朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
その常連は、毎日同じ時間に来る。
夕方の五時四十分。ヘッドホンを首にひっかけた二十代後半くらいの男で、買うものも決まっている。エナジードリンクが一本と、ホットスナックケースのからあげ棒が一本。それだけだ。
俺がこの店のレジに立つようになって二週間、会話らしい会話はゼロ。無口、目も合わない、財布を出すのが早い。コンビニ店員から見れば、理想の客である。
「いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちかしら。なければ作りなさい、損はさせないわ」
口から出たのは、いつもの接客だった。
俺の頭の中ではちゃんと「ポイントカードはお持ちでしょうか」と言っているのに、舌だけが勝手に大魔族をやる。二週間経っても、これだけは慣れない。ちなみに、作りなさいと命令されて本当に作った客が、すでに三人いる。
男は黙ってスマホのバーコードを差し出した。ピッ、と電子音が鳴る。ここまでは平和だった。
「……あの」
「何かしら」
「……ダン子、さん?」
からあげ棒を持った俺の手が、空中でぴたりと止まった。
VTuberダン子。断頭台のアウラを縮めた、あの名前。勢いで名乗って、勢いで配信して、勢いでチャンネルごと消して、俺の中では「なかったこと」になっていたやつだ。そう、なかったことになっていたのだ。少なくとも、俺の中では。
「ひ、人違いではないかしら」
声が裏返らなかったのは、大魔族ボイスの無駄な安定感のおかげである。
「私はそんな名前、聞いたこともないわ。からあげ棒が冷めるわよ」
「……そう、ですか。すみません」
男は小さく頭を下げ、袋を受け取った。自動ドアの前で一度だけ振り返り、ぼそりと付け足す。
「声が、すごく似ていたので」
ドアが開いて、閉まった。俺はからあげ棒のホットスナック袋を握りしめたまま、三十秒ほど息をするのを忘れていた。
セーフだ。たぶんセーフだ。声が似ているだけの他人で押し通せる。そう自分に言い聞かせて、その日はなんとか閉店まで乗り切った。
甘かった。
翌日の五時四十分、男は当たり前のような顔で自動ドアをくぐってきた。エナジードリンクとからあげ棒をカゴに入れるところまではいつも通りだ。ただ、今日は右手にスマホを握りしめていて、しかも指の関節が白くなっている。
覚悟の決まった人間の握り方だった。
「……すみません。昨日のことなんですが」
「何のことかしら。ポイントカードなら今日も作れるわよ」
「僕、SNSに流れていた動画をもう一度見ました」
聞いていない。こっちは何も聞いていないのに、男は堰を切ったように話し始めた。
「最初の挨拶です。『ひれ伏しなさい』の『なさい』の、語尾の跳ね方。あれが、いま『作りなさい』って言った時のものと完全に同じなんです。上がり方の角度も、跳ねたあとの息の抜き方も」
「……語尾の跳ね方で人間を特定する人間がいるの?」
「ASMRならたくさん聞いています。唯一の僕の自慢なんで」
胸を張って言うことではない。
「き、気のせいよ。大魔族ふうの話し方なんて、世の中にいくらでもあるでしょう」
「ありません」
即答だった。さっきまでのぼそぼそ声はどこへ行ったのか。
「それに、角です」
男の視線が、俺の頭の上に向いた。制服の帽子の左右には、店長が穴を空けてくれた(善意のかたまりのような人だ)。そこから、巻いた角が二本、堂々と突き出している。
「公式設定画だと、右の角の二つ目のカーブが、ほんの少しだけ内側に入るんです。切り抜きのダン子さんの角もそうでした。いま帽子から出ているのも、その角度で、完全に一致します」
「コスプレの角など、どれも似たようなものよ!」
