大類ひなた
カラン。グラスに入ったピーチサイダーの中で、氷が揺れる。外で鳴くセミの声と氷の打つ音が、夏という季節に対して真反対の感傷を押し付けてきた。
結露ですっかり濡れたグラスを手に取り、サイダーを口に含む。微炭酸。炭酸が抜けきってしまうのはもったいない気がして、一気にグッと飲み干した。
次は何を飲もう。でも、動くのは嫌だなあ。
そんなことをうだうだ考えながら、私は人様のベッドの上でだらりと脱力した。
高校生活最後の夏休み。
初星学園では申請さえすれば、長期休暇の間であっても学園内の施設を借りることができる。もっとも、実家に帰省する生徒が多いせいか、校舎内で人とすれ違うことはめったにないのだが。
友人たちの多くも例に漏れず帰省中だった。私も帰ろうと思えば帰れる距離に実家はあるのだけれど、帰ったところで両親に何を言われるかを考えると、どうしても足が伸びなかった。レッスンで忙しいからと理由をつけて、こうして今日も寮に残っている。
部屋の扉がガチャリと開いた。この部屋の主が帰ってきたのだ。重たい体を起こして座り、彼女を迎える。
「ただいま〜」
「おかえり、莉波」
「あ、ちょうど空になった?」
「何買ってきたの」
「お菓子と、飲み物」
細かい気配りの工夫を欠かさない彼女にしては珍しく、手に下げているのは素っ気ないレジ袋だった。ガサガサと中から商品を取り出していく彼女の首筋には、玉のような汗が浮かんでいる。そりゃそうか。クーラーの利いた部屋の中でもこんなに暑いのだから、外はさぞかし灼熱だったことだろう。
莉波の半袖ブラウス姿を見られるこの季節が、3回目にしてようやく好きになり始めていたのに。
半年後にはもうお別れなのだと思ったら、私の体は吸い寄せられるように、もう一度彼女のベッドへ沈み込んでいった。
「莉波」
「なぁに?」
「それ」
「はぁい」
穏やかで優しい声に、わずかな甘さを乗せて。私の短すぎる言葉に対して、それ以上の大きな愛情を返してくれる彼女のことが、たまらなく好きだった。
空になったグラスに、また同じピーチサイダーが注がれる。むせるほど濃密な桃の香り。淡いピンク色に染まった液体を口に運ぶ私を、莉波がじっと見つめている。
「見られてると気になるんだけど」
「ごめんね。でも、それ」
「……」
「私だよね。意識、してるの?」
これが他の子――例えば燕や麻央だったら、「自意識過剰」だと軽口を叩いて言い返せたのに。心底嬉しそうに微笑む莉波の前では、それができない。
全部お見通しだと言いたげな表情に少しだけ腹を立てて、私は莉波との距離を一気に詰めた。
意表を突かれた様子の彼女の首筋に腕を回して抱きつき、そのまま膝の上へと割り込む。
「暑いよ〜」なんて言葉だけの抵抗は聞き流した。
「莉波」
「なぁに?」
「好き」
「うん、私も。好きだよ」
「……シないの?」
「お昼からは暑くない? 私、君がバテて倒れちゃうのはいやだなぁ」
「バテるくらいするつもりなの?」
「……だって。そんな顔されたら、我慢できないよ」
莉波の手が、私の腰にそっと触れた。
抱きついてくる私を受け止めるための腕のはずなのに、腰を這うくすぐったい感触にゾクリと背筋が伸びる。
莉波はこう見えて、案外欲深い。
誰にでも優しい顔をしているくせに、私があからさまに好意を向けてくるような子と話していると、不機嫌さを隠さず会話を遮ってきたりする。
今も、言葉では私の誘いを断ろうとしているくせに、その瞳は獣のようにギラついて私を見つめているのだ。食べられてしまいそうなその視線に、背中がぞくぞくと痺れる。
「じゃあ、なに? 食べてほしいって思ってる私は、はしたない悪い子になるの?」
「……っ」
「莉波にとっては、ご馳走だと思うんだけど」
立て掛けただけのドアのように、ほんの少しの衝撃であっけなく倒れてしまいそうなもの。それが今の莉波の「理性」だった。私はその脆い部分を、指先でつつくように弄んでいく。
「ん……っ」と小さく唸りながら、私の胸元に頭をグリグリと押し付けてくる彼女。抱きしめてくる手には、もはや隠しきれない情欲が籠もっていた。
あんまり我慢が得意なタイプじゃないんだから、変に意地を張らなければいいのに。
あと、ひと押し。
「ねえ、莉波」
とびきり甘い声を耳元で囁けば、莉波が私を拒めるはずもない。
『惚れた弱み』というものが存在するのだとしたら、間違いなく私は莉波に甘い。そして彼女もまた、私に対してそうであってほしいと願っている。
「……もう、知らないよ」
莉波は短くそう吐き捨てると、二人まとめてベッドへと押し倒した。
ふわりと広がる彼女の柔らかい髪が、まるでカーテンのように私たちの視界を覆い隠す。
