朝起きたら「断頭台のアウラ」になった元男性サラリーマン ~現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて無いじゃない~ 作:自分の性癖に素直になろう小説
階段を駆け下りきり、ビルの裏口から路地へ出た、その数歩目である。俺の膝は、ぷつりと糸が切れたように折れた。
景色の端が、じわじわと白くなる。耳の奥で、かすかな耳鳴りが始まった。地面が遠い。いや、遠いのは地面ではなく、足の感覚のほうだ。
(あれ。あれ、あれ、あれ)
手近な壁に手をつく。ひんやりしたコンクリートが、やけに気持ちいい。
「……この私が、膝をつくなんて」
なんだその台詞は。ただの立ちくらみです。
訂正する気力もなかった。魔力が、からっぽなのである。体の奥にいつもあったぬるい水位は、見る影もない。給料日前の預金残高を思い出した。通帳を開く前から、結果が分かっているやつだ。
(あの天秤、俺の魔力を全額ベットさせてたのか……)
比喩ではなく、本当に全額だった。恐怖に任せて皿へ放り込んだ分が、きれいさっぱり持っていかれたらしい。
深呼吸をして、壁に額を預けた。角が壁に当たって、かつん、と鳴る。
とにかく、ここでへたり込んでいるわけにはいかない。会社の裏口である。誰かが出てきて「あ、さっきの」となったら、完全に詰む。
壁を伝って、一歩。止まる。もう一歩。止まる。路地の突き当たりに自動販売機があったので、そこを第一目標に据えた。赤い筐体が、ゴールテープのように見えた。
たどり着いて、寄りかかる。冷たい飲み物のランプが、やたらと眩しい。
(栄養ドリンク、買うか……?)
課長が飲み干していた栄養ドリンクの空き瓶が、頭に浮かんだ。あれを一本余計に飲んでいたら、課長が勝っていたのかもしれない。考えると少しだけ泣けた。財布を出す元気もなかったので、買わなかった。
電柱、ガードレール、花壇のふち。休んでは進み、進んでは休む。駅まで五分の道が、二十分かかった。
下りのホームは、がらがらだった。
向かいの上りホームでは、スーツの黒い塊が、ぎゅうぎゅうに詰められて運ばれていく。昨日までの俺は、あの中にいた。今日の俺は、あれを見送る側である。これ以上ありがたいことはない。
電車の座席に、ほとんど崩れ落ちるように腰を下ろした。深く座ると角がつかえるので、浅く、斜めに。背筋を伸ばす余力はもう残っていない。
乗客は、数えるほどだった。買い物袋を抱えたおばあさん、居眠り中の中年男性、そして向かいの席に、制服姿の男子学生がひとり。参考書を開いている。試験期間か何かで、登校が遅いのだろう。
視線を感じた。ちらり。ちらり。
(……角だよな。やっぱり、気になるよな)
慣れたつもりでいても、他人の視線はこたえる。俺は目を伏せ、膝の上に置いた退職届の封筒を見つめた。「鬼塚」の丸印が、封筒越しに透けて見える気がした。
視界の端で、学生の参考書が、ゆっくりと上下逆さまになった。
(……何してるんだ、あの子)
深く考える余裕もなく、俺は目を閉じた。魔力が足りないと、まぶたまで重い。
次の駅で、ドアの開く音がした。うっすら目を開けると、学生が吊り革につかまって立っていた。ドアの前を、降りるでもなく、乗るでもなく、こっちを見ながら行ったり来たりしている。
(トイレかな)
次の駅でも、同じことを繰り返していた。なんかこっちの顔や胸元を見ながら赤面している気もする。
(トイレ、長いな。我慢してるのか。大変だな……)
…………。
……。
家の最寄り駅で降りた。改札を抜けた瞬間、足がもう限界を訴えた。自宅まではあと十分。その十分が、遠い。
途中にある公園のベンチが、オアシスのように見えた。
平日の午前中、公園には人影がまばらだった。散歩中のおじいさん、砂場で遊ぶ幼児と母親たち、遠くで鳩にパンくずをやっている老夫婦。誰も、こちらを気にしていない。
ベンチに腰を下ろし、背もたれに体を預けて、空を見上げた。青い。憎らしいほど青い。
静けさの中で、会議室の光景が、急に戻ってきた。
鬼塚課長の虚ろな目。抑揚のない声。「……はい」。
(……やっちまった)
背中が、すうっと冷える。
人を操るつもりなんて、毛頭なかった。ただ怖かっただけだ。それなのに結果は、人ひとりを、まるごと空っぽにしてしまった。課長は、ブラックな鬼上司ではあるが、筋の通った人だった。あれほど本気で怒っていたのは、きっと、本当は。
(俺は、お前が――)
あの言葉の続きを、もう一度考えかけて、やめた。胸が痛くなるだけだ。
そして、そんな苦い反省の底から、遅れて、もうひとつの感情が浮かび上がってきた。
(……で、「退職させなさい」だけ?)
