朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
非常階段を降りながら、俺は頭の中で、さっきの光景を何度も再生していた。
課長は無事だった。怒鳴り声は健在で、寝不足にもかかわらず正確に宛名の誤字を見つけ、そして朝飯を食べに行った。あの人は、ちゃんと生きている。
そこで、ふと立ち止まった。階段の途中で、手すりを握る。
(待てよ。ということは、原作とは違うのか?)
原作のあの魔法は、一度かかったら、アウラが倒れるまで解けない代物だった。ところが、課長は「ぼーっとした後、すぐに戻った」らしい。命令のとおりに退職処理だけは猛スピードで済ませたが、それ以外は、いつもの鬼塚課長のままだった。
つまり、この体の、
全身から、ふにゃりと力が抜けた。ほっとした。心の底から、ほっとした。
(よかった。本当に、よかった)
ただ、安心の次に顔を出したのが、新しい疑問だった。
(いや、でも、待て。命令の中身次第では、違う結果になる可能性もあるよな。例えば、「一生、私の命令に従い続けなさい」と言ったら、どうなるんだ。効果時間があるのか、それとも、あの一回だけで終わる仕様なのか)
試してみたい、という好奇心が、ほんの一瞬だけ顔を覗かせた。
次の瞬間には、頭を振って追い払った。無理だ。試せるわけがない。使うたびに魔力はごっそり減るし、相手は課長のような生身の人間だ。何かあってからでは遅い。しかも、試した結果が「半永久」だったら、取り返しがつかない。そんな賭けに出る度胸は、小市民の俺にはない。
(結局、使い勝手の悪さは変わらないんだよな、この魔法)
魔力をもっと持っていれば、話は別なのかもしれない。回数を気にせず使えて、効果の確認も、気軽にできるのだろう。ただ、今の俺には、とても手の余る代物だった。ハンドルを握ったとたんに、自分が転がり落ちそうな大型の機械に乗せられている感覚だ。
ビルの谷間から、完全に朝日が昇ってきた。
後ろめたさと安堵が半分ずつ、胸の中で混ざり合っている。俺は潰れたアンパンの残りを口に押し込んで、駅に向かって歩き出した。
一度家に帰って、二時間ほど気絶するように眠った。
目を覚ましたのは、午前十時過ぎ。熱いシャワーを浴びて、身支度を整え、紺の制服に袖を通す。帽子をかぶって、角を穴に収める。胸元の名札を指で整えると、「あうら」の三文字が、昨日よりも少しだけ自分の名前に見えた。
昼のシフトに、遅刻せずに間に合った。
「おはよう、アウラさん。今日も元気そうだね」
「ええ。昨夜は、よく眠れたわ」
嘘だった。ほぼ眠れていなかった。ただ、店長はそれを疑う素振りもなく、「それはよかった」と微笑んだ。この人の素直さは、国宝級だと思う。
午後の仕事は、昨日より少しだけスムーズだった。レジの手つきもこなれてきたし、「いらっしゃいませ」も、五回に三回くらいは普通に言える。尊大な挨拶が出た回は、客の反応がきれいに分かれるのは、もう慣れてしまった。
そして午後四時すぎ。
自動ドアが開いて、制服姿の男の子が三人、ぞろぞろと入ってきた。近所の高校の生徒だろう。放課後の寄り道らしく、にぎやかに雑誌のコーナーへ向かっていく。若いな、と、三十二歳の感想が心に浮かんだ。
その中の一人が、ちらりとこちらを見た。一度、目が合った。そのまま、ほかの二人に何か囁いて、肘で小突かれ、ひとりだけがレジにやってきた。
手には、ペットボトルのお茶が一本。
「あ、あの」
「いらっしゃい。百四十円よ」
「は、はい。あの、その……」
彼の視線が、俺の胸元に落ちた。「あうら」の名札を、じっと見る。それから、顔に戻る。そして、今度は、名札よりもう少し下を、じっと見る。
順番に、きっちり三か所。名札、顔、胸。
スキャンされているのが、肌で分かった。
(おいおい、少年。お前の視線、分かりやすすぎるぞ)
制服のSSサイズは、今日もきゅうっと胸元を押さえつけている。そのおかげで、普通よりもむしろ目立ってしまっているのは、皮肉な話だ。
「あ、あの、お姉さん、すごくきれいですね。外国の人ですか?」
「そうね。似たようなものよ」
「その、バイト、何時までですか? もし、よかったら、LINEとか、交換できたりしませんか」
声が、少し裏返っていた。耳まで真っ赤だ。後ろでは、友達二人が棚の影から、ひそひそと見守っている。
……ああ、ナンパされている。男子高校生に。
俺は、一瞬、思考が真っ白になった。
十代の頃の俺は、女の子に話しかける勇気なんて、一ミリも持っていなかった。声をかけるどころか、同じクラスの子と目が合っただけで、教室の隅に引っ込んだものだ。その俺が、三十二年生きた末に、まさか十代の男子に、告白まがいの声をかけられる側に回るとは。人生は、本当に分からない。
(どうする。傷つけないように断らないと。この年頃の少年は、メンタルがガラスだ。分かる。俺もそうだった)
内心では、できるだけ丁寧に、柔らかく、お断りするつもりだった。申し訳ありませんが、勤務中ですので、と。
口を開くと、出てきたのは、こうだった。
「せっかくだけれど、お断りするわ。あなたの勇気は買ってあげる。さあ、お茶を持って、友達のところに戻りなさい」
一拍。
男子高校生は、ぱちぱちとまばたきをして、それから、なんとも言えない顔になった。
「は、はいっ! ありがとうございました!」
深々と頭を下げて、お茶を握りしめて、棚の影に走っていった。友達二人が「どうだった?」「ダメだった…」「お前じゃムリムリ」と、小声で盛り上がっている。そのまま三人は店を出ていった。
(……断った、んだよな。傷つけずに、断れた、よな?)
