朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
拳が、止まった。
机まであと数センチ。課長の右手は宙で固まったまま、小刻みに震えている。怒りなのか、三日続きの寝不足なのか、判別がつかない。
課長の視線が、俺の顔をゆっくりとなぞった。紫の髪。紫の瞳。まだ丸みの残る頬。どう見ても、成人済みの顔ではない。
(いや、中身は三十二歳なんですけど)
主張したところで通るはずがない。通ってしまったら、それはそれで別の問題が発生する。
課長は長く息を吐き、拳をほどいた。そのまま片手で額を押さえる。
「……会議室だ」
「え?」
「ガキ相手に、フロアのど真ん中で怒鳴り散らすほど腐っちゃいねえ。来い」
くるりと背を向け、のしのしと歩きだす。慌てて追いかけようとして、自分のズボンの裾を踏みそうになった。ティッシュを詰めた靴が、ぱふぱふと間の抜けた音を立てる。
フロアの社員たちは、全員が固まっていた。キーボードにかけた手を止め、口を半開きにして、校長室へ連行される小学生を見送るような顔をしている。
「……課長が、女の子を会議室に連れ込んだ」
「通報したほうがいいかな」
「でも課長、もう三日寝てないしな……」
「寝てない人間は何するか分からないって言うしな……」
違います。そういうのじゃないんです。ただ、後輩だけはデスクの上でぐうぐう寝ていた。やけに幸せそうな寝顔だった。
窓のない、狭い会議室だった。長机にパイプ椅子が六脚。課長はドアに一番近い席へどかりと腰を下ろし、向かいの席を顎で示した。
「座れ」
座った。背もたれに角がかつんと当たったので、浅く腰掛けて背筋を伸ばす。この身体、腰が高く足が長いせいか、身長に対して座高が低く過ぎる。そして、電車のときと同じ、やたら姿勢のいい美少女の完成である。
課長は腕を組み、しばらく黙って俺を見ていた。蛍光灯の下で、目の下の隈が濃く浮き上がる。
「まず、言っとく」
押し殺した声だった。さっきの怒鳴り声より、静かなぶん、こっちのほうが怖い。
「この会社がまともじゃねえのは、俺が一番よく分かってる。残業は多い、休みは取れねえ、給料は安い。辞めたいって奴を、俺は一度だって止めたことがねえ」
(……え?)
予想外の言葉に、思わず顔を上げた。
「だがな、辞めるなら筋を通せ。本人が来て、顔を見せて、頭を下げて、辞めますと言え。社会人の最低限だろうが。昨日のあれは何だ、メール一行だぞ」
ぐうの音も出ない。
「だから来いと言ったんだ。それがどうして、佐々木本人じゃなくて、てめえみたいなガキが来る」
「だから、私が――」
「あいつの社員証を持ってな!」
ドン、と鈍い音が響いた。拳が落ちたのは机ではなく課長自身の膝だったが、俺は椅子の上で三センチ跳ねた。
「お前、いくつだ」
「さ、三十二よ」
「ふざけんな!」
内心では正直に答えたのに、口から出たのは、世界の理を知り尽くした女王が年齢を告げるような、無駄に堂々とした声だった。課長のこめかみが、ぴくぴくと脈打つ。
原作通り、五百歳と言わないだけマシだと思った自分もいる。
「十五か。十六か。どっちにしろ未成年だろうが。親は知ってんのか。学校は。……いや、その前にだ」
課長が身を乗り出す。
「あいつに、何を言われた」
「何も言われていないわ。私が自分の意思で来たのよ」
「金か。金で釣られたのか。それとも脅されてんのか」
「そんなもの、必要ないわ」
怒鳴られるたびに、課長の言葉は意味を失い、ただの音の塊になっていった。親が、学校が、金で、と断片が耳を素通りしていく。かろうじて拾えたのは、「ガキ」と「あの野郎」と「ふざけんな」の三つだけである。
(つまり、辞めさせないぞ、と言いたいんだな。たぶん。きっとそうだ)
大間違いである。
「じゃあ何だ。お前、あいつと」
そこで課長は言葉を詰まらせた。眉間の皺が、渓谷のように深くなる。
「……付き合ってんのか」
「は?」
「あの野郎と付き合ってんのかって聞いてんだ! 未成年だろうが、お前は!」
(……え? え? えええええ!?)