浮かんだら、止まらなかった。
(退職金は? 未払いの残業代は? 有給の買い取りは? 全部、言えたよな? 言える状況だったよな!?)
頭を抱えた。
(「はい」しか言わない状態の課長に、「退職金を三倍にしなさい」って言ったら、通ったよな? 通ったよな絶対! 未払いの残業代だけで、何年分あると思ってるんだ、十年分だぞ、十年!)
背もたれに額をぶつけるくらいの勢いで、のけぞった。
(だいたい「退職させなさい」の言い方もだ。「受理しなさい」でよかっただろ。「円満退職として処理しなさい」って付け足しておけば、次の面接で聞かれたときも困らなかったのに。ていうか、何で最初に思いついたのが「させなさい」なんだ。俺は何様なんだ)
何様のアウラである。
そこで、ふと気づいた。
罪悪感と、残業代の後悔が、頭の中で同じ重さの天秤に載っている。
(……人を操った罪悪感と同じ重さで、金の後悔してる自分。さすが、小市民)
頭を抱える角度が、さらに深くなった。
しばらく唸ったあと、俺はゆっくり顔を上げた。手のひらを、じっと見つめる。
魔力が、明らかに減っている。減りすぎている。たった一回の魔法で、この有様だ。
(これ、連発できないな。絶対にできない)
そこまで考えたとき、奇妙なことに気づいた。
(……あれ。やけに、感じ取れる)
昨日までは、強いか弱いかの二択でしかなかったはずだ。それが今は、やけに細かい。魔法を一度、本気で使った副作用だろうか。感度が、一段跳ね上がっている。
公園を眺めてみた。
ベンチの脇を通り過ぎていく、散歩中のおじいさん。一番、濃い。人間の魔力は、やはり図抜けている。出汁で言えば、昆布と鰹をふんだんに使った一番出汁だ。
その足元で、鳩がうろうろしている。木の枝には、カラス。動物たちは、人間より明らかに薄い。二番出汁、といったところか。
その向こうの桜の木。ツツジの植え込み。足元の雑草。植物にも、確かに魔力がある。人間や動物よりもずっと薄く、白湯に出汁の香りだけをつけたような、かすかな気配だ。
さらに意識を研ぎ澄ませる。
(……空気にも、ある?)
風の中に、ごくごくわずか、魔力が漂っていた。鍋から立ちのぼる湯気、とでも言えばいいのか。気配、と呼ぶのも大げさなほどの、微量だった。
(世界って、こんなに魔力で満ちてたのか)
感心したところで、別の考えが頭をよぎった。
(使った魔力を取り戻すには、どうすればいいんだ)
魔力のあるものを取り込めば、戻るのではないか。理屈としては、自然だ。それなら、一番濃いのは――
人間。
(……いや)
想像しかけて、胃が拒否した。
今の消耗を埋めるだけでも、人間なら相当な数が必要になりそうだ。それ以前の問題として、俺は元社畜で、元人間で、いや今も人間のつもりで、
「却下」
声に出していた。やたら堂々とした、女王の却下だった。
(動物は?)
