、一人だけ、まだ引き下がらない奴がいた。
「は? 何だよ、お前」
スカジャンの男が、胸ぐらから手を離した店長をその場に残して、ずかずかとこちらへ歩いてくる。目が据わっていた。
「ガキが、調子乗ってんじゃねえぞ。どうせハッタリだろ」
「ハッタリかどうかは、そのスマホの向こうの方に聞いてごらんなさい」
「つうか何だよ、その頭」
男の視線が、俺の帽子に止まる。深くかぶった帽子の生地が、内側から二つ、不自然に押し上げられていた。街灯の光で、その影が地面に伸びている。細く、ねじれて、とがった二本の影。
「コスプレかよ。動画でも撮ってんのか? いい度胸してんな」
男の手が、伸びてきた。
(ちょっ、待って、触らないで、本当に、お願いだから)
内心では土下座する勢いだった。ところが、その手が肩に触れたとき、予想もしない出来事が起きた。
男が、俺の肩をどんと突いた。
そして、それだけだった。
俺は、一ミリも動かなかった。米と水の袋を提げたまま、足の位置さえ変わらない。逆に男のほうが、押した反動で半歩よろけた。
「あ?」
男の顔から、血の気が引いていく。不思議そうに自分の手のひらを見つめ、もう一度、今度は力いっぱい押してきた。結果は同じだった。壁を押したような、手応えのない手応え。
(……押された? 気のせいか。加減をしている……訳でもない?)
俺は小首をかしげた。ただしその仕草は、傍目には「虫が止まったかしら」という大魔族の余裕にしか見えなかった。
そのとき、ぱちん、と音がして、街灯が一瞬消えた。
すぐに点いたが、不良たちには十分だった。四人が揃ってびくりと肩を震わせる。
(古い街灯だな。区役所はちゃんと点検してくれよ)
呑気な感想を抱いている俺の口は、また勝手に動いた。
「触れて無事で済むと思っているのかしら。私は今、とても機嫌がいいから見逃してあげているだけよ」
「……な、何だよ、こいつ」
金髪がうめくように言った。さっきまでの威勢が、すっかり剥がれている。夜の公園で、角のようなものを生やした少女が、妙に堂々と立ち、電話の向こうの警察と話している。理屈抜きで不気味なのだろう。
そこへ、スピーカーから三度目の声が届いた。
「もしもし? 現場の近くに、不審な人物はいますか? 特徴を教えていただけますか」
俺は、スマホにゆっくり顔を近づけた。
「ええ、いるわ。目の前に、四人」
四人の顔が、凍りついた。
「金髪でジャージの男。派手な柄のスカジャンの男。それから、耳に大量のピアスをつけた男。全員、手に缶を持っているわね。未成年にしか見えないけれど」
淡々と、歯切れよく。会社員時代、クレーム対応の報告書を毎日書いていたおかげで、人相の説明だけは手慣れていた。
「場所は、――公園よ」
場所まで伝えた時点で、こちらが本気だと伝わったらしい。
「お、おい、あいつ、マジで言ってる」
「特徴まで……」
ピアスが、青い顔で金髪の袖を引いた。
「やべえって。帰ろうぜ。警察はマジでやべえ」
「ち、ちくしょう!」
金髪が、残っていた缶を地面に叩きつけた。空の缶が、からんからんと転がっていく。
「覚えてろよ、角女! 次会ったら、ただじゃおかねえからな!」
「そんな捨てゼリフ、時代劇でもなかなか聞かないわ」
つい突っ込むと、金髪は言葉に詰まり、捨てゼリフの二弾目を飲み込んだ。スカジャンは最後まで俺の肩を気にしながら、ピアスは片足を引きずるように、四人はばらばらと夜の闇に消えていった。
足音が、遠ざかる。
やがて、公園には静けさだけが戻った。
「……ふう」
息を吐いた瞬間、膝の力が抜けかけた。しかし、大魔族の矜持というのだろうか、体は背筋を伸ばしたままで、一ミリも崩れなかった。
(勝った……のか? 俺、勝ったのか?)
