朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
サンライズマートの自動ドアの前で、俺は三分ほど立ち尽くしていた。
三十二年生きてきて、初登校や初出勤の緊張には何度も覚えがある。中学や高校の入学式、新卒の入社式、異動初日。どれも胃は痛かったが、今日のそれは種類が違う。なにせ今の俺は角つきの美少女で、履歴書の名前は適当に名乗った「アウラ・ダントゥーダイ」、年齢は二十歳ということになっているのだ。設定の盛りすぎで、どこから崩れても不思議はない。
(落ち着け、俺。ただのコンビニバイトだ。社会人経験は十年ある。レジくらい、なんとかなる)
「サンライズマート」と描かれた帽子のつばをぎゅっと下げる。つばの下で、店長が空けてくれた穴から角がにょっきり突き出していた。我ながら見事なフィット感である。穴の縁はほつれ止めまでしてあって、あの人の丁寧な仕事ぶりが、こういうところに出ていた。
「あ、アウラさん。こんにちは。来てくれたんだね」
ドアが開くより先に、中から声がした。レジ裏から顔を出した山花田店長が、にこにこと手を振っている。中年の優しいおじさん、という言葉をそのまま形にしたような人だ。目尻の皺が、見ているだけで胃のあたりをゆるめてくれる。
「お、お疲れさまです。本日からお世話に――ええ、来てあげたわ。あなたも励みなさい」
……ああ、はい。そうなりますよね。
頭の中では完璧な新人挨拶を組み立てていたのに、口から出たのは大魔族の訓示だった。緊張が高まると尊大さが増す、このはた迷惑な仕様はまだ解決していない。慣れたら制御できるはず、と思いたいが、今のところ慣れる気配はゼロだ。
ところが店長は、気を悪くした様子もなく「うんうん、元気があっていいね」と頷いた。この人の解釈の広さは、もう海に近い。
バックヤードに通され、ロッカーの前で制服を受け取った。一番小さいサイズなのに、全体的にぶかぶか感が拭えない。その割に、胸のあたりが押し付けられる感じがある。着替えを終えて鏡を見ると、紺色と白のラインの制服に紫の髪、おまけに帽子から角。なにかのコスプレ会場の迷子だった。
胸元には、ひらがなで「あうら」と書かれた名札が光っている。この先ずっと、この名前で呼ばれるのか。急に現実味が出てきて、膝のあたりがすうっと寒くなった。
「サイズ、大丈夫そう? 小さいのを発注し直してもいいからね」
「……問題ないわ。これで十分よ」
「そう、よかった。それでね、シフトのことなんだけど」
店長は壁のシフト表を指さしながら、少しだけ言葉を選ぶ顔になった。
「最初は、昼から夕方までにしておこうか。夜の時間帯はね、ほら、いろいろあるから。慣れてきたら、また相談させてもらうよ」
いろいろ、の中身が、なんとなく分かってしまった。店長は俺の「二十歳」を、苦労した子の背伸びだと思っているのだ。夜勤に入れない理由を、本人の前でぼかしてくれている。優しさが具体的すぎて、むしろ俺のほうが居たたまれない。
「二十歳なのだから、夜でも構わないのだけれど」
「うん、そうだね。でも、まずは明るい時間にしようね」
噛み合わないまま、優しい声に包まれて話が終わった。この人の前では、俺の嘘は嘘として機能せず、全部あたたかく丸め込まれてしまう。
研修は、レジから始まった。
店長の手つきは、見ていて気持ちがいいほど無駄がなかった。バーコードをピッと通し、袋に温かいものと冷たいものを分けて入れ、最後に軽く会釈する。一連の流れが、ほとんど舞踊の域だ。
「袋詰めは、重いものを下に、潰れやすいものを上にね。お弁当は、傾けないように」
「分かったわ」
「ポイントカードは、聞かれたら出してもらう形で。無理に勧めなくて大丈夫」
「ふうん、控えめなのね」
そこは勧めたほうがいいのでは、と元営業の血が少し騒いだが、今は黙っておく。
「それと、お酒とたばこ。この年齢確認ボタンを、お客さんに押してもらってね。迷ったときは、見た目で判断せずに必ず確認」
店長はそこでふと、俺の顔を見て、何か言いかけて、そっと口を閉じた。見た目で判断すると、この店で一番まずいのは自分の店員だ、ということに思い当たったらしい。俺は気づかなかったことにした。
「たばこは、お客さんが銘柄で言ってくる場合と、番号で言ってくる場合があるんだ。銘柄は種類がすごく多いから、分からなかったら番号で言ってくださいって、聞き返していいからね」
「番号、ね。覚えたわ」
たばこの陳列棚には、小さな数字がずらりと並んでいた。この世界の数字は、とても整然としている。俺はタバコを吸わないので、番号でないと難しいかもしれない。
続いて品出し。賞味期限の古いものを手前に、新しいものを奥に並べる。「先入れ先出し」という言葉を教わった。要するに、古い順に売る、という当たり前の話だ。ペットボトルの棚の奥から前へ一本ずつ送る作業は、単調だが、ちょっと楽しかった。やればやるだけ棚が整っていく手応えは、あの会社で味わったことのないものだ。
最後が声出しだった。