今度は、足元の鳩を見る。鳩は首をかしげて、こちらを見返した。
鳩ひとかけらの魔力など、たかが知れている。動物で今の消耗を埋めるなら、数日以上、何匹も何匹も必要になる。現実的ではないし、そもそも鳩を食べるのは法律的にどうなのか。
(植物なら……)
足元の雑草を見下ろす。薄い。薄すぎる。総量を取り戻すには、数週間はかかりそうだった。
(結局、時間でしか回復できないのか)
そのとき、もうひとつ、気づいた。
体から、ほんのわずかに、魔力が空気中へ漏れ出している。
意識を内側に向けると、はっきり分かった。蛇口がゆるんで、ぽたぽたと水が垂れているような感覚だ。立っていても、座っていても、俺の魔力は、静かに世界へ溶けている。
(ああ、そうか。さっきから、じわじわ減ってたのか)
人間より器が大きいぶん、放っておいても漏れる。その分は、補給しなければ赤字が膨らむ一方だろう。
(だとすれば。動物や植物を、ちゃんと摂取すれば。この漏れた分くらいは、補えるんじゃないか)
回復の速度は遅くても、赤字だけは止められる。食べる、という行為が、この体にとっては、案外、本質的な意味を持っているのかもしれない。
時間が過ぎた。
ベンチでぼんやりと沈み込み、鳩の数を数え(十三羽)、雲の形を眺め(だいたいおにぎり)、そのうちに散歩のおじいさんも、親子連れも、鳩にパンくずをやっていた老夫婦も、公園からいなくなった。昼前の公園は、ぽっかりと空っぽになった。
俺は、ベンチのまわりをそっと見回した。
誰もいない。……誰も、いない。
足元の雑草が、日差しを浴びてきらきらしている。
(……食べるのか。これを)
(いや待て。でも、このままだと、家まで帰れるかも怪しい。膝は笑ってるし。最低限、歩ける程度まででいい)
しゃがんで、名前の分からない野草を一本、ぶちっとちぎった。
恐る恐る、口へ運ぶ。
苦い。
とにかく苦い。舌の上で青臭さがぶわっと広がり、喉の奥まで、えぐみが追いかけてくる。
「……ぐ」
(これ、食べるものじゃない!)
涙目でもぐもぐ噛んだ。噛めば噛むほど、苦い。それでも、ごくり、と飲み込む。
すると、胃のあたりから、ほんのりと温かいものが広がった。
(……ある。回復してる、ほんの少し)
もう一本。ちぎって、食べる。苦い。もう一本。苦い。もう、苦いしか言えない。
三本目を飲み込んだところで、足に力が戻ってきた。立てる。ちゃんと立てる。歩ける。
「……ふ、ふふ。見事な回復力ね」
口調だけが、無駄に誇らしげだった。口の中は、まだ青臭い。
家へ向かう道は、駅前の商店街を通り抜ける。
ふらふらではなくなったが、足取りはまだおぼつかない。強い空腹感が、腹の底にぽっかり空いていた。野草数本で埋まるはずもない。胃袋ではなく、もっと奥の、魔力の器が空腹を訴えているのだ。
そんなとき、視界の端で、きらりと光るものがあった。
足が止まる。
商店街の角にある、ガラス張りのショーウィンドウ。中に、小さな石たちが並んでいた。ジュエリーショップである。
ネックレス、指輪、ブローチ。照明を受けて、赤や青や緑の石が、きらきらと輝いている。
(……宝石、か)
昨日までの俺なら、「高そうだな」のひと言で通り過ぎていたはずだ。
足が動かない。
その中のひとつ、深い青の石に、目が吸い寄せられた。
(……なんか)
喉が、ごくりと鳴った。
(美味しそう)
はっとして、慌てて首を振る。何を言っているんだ、俺は。石だぞ。宝石だぞ。食べ物ではない。歯が欠ける。
けれど、感覚は嘘をつかなかった。ガラスの向こうの石からは、濃く、澄んだ気配が、確かに漂っている。人間とも動物とも違う、凝縮された魔力。
野草の百倍、いや千倍は濃い。
(宝石って、魔力を溜め込んでるのか……?)
