朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~   作:自分の性癖に素直になろう小説

22 / 22
22話 服従の天秤で従えた者は、かつてと同じ存在なのか(思考実験)

 

 その夜、俺は布団の中で天井の染みを数えていた。

 

 初出勤の疲れは、確かにある。足の裏は熱を持っているし、肩にはまだ唐揚げの余韻が漂っている。体は「寝ろ」と言っているのに、頭だけが妙に冴えていた。

 

 思い出されるのは、店長の顔ばかりだ。

 

 おごってもらった唐揚げ。角の穴を縫ってくれた丁寧な手つき。尊大な「いらっしゃい」が飛び出したときに、「声が出ていたよ」と笑ってくれたこと。あの人は、一度も俺を叱らなかった。叱る場面は何度もあったはずなのに、全部、褒め言葉に変換して返してくれたのだ。

 

(いい上司って、ああいう人のことを言うんだな)

 

 しみじみ思った直後、背筋にひやりとした感触が走った。

 

 いい上司、の対極にいた人を、思い出してしまったのだ。

 

 鬼塚課長。

 

 朝いちばんに怒鳴られ、昼に怒鳴られ、終電間際にも怒鳴られた。理不尽だと思ったことは数えきれない。ただ、冷静に振り返ってみると、あの人の怒鳴り声には、不思議と筋が通っていた記憶もある。新人の頃、「報告は結論から言え」と一喝されて、そのとおりにしたら、確かに仕事の失敗が減った。腹は立ったが、効果があったのは認めざるを得ない。

 

 その課長に、俺は少し前に、服従の天秤(アゼリューゼ)を使ったのだ。

 

 命令は「退職させてくれ」ただひとつ。課長は虚ろな目で「はい」と答え、退職届に判を押した。あの目が、まぶたの裏にこびりついている。

 

(待てよ。原作では、あの魔法はどうだった)

 

 布団の中で、頭が急に回り始めた。

 

 原作の知識を、必死にたぐり寄せる。天秤に負けた者は、アウラの命令に逆らえない傀儡になる。しかも、それは一度かければ終わりではなく、アウラが倒れるまで解けない、半永久の魔法だったはずだ。自我の薄い兵隊が、ただ命令だけを忠実にこなして歩く。あの光景を、俺は漫画で何度も読み返した。

 

(つまり、課長は今も、あの虚ろな目のまま)

 

 そこまで考えて、飛び起きた。

 

 嫌な想像が、頭の中で勝手に膨らんでいく。会社の机に座ったまま、ぼんやりと宙を見つめる鬼塚課長。話しかけられても反応せず、ただ決められた書類を処理するだけの人形。後輩たちが遠巻きに怖がっている。誰も、何が起きたのか分からない。

 

(廃人にしてしまったんじゃないのか、俺は)

 

 いや、そんなはずはない。そう思いたい。けれど、確かめる術がない。電話をかけるのは論外だ。課長の番号は消していないが、かけたら最後、何を言われるか分からない。いや、今の俺の声で出たら、それこそ完全にアウトだろう。

 

 確かめる方法は、ひとつしかなかった。

 

 見に行くのだ。この目で。

 

(行くのか。あの会社に、もう一度)

 

 恐ろしかった。あそこに近づくだけで、胃がきゅっと縮む。けれど、このまま何も知らずに眠れる気もしない。罪悪感というのは、放っておくと、夜中にどんどん肥大していく性質がある。

 

 結局、そのまま一睡もできず、窓の外が白み始めるのを眺めていた。枕には、いつぞや角で開けた穴が、きれいに残っている。新しい枕は、まだ買えていない。

 

 

 

 

 

 翌朝、午前四時半。

 

 俺は、姿見の前に立っていた。

 

 変装の基本は、顔を隠すこと。そして、目立たないこと。それが鉄則だ。帽子を深くかぶり、大きめのマスクで顔の下半分を覆う。紺のパーカーに、地味なジーンズ。これなら、街に溶け込めるはずだ。

 

 鏡の中には、角の生えた帽子の美少女がいた。

 

(あれ?)