「普通のコスプレ角は左右対称です。着脱式だと、毎回位置もずれます。でも、すごく自然なんです……本当の角のように」
この男、角の巻き方を測量している。
「…あなた、細かすぎて気持ち悪いわよ」
「よく言われます」
この男は強い……。後、やっぱり、キモイ……(※女子に言われたら死ぬ魔法)。
俺は内心で白旗を振りはじめていた。いや、まだだ。声も角も状況証拠にすぎない。決定的な証拠さえ出なければ、シラを切り通せる。小市民は、最後の一線で粘るものなのだ。
男はそんな俺の期待を、静かに踏み越えた。
スマホの画面がこちらに向く。そこには、見覚えがありすぎる顔があった。俺の顔だ。いや、アウラの顔だ。あの日の配信を切り取った画像で、その上に、太字のキャプションが躍っている。
『リアルノーブラアウラ様』
「…この呼び名で拡散されていた人は、この人だけなんです」
男の声は、驚くほど優しかった。優しいぶん、トドメの威力は倍増していた。
頬が、耳が、角の根元まで、一気に熱くなるのがわかった。
「だ、誰がノーブラよ!」
気がついたら叫んでいた。レジ台を両手で叩いていた。
「今はちゃんとつけているわ! きちんとしたものを、きちんと身につけているのよ! 失礼にもほどがあるでしょう!」
静寂が落ちた。
店内BGMだけが、無神経に明るい曲を流し続けている。行列の二番目に並んでいた常連のおばあちゃんは、缶詰を持ったまま完全に固まっていた。三番目の女子高生は、見てはいけないものを見た顔でスマホの画面に視線を逃がした。
男だけが、ゆっくりと、深く頷いた。
「…確定、ですね」
自白とは、こういう気持ちなのか。取り調べ室の刑事ドラマでは何度も見たが、自分でやってみると、笑えるほど一瞬だった。
そして悪いことに、俺の叫び声は、バックヤードで検品中の店長の耳にも、きれいに届いていたらしい。
奥のほうから、ガタン、と何かが倒れる音がした。
バックヤードの扉が開いて、山花田店長が転がるように出てきた。両手には検品中だったおにぎりの箱が抱えられている。足元には、さっき倒れた牛乳ケースが三つ。
「アウラさん、いまの声は何だい。誰かに絡まれたのかい。大丈夫かい」
店長の心配は、いつも一直線である。
俺は答えられなかった。喉の奥に、ノーブラという単語の残骸が引っかかっている。代わりに口を開いたのは、さっきの男だった。
「あ、いえ。僕が悪いんです。その、こちらの方が、配信をされていたことがありまして」
「はいしん」
「VTuberです。登録者もそれなりにいて、切り抜きも拡散されていて。今はもうチャンネルないみたいですけど……」
「ぶいちゅーばー。きりぬき」
店長は、知らない単語を一個ずつ復唱しながら、真剣な顔で頷いた。頷き方は完璧だ。ただ、目の奥がまったく追いついていない。たぶん今、頭の中で「テレビに出ている人」というフォルダに全部放り込んでいる。
「つまり、ええと」
店長の顔が、ぱっと輝いた。
「有名人なのかい! すごいじゃないか、アウラさん!」
「違うわ。有名人ではないの。もう、やめたのよ。全部消したの」
「やめた? そうか、そうなのか」
笑顔が、すっと曇った。
「…事務所とか、大丈夫だったのかい。変な大人に、騙されたりしていないかい」
どこから事務所が出てきたのかはわからない。ただ、店長の脳内では、なにか芸能界の闇に巻き込まれ、ここへ逃げてきた不憫な少女の物語が、すでに第三章あたりまで進んでいるようだった。
「そういう話ではないのよ! 誰にも騙されていないし、むしろ私は一人で勝手に自滅しただけで……」
「いいんだ、いいんだ。言いたくなかったら言わなくていいんだ」
店長は、おにぎりの箱を抱えたまま、優しい目で何度も頷いた。聞いてほしい。
説明すればするほど話が盛られていく。俺は途中で諦めた。大魔族とは、言い訳が下手な生き物である。
そんな俺たちを見て、男は手を挙げた。
