朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
台所に立った俺は、冷凍庫の最後の一玉を鍋に放り込んだ。
正確には、立とうとして一度失敗した。コンロのつまみに手が届かなかったわけではない。身長が十センチ以上縮んだせいで、昨日までの目測がことごとく狂っているのだ。換気扇のスイッチは、いつもより高い位置にある。
鍋の中で、うどんが少しずつほぐれていく。
――ブブッ。
テーブルの上でスマホが震えた。画面には、LINEの通知が三つ。
『連絡しろ』
『おい、聞こえてるのか』
『無断欠勤は懲戒対象だぞ』
たった二分の間に、文面が「命令」から「脅迫」へと駆け足で進化している。進化の速さだけなら、ポケットに入れる怪物たちといい勝負だ。
メールも来ていた。件名は「至急」「至急(再送)」「至急!!!」の三連発で、最後のものは感嘆符が増えている以外、前のとほぼ同じだった。
ここで既読をつけたら終わりだ。向こうは「読んだなら返事ができるはず」と考える人種で、返事をしなければ、それを根拠にさらに怒る。既読は火に注ぐ油、通知欄は消火器。俺は画面を指先でそっと撫でて、プレビューだけで文面を読むことにした。
お湯がぐつぐつと音を立てる。その横で、戸棚を開いた。
米、なし。パスタ、なし。レトルトカレー、なし。冷蔵庫の中身は、醤油と、賞味期限が来月の梅干しと、謎の調味料の残党だけ。つまり、今茹でているこれが正真正銘の最後の一玉である。
食べたら食料はゼロ。
次に口へ入れるものを買うには、外に出なければならない。角と紫の髪と、日本人にはどうやっても見えない顔面を引っさげて。
「……考えるのは、食べてからにしましょう」
口から出たのは、鈴を転がすような少女の声だった。しかも妙に偉そうだ。頭の中の俺は震えているのに、声だけがやたらと堂々としているのだから、実に始末が悪い。
どんぶりに移したうどんに、めんつゆをかけてネギを散らす。
その間、台所の窓ガラスに、うっすらと自分の姿が映っていた。
薄い紫色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れている。瞳は濃い紫で、まつ毛が長い。透き通るような白い肌に、頭の両側から巻いた角が二本。服はスーツから着替えた、灰色のくたびれたスウェットのままだが、サイズが合わず、袖が余って指先しか出ていない。
そこにあるのは、ファンタジー世界から丸ごと切り取ってきたような美少女である。生活感の塊である1Kの台所に立っていることだけが、致命的に似合わない。背景に冷蔵庫の唸りとシンクの水垢がある時点で、絵面は既におかしかった。
そんな彼女が、右手に割り箸を持っている。
「いただきます」
パキッと割って、慣れた手つきで麺を持ち上げる。三十二年間の人生で鍛えた箸さばきは、体が変わっても健在だった。これは嬉しい誤算だ。ところが、すすった瞬間にどうしようもなく異様な光景ができあがる。
角つきの魔族が、夜型社畜の食卓で、ずるずると音を立てて麺をすすっているのだ。
窓に映ったその姿を見て、自分で吹き出しそうになった。原作では、この少女は残酷な笑みを浮かべて、人間の首を並べていたはずなのに。今は、ネギを噛んでいる。
「……まあ、悪くない味ね」
偉そうな口調が余計に滑稽だ。ひとりで何を評論しているのか。
麺の半分を食べ終えたところで、ふと思い立った。
もしかして、二次創作なら自分と同じ状況になった話があるのでは?
思い立ったが吉日。俺はスマホを手に取り、フリーレンの二次創作を検索した。検索窓には「フリーレン 二次創作 アウラ」と入れる。ついでに「憑依」も足しておいた。
結果はすぐに出た。
大量に。
『転生したら断頭台のアウラだった件』
『アウラ様の異世界リスタート』
『最強の
ずらりと並ぶ、「転生系」のタイトルたち。
どの作品を開いても、舞台はきちんとフリーレンの世界だった。剣と魔法の大陸で、アウラとして目覚めた主人公たちは、最強の軍勢を率いたり、魔族の仲間をつくったり、勇者パーティーに怯えたりと、実に生き生きと冒険している。
俺は一本ずつ、粘り強く確認していった。
ない。
現代日本の自室で、角つきで目覚める話は、見つからない(※)。
※実際には、似た作品はたくさんあります。
つまり、俺は物語の主人公ですらないのだ。物語になる前の、ただの異常事態。
「……転生組は、魔法でなんとかなる世界でいいわね」
ため息まじりのつぶやきは、はっきりと羨望の色を帯びていた。あちらには当たり前のように魔物や魔法があって、中世的な仕組みの世界観だ。だから、身分証がなくても、とりあえず生きていける。
一方の俺はどうか。
部屋を見回す。家賃四万円。築年数不明。壁は薄く、隣の住人の咳払いまで聞こえる。窓の外には、電柱とゴミ置き場しか見えない。
「私は家賃四万円の1Kよ。月給は手取りで二十万円以下……」
言った瞬間に、自分の声があまりにも堂々としていて、また落ち込んだ。
画面の中のアウラたちは、色々な仲間たちに囲まれていた。画面の外の俺は、のびかけのうどんに囲まれている。
世の中は不公平である。
麺をすすりながら、ふとカーテンの隙間に目がいった。
窓の外では、買い物帰りの主婦と、ジャージ姿の学生と、犬を連れたおじいさんが、のんびりと通り過ぎていく。
そうだ、魔力感知を試してみよう。
俺は目を細めて、息を整えた。さっきは自分の魔力が「弱い」としか分からなかったが、他人ならどうだろう。もしかしたら、街中に強い魔力の持ち主が紛れているかもしれない。万が一、勇者パーティーの子孫とか、フリーレンの関係者とか、そういう物騒な存在が。
一人目、買い物袋を提げた主婦。
……弱い。
二人目、ジャージの学生。
……弱い。
三人目、犬を連れたおじいさん。
……弱い。ちなみに犬も弱い。
結局、全員が「弱い」の一言で片づいた。
ここで、新たな疑問が生まれる。自分の魔力もまた、「弱い」のだ。物差しが一本しかないので、誰と比べても同じ結果にしかならない。
「私が弱いのか、世界が弱いのか、どっちなのよ」
首をひねった拍子に、角がカーテンに引っかかった。慌てて外すと、レースが少しだけほつれた。賃貸なので、これも修繕費の候補に入れるべきか。頭の中の家計簿が、勝手に新しい項目を追加していく。
気を取り直して、残りのうどんを胃に流し込む。
ふと、気づいた。
体が、ほんのりとあたたかい。
お腹の底のあたりに、湯たんぽを入れたようなぽかぽかが広がっている。うどんが温かかったからだろうか。それとも、単に緊張がほぐれただけか。
「……気のせいよね」
まだ、俺は知らない。その「ぽかぽか」が、この世界で自分が生き延びるための、最初の手がかりだということを。
どんぶりの底に残っためんつゆを、じっと見つめる。
食料は、ゼロになった。