朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
午前四時半。目覚ましが鳴る三十分前に、俺はぱっちりと目を覚ましていた。熟睡して早起きしたわけではない。うとうとしては「行きたくない」で目が覚める、を三周ほど繰り返した結果である。
洗面所の鏡には、薄紫の髪と濃い紫の瞳をした美少女が、寝ぐせだらけで突っ立っていた。頭の左右からは立派な角が生えていて、蛍光灯の光をつやつやと弾いている。断頭台のアウラ。……何度見ても、これが今の俺の顔だ。一日経っても慣れる気配は微塵もない。
「さて、まずは帽子ね」
昨夜の失敗を踏まえ、今朝は慎重にキャップを選んだ。結果、キャップは頭に被さらず、角の上にちょこんと乗っかった。帽子というより、角に引っかけた洗濯物である。
「……よし、諦めましょう」
潔く壁のフックに戻した。人間、引き際が肝心だ。
問題はスーツのほうだった。三十二歳男性サイズのスーツは、今の体にとってほぼ毛布である。肩のラインは二の腕あたりまで落ち、袖は指先をすっぽり飲み込んだ。
袖を三回折り返し、ズボンの裾は四回折り返し、ベルトは最後の穴よりさらに内側を無理やり締めて、余った布をウエストにねじ込む。ネクタイは結んでみたものの、剣先が膝まで垂れ下がり、もはや前掛けだった。靴はティッシュをぎゅうぎゅうに詰めて、どうにか歩ける範囲に収める。
そもそも、なぜここまでしてスーツなのか。理由は単純である。退職届を出す日にジャージで行く社会人がいるだろうか。いない。少なくとも俺は、いない側の人間である。
カバンの内ポケットには、白い封筒が一通。三枚目でようやく納得のいく字が書けた、渾身の退職届だ。
最後に鏡の前へ戻る。さあ、気合を入れよう。
両手を持ち上げ、頬をばちんと叩く――つもりで、振りかぶったところで止まった。
(痛かったら嫌だな)
結局、ぺち、と猫が撫でるような音がしただけだった。気合というより、頬へのご挨拶である。
(落ち着け、琥太郎。紙を一枚出して「お世話になりました」と言うだけだ。それだけだろ)
「聞きなさい、鬼塚。あなたの首は今日、この私がいただくわ」
……え?
鏡の中で、美少女が胸を張り、不敵に口の端を吊り上げていた。俺の口から出た台詞である。いや、首とか貰わないから。辞めるだけだから。
しかも妙に腹の底に響く、無駄にいい声だ。気合は入った。入ったが、方向が盛大にずれている。俺はそっと鏡から目をそらし、玄関へ向かった。
外へ出ると、空は白みはじめたばかりで、街はまだ眠たげだった。始発に近い時間を選んだのは、もちろん作戦である。ラッシュの電車に、角の生えた美少女(ぶかぶかスーツ着用)が乗り込んだらどうなるか。想像するだけで胃が縮む。
新聞配達のバイクがすれ違いざまにぎょっとして急ブレーキを踏んだが、運転手は何も言わずに走り去った。助かった、のだと思う。
電車は狙いどおりの空きっぷりだった。先客は四、五人。夜勤明けらしい作業服の男性は爆睡中で、朝練に向かうらしいジャージの高校生が二人。そして吊り革にぶら下がるようにして立ったまま船を漕いでいる、くたびれたスーツのサラリーマン。昨日までの俺かもしれない。
「……え、コスプレ?」
「朝イチでガチ勢すぎない? 今日はなにかイベントあったっけ?」
「あー、始発組か。魂入ってるわー」
高校生のひそひそ声は、全部聞こえている。違う、これは生えているんだ、と叫びたいのをぐっとこらえ、俺は端の席に腰を下ろした。深く座ろうとして、角が背もたれにごつんと当たる。仕方なく浅く腰掛けて背筋を伸ばすと、やたらと姿勢のいい美少女が一丁上がりになった。
誰も話しかけてこない。二度見して、目をそらして、スマホに戻る。この国の人々の、見て見ぬふりの練度は素晴らしい。ありがたいような、これはこれで少し寂しいような、妙な気分だった。
手持ち無沙汰なので、例の魔力感知を試してみる。作業服の男性は、弱い。高校生も、弱い。吊り革のサラリーマンも、弱い。……のだが、あれ?