遠くで響いていたセミの声も、グラスの中で音を立てていた氷も。
すべてが莉波の吐息と肌の温もりに掻き消されていった。
莉波にプロデューサーがついたと聞いた時、一言では言い表せない感情が私の中で渦巻いた。
「おめでとう」とか「頑張ってね」とか、ちゃんとお祝いの言葉を掛けてあげられた自分を、いっそ褒めてやりたいくらいだ。
その裏腹で、いっそのこと、最後までプロデューサーなんてつかなければよかったのにとか、男の幼馴染がいたなんて聞いてないだとか、莉波の恋人としての私の心は、ドロドロと酷く黒く濁っていた。
あの子の隣には、私一人だけでよかった。
私の知らない笑顔なんて、誰にも見せてほしくなかった。
そう思っていたのに、私に勝手に嫌われていることすら知らない彼女のプロデューサーは、ヘラヘラと私に接触を試みてくる。彼曰く、「姫崎さんのご友人だから」だそうだ。友人なんかじゃない。そう一言吐き捨てられたら、どんなに楽だっただろう。
「……ひなた?」
「んー?」
「何かあったの?」
書類とにらめっこしながらペンを回していた私に、莉波がそっと問いかけてくる。
視界の端では、燕が眉をひそめていた。どうせ「大類を甘やかすな」とでも思っているのだろう。そうやって呆れた顔をしつつも、今日燕が真っ先にしたことは、私に差し入れのお菓子を突き出すことだったけれど。
心配そうにこちらを見つめる莉波。
悩みの種は君のプロデューサーのことだよ、なんて言ってしまったら。……彼女はどんな顔をするだろう。嫌われたくは、ないな。
「ひなた。おいで」
腕を広げて私を待つ莉波。
燕は何も言わないまま、気を利かせて生徒会室を出て行った。中等部の頃からの付き合いだからか、彼女とはどこか幼馴染のような距離感がある。これがもし星南だったら、莉波とは対照的に慌てふためいていたことだろう。
のそのそと彼女の誘いに乗る。
莉波の膝の上に座って向かい合うと、私より少し大きな手が優しく腰に触れた。まるで壊れ物を扱うかのような、繊細な手付き。やっぱり好きだなあと思う。
「……なんで、分かっちゃうの」
「分かるよ。だって私、ひなたの恋人だもん」
「話したくない。可愛くないこと言っちゃうから」
「ひなたは、いつでも可愛いよ。……大丈夫だからね」
私は、一人でもアイドルだ。
そりゃあ、星南や燕みたいにセルフプロデュースが飛び抜けて上手いわけではないし、かと言って絶望的なまでにセンスがないわけでもない。いわゆる「ダウナー系アイドル」として、たまたま人気が出てしまっただけ。だからこそ、星南の協力もあってこうして続けられているのだと思う。
でも、だからこそ。
莉波はきっと、あのプロデューサーと一緒に遠いところへ行ってしまうのだ。
その隣に並ぶのは、私じゃない。私じゃ、並べない。――そんな気がしてならなかった。
「……好き」
「うん、私も。好きだよ、ひなた」
「じゃあなんで……あのプロデューサーの誘いになんて乗ったの?」
「……え?」
「私とずっと、一緒にやればよかったじゃん。お姉さんアイドルだって、私と話してた時にアイデア出たのに。なのに莉波は今になって、あの人が言ったからってその通りにしてさ……っ」
「ひなた……」
「私の知らない莉波を、あの人は知ってる。それがすごくズルい、羨ましい。 あの人が知らない莉波の方が、きっと少ないのに、これからどんどん少なくなっていくんでしょ」
嫌だ。こんなの、可愛くない。
醜い嫉妬に塗れた姿なんて、アイドルなんかじゃない。莉波が好きになってくれた「私」じゃない。
見ないでほしい。いっそここから逃げ出したい。
なのに、莉波は私を離してくれない。
もういっそのこと嫌いになってくれたら――ううん、嫌だ、嫌われたくない。もう、どうすればいいのか分からない。
「……じゃあ。ひなたも、私の知らないひなたのことを教えてくれる?」
「……え」
「中等部の頃からずっと、会長や燕ちゃんと仲が良いんでしょ? それって、ズルいと思わない? 私は中等部の頃のひなたのこと、何ひとつ知らないのに」
宥めるように、少しだけ拗ねたように。
相反する感情を内包したその声は、私の醜い感情とは違って、何倍も可愛らしい「嫉妬」だった。
私はこんなにも可愛くないのに、莉波はどこまでも可愛い。
ズルくて、可愛くて、そして——残酷なくらい優しい。
「ひなたのアイドル像ってね、すごく女の子に惹かれやすいんだよ。知ってる?」
「んと……」
「甘え上手な妹みたいなキャラクター。それはね、私がやろうとしても出来なかったこと。だって……私はただ、ひなたを甘やかしたいだけだから」
「……そう、かな」