殴ってもいないし、魔法も使っていない。ただ喋っただけだ。それでも、足元に落ちた空き缶の転がる音が、勝利のファンファーレのように聞こえた。
「もしもし、通報者の方? 状況は、どうなりましたか?」
スマホから響いた声に、我に返る。慌ててスピーカーを切り、耳に当てた。
「……ええ、もう大丈夫よ。四人は逃げていったわ」
「そうですか。ご無事で何よりです。パトカーが向かっていますので、現場でお待ちいただけますか。念のため、通報者の方のお名前と連絡先を……」
その瞬間、俺の頭が真っ白になった。
名前。この体の名前は、アウラ。この国の戸籍には存在しない。連絡先は、この電話番号。登録は、三十二歳男性のものだ。
「……ええ、そうね。待つわ」
返事だけして、そのまま通話を切った。名乗らなかった事実に気づいたのは、その直後だった。
(やってしまった。いや、まだ大丈夫。名前を聞かれる前に逃げれば)
そう思って顔を上げた俺の視線の先で、店長が、地面に這いつくばっていた。
「め、眼鏡……眼鏡、どこだ……」
滑り台の柱の下を、両手でぺたぺたと探っている。中年男性が夜の公園で四つん這いになっている姿は、かなり切なかった。俺は数歩近づいて、地面に落ちていた眼鏡を拾い上げた。レンズに傷はない。
「……ほら、これでしょう」
「あ、ありがとう……」
店長の震える手が、差し出した眼鏡を受け取る。それをかけ直し、ゆっくりと顔を上げた店長の目が、俺をまっすぐに捉えた。
そのとき、遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
サイレンは、あっという間に近づいてきた。赤い光が住宅街の壁をなめるように走り、公園の入口のあたりが、ちかちかと明滅している。
「ありがとう、ございます。本当に、助かりました」
店長が、深々と頭を下げた。眼鏡のレンズ越しの目が、まだ少し潤んでいる。
「あの、君は、いったい……」
その続きを、俺は聞いていなかった。頭の中で、最悪の想像が、ものすごい勢いで組み上がっていったからだ。
パトカーが着く。降りてきた警察官に、事情を聞かれる。お名前は。ご年齢は。ご住所は。身分証はお持ちですか。見た目は未成年の外国人の少女が、夜の公園で一人。補導。保護者の方に連絡を。免許証の写真は三十二歳の男性。角のようなものが生えた頭。国籍は。在留カードは。
(無理無理無理無理無理無理)
どこをどう辿っても、行き止まりだった。
「名乗るほどの者ではないわ。あとは警察に任せなさい」
口から出たのは、我ながら惚れ惚れするほど完璧な、去り際の台詞だった。内心は半泣きである。くるりと店長に背を向け、俺は逃げ出した。
最初の一歩で、地面が、後ろへ飛んだ。
「え」
自分の声が、風に流れて消える。体が前へ、ぐんと持っていかれた。ふくらはぎがばねのようにしなり、公園の砂利を蹴った瞬間、景色がまるごと後ろへずれる。
走り出した風圧に押されて、深くかぶっていた帽子が、ふわりと浮き上がった。
(あっ)
反射的に、右手が動いていた。空中で帽子をつかみ、そのまま小脇に抱え込む。荷物を提げた左手は、ぴくりとも揺れなかった。ただ、帽子が外れたことで、夜気が頭を直接なでていく。
背後で、店長が小さく息をのむ気配がした。
(今、見られたよな。絶対、角、見られたよな)
振り返る余裕など、あるはずもない。俺は公園の出口を抜け、住宅街の路地へ飛び込んだ。
街灯が、次々と流れていく。
一つ、二つ、三つ。数えている間に、もう五つ目だった。角を曲がると、前方に自転車の影があった。帰宅途中らしい高校生が、ゆっくりペダルをこいでいる。
その横を、俺は、すっと抜き去った。
「え、うおっ」
背後から、間の抜けた声が聞こえた。
「今の人、チャリより速くなかった……?」
(気のせいです。たぶんあなたの自転車が遅いだけです)
勝手な理屈で、心の中だけ謝っておく。信号待ちの車の横を駆け抜け、散歩中の柴犬の前を過ぎる。柴犬が、目をまん丸にして、吠えるのも忘れていた。
不思議なことに、息がまったく苦しくない。
運動不足のアラサー会社員が、二十キロ近い荷物を持って、全力疾走している。普通なら三十秒でひっくり返る。それなのに、心臓は少し速いだけで、足は軽やかに路面を蹴り続けていた。
(これが、火事場の馬鹿力ってやつか。人間、本気になるとすごいな。いや、今は魔族か)
勝手に納得しながら、俺はさらに加速した。
五分、いや十分は走っただろうか。家の近くの角まで来て、ようやく足を止めた。膝に手をつき、はあ、と大きく息をつく。
実際には、深呼吸をした、というほうが正確だ。肺はほとんど疲れていなかった。
ふと、右手の荷物に目を落とす。米袋は無傷。お茶のパックも、野菜も、揺れで潰れた様子はない。恐る恐る卵のパックを開けてみた。
十個、いい感じにミックスされていた。
「……しばらくは、卵料理ね」
家に着いたのは、それからすぐだった。
玄関を閉め、鍵をかけ、チェーンまでかけて、荷物を床にどさりと置く。そのまま、へなへなと座り込んだ。
(……やった。やったよな、俺)
