朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
唐揚げ弁当の空き容器をゴミ袋に突っ込んだところで、俺は重大な事実に思い至った。
風呂に入っていない。
厳密には、昨日から一度も体を洗っていない。何しろ始発で会社から帰ってきてから、起きてすぐにアウラになり、鏡の前で固まり、魔法を試し、怯え、うどんを食べ、外出して、今に至る。一日の濃度が高すぎて、入浴という概念がどこかへ吹き飛んでいた。
ただ、気づいてしまった以上は放置できない。社畜の習性として、風呂に入らずに寝ると翌朝の後悔が三倍になることを、俺は経験則で知っている。
「……入るしか、ないわね」
声だけは決意に満ちた女王様だった。足元のニット帽が、床の上で静かに転がっている。
浴室のドアを開けると、見慣れたレトロな空間が広がっていた。
築年数不明の賃貸にふさわしく、壁は緑がかった古いタイル。窓は小さな曇りガラス。そして浴槽の横の壁には、でんと据え付けられた銀色の箱がある。バランス釜、通称BF釜である。外の壁に抜ける煙突の跡が、年季の入った茶色いシミになっていた。
こいつは、気難しい。
まず、湯を張る。浴槽の水位が、釜の取水口より上に来るまで、点火してはいけない。空焚きをすれば、湯どころか釜が悲鳴を上げて壊れる。俺はこの部屋に越してきた初日、大家さんからそう念を押された。
蛇口をひねる。ごうごうと水が落ちはじめた。
湯が溜まるまでの二十分間は、完全な空白時間だ。その間、俺は脱衣所のカゴの前で、静かに煩悶していた。
――何を着替えに持っていくか、という問題である。
手元にあるのは、男物のTシャツと短パンと、トランクス。それだけだ。タンスの中身は、三十二年間の独身男性の総決算であり、それ以上でも以下でもない。
いや、待て。
この体に、トランクスは、合うのか。
いやそもそも、女の子というのは、何を着けるのだ。
頭の中で、知識の引き出しを片っ端から開けてみる。ブラジャー、ショーツ、キャミソール、スリップ。名前だけなら、どれも聞いたことがある。ただ、何がどう違うのか、サイズは何で決まるのか、そもそもどこで売っているのか、そうした具体的なことは、何ひとつ知らない。男として生きた三十二年間で、一度も必要がなかった知識だ。
ネットで調べてみようか。
……いや、この顔でスマホを見ながら、女性用下着の検索履歴を積み上げていく自分を想像すると、頭が痛くなる。しかも、買うとなれば店頭か通販だ。店頭は角つきで入店する勇気がない。通販は受け取りで配達員と対面する。その配達員に、男性名義の荷物を受け取りに出てくるのは、角つきの美少女。
――後回しだ。
俺は、思考の蓋を、そっと閉めた。
これは、現実逃避ではない。戦略的撤退である。そう自分に言い聞かせて、トランクスを一枚、カゴの上に置いた。サイズが合うかは、風呂上がりに考える。
水位が、ようやく釜の取水口を越えた。
点火つまみを押し込んで、ぐいっと回す。パチ、パチ、と火花が散る音。そして、ボッ。
青い炎が、釜の中で小さく灯った。
その瞬間、思わず体がびくっと跳ねた。魔族が火を怖がるのも妙な話だが、これはただ単に、古い釜の点火音が毎回心臓に悪いだけだ。
「……毎度ながら、脅かしてくれるわね」
釜に向かってそんな挨拶をする角つきの美少女は、世界でも俺くらいのものだろう。
服を脱ぐ段になって、俺は最初の決まりごとを作った。
鏡は、見ない。
洗面所の鏡は正面から見ない。気合である。後は、浴室から出るときには湯気で曇らせることにした。BF釜は火力が強いので、湯気の出力に関しては、現代のどの設備にも負けない。初めてこの古い釜に感謝した。
浴室に入る。扉を閉める。目を閉じる。
手探りで、洗面器とシャワーを探した。
まず、シャワーヘッドの位置が高い。朝までの俺の目線なら、ちょうどいい高さだった。今の俺だと、つま先立ちをしないと届かない。腕を伸ばすと、袖ではなく素肌が、ひんやりした壁に触れる。この妙な違和感は、何度経験しても慣れない。
次に、髪。
長い。とにかく長い。背中の半ばまである髪が、お湯を吸って、ずっしりと重くなっていく。シャンプーを手に取って、いつもの量で足りるかと思ったら、全然足りなかった。二回出して、三回出して、ようやく頭全体に行き渡る。