『女の子に好かれやすい』ということには、少し心当たりがあった。仕事で営業に赴いた際も、ファンになってくれるのはどちらかと言えば女性層が多い気がする。
――いや、でもそれだって莉波も同じじゃないか。
誰かを甘やかしたいし、自分も甘えたい。女の子なんてみんなそういうものだと思うのだ。人のこと言えないよ、と心の中でこっそり毒づく。
「ねえ、ひなた。私がお願いしたら、ひなたも来てくれるの?」
「……」
「私ね、卒業したらアイドルを辞めちゃうかもしれないんだよ。地元に、帰っちゃうかも。……それでもひなたは、私の隣に居てくれる?」
自分が試されていることなんて、考えるまでもなかった。莉波の深く澄んだはずの瞳が、一瞬だけ肉食獣のように鋭くギラついたからだ。
私を抱きつぶす時と同じ、自分の抑えきれない欲望だけを押し付けてくる時の色。ゾクリと体が震えた。
ここは生徒会室だというのに。燕や星南はもちろん、一年生たちだっていつノックもなしに入ってくるか分からない場所なのに。……このまま莉波に食べられてしまってもいいかもしれない、なんて。
「……莉波は、辞めないでしょ」
「……」
「だって、私は辞めないもん。このままアイドルを続けて、100プロに所属して……もっと人気になっちゃうかもしれないし」
「……っ」
ただのタラレバに過ぎないが。
私が今以上に人気になる保証なんてどこにもないのに、莉波はそんな「もしも」を想像しただけで、あからさまに苦しそうに顔を歪めた。
「……耐えられるの? 莉波に。私の隣に『誰か』が居るなんて、そんな状況」
——私は嫌だよ。莉波の隣に、私が居ないなんて。
ガタンッ!
扉が開く音かと思って肩を竦めたけれど、違った。
「私の隣に居る自分以外の誰か」を想像して心底嫌気がさしたらしい莉波が、膝の上に私を乗せたまま、勢いよく跳ね上がった音だ。
「……大丈夫? 膝」
「なんとか……っ」
パイプ椅子のギギッという軋み音と、彼女の膝が机の裏側に激突した音。
私のたった一言でそこまで取り乱して一喜一憂するくせに。そっちこそ勝手に焦って不安にならないでほしい。
人気者の“莉波お姉さん”と違って、こっちは“寂しがり屋で甘えん坊のくせにツンデレなひなたちゃん”なんだから。私からじゃ、何も行動なんて起こせないんだから。
……というか。今のお間抜けな音のせいで、莉波の醸し出していた毒牙が一気に抜かれた気分だった。耳元で小さく「うう……」と呻く彼女の声。
綺麗で、可愛くて、頼もしいのに。……ちょっと、いや、かなり子どもっぽいところ。
そういうところ、嫌いじゃない。
「ごめん。プロデューサーに嫉妬なんかして。よく考えたら、莉波が女の子を抱く時の顔を知ってるのなんて、私だけだもんね」
「ひなた……分かってくれて嬉しいけど、あんまり外でそういうこと言わないようにね?」
「なんで? ……あぁ、莉波が興奮しちゃうから?」
「私たちが『アイドル』だからですっ」
取って付けたような言い訳。でも、それがどこまでも彼女らしかった。今なら、あのプロデューサーにももう少しだけ好意的に接してあげられるかもしれない。
「私も、莉波のその顔が見られて満足したかも」
私は莉波の膝の上から、ひょいと立ち上がる。
いつ誰が入ってくるかも分からない生徒会室で、彼女のヘンなスイッチを入れてしまうわけにはいかない。
――まあ、ほんの少し……ううん、かなり心惹かれてしまったのだけれど。
「……拗ねてたのは、」
「それは本当。今さら男の人が良くなったのかと思った」
「そんなわけないでしょう? プロデューサーくんは幼馴染で、私のプロデューサーなだけだよ」
「ん。だから、もう大丈夫」
盛夏に比べて、少しずつ聞こえなくなってきた蝉の声。
あれほどうるさく耳の奥に張り付いていた夏の音も、莉波が隣にいてくれさえすれば、心地よく遠ざかっていく気がした。
莉波がいなくなったら、私はもう私じゃなくなっちゃうんだよ――なんて。
口が裂けても言わないけれどね。
「……あ」
「大類さん、こんにちは」
「こんちは。どうしたんですか、アイドル科に何か?」
「ええ、少し。姫崎さんの様子を確認したかったのと……あとは、大類さんへ挨拶をしておこうと思いまして」
「わざわざどーもです。大変ですね、プロデューサーってのも」
「はは、まあ……。大類さんこそ、プロデューサーと契約したりはしないんですか?」
「私ですか? んー……まあ、いなくても今のところなんとかなってますし。……それに」
「それに?」
「私にプロデューサーがついちゃったら、嫉妬でレッスンに身が入らなくなるような『恋人』がいるので」
「……それは」
「とぼけるつもりですかー?」
「いや、俺は……」
「……あなたの、大事な担当アイドルのことですよ」