じわじわと、達成感が胸に広がってきた。魔法も使っていないし、誰も殴っていない。ただ、通報した。それだけのことだけど、あの場面で、四人の不良を追い払った。サラリーマン時代の俺には、絶対にできなかったことだ。
(いや、中身はまだ俺なんだけどな。口が勝手に偉そうなだけで)
ひとしきり自分を褒めたあと、いつもの習慣で魔力を確認した。
体の中にあるコップの水位は、河川敷の夜より、さらに低くなっていた。昼間の買い物のあと、まだ回復しきっていなかったところに、ごっそり減っている。
「全力で走ったからかしら……。まあ、あれだけ走ったのもいつぐらいかしらね」
原因はあっさり解決した。解決したつもりになった。荷物を持ち歩いていたことも、肩を突かれて動かなかったことも、自転車を追い抜いたことも、一つも結びつけないまま。
そして、もうひとつの不安が、じわじわ追いついてきた。
(店長、顔、見たよな。角も、見たよな)
サンライズマートに、明日から行きづらくなる。いや、そもそも、あの店は一番近い店なのに。
頭を抱えかけたとき、テーブルの上のスマホが、ぶるぶると震えた。
画面を見る。見覚えのない固定電話の番号だった。
(…………)
背筋が、すっと冷えた。
通報した番号。名乗らないまま切った電話。通話中に聞かれていた、現場にいてほしいという要請。
俺は、無言で正座していた。いつの間にか、そうなっていた。スマホをテーブルの中央に置き、その前に背筋を伸ばして座る。部屋の電気は点いているのに、何か、薄暗い部屋で事情聴取を受けているような気分だった。
ぶるぶる、ぶるぶる、ぶるぶる。
(出るべきか。出るべきなんだろう。市民の義務というか、通報者として。でも出たら、お名前は、ご住所は、なぜ現場からいなくなったのですか、と聞かれる。正直に答えられることが、一つもない)
ぶるぶる、ぶるぶる、ぶるぶる。
(落ち着け。落ち着け俺。深呼吸して、通報者を装って……いや、もう通報者なんだけど……)
着信は、十数回目で、ぷつりと途切れた。
静寂。
俺は、ゆっくり息を吐いた。冷や汗で、背中がぐっしょりだった。
数分後、また画面が光った。同じ番号。ぶるぶる、ぶるぶる。今度は、さっきより長かった。
三回目の着信のあと、スマホが、留守番電話に切り替わった。録音を告げる小さな通知が、画面に灯る。
再生ボタンに、指が伸びかけて、引っ込んだ。
「…………明日の私が、直々に相手をしてあげるわ」
今夜の俺は、もう十分に頑張った。スマホを伏せて、米袋を台所に運び、割れた卵をそっと冷蔵庫にしまう。それから、冷蔵庫の前でしばらく立ち尽くした。
通報して、助けて、逃げて、無視した。今日一日で、アウラとしての行動の幅が、急に広がった気がする。
(……まあ、いいか。不良は逃げたし、店長は無事だったし)
それだけは、胸を張っていい。小さく、一人でうなずいた。
***
パトカーが公園に着いたのは、通報から七分後のことだった。
「通報を受けて来ました。山花田さん、お怪我は」
若い巡査が駆け寄り、後ろから年配の警官がゆっくり歩いてくる。サンライズマートの店長――山花田伊織は、乱れたポロシャツの襟を直しながら、頭を下げた。
「いえ、私は大丈夫です。眼鏡を飛ばされたくらいで」
「四人組ですか。人相は」
「それが、通報してくれた女の子が、全部、言ってくれたんです」
巡査が、メモを取る手を止めた。
「通報者の方が、ですか? その方は今、どちらに」
「走って、行ってしまいました。ものすごい速さで」
山花田は、遠い目をして答えた。
あの少女の姿は、まだ、はっきりと目に焼きついている。
薄紫の長い髪。整いすぎた顔立ち。どう見ても日本人離れした雰囲気で、外国人のような、と言うべきなのだろうか。年は十代に見えたが、話し方は妙に大人びていて、威圧感すら漂わせていた。
そして何より、頭の左右から、ねじれた二本の角が生えていた。
「角、ですか?」
年配の警官が、聞き返した。巡査のペンが、また止まる。
「ええ。いや、変な話だとは分かっているんです。でも、確かに、角が……」
「コスプレとか、そういう」
「そうかもしれません。でも、走り出した拍子に帽子が飛んで、その下に、本当に生えていたんです」
自分でも信じがたいことを言っている自覚はあった。警官二人は顔を見合わせ、とりあえず、メモにそのまま書き留めた。
聴取が終わり、パトカーが去っていく。静かになった公園で、山花田は一人、滑り台の柱にもたれた。
ふと、胸の中で、何かがひっかかった。
あの口調。あの、妙に堂々とした、芝居がかった言い回し。
どこかで、聞いたことがある。
「…………あ」
声が、勝手に漏れた。
夜のレジ。帽子を目深にかぶって、マスクで顔を隠した、小柄な子。よく割引シールの貼った弁当を買っていく。
そして、レジ横の求人ポスターの前で、何度も立ち止まっていた子。
(あの子だ……!)
山花田は、ゆっくりと夜空を見上げた。人手不足で三か月悩んでいるアルバイト募集に、いちばん縁がなさそうで、いちばん頼りになりそうな人材が、今、角を揺らして走り去った。
「……今度うちに来たら、少し話を聞いてみようかな」
つぶやきは、夜風に溶けて、消えていった。