結果的には、丁重なお断りになったらしい。口調は完全に大魔族の宣告だったが、少年たちはなにか納得気味だったので、ヨシ! とする。
ただ、俺は別の事実に、ここで気づいてしまった。
(あれ。ちょっと待て。今日、俺、きちんと下着をつけているよな)
少し前に女性用下着店でサイズを測ってもらって、感動のフィット感を手に入れたのだった。それまで外を歩くたびに、男性の視線を集めていたのは、ノーブラで揺れていたせいかもしれない、と、あのとき、俺は結論づけた。
ブラを、ちゃんとつけている。なのに、視線の集まり方は、これっぽっちも変わっていない。
(……関係なかったのか。ブラの有無は)
ガクッと肩を落とした。あの感動の下着店での一日は、何だったのか。視線の原因は、もっと根本的な、胸そのものにあったらしい。俺は帽子のつばの下で、そっと遠い目をした。
「アウラさん、大丈夫?」
いつの間にか、店長がすぐそばまで来ていた。
「さっきの子、怖くなかった? 何かあったら、すぐに僕を呼んでね。遠慮はいらないから」
声が、とても心配そうだった。この人は、レジの様子をずっと見守ってくれていたらしい。
「平気よ。あの程度、慣れているわ」
「……そうか。慣れちゃうくらい、いろいろあったんだね」
店長の目が、また潤んだ。
(違う。違うんだ店長。慣れているというのは、最近まで男だったから、少年の気持ちが分かるという意味で)
……と、真実を告げられるわけもなく、俺はただ「ええ」とだけ答えた。店長の誤解は、今日もまた、静かに積み重なっていく。
シフトが終わって、夕焼けの道を歩いて帰った。
今日の足取りは、昨日よりも軽かった。唐揚げのおごりはなかったが、代わりに、店長が自分で淹れたというコーヒーを、紙コップで一杯くれた。ほろ苦くて、あたたかかった。
アパートの階段を上がり、鍵を回してドアを開ける前に、郵便受けを覗いた。
カタン、と何かが落ちる音がした。
白い角形の封筒が、一通。差出人の欄に、見覚えのある会社名が印刷されている。
心臓が、一度だけ大きく打った。
部屋に入り、電気をつけて、座布団に腰を下ろす。封筒の宛名は、俺の元の名前、佐々木琥太郎様。住所も正確に書かれている。宛名の文字は、角ばっていて、几帳面で、やたらと筆圧が強かった。
見間違えようがない。鬼塚課長の字だ。
震える指で、封を開けた。
中から出てきたのは、きちんとクリアファイルにまとめられた、数枚の書類だった。離職票。源泉徴収票。雇用保険の関連書類。そして、健康保険証の返却を求める案内と、返送用の封筒。どれもこれも、期日や記入欄の説明が付箋で丁寧に添えられている。
付箋の字は、これまた几帳面な角ばった筆跡だった。
『返却物:健康保険証、社員証。同封の封筒で返送のこと』
それだけ、書かれていた。
余計な言葉は、一つもない。事務的で、味気なくて、いかにもあの人らしい、素っ気ない書き置きだった。それなのに、俺はしばらく、その付箋から目を離せなかった。
あの会議室で、俺は彼を魔法で従わせた。彼の意思とは関係なく、「退職させてくれ」と命じた。彼はその命令を、忠実に、正確に、実行した。そして、命令が終わって、操られていた状態が解けた後も、手続きだけは放り出さなかった。
彼は、課長として、やるべき仕事をやってくれたのだ。
魔法で縛り付けた相手に、俺は、いちばんきちんとした形で、後始末をさせてしまった。
(ごめんなさい)
最初に浮かんだのは、その言葉だった。
(それから……ありがとうございました)
二つの気持ちが、同じ重さで胸にのしかかってきた。どちらを先に言うべきなのか、分からなかった。いや、どちらを口にしても、本人には届かないのだけれど。
健康保険証は、返さなければならない。その後は、国民健康保険への切り替えという手続きが待っている。身元のない身で、どうやって。考えるだけで、また頭が痛くなる。けれど、それは、また別の日の宿題だ。
俺は、深く息を吸い込んだ。
付箋の角ばった字を、指先でそっとなぞる。不器用で、口が悪くて、怒鳴ってばかりで、それでも筋だけは通す人だった。昨日までは、ただ怖い人だとしか思っていなかったのに。
「……ご苦労だったわね、鬼塚」
部屋の中に、尊大な声が響いた。
……。
………………違う。そうじゃない。
感謝を伝えたかっただけなのに、なぜ上から目線の労いになる。誰が誰に偉そうにしているんだ。課長が聞いたら、まず間違いなく怒鳴り声が飛んでくる。
俺は、両手で顔を覆って、畳にごろんと転がった。
ひとり暮らしの安アパートの六畳間で、頭を抱えて悶絶する、元・佐々木琥太郎、現・あうら。
窓の外では、夕焼けが静かに、群青に変わっていった。
明日も、バイトである。