朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
食べ終えたどんぶりを流しに置いて、俺はスマホと向き合った。
課長のメッセージを、もう一度読み返す。「連絡しろ」「無断欠勤は懲戒だ」「聞こえてるのか」。読むほどに、胃のあたりがきゅうっと縮む。ただ、縮んだ胃の底のほうから、これまでにない種類の感情がじわじわと湧いてきていた。
――もう、無理だな。
角が生えて、髪が紫になって、声が別人になった。こんな時にまで怒鳴られる会社に、守るべきものなんてあるだろうか。いや、ない。ここは退職するべきだ。
メール作成画面を開く。宛先に課長のアドレスを入れて、次は件名欄。
カーソルが、ちかちかと点滅している。
まず「退職のご相談」。ダメだ、これは「相談」だから、引き止める余地を与えてしまう。あの課長は余地があれば全力で入ってくる人だ。
では「退職のお願い」はどうか。低姿勢が過ぎる。お願いすれば許されるなら、この十年のサービス残業は何だったのか。
かといって「退職します」は強すぎる。直球の宣言だ。想像しただけで課長のこめかみに青筋が浮く。
「……どうして件名ひとつ決められないのよ」
口から出た声は、なぜか冷ややかに響いた。画面を見下ろすその横顔は、おそらく世界征服を企む魔族そのものだろう。だが中身は、題名で悩むただのサラリーマンだ。
ちなみにその間にも、時計は容赦なく進んでいた。
気づけば三十分が経過していた。
ふとシンクを見ると、どんぶりのふちに一本だけ、すすり損ねた麺が張りついている。めんつゆを吸い続けたそれは、いつの間にか菜箸のような太さに育っていた。うどんは、待ってくれない。
結局、件名欄に収まったのは、無難すぎるにも程がある四文字だった。
『ご連絡』
本文には「一身上の都合により退職いたします」と、テンプレートをなぞって打ち込む。そして、親指を送信ボタンの上で五秒ほど震わせたあと、えいっと押した。
送信完了の音が、やけに軽やかに鳴った。
返信は、一分もかからなかった。
画面を見るまでもなく、通知欄にその一行が表示されている。
『認めん。明日9時までに来い。来なければ家に行く』
「…………」
スマホをそっと伏せた。
家に、行く。
入社時に出した書類の住所欄が、頭の中でくっきりと浮かんだ。履歴書、入社誓約書、緊急連絡先。全部ある。あの会社は、個人情報だけは律儀に保管する会社だ。
想像してみる。玄関のチャイムが鳴って、ドアスコープを覗いたら、そこに課長が立っている。ドアを開ける。開けた先にいるのは、角つきの美少女。課長の第一声は、きっと「誰だ、てめえは」だ。
――終わる。何もかもが終わる。
「……出社のほうが、まだましね」
絞り出した声は、やはり尊大で、少しだけ裏返っていた。
自宅で角がばれたら、住んでいるのが佐々木本人でないとばれたら、住所ごと追い込まれる。会社で角がばれたら、職場の中だけで済む。損害の範囲は、後者のほうが狭い。恐怖と恐怖を天秤にかけて、より小さいほうを選ぶ。小市民の鉄則である。
もっとも、その天秤が本物のアウラの魔法ではないところが、せめてもの救いだった。
気づくとすっかり暗くなってきており、また、お腹がすいてくる。
ふむ……取り急ぎの問題は、食料である。
戸棚も冷凍庫も空だ。出社が明日なら、今夜のうちに何か腹に入れておかなければ、きっと明日の朝に倒れる。いくら健康に問題がなくても、空腹はやはり空腹だ。
外に出るしかない。
ただし、昼間は論外だ。この顔で、この角で、この髪の色で、真昼の住宅街を歩いたら、三分で通報されるか、五分で動画に撮られる。
時計を見ると、午後十一時を回っていた。この時間なら、人通りは一気に減る。決行するなら、今しかない。
俺は押し入れを開けて、服を探した。
候補は少ない。何しろ三十二歳独身男性のクローゼットだ。選べる服などたかが知れている。
上は、学生時代から着ているぶかぶかのグレーのパーカー。今の体では、裾が太ももの半ばまで届いてしまう。袖口からは指がやっと見えるくらいで、これはこれで防寒にはなる。フードをかぶると、頭の両側で角が押し上げられて、布地に小さな二つの出っ張りができた。
下は、くたびれたスウェットパンツ。ウエストの紐をぎゅっと締めて、裾を三回折り返す。それでも足の甲にかぶさるので、さらに一回追加した。
靴は、普段履きの黒いスニーカー。サイズが合わないので、つま先にティッシュを詰めて、かかとは踏んで履くことにする。靴ひもを結ぶ手が、袖に引っかかってもたつく。
最後に、使い捨てマスクを顔の下半分にかけて、準備は完了だ。
玄関脇の姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、不審者だった。
袖の余ったグレーのパーカー、深くかぶったフード、顔の半分を覆うマスク。そして、フードの両脇でぴょこんと主張する、二つの出っ張り。怪しさだけは、百点満点である。
……だというのに。
マスクの上からのぞく濃い紫の瞳が、鏡の中でじっと俺を見つめ返していた。まつ毛が長い。目つきが妙に鋭い。どう見ても、この世のものではない美少女の目だ。
