朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
その夜、俺は布団の中で天井の染みを数えていた。
初出勤の疲れは、確かにある。足の裏は熱を持っているし、肩にはまだ唐揚げの余韻が漂っている。体は「寝ろ」と言っているのに、頭だけが妙に冴えていた。
思い出されるのは、店長の顔ばかりだ。
おごってもらった唐揚げ。角の穴を縫ってくれた丁寧な手つき。尊大な「いらっしゃい」が飛び出したときに、「声が出ていたよ」と笑ってくれたこと。あの人は、一度も俺を叱らなかった。叱る場面は何度もあったはずなのに、全部、褒め言葉に変換して返してくれたのだ。
(いい上司って、ああいう人のことを言うんだな)
しみじみ思った直後、背筋にひやりとした感触が走った。
いい上司、の対極にいた人を、思い出してしまったのだ。
鬼塚課長。
朝いちばんに怒鳴られ、昼に怒鳴られ、終電間際にも怒鳴られた。理不尽だと思ったことは数えきれない。ただ、冷静に振り返ってみると、あの人の怒鳴り声には、不思議と筋が通っていた記憶もある。新人の頃、「報告は結論から言え」と一喝されて、そのとおりにしたら、確かに仕事の失敗が減った。腹は立ったが、効果があったのは認めざるを得ない。
その課長に、俺は少し前に、
命令は「退職させてくれ」ただひとつ。課長は虚ろな目で「はい」と答え、退職届に判を押した。あの目が、まぶたの裏にこびりついている。
(待てよ。原作では、あの魔法はどうだった)
布団の中で、頭が急に回り始めた。
原作の知識を、必死にたぐり寄せる。天秤に負けた者は、アウラの命令に逆らえない傀儡になる。しかも、それは一度かければ終わりではなく、アウラが倒れるまで解けない、半永久の魔法だったはずだ。自我の薄い兵隊が、ただ命令だけを忠実にこなして歩く。あの光景を、俺は漫画で何度も読み返した。
(つまり、課長は今も、あの虚ろな目のまま)
そこまで考えて、飛び起きた。
嫌な想像が、頭の中で勝手に膨らんでいく。会社の机に座ったまま、ぼんやりと宙を見つめる鬼塚課長。話しかけられても反応せず、ただ決められた書類を処理するだけの人形。後輩たちが遠巻きに怖がっている。誰も、何が起きたのか分からない。
(廃人にしてしまったんじゃないのか、俺は)
いや、そんなはずはない。そう思いたい。けれど、確かめる術がない。電話をかけるのは論外だ。課長の番号は消していないが、かけたら最後、何を言われるか分からない。いや、今の俺の声で出たら、それこそ完全にアウトだろう。
確かめる方法は、ひとつしかなかった。
見に行くのだ。この目で。
(行くのか。あの会社に、もう一度)
恐ろしかった。あそこに近づくだけで、胃がきゅっと縮む。けれど、このまま何も知らずに眠れる気もしない。罪悪感というのは、放っておくと、夜中にどんどん肥大していく性質がある。
結局、そのまま一睡もできず、窓の外が白み始めるのを眺めていた。枕には、いつぞや角で開けた穴が、きれいに残っている。新しい枕は、まだ買えていない。
翌朝、午前四時半。
俺は、姿見の前に立っていた。
変装の基本は、顔を隠すこと。そして、目立たないこと。それが鉄則だ。帽子を深くかぶり、大きめのマスクで顔の下半分を覆う。紺のパーカーに、地味なジーンズ。これなら、街に溶け込めるはずだ。
鏡の中には、角の生えた帽子の美少女がいた。
(あれ?)