脳が理解を拒否した。付き合う。俺が。誰と。いや待て、俺は俺なのだから、付き合うも何も。
「何を馬鹿なことを。私はあの男そのものよ」
「……そのもの?」
課長の動きが止まった。
「今、そのものって言ったか」
「ええ。そのものよ」
「……洗脳か何かか!?」
違う。違います。ただの事実です。
課長はゆっくりと両手で顔を覆った。肩が震えている。やがて指の隙間から、絞り出すような声が漏れた。
「あの野郎……報告は遅いし返事は暗いし誤字は多いが……悪い奴じゃなかったんだ。真面目で、サボらなくて、俺が何を言っても黙ってやってくれて。だから余計に分かんねえんだよ。なんでこんな子供を……!」
何かをぶつぶつと言っているが、俺には、地鳴りのような唸り声にしか聞こえない。
「あの、課長」
「その子供が!」
課長が、ばね仕掛けのように立ち上がった。
「あいつの言いなりになって、大人の都合で、こんなところに立たされて! 黙って見てられるか! いい加減にしろ!」
両手が振り上げられる。
「俺は、お前が――」
バァン!!
会議室の長机が、悲鳴を上げた。
俺の耳に届いたのは、「いい加減にしろ」と、その衝撃音までだった。続く言葉は、恐怖で真っ白になった頭の外側を、むなしく通り過ぎていった。
(殺される)
体の奥で、何かが、かちりと嵌まる音がした。
口が、勝手に動く。
「――
会議室の空気が、きしんだ。
机の上に、淡い金色の光が滲み出す。光は細い支柱を描き、腕を広げ、二枚の皿をぶら下げた。服従の天秤である。
課長は、机に両手を叩きつけた姿勢のまま、目を見開いて固まっていた。この天秤が見えているのかどうかは、分からない。
ただ、二枚の皿が、ゆらり、と揺れ始めた。
天秤の皿に、光が流れ込んでいく。
俺の側の皿には、体の奥から引きずり出された魔力が、どぷどぷと注がれていた。待て、止まれ、そんなに出すな。必死に念じても止まらない。恐怖でタガが外れた体は、持っているものを全額まとめて皿へ放り込んでいる。
(全部載せてる! 全部載せてるぞ俺!)
対する課長の皿は、ひどく静かだった。注ぎ込まれる光が、細い。
電車で感じ取った、お湯割りの味噌汁を思い出した。あのサラリーマンよりも、さらに薄い。お湯で割った味噌汁を、もう一度お湯で割ったような薄さである。三日続きの徹夜は、人間の魔力まで漂白するらしい。
それでも、課長は課長だった。魔力が薄くても、意地だけは濃い。皿はぎしぎしと軋みながら、しつこくこちらに食らいついてくる。
「……ぐ、が……」
課長が奥歯を食いしばって呻いた。額に脂汗が浮いている。天秤が見えているのかは分からないが、何かに押し潰されかけていることだけは、確からしい。
ほぼ互角であった。しかし、俺の皿が、わずかに沈む。ほんの少し差である。
(頼む、頼む、頼む!)
かちり、と天秤が音を立てた。
課長の皿が、すとんと跳ね上がった。
会議室の空気が、ふっと緩んだ。
課長の肩が落ち、握り込まれていた拳がほどけ、両腕がだらりと垂れる。眉間の皺が消えた。あれほど険しかった顔が、嘘みたいにのっぺりと平らになっている。
目だけが、おかしかった。焦点が合っていない。俺を見ているようで、その後ろの壁を見ている。
「……課長?」
「……はい」
声に抑揚がなかった。さっきまで怒号を飛ばしていた人間の声とは、とても思えない。
(勝った……のか? 勝ったんだよな?)