ふと、値札が目に入った。
ゼロが、いくつも並んでいた。
我に返った。小市民の感覚が、一瞬で頭のてっぺんまで駆け上がる。
(……無理だ。買えない。払えない。食べられない)
ガラスにそっと手のひらを当てて、もう一度、ごくり。
(……食べたいのに)
腹が、ぐう、と鳴った。
名残惜しさで固まった足を、力ずくでガラスから引きはがした。
石は、食べ物ではない。何度でも言う。石は、食べ物ではない。
商店街を抜ける道すがら、俺はなるべく下を向いて歩いた。見るもの全部から魔力の濃淡が読み取れてしまうせいで、八百屋の店先のキャベツまでもが、妙にまぶしかったのである。
その途中、サンライズマートの前を通りかかった。
店先のガラスに、アルバイト募集のポスターが貼られている。時給の数字が、やけに目に入った。
(……見なかったことにしよう)
俺は大魔族である。……いや、中身は元サラリーマンだが、見た目は大魔族だ。大魔族がコンビニのレジに立つなんて、そんな話があってたまるか。(フラグ)
足早に通り過ぎた。ポスターの視線を、背中に感じながら。
アパートの玄関を開けた瞬間、緊張の糸がぷつんと切れた。
靴を脱ぐと、詰め込んでいたティッシュがばらばらとこぼれ落ちた。ぶかぶかのスーツは、脱いだそばから床に崩れて、人型の抜け殻になった。ジャージに着替え、ちゃぶ台の前にぺたりと座り込む。
退職届の封筒を、そっとちゃぶ台に置いた。
「鬼塚」の丸印が、朝の光の中で、小さく、しかしはっきりと赤く光っている。
(……課長、元に戻ってるかな)
考えないようにしていたことを、考えてしまった。「はい」しか言わなかった、あの顔。あれが夕方になっても、明日になっても、戻らなかったら。
いや。考えるのは、あとだ。いまは、現実を見る。
ちゃぶ台に頬杖をついて、頭の中で、状況を整理した。
まず、無職になった。自分で、一瞬で、魔法で。
次に、身元がない。佐々木琥太郎は、確かにこの世に存在する。けれど顔が違う。社員証の写真で、それはもう嫌というほど証明された。かといって、アウラとしての戸籍も住民票もない。履歴書の写真を貼った瞬間に、全部が詰むタイプの人間である。
さらに、金がない。貯金は、数か月ぶんの家賃と食費にしかならない。未払いの残業代をもらい損ねたことが、いまさらになって胸に刺さった。ずきずきと。
そして、魔力がない。からっぽに近い。次に
下手に使うと、魔力負けからのコンボで、相手からとんでもない要求がされて取り返しのつかないことになりかねない。
そして最後に、魔法そのものが、よく分かっていない。使えることは分かった。けれど、何ができて、何ができないのか。どこまで制御できて、どのくらい消耗するのか。ほとんど、試していない。
(宿題が、山積みだな)
三つの課題が、頭の中に並んだ。
ひとつ、魔法と魔力を、きちんと検証すること。
ひとつ、身元のないこの体で、どうやって生活費を稼ぐか。
ひとつ、消耗した魔力を、どうにかして取り戻すこと。
ここまで整理して、ふと、ひとつの考えが浮かんだ。
(……魔法でお金を稼げばいいんじゃない?)
大魔族である。人間の何倍もの魔力を持つ、断頭台のアウラである。服従の天秤だけが能ではないはずだ。金を生み出す魔法だって、ひょっとしたら、あるかもしれない。
俺は、ちゃぶ台の上に、右手を差し出した。
「……出なさい、お金」
何も起きなかった。
「出なさい、金貨。いえ、せめて千円札」
何も起きなかった。
静かな部屋に、冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
俺は、そっと手を引っ込めた。
天井を見上げて、深々とため息をつく。
「……現代社会でお金を稼ぐ魔法なんて、無いじゃない」
口から出たのは、やたらと堂々とした、絶望の宣言だった。
今のアウラ(偽)にあるのは、使い勝手が悪く、非常に燃費の悪い
それに、中身が佐々木琥太郎では、それを効果的に使いこなせる自信はなかった。むしろ、今回のように使った後に
朝起きたら「断頭台のアウラ」になっていた元サラリーマンの物語は、まだ始まったばかりである。