帽子の穴から突き出た二本の角が、これ以上ないほど堂々と主張している。マスクで口元を隠したぶん、紫の瞳がより一層ミステリアスに映え、むしろ昨日までの俺より、目立っている気がした。
(変装で、逆に目立ってどうするんだ。……まあ、いいか。もう慣れたし)
思考が、あっさり投げやりになった。自分でも不思議なほど、気にならない。初日のコスプレ姿で電車に乗った頃の羞恥心は、いつの間にかどこかへ消えている。これを成長と呼んでいいのか、それとも感覚の麻痺と呼ぶべきか。判断は保留にした。
家を出て、早朝の街を歩く。
空気が冷たくて、少しだけ澄んでいた。新聞配達のバイクが走り去り、すれ違いざまに運転手のおじさんが二度見する。犬の散歩をしているおじいさんは、角を見て目を丸くした。ジョギング中の女性が、すれ違ってからこちらを振り返っている。
みんな、見るなあ。
でも、通報はされない。それが、この国のいいところだ。
電車に揺られること一時間以上。元職場の最寄り駅に降り立つと、体がこわばった。毎朝、この改札を重い足取りで抜けていた。ここに戻ってくる日が来るとは、思っていなかった。
駅前のコンビニに入った。サンライズマートではない、全国チェーンのほうだ。
俺には、張り込みについての、ひとつの確固たる信念があった。
(張り込みといえば、アンパンと牛乳だ)
古き時代の刑事ドラマの様式美である。窓際の席で、アンパンをかじりながら、牛乳瓶を傾ける。犯人の動きを見逃さない鋭い視線。これを、やってみたかったのだ。人生で一度くらい。
パンの棚から、こしあんのアンパンを一つ。ドリンクの棚から、紙パックの牛乳を一本。レジに持っていくと、夜勤明けらしい疲れた顔の店員さんが、バーコードを通した。
「お会計、二百円ちょうど、です」
言葉は少しつっかえたが、角には、触れてこなかった。そのまま目も合わせず、淡々と袋に詰める。
「……ご苦労さま。励みなさい」
「あ、ありがとうございましたー」
反射でそう言ってしまった俺に、店員さんは少し引きつった顔で返してきた。きっと、これまでの客の中で、一番の変わり種だっただろう。それでも、彼はやり切ったのだ。今や同じ職に就くものとして、尊敬の念が湧いた。
元職場は、駅から歩いて七分ほどの、古い雑居ビルの中にある。
表の入口から入ったら、早朝とは言え誰かに遭遇する可能性がある。そこで、俺は裏手に回った。ビルの裏口から非常階段が繋がっている。
この階段を、俺は何度も使っていた。仕事に追い詰められた夜に、ここで缶コーヒーを飲んで、ひとりで頭を冷やしたものだ。この階段からなら、会社の様子を、窺うことができる。
薄暗い階段を、足音を殺して上がる。四階の踊り場に着くと、元職場の非常扉がある。そこから、さらに半階だけ上がった、四階と五階の間の踊り場に腰を下ろした。ここなら、扉からも死角になる。
アンパンを取り出して、一口かじる。こしあんの優しい甘みが、冷えた体に染みた。
(さて、課長は無事か)
紙パックの牛乳にストローを挿して、じっと待つ。壁越しに、かすかに人の気配がした。何人かが、すでに中で動いているようだった。
午前六時四十分。
非常扉の向こうから、聞き慣れた声が響いてきた。
「おい! 何だ、この見積書は!」
来た。
心臓が、どくんと跳ねた。間違いない。鬼塚課長の声だ。いつもの声量、いつもの迫力。廃人どころか、むしろ全盛期並みの怒鳴り声だった。
(生きてる。声に張りがある。意識もはっきりしている)
そこまでは、確かに安堵した。ただ、次の瞬間、足がすくんだ。
「宛名が、一文字違うじゃないか! 客先に送る前に気づけ! 送ってからじゃ遅いんだよ!」
「す、すみません……」
後輩のかすれた声が、扉の向こうから聞こえてくる。あいつも、昨夜は会社に泊まったらしい。
「寝てないのは分かってる。だから、余計に二度見ろと言ってるんだ! 送る前に、声に出して読み返せ! それだけで、ミスは半分に減る!」
(怖い! 怖い怖い怖い。やっぱり怒ってる!)