泡立てると、ふわふわの白い山ができた。
その山の両側から、にょっきりと二本の角が突き出ている。
角にも泡がついた。洗うべきか、洗わざるべきか。迷ったあげく、タオルで軽くこすってみる。
すると、タオルが引っかかった。
「ちょっ……」
角の溝に、タオルの繊維がきっちりはまり込んでいる。引っ張ると、頭がぐいと傾く。傾けて外そうとすると、今度は反対側の角が壁にコツンと当たった。
一人で何をやっているのだ、俺は。
結局、角は手でそっと撫でるだけにとどめて、泡を流すことにした。目をつぶったままなので、シャワーの位置を探る手が、しばらく空をさまよう。
体のほうは、必要最低限だけ洗って、あとは触れないことにした。紳士協定のようなものだ。誰と協定を結んでいるのかは、自分でも分からない。
一通り終えたところで、いよいよ湯船に足を入れる。
「……あっつ!」
反射的に足を引っ込めた。
思わず目を開いて、白い生足が視界に入り込む。慌てて目をそらす。
BF釜の湯は、こういうところがある。釜に近い側の水温が極端に高くて、遠い側がぬるい。かき混ぜないと、湯が層になってしまうのだ。俺は、浴槽の手前に置いてある、湯をかき混ぜるための古い棒を取って、ぐるぐると円を描いた。
何度か往復して、ようやく熱さが均等になる。
ゆっくりと、肩まで湯につかった。
「……ふぅ」
深いため息が漏れた。
疲れた。今日という一日は、あまりにも長かった。体がお湯に溶けていくような感覚は、男でも女でも、おそらく大きくは変わらない。
「悪くない湯加減ね」
つぶやくと、浴室にやけに響いた。
反響のせいで、声が数割増しで威厳を帯びる。大魔族の独白めいた響きだ。さっきまで泡と角で格闘していた奴が出していい声ではない。
天井を見上げて、しばらく何も考えずにぼうっとした。
窓の外では、遠くで救急車のサイレンが鳴っている。浴室の湯気が、小さな窓ガラスをゆっくりと曇らせていく。
――静かだ。
そのとき、ふと、ある違和感が頭をよぎった。
トイレに、行っていない。
俺は、湯の中で、ゆっくりと目を開けた。
今朝から、一度も。
振り返ってみる。朝起きて、昼過ぎにうどん。夕方に水分補給として軽く水だけ飲んで、夜に唐揚げ弁当とおにぎり二個と総菜パン。水分だけでも結構、摂っている。普通なら、とっくに三回や四回は行っている頃合いだ。
ところが、尿意も、便意も、まったくない。
恐る恐る、細い腰にあたりにある真っ白なお腹に手を当ててみる。
平らだった。唐揚げ弁当を食べたあとの満腹感はあるのに、胃が膨らんでいる気配が、まるでない。
「……ん?」
疑問が、じわじわと形になっていく。
食べたものは、どこへ行った。
俺はしばらく黙って考えた。そして、ふと、昼のうどんのあとの「ぽかぽか」を思い出した。お腹の底があたたかくなって、気のせいかと流した、あの感覚。
もしかして、食べたものは、魔力に変わっているのではないか。
あくまで仮説だ。確かめる術はない。だが、辻褄は合う。魔族は、人間のように食事をして排泄する生き物ではない。原作でも、そんな描写は見た覚えがない(いや、漫画だから描写されていないだけかもしれないが)。あの連中は、魔力そのものを糧にして、魔力そのもので体を維持している。
魔力で、体を。
もう一つ、連鎖的に思い出した。
原作の魔族は、死ぬと服と体ごと消えていく。そして、あの服は、いつ見ても同じ形をしている。着替える描写も、洗濯する描写もない。魔族の服は、魔力でできているのだ。
ということは。
「……服も、作れるんじゃないの?」
湯船の中で、私は小さくつぶやいた。
瞬間、頭の中に、新しい可能性が一気に広がった。
服が作れるなら、サイズの合わない男物の服に悩まなくていい。服が作れるなら、下着の問題も、解決するのではないか。服が作れるなら、お金をかけずに、身だしなみが整えられる。
夢が膨らむ。ぐんぐん膨らむ。
そして、湯船の中の俺は、にわかに勢いよく立ち上がった。
ザバァッ。
湯が波打って、浴槽の縁からあふれ出る。ついでに角が、天井の電球にコツンとぶつかった。
「いたっ」
痛みをこらえて、浴槽をまたぐ。
試す価値は、ある。
ただし、風呂上がりの、ちゃんと体を拭いたあとで。
この夜、俺はまだ知らなかった。この思いつきが、人生で一番寒い実験になることを。