辛勝である。課長があと一本、栄養ドリンクを飲んでいたら負けていたかもしれない。人生とは、案外そういう紙一重でできている。
勝ったところで、問題がひとつ残った。
(……で、何て言えばいいんだ?)
命令を、待たれている。課長は直立不動のまま、虚ろな目でじっとこちらを向いて、待っている。
考えろ、琥太郎。千載一遇のチャンスだ。
俺を佐々木本人だと認めさせる。いや、それだと退職の話が進まない。退職を認めさせる。理由を聞かれたら終わりだ。残業代を払わせる。払う会社なのか、この会社は。給料を倍にさせる。辞める人間の給料が倍になってどうする。いっそ会社ごと――
課長の目は、ぴくりとも動かない。待たれている。ただ、待たれている。その沈黙が、恐ろしく長く感じた。
(早く、早く言え。天秤がいつまで保つのか、分からないんだぞ!)
焦りが、頂点に達した。
「私を、退職させなさい」
出た。
「今すぐによ」
出てしまった。
(いや、「させなさい」じゃなくて「させてください」だろ俺! いやいや、他にもっと言うことあるだろ、退職金とか、有給とか!)
内心でどれだけ絶叫しても、口はもう閉じている。
「……はい」
課長は抑揚のない声でそう答え、俺のカバンへ、ゆっくりと視線を動かした。
そうだ、退職届。震える手で内ポケットから白い封筒を引っ張り出し、机に置く。三枚目の、渾身の一通だ。
課長は封筒を開け、中身にじっと目を通し、胸ポケットから小さなシャチハタを取り出した。徹夜続きでも、印鑑だけは肌身離さず持ち歩いているらしい。社畜の鑑である。
ぽん、と軽い音がして、退職届の余白に「鬼塚」の丸印が押された。
あまりにも、あっけなかった。
三枚書き直した夜も、メール一行に悩み抜いた夜も、全部が、ぽん、の一音で片付いてしまった。
「……課長」
「はい」
「……」
「はい」
それ以外の返事が、返ってこない。
背筋を、冷たいものが這い上がった。
さっきまで、怒鳴って、悩んで、頭を抱えて、佐々木の身を案じていた(らしい)人間が、俺のたった一言で、空っぽの器になっている。
(この人、ブラックの鬼上司だけど、筋は通す人だったんだよな。最後に、何か言いかけてた。「俺は、お前が」――)
その続きは、もう聞けない。
聞こえなかった。聞こうともしなかった。聞く気がなかった。
胸の奥が、きゅうと縮んだ。
ここにいてはいけない。直感がそう告げていた。天秤はいつの間にか消えている。俺は退職届をひったくるように掴み、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
「し、失礼するわ」
会議室のドアを開ける。
フロアの社員たちが、ドアの前にずらりと並んでいた。聞き耳を立てていたらしい。全員が、そろって三歩後ずさる。
俺はその間を、肩で風を切って通り抜けた。ぶかぶかの袖が、ばさばさと揺れる。
そんな俺のことを、フロアの全員が、声をかけることもなく、ただ呆然と俺を見ていた。開け放たれた会議室の奥では、直立したままの課長が、微動だにせず虚空を見つめている。
後輩だけが、デスクの上で幸せそうに寝息を立てていた。
「ごきげんよう」
(お世話になりました、って言いたかったのに!)
そのまま急いで、会社の受付を通り過ぎ、目の前にあるエレベーターのボタンを連打した。来ない。もう一度連打した。来ない。待っていられず、俺は階段の扉を押し開けた。
階段を駆け下りる。足がやけに重い気がしたが、きっとティッシュを詰めた靴のせいだろう。