朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
戻ってきた店長の手には、ハサミと、定規と、鉛筆と、それから冷たい麦茶の入ったコップが乗っていた。
順番がおかしい。ハサミの隣に、麦茶がある。
「ああ、驚かせちゃったかな」
店長は、両手で角を押さえている俺を見て、慌てたように目を丸くした。
「大丈夫、角は切らないよ。切るのは帽子のほう。大事なものなんだよね、それ」
そこまで言って、店長はコップを俺の前にそっと置いた。
「緊張してたでしょう。まず、これを飲んで。急がなくていいからね」
……なんだ、この人。
麦茶は、よく冷えていた。喉を通ると、さっきまでの動悸が、少しずつ静かになっていく。面接に来た人間に、どうしてここまで気を遣えるのだろう。俺が前に勤めていた会社では、面接どころか、日常で麦茶を出された記憶などない。
「飲み終わったら、帽子をかぶってみてもらえるかな。角が、どのへんに当たるのか見たくて」
言われたとおりにキャップをかぶる。角が、布の天井を内側から押し上げて、へにゃりと不格好に曲がった。
「うん、やっぱり。これだと、角が痛いよね。ちょっとだけ、触らせてもらってもいいかな。位置を測りたいんだ」
「……構わないわ」
口から出たのは、いつもの偉そうな許可だった。店長は「ありがとう」と丁寧に頭を下げて、指先を、ほんのわずか角に触れさせた。
途端に、背筋がぞくりとした。くすぐったいような、妙に落ち着かないような感覚である。こんなところを他人に触られた経験は、もちろんない。
「しっかりした作りだなあ。重たくないの?」
「……重くは、ないわ」
「そう。それは良かった。ちょっと、じっとしててね」
店長は定規を取り出して、角の根元の幅と、頭からの距離を測り始めた。真剣である。眉間にしわを寄せ、鉛筆でメモを取り、また定規を当てる。その横顔は、国家試験の最終問題に挑む受験生のようだった。
***
山花田伊織は、緊張していた。
この子にとって、この角は、きっと大切なものなのだろう。本人が作ったのか、誰かが作ってくれたのかは分からない。けれど、触れる指に力を入れないよう、それだけは強く意識した。
帽子に穴を開ければ、少なくとも角を無理に曲げることはなくなる。仕事中ずっと窮屈な思いをさせるのは、あまりにも忍びない。それくらいのことしか、今の自分にできないのが、少し歯がゆかった。
印をつけて、ハサミを入れる。ほつれないように、事務所の引き出しからソーイングセットを取り出して、縁を丁寧にかがっていった。針を持つ指が不器用に震えたが、少女は何も言わず、じっと待ってくれていた。
ベルトの穴も増やしてあげようか、と、喉まで出かかった。
さすがに、それは飲み込んだ。初対面の相手の、ベルトの穴である。やさしさにも、越えてはいけない一線というものがあるだろう。
***
「できたよ。かぶってみて」
渡された帽子は、さっきとまるで別物だった。朝日のロゴ入りのキャップに、角の通る穴が二つ、きれいに並んでいる。縁は、細かい糸でぐるりと縫い留めてあった。
かぶってみる。
角が、すとんと穴に収まった。窮屈さが、嘘のように消えた。鏡がないので見えないが、たぶん、すごくちょうどいい位置に収まっている。
「……痛くない」
「本当? 苦しくない? きつかったら、遠慮なく言ってね。何度でも直すから」
何度でも。
俺は一瞬、返事ができなかった。声が、喉の奥で止まっている。
「……問題ないわ。これで、いいのよ」
出てきたのは、やはり偉そうな言い方だった。けれど、声がほんの少しだけ震えていたのに、自分でも気づいた。
店長は、満足そうに目を細めた。
「じゃあ、これで決まりだ。採用ということで、お願いしたいんだけど、どうかな」
「……採用?」
「うん。うちで働いてもらえると、助かる」
採用。
俺は思わず、手元の履歴書を見た。偽名と、別人の顔と、白紙の職歴欄。それでも、だめではなかった。
「当面は、昼間の短い時間から始めようか。夜の勤務は、少し慣れてからにしよう」
店長は、ペンでシフト表の隅に何かを書き込みながら言った。夜勤は十八歳以上、という決まりがある。書類の上では二十歳なのだから問題はないはずだが、店長の顔には「念のため」とはっきり書かれていた。
「それと、身分の確認できる書類を、いずれ見せてもらわないといけないんだけど」
ぎくり、とした。
来てしまった。この質問だけは、避けて通れないと思っていた。俺の免許証は、写真が別人である。見せたら最後、事件になる。