 

 帽子の穴から突き出た二本の角が、これ以上ないほど堂々と主張している。マスクで口元を隠したぶん、紫の瞳がより一層ミステリアスに映え、むしろ昨日までの俺より、目立っている気がした。

 

(変装で、逆に目立ってどうするんだ。……まあ、いいか。もう慣れたし)

 

 思考が、あっさり投げやりになった。自分でも不思議なほど、気にならない。初日のコスプレ姿で電車に乗った頃の羞恥心は、いつの間にかどこかへ消えている。これを成長と呼んでいいのか、それとも感覚の麻痺と呼ぶべきか。判断は保留にした。

 

 

 

 家を出て、早朝の街を歩く。

 

 空気が冷たくて、少しだけ澄んでいた。新聞配達のバイクが走り去り、すれ違いざまに運転手のおじさんが二度見する。犬の散歩をしているおじいさんは、角を見て目を丸くした。ジョギング中の女性が、すれ違ってからこちらを振り返っている。

 

 みんな、見るなあ。

 

 でも、通報はされない。それが、この国のいいところだ。

 

 

 

 

 電車に揺られること一時間以上。元職場の最寄り駅に降り立つと、体がこわばった。毎朝、この改札を重い足取りで抜けていた。ここに戻ってくる日が来るとは、思っていなかった。

 

 駅前のコンビニに入った。サンライズマートではない、全国チェーンのほうだ。

 

 俺には、張り込みについての、ひとつの確固たる信念があった。

 

(張り込みといえば、アンパンと牛乳だ)

 

 古き時代の刑事ドラマの様式美である。窓際の席で、アンパンをかじりながら、牛乳瓶を傾ける。犯人の動きを見逃さない鋭い視線。これを、やってみたかったのだ。人生で一度くらい。

 

 パンの棚から、こしあんのアンパンを一つ。ドリンクの棚から、紙パックの牛乳を一本。レジに持っていくと、夜勤明けらしい疲れた顔の店員さんが、バーコードを通した。

 

「お会計、二百円ちょうど、です」

 

 言葉は少しつっかえたが、角には、触れてこなかった。そのまま目も合わせず、淡々と袋に詰める。

 

「……ご苦労さま。励みなさい」

 

「あ、ありがとうございましたー」

 

 反射でそう言ってしまった俺に、店員さんは少し引きつった顔で返してきた。きっと、これまでの客の中で、一番の変わり種だっただろう。それでも、彼はやり切ったのだ。今や同じ職に就くものとして、尊敬の念が湧いた。

 

 

 

 

 

 

 元職場は、駅から歩いて七分ほどの、古い雑居ビルの中にある。

 

 表の入口から入ったら、早朝とは言え誰かに遭遇する可能性がある。そこで、俺は裏手に回った。ビルの裏口から非常階段が繋がっている。

 

 この階段を、俺は何度も使っていた。仕事に追い詰められた夜に、ここで缶コーヒーを飲んで、ひとりで頭を冷やしたものだ。この階段からなら、会社の様子を、窺うことができる。

 

 薄暗い階段を、足音を殺して上がる。四階の踊り場に着くと、元職場の非常扉がある。そこから、さらに半階だけ上がった、四階と五階の間の踊り場に腰を下ろした。ここなら、扉からも死角になる。

 

 アンパンを取り出して、一口かじる。こしあんの優しい甘みが、冷えた体に染みた。

 

(さて、課長は無事か)

 

 紙パックの牛乳にストローを挿して、じっと待つ。壁越しに、かすかに人の気配がした。何人かが、すでに中で動いているようだった。

 

 

 

 

 午前六時四十分。

 

 非常扉の向こうから、聞き慣れた声が響いてきた。

 

「おい! 何だ、この見積書は!」

 

 来た。

 

 心臓が、どくんと跳ねた。間違いない。鬼塚課長の声だ。いつもの声量、いつもの迫力。廃人どころか、むしろ全盛期並みの怒鳴り声だった。

 

(生きてる。声に張りがある。意識もはっきりしている)

 

 そこまでは、確かに安堵した。ただ、次の瞬間、足がすくんだ。

 

「宛名が、一文字違うじゃないか! 客先に送る前に気づけ! 送ってからじゃ遅いんだよ!」

 

「す、すみません……」

 

 後輩のかすれた声が、扉の向こうから聞こえてくる。あいつも、昨夜は会社に泊まったらしい。

 

「寝てないのは分かってる。だから、余計に二度見ろと言ってるんだ! 送る前に、声に出して読み返せ! それだけで、ミスは半分に減る!」

 

(怖い! 怖い怖い怖い。やっぱり怒ってる!)

