朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
搬入口の外では、配送トラックが後ろの扉を開けて待っていた。
荷台にぎっしり積まれているのは、飲料のケースだ。二リットルのペットボトルが六本入った箱が、壁のように積み上がっている。見ているだけで腰がきしむ光景だった。三十二歳の佐々木琥太郎の腰が。
「アウラさんは、最初は軽いものからでいいからね。重いのは、僕と運転手さんでやるから」
店長はそう言って、まず自分で一箱を抱え上げた。「よいしょ」の掛け声が、すでにつらそうだ。
俺は、せめて邪魔にならないようにと、手近な箱に手をかけた。腰を落として、持ち上げる。
ひょい、と上がった。
(……あれ? 軽いな。これ、中身が空なのか?)
念のためもう一箱。ひょい。さらにもう一箱を重ねて、二段のまま、台車を使わずに店内へ向かう。足取りは、むしろ軽い。コツを覚えたのか、と一瞬思ったが、いや、こういうのは普通、経験の問題ではない。
「ア、アウラさん、それ……」
「何かしら。早く運んでしまいたいのだけど」
運転手さんまでもが、ぽかんと口を開けていた。俺は意に介さず、三往復目に入った。
制服のSSサイズは、こういうときにこそ文句が言いたくなる。胸のあたりがきゅうっと押さえつけられていて、箱を抱えるたびに、ボタンの周辺に妙な圧がかかるのだ。そのくせ腰回りはぶかぶかで、ベルト代わりのエプロンの紐を二重に巻いて、ようやく落ち着いている。上は窮屈、下は余裕。この制服を設計した人に、一度じっくり話を聞いてみたい。
紺色の生地に走る白のラインは、見た目こそ爽やかだ。帽子のつばについた「サンライズマート」のロゴも、角の穴の上でちょうどいい位置に収まっている。デザインに罪はない。罪があるのは、人体の個体差を想定しなかったサイズ表のほうだ。
気づけば、運転手さんが荷下ろしの手を止めて、俺の仕事ぶりを眺めていた。結局、荷台の半分以上を、俺ひとりで店内に運び込んだことになる。
「いやあ、すごいなあ、アウラさん。鍛えられたんだね」
バックヤードの棚に最後の一箱を収めたとき、店長がしみじみとそう言った。
「前の仕事、そうとうきつかったんだろうね。そんな細い体で、こんなに働けるなんて。僕は、ちょっと胸が痛いよ」
「いえ、その、そんなに大層なことではないのだけれど」
「いいんだ、いいんだ。ここでは無理しなくていいからね」
店長の目が、潤んでいた。この人は、俺の働きぶりから、前職の過酷さを完全に読み取ってしまったのだ。しかもその読みが、半分くらい当たっているのが、余計にたちが悪い。ブラック企業勤めだったのは事実なので、否定のしようがなかった。
そして問題は、そのあとだった。
休憩に入って椅子に座った途端、ずしんと全身が重くなった。手足の先から力が抜けていく。さっきまでの軽快さが嘘のように、立ち上がるのさえ億劫だ。
(おかしい。重い荷物を運んだのは確かだが、あれが重くなかったのが不思議なくらいで、疲れる理由が分からない。まだ働き始めて数時間だぞ)
何かが、ごっそり減ったような感覚がある。、
(気のせいか。立ち仕事に慣れていないせいかもしれない。それとも、単に歳か。いや、今は歳が若いはずなんだが)
結論は出なかった。出ないものは仕方がないので、麦茶を一杯飲んで、ぼんやり天井を眺めることにした。
午後三時を過ぎたあたりで、店内の客足がぴたりと落ち着いた。
レジの前に立つ俺の目の前を、ゆるやかな時間が流れていく。外では風が街路樹を揺らしていて、窓越しに、落ち葉がひらひらと舞うのが見えた。コンビニの昼下がりは、案外のんびりしている。会社にいた頃は、この時間は電話と怒声の嵐だったので、落差に頭がついていかない。
そんなとき、自動ドアがすうっと開いた。
入ってきたのは、小柄なおばあさんだった。ベージュのカーディガンに、小さな手提げ。足取りはゆっくりだが、迷いがない。常連さんだろう、と直感で分かった。
「いらっしゃいま……」
そこで、俺は一瞬、身構えた。次に何が口から出るか、自分でも読めないからだ。
「ようこそ。ゆっくり選んで構わないわよ」
出た言葉は、そこそこ穏やかだった。今日いちばん、マシな出来だ。
おばあさんは「あらあら」と目を細めて、牛乳と食パンを手に取り、レジへやってきた。商品を置いたとき、ふと、俺の頭のあたりを見上げて、ぱっと表情が明るくなった。