「挨拶は、お店の顔だからね。入ってきたお客さんに『いらっしゃいませ』、帰るときに『ありがとうございました』。まずは、僕が見本を見せるよ」
「いらっしゃいませー!」
店長の声が、店内によく通る。まるで朝の体操の号令だ。
「じゃあ、アウラさんも」
「いらっしゃいませ」
「うん、いいね。もう一回」
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました、も」
「ありがとうございました」
店内に客がいないせいだろう。緊張が緩んでいたのか、練習ではするりと普通に言えた。声そのものが涼やかな美少女ボイスなので、ただ平坦に言っているだけで、それなりに様になる。
「すごいじゃない、アウラさん。初日からこれなら、看板娘も夢じゃないよ」
「看板娘?」
「うん、ほら、この制服が似合う子は、お店の顔になるんだよ」
おだてられて、悪い気はしなかった。むしろ、ちょっとだけ胸を張ってしまった。調子に乗ったのが、まずかったのだと思う。
本番のお客さんは、昼の十二時過ぎにやってきた。
自動ドアがウィーンと開き、スーツ姿の女性が入ってくる。おそらくOLで、昼休みの時間帯だろう。髪は綺麗にまとめられていて、足取りには迷いがない。
来た。練習どおりに、普通に、普通に。
(いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ)
心の中で三回唱え、レジ前で背筋を伸ばし、口を開いた。
「いらっしゃい。私の店で買い物ができること、光栄に思いなさい」
沈黙。
時が止まった、というのは比喩ではない。店内の空調の音と、冷蔵ケースの低い唸りだけが残った。
(違う、違うんだ。俺が言いたかったのは、いらっしゃいませだけで、そんなに偉そうなことは)
内心の絶叫は、もちろん外には出ない。出てくるのは、腕を組んで顎をちょっと上げた、微動だにしない美少女の姿だけだ。しかも、組んだ腕のせいで、胸がさらに存在感を主張している。
OLさんは、棚から冷たいお茶とサラダを取って、無言のままレジに置いた。眉間に、くっきりと皺が刻まれている。
ピッと、バーコードを読み込む。
「……全部で、三百八十円よ」
「…………」
「袋は必要かしら」
「いりません」
低い声だった。電子マネーでピッと支払い、レシートも受け取らず、彼女は踵を返して出ていった。去り際、ドアの手前で「なにあの態度」とつぶやくのがはっきり聞こえた。まったくもって、おっしゃるとおりです。
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
(終わった。初日にして、クレームの予感しかしない)
そこへ、次のお客さんが入ってきた。
二十代半ばくらいの男性で、チェックのシャツにリュックを背負っている。入店して、レジのほうをちらっと見て、そして二度見した。三度見だったかもしれない。
目が、これ以上ないほど見開かれていた。
(あ、まずい。今度こそ怒られるやつだ)
身構えた俺をよそに、男性はふらふらと飲料の棚へ向かい、缶コーヒーを一本だけ取って、レジへやってきた。手が、少し震えている。
「い、いらっしゃい……ませ」
今度は、ちゃんと言えた。語尾が普通だったことに、心の中で拍手する。ところが、ほっとしたのも束の間だった。
「ひゃ、百三十円よ。さっさと出しなさい」
追加の一言が、勝手に飛び出した。
男性の肩がびくりと跳ね、それから、ゆっくりと、口元に幸せそうな笑みが広がっていった。
「は、はい。これで。……ありがとうございます」
「な、何がありがたいのかしら。変な人ね」
「いえ、あの、すごく、クオリティが高くて……!」
男性は缶コーヒーを両手で受け取り、深々と頭を下げた。そして店を出ていく途中で、ドアの向こうの誰かに話しかけるように、小声で言った。
「アウラ様に接客された……!」
聞こえてるぞ。
その場でうずくまりたい衝動を、気力だけで押さえ込んだ。
「いやあ、さっそく二人のお客さんだったね」
気づくと、店長が横に来ていた。バックヤードからずっと様子を見ていたらしい。彼は、怒っているどころか、とても楽しそうだった。
「声が、しっかり出ていたよ。いいことだ。最初の接客って、案外声が出ないものなんだよ」
「で、でも、最初のお客さんは明らかに怒っていたわ」
「そうだったかな。でも、あの人は、お昼に疲れているときだったのかもしれないね。それに、アウラさんの話し方は、個性だから。ああいうのを好きなお客さんも、きっといるよ」
実際に好きなお客さんが、たった今一人いたのが、むしろ問題を複雑にしている。
俺は、帽子のつばを引き下げながら、先ほどの二人を頭の中で並べてみた。怒った人は女性、喜んだ人は男性。たった二例では傾向とも呼べないが、なんとなく、そんな気がしてしまう。
(これ、毎回どちらかに振れるのか。それとも、ただの偶然か。どっちにしても、心臓に悪いな)
「さ、次は力仕事のほうをお願いしようかな」
店長が、搬入口のほうに目をやった。外から、トラックのエンジン音が近づいてくる。
初日の昼は、まだ半分も終わっていなかった。