 

 俺は、アンパンを握りしめたまま、縮こまった。何度聞いても、この声には慣れない。耳に入ってくる内容が、「声に出して読み返せ」という、至極まっとうな指導だったことには、気づかなかった。いや、気づく余裕がなかった。

 

「いいか、ちゃんとやっておけ! 俺は朝飯を食ってくる」

 

 そのまま足音が遠ざかり、エレベーターのチャイムが鳴って、扉が開閉する音がした。そして、静かになった。

 

 

 

 

 ふう、と息を吐く。課長は、無事だった。怒鳴り声は変わらず、行動も普段どおり。、服従の天秤(アゼリューゼ)を使われた形跡は、少なくとも声からは感じられない。

 

 その直後だった。

 

 ガチャリ。

 

 非常扉が、細く開いた。

 

(!!)

 

 俺は息を止めた。アンパンも、牛乳も、全部、手の中で固まった。

 

 扉の隙間から顔を出したのは、後輩だった。目の下に深いクマを作り、髪はぼさぼさ、シャツはよれよれ。これぞ徹夜明けのサラリーマン、という見事な出来栄えだ。彼は、踊り場の手すりにもたれて、ぼんやりと天井を見上げた。

 

「はぁ……」

 

 ため息が、薄暗い階段に響く。

 

 その位置から顔を少し上げれば、すぐ上の踊り場に座っている俺と、完全に目が合う。心臓が、口から出そうだった。帽子の角が、びっくりするほど存在感を放っている。

 

 後輩の首が、ゆっくりと上を向きかけた。

 

 ……が、まぶたが半分落ちていて、焦点がまるで合っていない。首が、途中で止まった。そのまま力なく垂れて、彼はぼそぼそと、独り言をつぶやき始めた。

 

「朝から、マジ、元気だよな、鬼塚課長……」

 

 完全に独り言だった。俺の存在には、これっぽっちも気づいていない。

 

「そういや。佐々木さんの退職代行事件の後、少しぼーっとした後、すぐに戻ったんだよなぁ」

 

(……!)

 

 耳が、勝手にそちらへ吸い寄せられた。

 

 

 

(ぼーっと、した……?)

 

 

 

「鬼塚課長も、佐々木さんの退職処理だけはものすごい勢いでやってたけど……あれ、何だったんだろ」

 

(退職処理だけ、猛スピード。……そうか。命令されたことだけは、きっちり実行したのか)

 

 背筋が、ぞくりとした。ただし、それは悪い寒気ではなかった。命令は確かに効いていた。けれど、課長は「人形」にはなっていなかった。ぼーっとしたのは、ほんの一瞬だけ。その後は、あっさり元の課長に戻っている。

 

 後輩は、さらにぼそりと続けた。

 

「つか、佐々木さんみたく。オレもやめよっかなぁ……はぁ」

 

 ため息が、さっきよりも一段と重かった。

 

 俺は、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。あの会社で、何年も一緒に残業していた後輩だ。態度は軽く、舐められていたこともあったが、悪い奴ではなかった。そいつが、疲れ切って、辞めたいと言っている。辞めた張本人である俺には、何も言う資格がない。

 

「そういや」

 

 後輩が、のろのろと続けた。

 

「オレだけ、佐々木さんの代わりに来た女の子のこと、覚えていないんだけど……どんな子だったんだろ?」

 

(!!!)

