朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
浴室を出て、バスタオルで体を包む。
そこで気づいたのだが、湯上がりの肌というものは、本来の俺のそれとは根本的に違っていた。もとの俺は、風呂から上がっても、赤くなった健康に気づかいされていない中年未満といった風情だった。今の腕は、雪のように白いところに、ほんのりと桜色が差している。湯気を含んだ肌が、脱衣所の蛍光灯の下でつやつやと光っているのだ。
ふくらはぎも、肩も、指先も、全部が磨かれた陶器のようだった。髪の先からぽたぽたと落ちる水滴が、鎖骨のあたりで光って、すうっと流れていく。
――誰だ、この美少女は。
いや、俺だ。
いや、俺ではない。
混乱したまま、鏡を見て、ぶんぶんと首を振る。見てはいけない。見たら、いろんなものが崩れ落ちる。そんな予感がしていた。
ドライヤーのスイッチを入れる。
長い髪というものは、乾かすのに無限の時間がかかる。毛先から根元まで、風を当て続けること十五分。その間、腕が上がったまま固まって、もはや修行である。角のまわりは、熱風を当てすぎると熱くなるので、慎重にかわす必要がある。角にも体温があるのだと、俺は今夜初めて知った。
ようやく髪が乾いたころには、湯冷めどころか、また汗ばんでいた。何をしているのだ、俺は。
さて。
ここからが、本題である。
六畳の部屋の真ん中に、バスタオル一枚で立つ。
カーテンは閉め切った。ドアの鍵は二重に確認した。誰にも見られる心配はないのに、何度も窓の外を気にしてしまうのは、小市民の悲しい性だ。
「……では、始めましょうか」
声だけは、魔法実験を指揮する大魔族のそれだった。内心は、期待と不安で心臓がうるさい。
目を閉じて、体の内側に意識を向ける。
魔力感知を、自分に向ける。
すると、お腹のあたりに、温かな塊のようなものが、静かに脈打っているのが分かった。うどんの「ぽかぽか」の正体は、おそらくこれだ。その塊から、細い糸のような流れを、手のひらへ導く。
イメージするのは、あの服だ。原作で、嫌になるほど見た、あの魔族の服。
……何も起きない。
二回目。やはり、何も起きない。
三回目で、足元の床に、靴下らしき布切れがぽとりと落ちた。
しかも片方だけ。
「……靴下の片方だけ作ってどうするのよ」
自分で自分に突っ込んで、床の靴下を拾い上げたところで、それはふっと霧のように消えた。魔力が尽きたわけではなく、維持できなかったのだ。つまり、服を作るには、一瞬で全身分のイメージを固めて、それを維持し続ける必要がある。
理屈は分かった。あとは、やるだけだ。
俺は、バスタオルを、そっと外した。
いや、外さなければ、服の実験にはならない。
ここは完全に、実験のためである。誰に弁解しているのか自分でもよく分からないが、念のため、湿気を含んだ空気の中で、小さく宣言しておく。
これは科学だ。
そう、科学なのだ。
目を固くつぶり、両腕で体を抱くようにして、深く息を吸う。体の内側のあたたかい塊を、一気にぐっと引き寄せた。胸の前で、魔力がぎゅうっと圧縮される感覚がする。
そして、イメージを、解き放つ。
――ふわっ。
一瞬、視界が白く弾けた。
瞼を開けると、そこにはあの服があった。
見慣れた、あの魔族の装い。襟元から裾まで、細部に至るまで、原作そのままの佇まい。体にぴったりと沿うようにまとわりついて、むしろ着心地は、拍子抜けするほど軽い。
「……できた」
声が、震えた。
「できた、できたわ。私、できたじゃない」
嬉しい。純粋に嬉しい。三十二年間の人生で、何かが「できた」と感じたのは、いつぶりだろうか。初めての魔法に、体の奥が歓喜に震えた。
次の瞬間である。
ずる、と膝から力が抜けた。
視界が、ぐらりと揺れる。耳の奥で、ごおっと潮騒のような音が鳴った。全身から、何かがごっそりと流れ出ていく感覚。例えるなら、徹夜明けに三時間の会議に出たあと、さらに階段を駆け上がったような、あの底なしの疲労である。
「ちょ、ま……」
言葉を紡ぐ間もなかった。
服が、ふっと光の粒になって、空気に溶けていく。