同じ「弱い」のはずなのに、サラリーマンのは妙に薄い気がした。高校生が普通の味噌汁なら、あちらはお湯で割った味噌汁である。強いか弱いかの二択しか分からないはずなのに。
(疲れてると薄くなる、とか? ……いや、考えすぎか)
ま、いいか。電車が揺れ、俺は考えるのをやめた。
会社は雑居ビルの四階にある。到着したのは六時過ぎ。エレベーターを降りた先にある誰もいない会社の受付を通り過ぎ、その奥にある扉の横のリーダーに、写真が別人の社員証をかざすと、ピッと軽やかな音がしてドアが開いた。機械は人を見た目で判断しない。偉い。
フロアの明かりが煌々と点いていた。始業まで二時間以上あるのに。いや、そもそも消えていた記憶があまりない。
デスクの島のひとつに、ぐったりと突っ伏している人影があった。栄養ドリンクの空き瓶に囲まれて、半分魂の抜けた状態。俺の後輩である。昨夜からここにいたのは、一目で分かった。
(声をかけるべきか。起こすのも悪いか。でも、勝手に入って黙っているのも不審だよな)
優柔不断の末、俺は小さく咳払いをした。
「……ちょっと、そこのあなた」
出たのは、フロアの空気を震わせる、ずしりと重い声だった。ボリュームを絞ったつもりだったのに。
後輩がびくりと顔を上げた。充血した目で俺を見て、ぼんやり瞬きをして、それから、ものすごく面倒くさそうに言った。
「……え、誰ですか?」
「私は――」
「あー、いいです。いま誰かの相手してる余裕ないんで」
言い終わる前に遮られた。あれだ、いつものやつだ。俺の話が最後まで聞いてもらえた試しは、あまりない。
「待ちなさい。私は佐々木よ。佐々木琥太郎」
「佐々木さん?」
後輩は首をかしげ、まじまじと俺の顔を眺めた。紫の髪に紫の瞳、どう見ても日本人ではない造作。続いて、袖の余りまくったスーツ。そして、また顔。
「……え、血のつながってない妹?」
「どういう意味かしら」
「いや、だって、全然似てないし。……あー、でも、そういうこともあるのか……」
質問なのか独り言なのか、本人にもよく分かっていない様子である。まぶたは半分しか開いていない。
「……まあ、いいや……」
後輩はぐらりと上体を傾け、デスクの端に並んだ栄養ドリンクの空き瓶を、がしゃりと崩した。
「……佐々木さんが急に休むから、そのフォローで……」
言い終わらないうちに、糸の切れた人形のように突っ伏した。三秒後には、規則正しい寝息が聞こえてくる。気絶である。
(……急に休んだのは、俺です。すみません)
胸の奥でちくりと謝ってみたが、本人は夢の中だった。口に出したところで、どうせ「ご苦労だったわね」あたりに変換されて労ってしまいそうなので、これでよかったのかもしれない。
俺はその場に立ち尽くした。ここまで来て自分の席に座る度胸はなく、かといって帰るわけにもいかない。結局、課長席の前あたりに突っ立って、直立不動で待つことにした。
七時を回るころから、社員がぽつぽつと出社してきた。全員が俺を見て、二度見して、何も言わずに自席へ座り、無言でパソコンを立ち上げる。ツッコミを入れる元気すら、このフロアには残っていないらしい。おかげで俺は、新しい観葉植物くらいの扱いになった。
時計の針が、八時を少し過ぎたころ。フロアの扉が開き、空気がすっと凍りついた。
寝ていた後輩が、バネ仕掛けのように跳ね起きる。社員たちの背筋が、いっせいに伸びた。重い足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
――鬼塚課長。
岩のような体格に、不機嫌を煮詰めたような顔。ワイシャツは皺だらけで、無精ひげが伸び、目の下には濃い影が居座っている。この数日、ろくに寝ていないのだろう。ふと、課長の気配が妙に薄い気がした。だが、そんなことを考えている余裕は一ミリもなかった。
課長が自席の前で足を止める。そこに立っている見知らぬ角つき少女を、じろりと見下ろした。
低く、地を這うような声が、フロアに落ちる。
「……誰だ、てめえは?」
(うわああああ怖い怖い怖い怖い怖い)
心の中では悲鳴を上げているのに、俺の体は勝手に仁王立ちを決めていた。
「私は佐々木琥太郎よ。昨日のメールの件で、来てあげたわ」
フロアが静まり返った。後輩が口を半開きにしている。
課長の眉間の皺が、一本増えた。
「佐々木だあ? あいつは男だ。ふざけてんのか」
「ふざけてなんていないわ。これを見なさい」
差し出した社員証を、課長はひったくるように受け取り、顔写真と俺とを見比べた。写真には、見慣れた冴えない男の顔。目の前には、紫の髪の美少女。どう見ても別人である。そりゃそうだ。
「他人の社員証をどこで拾った。盗んだのか」
「違うと言っているでしょう。本人よ」
説明すればするほど、口調だけが勝手に尊大さを増していく。内心では「頼むから信じてください」と土下座しているのに、口から出るのは傲慢な女王様みたいな物言いだ。信じてもらえるはずがない。
課長が社員証をデスクに叩きつけるように置いた。こめかみに青筋が浮き、握りしめた右手が、ゆっくりと持ち上がる。その拳の落ちる先は、俺の目の前にある、分厚い、金属製の、デスク。
あ、これ、叩かれる。