 

 その「女の子」が、今まさに頭上三メートルのところに座っていることを、彼は知らない。会議室で一部始終を見ていた他の社員は覚えているのに、この後輩だけは、寝ぼけて記憶がまるごと飛んでいるらしい。

 

 ふぁあ、と大きなあくびをして、後輩は非常扉の向こうに戻っていった。ガチャン、と扉が閉まる。再び、人のいないビルの静けさが戻ってきた。

 

 

 

 

 俺は、握りしめたままのアンパンを見つめた。ぐしゃりと潰れて、あんこが少しはみ出している。

 

(……課長は、無事だった。廃人にはなっていない。ちゃんと、あの人のまま、朝飯を食いに行った)

 

 全身から、力が抜けた。大きく、深く、長い息が出た。

 

 ストローをくわえて、牛乳を一口吸う。冷たくて、ほのかに甘かった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

セレスちゃんねる ~TSして四百年、異世界の英雄が地球へ生配信を始めました~(作者:セレスちゃんねる)(オリジナル:ファンタジー/冒険・バトル)

かつて日本で暮らしていた、一人の男子高校生。▼そんな彼が異世界エルセリアで絶世の美少女となり、気づけば四百年以上もの歳月が過ぎていた。▼幾多の冒険を経て、不老の英雄となったセレスティア。▼剣と魔法の世界を自由気ままに旅していた彼女は、長年の魔術研究の末、ついに遠い故郷である地球へ映像と声を届ける方法を発見する。▼「エルセリアの大地から、こんにちは!」▼美しい…


総合評価:3536/評価:8.53/連載:10話/更新日時:2026年11月06日(金) 11:30 小説情報

TS女神の地球救済政策 ~26年かけて異世界を救った元勇者、絶世の女神になって帰還したら地球が滅びかけていたので、ダンジョン災害で救います~(作者:TS女神)(オリジナル:現代/冒険・バトル)

高校二年生だった高瀬悠真は、気まぐれな邪神によって異世界へ放り込まれた。▼そこは魔王によって人類が最後の一国まで追い詰められた、滅亡寸前の世界。▼それから二十六年。▼勇者となった悠真はついに魔王を倒し、さらには自分を異世界へ送り込んだ邪神まで撃破する。▼しかし、その代償――というより邪神からの余計な置き土産によって、悠真は絶世の美女神へと姿を変えてしまった。…


総合評価:2895/評価:8.47/連載:28話/更新日時:2026年11月06日(金) 07:05 小説情報

マンハッタンカフェの奇妙な現実来訪(作者:灯火011)(原作:ウマ娘プリティーダービー)

こっちでカフェさんになっちゃったおっさんのお話。▼70話ぐらいでお届けしました。▼2026/11/01、0340。エピローグにて完結。


総合評価:5300/評価:8.82/完結:71話/更新日時:2026年11月02日(月) 23:49 小説情報

うちの美少女アバターに重い過去なんてありません!(作者:もろきゅー)(オリジナル:ファンタジー/コメディ)

突然、剣と魔法の異世界へ転移してしまった俺。▼俺に与えられた能力は、なんと《キャラクタークリエイト(女性限定)》。▼自分好みの女性キャラクターを複数作り、その姿を自由に切り替えながら冒険できるという、キャラクリ好きの俺にはもってこいの能力だった。▼せっかくなら理想のキャラクターを作ろうと、俺はまず金髪碧眼の美しい姫騎士を作成する。▼もちろん、キャラクターには…


総合評価:2925/評価:8.79/連載:6話/更新日時:2026年11月06日(金) 11:51 小説情報

TS聖女、現代に帰還しアイドルになる(作者:ブリザード)(オリジナル:現代/コメディ)

クラスごと異世界に召喚されようとした中学生の白絃優は、召喚者との交渉の末単独で召喚され、召喚の影響で性転換し聖女アリサとして魔王や邪神と戦い抜いて異世界を救い、そして聖女の姿のまま現世に帰還する。▼この物語はそんな彼女が、現世にて何故かアイドルになってしまうお話。▼カクヨム、なろうでも掲載しています▼カクヨム https://kakuyomu.jp/work…


総合評価:2336/評価:8.33/連載:9話/更新日時:2026年11月06日(金) 07:08 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>