俺は、アンパンを握りしめたまま、縮こまった。何度聞いても、この声には慣れない。耳に入ってくる内容が、「声に出して読み返せ」という、至極まっとうな指導だったことには、気づかなかった。いや、気づく余裕がなかった。
「いいか、ちゃんとやっておけ! 俺は朝飯を食ってくる」
そのまま足音が遠ざかり、エレベーターのチャイムが鳴って、扉が開閉する音がした。そして、静かになった。
ふう、と息を吐く。課長は、無事だった。怒鳴り声は変わらず、行動も普段どおり。、
その直後だった。
ガチャリ。
非常扉が、細く開いた。
(!!)
俺は息を止めた。アンパンも、牛乳も、全部、手の中で固まった。
扉の隙間から顔を出したのは、後輩だった。目の下に深いクマを作り、髪はぼさぼさ、シャツはよれよれ。これぞ徹夜明けのサラリーマン、という見事な出来栄えだ。彼は、踊り場の手すりにもたれて、ぼんやりと天井を見上げた。
「はぁ……」
ため息が、薄暗い階段に響く。
その位置から顔を少し上げれば、すぐ上の踊り場に座っている俺と、完全に目が合う。心臓が、口から出そうだった。帽子の角が、びっくりするほど存在感を放っている。
後輩の首が、ゆっくりと上を向きかけた。
……が、まぶたが半分落ちていて、焦点がまるで合っていない。首が、途中で止まった。そのまま力なく垂れて、彼はぼそぼそと、独り言をつぶやき始めた。
「朝から、マジ、元気だよな、鬼塚課長……」
完全に独り言だった。俺の存在には、これっぽっちも気づいていない。
「そういや。佐々木さんの退職代行事件の後、少しぼーっとした後、すぐに戻ったんだよなぁ」
(……!)
耳が、勝手にそちらへ吸い寄せられた。
(ぼーっと、した……?)
「鬼塚課長も、佐々木さんの退職処理だけはものすごい勢いでやってたけど……あれ、何だったんだろ」
(退職処理だけ、猛スピード。……そうか。命令されたことだけは、きっちり実行したのか)
背筋が、ぞくりとした。ただし、それは悪い寒気ではなかった。命令は確かに効いていた。けれど、課長は「人形」にはなっていなかった。ぼーっとしたのは、ほんの一瞬だけ。その後は、あっさり元の課長に戻っている。
後輩は、さらにぼそりと続けた。
「つか、佐々木さんみたく。オレもやめよっかなぁ……はぁ」
ため息が、さっきよりも一段と重かった。
俺は、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。あの会社で、何年も一緒に残業していた後輩だ。態度は軽く、舐められていたこともあったが、悪い奴ではなかった。そいつが、疲れ切って、辞めたいと言っている。辞めた張本人である俺には、何も言う資格がない。
「そういや」
後輩が、のろのろと続けた。
「オレだけ、佐々木さんの代わりに来た女の子のこと、覚えていないんだけど……どんな子だったんだろ?」
(!!!)
その「女の子」が、今まさに頭上三メートルのところに座っていることを、彼は知らない。会議室で一部始終を見ていた他の社員は覚えているのに、この後輩だけは、寝ぼけて記憶がまるごと飛んでいるらしい。
ふぁあ、と大きなあくびをして、後輩は非常扉の向こうに戻っていった。ガチャン、と扉が閉まる。再び、人のいないビルの静けさが戻ってきた。
俺は、握りしめたままのアンパンを見つめた。ぐしゃりと潰れて、あんこが少しはみ出している。
(……課長は、無事だった。廃人にはなっていない。ちゃんと、あの人のまま、朝飯を食いに行った)
全身から、力が抜けた。大きく、深く、長い息が出た。
ストローをくわえて、牛乳を一口吸う。冷たくて、ほのかに甘かった。