「……国に、置いてきたわ」
嘘ではない。正確には、国ではなく、世界ごと置いてきたことになっているのだが。
店長は、少しの間、何も言わなかった。それから、静かに息をついた。
「そうか。事情が、あるんだね」
「……」
「本当は、なるべく早く必要なんだ。でもね、無理に急かすつもりはないよ。少しずつ、できるところから考えていこう。困ったことがあったら、いつでも相談して。ここの電話番号、渡しておくから」
それから、店長が少し悩み。
「それと、給与は銀行振込になるけど、口座はあるかな」
口座なら、ある。佐々木琥太郎として使っていた、いつもの銀行口座だ。
「……あるわ」
「よかった。じゃあ、振込先だけ教えてもらえるかな」
俺はスマホで口座情報を確認し、店長に伝えた。名義は、まだ佐々木琥太郎のままだ。説明を求められたらどうしようかと身構えたが、店長は一瞬だけ画面に目を落とし、それ以上は何も聞かなかった。
そして、店長は、メモ用紙にさらさらと番号を書いて、渡してくれた。丁寧な字だった。
助かった。助かったのだが、爆弾の導火線が、少し長くなっただけである。俺の内心は、安堵と不安の間を行ったり来たりしていた。
「制服は、いちばん小さいサイズを探しておくよ。ちゃんと合うのを用意するから」
「……そう。お願いするわ」
「名札は、どうしようか。ダントゥーダイだと、ちょっと長いかな」
「……アウラで、構わないわ」
「うん。アウラさん、だね」
名前を呼ばれて、俺は、妙にむずがゆい気持ちになった。偽名であることを、いやというほど知っているのに。
***
帰り際、店長は事務所の冷蔵庫から、弁当を一つ持ってきた。
「これ、よかったら持って帰って。今日の賞味期限が近いやつなんだ。どのみち廃棄になっちゃうから」
「憐みは受けたくはないわ」
「いいから、いいから。これからは遠慮しなくていいからね」
店長は、あのやさしい目のまま、押しつけるでもなく、ただ静かに弁当を差し出していた。
食事は不要だ。それは間違いない。ただ、食べれば数点でも魔力が回復する。安いスーパーまで遠出して節約している身としては、正直、ありがたすぎる提案である。
それに、それ以上に。
誰かに食べ物を分けてもらうなんて、いつぶりだろう。ブラック企業に勤めていた頃は、コンビニの割引シールすら、家に帰ってから見つけるような生活だった。
「……もらってあげるわ」
手を伸ばして受け取る。袋が、思ったより温かかった。
「感謝、するわ」
声に出して、それだけ言った。口調はやっぱり偉そうなのに、気持ちだけは、嘘をつけなかった。
店長は、ふわりと笑った。
「うん。来てくれて、ありがとう。待ってるね」
***
裏口の扉が閉まるのを見届けて、山花田は、椅子にゆっくり腰を下ろした。
履歴書を、もう一度手に取る。偽名かもしれない。二十歳というのも、本当かどうか分からない。身分を示す書類もない。それでも。
あの子は、帽子の穴を開けたとき、小さな声で「痛くない」と言った。
それだけで、十分だった。ここは、あの子が安心して働ける場所にしよう。それが、公園で助けてもらった恩返しにもなる。
山花田は、シフト表のマス目に、小さな文字で「アウラ」と書き込んだ。それから、少しだけ迷って、その隣に「SS」と付け足した。制服の、いちばん小さなサイズだ。
***
帰宅して、レンジで弁当を温めた。
食べながら、帽子の穴をそっとなぞる。縫い目は、驚くほどきれいだった。店長の不器用な手つきを、頭の中で再生してしまって、少しだけ笑えた。
食べ終わって、洗面所の鏡の前で、俺はなんとなく帽子をかぶってみた。角が、ちゃんと穴から出ている。ぴったりだ。
気づけば、片手を腰に当てて、もう片方の手で前髪をかき上げ、斜めに顔を傾けていた。
鏡の中の大魔族が、不敵な笑みを浮かべている。
「……何をやっているのよ、私は」
以前、鏡の前でポーズを決めた時とまったく同じ後悔が降ってきた。俺は帽子を脱いで、静かに洗面台に置いた。
魔法で金を稼ぐ道は、ことごとく潰えた。動画配信でも、結局一円にもならなかった。偽物である30年以上生きた大魔族の力(笑)では、現代社会の壁は、まるで崩れなかった。
行き着いた先は、コンビニのアルバイトである。時給という、実に地味で、実に堅実な魔法だった。
「……結局、コンビニのバイトね」
鏡の中のアウラは、どこか誇らしげに、そして少しだけ情けなく、肩をすくめていた。
こうして、断頭台のアウラ(偽)の金稼ぎは、魔法でも配信でもなく、いたって地道な形で、ようやく一歩目を踏み出したのだった。