「まあ、その帽子と角。ここに、穴が空いているのねぇ」
(あ、まずい。ついに突っ込まれた)
来店したお客さんが、俺の角を指摘するのは、時間の問題だった。身構えた俺に、おばあさんはにこにこと笑って言った。
「かわいいわねぇ」
声が、ふんわりと柔らかかった。
「ちょうどいい場所に、ちゃんと穴が空いて。誰かが、あなたのために作ってくれたのかしら」
「え、ええと……」
喉の奥が、じんと熱くなった。
昨日までの俺は、この角のせいで、どれだけ神経をすり減らしてきたか分からない。隠そうとして隠せず、コスプレだと言い張ってごまかし、ずっと「異物」として扱われる覚悟で生きてきた。そんな角を、誰かが、かわいいと言ってくれたのだ。
嬉しい、と思った。素直に、そう思った。ありがとうございます、と言いたかった。
口が、勝手に開く。
「ふ、ふん。当然よ。もっと褒めてもいいのよ」
(ああああ、違う。ありがとうございますと言いたかっただけなのに、どうして上から目線になるんだ)
おばあさんは、ころころと笑った。
「あらあら、元気ねぇ。若い子は、それくらいがちょうどいいわ」
そのまま、レジを済ませて、手提げから小さな何かを取り出した。包み紙に包まれた、飴玉だった。
「お仕事、がんばってね。これ、よかったら」
「……いただくわ」
受け取る指先が、ほんの少し震えていた。おばあさんは軽く会釈して、ゆっくりと店を出ていった。背中を見送りながら、俺は手のひらの飴をじっと見つめる。
包みを開けて、口に放り込んだ。
優しい甘みが、じわっと広がった。ほんのわずか、体の奥に温かいものが灯った気がしたのは、きっと、気のせいではなかった。
「いいお客さんだったね」
店長が、レジの横から声をかけてきた。
「あのおばあさん、うちの古くからの常連さんでね。ああいうお客さんがいるから、僕はこの仕事を続けているんだよ」
「……そう。分かる気がするわ」
今日、一番素直に出た言葉だった。
夕方、シフトの終わりが近づくころには、足の裏がじんじん痛んでいた。
レジの打ち方も、棚の整頓も、だいぶ慣れてきた。声出しも、二、三回に一回は普通の「いらっしゃいませ」になる。尊大な「いらっしゃい」が出るたびに、客層がきれいに分かれていくのは、もう考えないことにした。
「アウラさん、お疲れさま。初日、よく頑張ったね」
退勤の時間になって、店長が小さな紙袋を手渡してくれた。中身は、ホットスナックの唐揚げだった。
「これは店長のおごりだよ。初日の記念に」
「……ありがたく、頂戴するわ」
紙袋を受け取る手に、熱がじんわり伝わってきた。この人は、本当に、どこまで優しいのだろう。
制服から私服に着替え、帽子をかぶり直して、店を出る。外はすっかり夕焼けで、街全体がオレンジ色に染まっていた。紙袋を抱えて歩きながら、唐揚げを一つつまんだ。うまい。生きている、と思った。
そして、頭の片隅で、ふと電卓が弾かれた。
(待てよ。今日の給料は、六時間で六千六百円。これが一日の稼ぎだ)
歩きながら、指を折って数える。
ここから、宝石の値札を思い出す。あの小さなダイヤモンドの、ゼロの数を。
(三十万円。割る、千百円。……二百七十三時間)
二百七十三時間を、一日六時間で割ると、約四十五日。
……いや、待て。それはただ給料を全部ためた場合の話だ。
(生活費が月に八万円かかる。家賃、光熱費、食費、通信費。それを引いたら、手元に残るのは)
恐ろしい計算の結果が、頭の中に浮かび上がってきた。
週に四日出勤して、月に十万円ほど。生活費を引いたら、残りは二万円ちょっと。まあ、もうちょっと働くとしても、それが予備の資金にしておきたいし一旦無視しよう。三十万円に届くまでには、一年以上かかる。
(一年)
唐揚げを、一つ落としそうになった。
(一年の間に、アウラの魔力は自然減少で、何もしないとゼロになる可能性がある。そもそも、宝石一個で足りるのかも分からない)
夕焼けの空が、無駄にきれいだった。
近道はない。以前にも思った結論を、俺はこの日、現実の数字でもう一度突きつけられた。お金にも、魔力にも、近道はないのだ。あるのは、地道に積み上げていく時間と、紺色の制服と、店長の優しさだけ。
「……はあ」
ため息が、夕焼けの中に溶けていった。
唐揚げは、最後の一個まで、きちんとおいしかった。