あとに残ったのは、床にへたり込んだ、湯上がりの白い肌の全裸の美少女。ただそれだけだった。
なお、その光景を目撃した者は、一人もいない。いたら通報案件である。
ひとまず、慌ててバスタオルを引き寄せて、体に巻きつけた。手が震えて、うまく結べない。
呼吸が整うまで、たっぷり三分かかった。
そして、俺は気づいてしまった。
――もし、これを、外でやっていたら。
想像してみる。
たとえば明日の出社途中。電車の中や駅のホーム、会社のエントランス。魔力で作った服で、何食わぬ顔をして歩いている。そして、ある瞬間に、突然ふっと魔力が切れて、服が光の粒になって消える。
そこは、朝の通勤ラッシュのど真ん中だ。
――ニュース速報:本日朝、都内の駅で、角つきの全裸少女が目撃され。
「…………」
背筋が、すうっと冷たくなった。
風呂上がりの火照りは、一瞬で引いた。
「鉄則を、決めるわ」
声だけは、凛と響いた。
「服は、魔力で作らない。絶対に」
誰も聞いていない部屋の中で、私はそう宣誓した。
ちなみに、下着問題は、結局解決していない。魔力で一瞬だけ服はできたが、維持できなければ意味がない。結論は「後回し」のまま。ただ、問題を先送りにしている間にも、財布の中身は確実に減っていく。そこだけは、頭の片隅に留めておくことにした。
気を取り直して、寝巻に着替える。
男物の灰色のTシャツと、ゆるゆるのスウェットズボン。裾は三回たくし上げて、ズボンの紐はこれ以上ないほどにきつく締める。どう見ても大人の男物を借りている少女の図だが、他に着るものがない。
魔力を使ったせいか、体の芯が、どっと重い。
食べた分が、全部消えたような感覚だった。さっきまで満腹だったはずなのに、今は不思議と、空腹に近い。やはり、食事は魔力に変わっているのだろう。そして、服を作るのは、ものすごく燃費が悪い。
布団を敷いて、潜り込もうとしたところで、枕に目が止まった。
白い枕カバーの端に、ぽっかりと穴が開いている。
穴の周りは、焼け焦げたような毛羽立ちがあって、そこから、ふわふわの綿が、ひょっこりと顔を出していた。
今朝、目覚めたときの記憶が、蘇る。
そういえば、起きた直後、頭の側面に妙な違和感があった。あの時は、それどころではなくて、気に留めていなかったが、あれは角が、枕を貫いていたのだ。
「……弁償してもらえるのかしら」
当然、誰に請求するのかという話になる。弁償先は、俺自身だ。
そっと穴をつついてみる。綿が、さらにこんもりと溢れ出た。
頭の中の家計簿が、勝手に新しい行を追加した。
――枕(新)、約二千円から三千円。
微妙な額だ。今の俺にとっては、おにぎり十個分に相当する。
いや、問題は金額だけではない。仮に新しい枕を買ったとして、同じことが起きるのでは意味がない。
どんな枕なら、角に耐えられるのか。
硬めの素材なら、穴は開かないだろうか。そば殻の枕は、角が刺さるのでは。低反発なら、むしろ角が沈み込んで、安定するかもしれない。いやそもそも、角の位置がちょうど側頭部の後ろ寄りなので、仰向けでは枕に当たり、横向きでも片側が当たる。つまり、どう寝ても、どちらかの角は枕に接触する。
ドーナツ型の枕なら、角が穴に逃げられるかもしれないが、あれは本来、別の用途のためのクッションだったはずだ。
ネットで「角 枕」と検索してみたい。だが、検索履歴に残るのが恥ずかしい。いや、そもそもフリーレン関連で、既に検索履歴は大変なことになっているのだった。
考えているうちに、まぶたが、とろとろと降りてきた。
魔力を使った疲れと、一日分の緊張が、一気に押し寄せてくる。思考がほどけて、長い一日の出来事が、頭の中でぐるぐると回り始める。
――課長の返信。
――コンビニの割引シール。
――風呂釜の青い炎。
――靴下の片方。
眠りに落ちる直前、ひとつだけ、ぽつりと声が漏れた。
「……明日、あの鬼に会いに行くのに、私は枕の心配をしているのね」
その口調は、やはり堂々たる魔族のものだった。
だが、枕に頬を預けたその顔は、どう見ても、疲れ果てた少女の寝顔だった。
角が、枕の穴に、すっぽりと収まっている。
そこだけは、今夜いちばんの、収まりの良さだった。