そのとき、ほんの出来心が働いた。
――ちょっとだけ、やってみようか。
マスクを外し、俺は右腕をすっと横に伸ばし、手のひらを上に向けた。左手は腰に当てる。顎を軽く上げて、斜めに構える。視線は鏡越しに、見下ろすように。
ほら、あの有名なポーズだ。天秤を掲げて、人間を見下ろす、あの大魔族の。
「……私の勝ちよ」(負けフラグ)
鏡の中の美少女が、完璧な角度で微笑んだ。
その瞬間、背筋がぞわっと粟立った。似合っている。悔しいほどに似合っている。
一拍置いて、自己嫌悪が洪水のように押し寄せてきた。
――なにやってんだ、俺は。
三十二歳。夜十一時。一人暮らしの玄関で、ぶかぶかのパーカーを着て、鏡に向かって魔族のポーズを決めている。見られていないのが唯一の救いだが、鏡に映る自分には、しっかり見られていた。
「…………忘れなさい。今のは、なかったことよ」
誰に向けた命令なのか、自分でも分からない。ただ、口調だけは立派に尊大だった。
俺は腕をそっと下ろし、マスクを着けなおして、玄関のドアノブに手をかけた。
夜の空気は、思ったより冷たかった。
住宅街は静まり返っていて、街灯だけがぽつぽつと道を照らしている。時々遠くで車が通る音がするたびに、フードの中で肩がびくっと跳ねた。大魔族の身体能力を持っていても、気持ちはいつもの小心者のままだ。
コンビニまでは、徒歩五分。
角を曲がると、見慣れた看板が見えた。
黄色い太陽のマークと、「サンライズマート」の文字。この地方で生まれたローカルチェーンで、街のあちこちに店舗がある。店内の照明がやけに明るくて、夜道に一点だけ昼間が残っているような場所だ。
噂では、全国的に有名な大手コンビニに買収されるらしい。ネットの掲示板でも、ここ半年ほど「買収秒読み」だの「いや、デマだ」だの、飽きもせずに言い合っている。真相は誰も知らない。ただ、そのたびに店員さんが「うちの店は変わりませんよ」と苦笑いしているという話だけは、なぜかやけにリアルだった。
自動ドアが開く。
「いらっしゃいませー」
眠そうなレジの店員の声が飛んできた。それと同時に、バックヤードのほうから、のんびりした中年男性の声が重なった。
「おーい、廃棄の確認、頼むよー」
店長だろうか。顔は見えない。ドアの隙間から、後ろ姿がちらりと見えただけだった。ふくよかな背中に、「サンライズマート」のロゴ入りエプロン。声の調子からして、やたらと優しそうな人だ。
俺はそそくさと弁当コーナーへ向かった。
ここからが、今夜の本番である。
棚には、割引シールの貼られた弁当が三つ並んでいた。
唐揚げ弁当、三割引。
幕の内弁当、半額。
ミートソースパスタ、二割引。
頭の中で、電卓が弾かれる。幕の内弁当は、元値が高い分、半額でもまだ高い。唐揚げ弁当は、三割引でこの量なら、一食あたりの満足度が高い。ミートソースパスタは、値引き率が一番小さいので論外。
――魔族の恐怖より、値引き率だ。
二分ほど悩み抜いた末に、唐揚げ弁当とおにぎり二個、それに半額の総菜パンを手に取った。
レジに向かうと、会計を待つ間に、レジ横の壁が目に入った。
色あせたポスターが貼ってある。
『アルバイト募集 夜勤歓迎・未経験OK』
夜勤、歓迎。
……いやいや。俺には関係ないわ。
視線を逸らして、財布を取り出す。眠そうな店員は、俺のパーカーにも角にも、一切の反応を示さなかった。ただ淡々とバーコードを読み取っていく。この店員の肝の据わり方は、魔族以上かもしれない。
「千二百円になります」
「……ええ。これで足りるでしょう」
千円札と小銭を、できるだけ堂々とトレイに置く。口調はあくまでも大魔族。内心は冷や汗でびしょびしょだ。袋に入れてもらうとき、店員が「ありがとうございましたー」と気だるげに言ってくれたことが、一番ありがたかった。
帰宅して唐揚げ弁当を平らげたあと、俺は押し入れの奥をがさごそと探っていた。
目当てのものは、一番奥の段ボールの中にあった。
学生時代に買った、黒のニット帽。
明日の出社には、フードは使えない。会社でフードをかぶっていたら、それだけで怒られる。帽子ならまだ、寒さ対策で押し通せるはずだ。
――そう、思っていた。
洗面所の鏡の前で、帽子をかぶってみる。
ぴょこん。
帽子の両側から、角がしっかりと突き出ていた。ニットの生地が、角の先端のところでみちみちに引っ張られて、思いきり悲鳴を上げている。かぶっているというより、角に引っかけているだけだ。
隠れていない。まるで隠れていない。むしろ、角が主役の帽子になっている。
「…………」
俺は鏡の前で、無言のまま固まった。
それから、小さく息を吐いた。
――明日、俺はこの格好で出社するのか。
鬼のような上司に会いに行く、角つきの私。
ふと浮かんだその対比に、自分で苦笑いしてしまった。笑っている場合ではないのに、笑うしかない。
「……やってやろうじゃないの」
鏡の中の美少女が、不敵な笑みを浮かべていた。口調だけは、やはり大魔族である。
内心では、膝が震えていたけれども。
>明日から完結まで毎日20時投稿予定です。