「あの、僕は誰にも言いません。推しの生活を邪魔したくないので。ただの客として、これからも通います」
「…変わった人間ね、あなた」
「推しの活動を応援するのが、僕の趣味なので」
男は、からあげ棒を大事そうに抱えて去っていった。後ろ姿が、妙に清々しかった。悪いやつではない。ただ、角の巻き方を測量するだけだ。
秘密は、保たれた。
常連の彼は、約束通り誰にも言わなかったのだと思う。問題は、世の中の目撃者が、彼一人ではなかったことだ。
事件は三日後に起きた。夕方のピークを過ぎた頃、スマホを構えた客が、レジ横の通路をうろうろしているのが見えた。ずいぶん長いこと迷っている商品があるのだなと思っていたが、見ていたのは商品ではなく俺だった。角の穴付き帽子をかぶって、真顔で肉まんの補充をしている俺だった。
翌朝、シフトに入ると、店の前に人が立っていた。
一人ではない。三人。五人。いや、開店前から八人ほどが、微妙に距離をとって並んでいる。みんな、ちらちらとこちらのガラス窓を見ている。
「…店長。今日は何かのセールかしら」
「いやあ、それが私にもわからなくてね」
店長の声が、不安と嬉しさの半々だった。
昼前には行列ができ、昼には完売が出た。ホットスナックケースは三十分で空になり、店長がバックヤードのフライヤーを二台目まで総動員した。肉まんの蒸し器は、俺が補充するそばから空になっていく。レジを打つ手が、一定のリズムを保てなくなった。
客の層も一変した。開店時間にスーツで来ていたサラリーマンは減り、代わりに、リュックを背負った若い男女が増えた。みんな、商品を一つ買う。それだけだ。会計を終えると、名残惜しそうに視線を送ってから、店を出ていく。
レジの横には、店長の手書きの貼り紙が増えた。
『店内でのお写真撮影は、ご遠慮ください。 店長』
筆跡が、やたらと丸い。優しすぎて、一切の威圧感がない。実際、効果は半分くらいしかなかった。
「アウラさん、人気者ねえ」
常連のおばあちゃんたちが、列の後ろでにこにこと笑う。
「うちの孫も、あなたの写真を見て、ここに来たいって言っていたのよ」
「そ、そう。それは光栄だわ」
内心の俺は「いやいや、おばあちゃんのお孫さんにまで届いているのか」と蒼白である。口は勝手に「光栄だわ」と角を揺らしながら笑う。
夕方、売上の日報を見た店長が、小さくガッツポーズをしていた。
「前の週の倍だよ、アウラさん。倍。本部の人も、見に来るかもしれないって」
そういえば、近所の店が統廃合されるという噂を、ちらっと聞いたことがあった。この店も、売上が落ちれば危ないらしい。それが今、店長の肩の力が、目に見えて抜けていた。
レジの向こうで、嬉しそうに笑う店長。補充に走り回る足取りは、ここ数日のどれよりも軽い。
それを見ていると、胸の奥が、きゅっとなった。
役に立っている。俺が、この店の役に立っている。サラリーマン時代、いくら残業しても、こんな実感は一度もなかった。
その一方で、背中の奥のほうには、別の冷たいものも流れていた。
写真が出回っている。顔が出回っている。もしこれが、元の自分と、どこかで結びついたら。もし、会社の誰かが見ていたら。もし、あの親切な常連のように、誰かが「完全一致」を見つけてしまったら。
「アウラさん、今日もお疲れさま。無理はしないでね」
店長が、缶コーヒーを一本、差し出してくれた。
「…ありがとう。いただくわ」
受け取った缶は、あたたかかった。手の中で、じんわり熱が広がる。
この居場所は、守りたい。でも、人気者になればなるほど、居場所そのものが危うくなる。小市民の俺は、まるで両手に天秤を持たされたような気分で、その缶コーヒーをゆっくり飲み干した。
そして、この時点の俺は、まだ知らなかった。
行列の中には、「人気者の看板娘」を目当てに来る客だけではなく、もっと別の種類の客が、ちゃっかり混ざり始めていたことを。