一夜が明け、鉢中町はいつも通りの日常を取り戻していた。町の中心部に位置するここ、
だが、そんな朝の静寂を破るように、二つの掛け声が響いていた。
「ハッ、フッ!」
東真屋の裏手に広がる竹林。その広さは建物を一回りほど上回り、青々と伸びた竹が周囲を取り囲んでいる。風が吹くたびに葉擦れの音が重なり合うその中心には、稽古に使うための開けた空間があった。
そこで、二人の人影が武器を交えていた。
一人は銀髪を後ろで結んだ壮年の男性。もう一人は、年の頃十六ほどの少女だった。少女は薙刀を、男は両手に一本ずつ木刀を携え、互いの間合いを測りながら剣舞を繰り広げている。
木刀と薙刀がぶつかり合う音が、竹林に鋭く響く。少女は懸命に攻め立てるものの、男の動きには一切の無駄がなかった。繰り出される斬撃はことごとく受け流され、反撃の刃が彼女の隙を正確に突いてくる。
「あっ!」
次の瞬間、少女の手から模擬薙刀が弾き飛ばされた。
宙を舞う木製の武器。その行方を目で追う暇もない。男の木刀が、少女の白い喉元へと向けられていた。切っ先は寸分の狂いもなく、ぴたりと止まっている。
遅れて、薙刀が地面に突き刺さった。
勝負は決した。
「まだまだですね、更紗。これが実戦なら、今の戦いで貴方の首は三つ地に落ちていますよ」
「私、三つ首の怪獣じゃありません!」
「例えです。それほど、今の貴方の動きには雑念が多過ぎる」
「そ、それは師匠が強いからでは……」
「お褒め頂き感謝します。ですが、それは言い訳にはなりませんよ?」
必死に己の敗因へ理由をつけようとする少女――
もっとも、本人としては真剣そのものだ。そもそも、相手は師匠である。そう簡単に勝てる相手ではない。少しくらい情状酌量を求めたところで、罰は当たらないはずだった。
……などと考えている時点で、すでに雑念なのかもしれないが。
そんな更紗の甘えを、師である
一騎はポケットに手を入れ、懐中時計を取り出す。蓋を開き、時刻を確かめる仕草には、長年の習慣が滲んでいた。
「今日はここまでですね。身体を清め、学校に行きなさい」
「…………はい」
短い返事を返した更紗の声には、悔しさが隠しきれていなかった。
懐中時計を仕舞った一騎は、そのまま踵を返して立ち去っていく。引き止めることも、追いすがることもできず、更紗はただその背中を見送った。
しばらく、その場から動けなかった。
竹林を吹き抜ける風が、火照った頬を撫でていく。荒くなった呼吸を整えながら、更紗は地面に突き刺さったままの薙刀へと視線を落とした。あと一歩。いや、あと一歩どころではない。師匠との実力差は、今日も埋まるどころか、むしろ自分の未熟さを突きつけてくるばかりだった。
尾鰭のような髪留めで後ろに結んだ、艶のある濃紺のポニーテール。その髪が風に揺れる。色気を伴った吊り目には、稽古による疲労だけでなく、拭いきれない焦燥の色が僅かに浮かんでいた。
*
シャワーを浴び、汗とともに稽古の疲れを洗い流した更紗は、膝まで下ろしたスカートと白のセーラー服に着替えた。熱い湯を浴びている間は、幾分か気分も落ち着いた。肌に残る汗のべたつきも消え、頭もすっきりしたはずだった。
だが、胸の内に渦巻くモヤモヤだけは、どうにも洗い流せなかった。
稽古で何度も突きつけられた実力差が、頭の中で繰り返し蘇る。どれだけ努力を重ねても、目指す場所はまだ遠い。そんな思いが、朝から更紗の心を重くしていた。
彼女は、自身の力に焦りを感じていたのだ。
ふと、更紗は玄関に飾られた一枚の写真に目を向けた。
そこに写っていたのは、彼女の面影を感じさせる幼い女の子と、その子を抱きかかえる偉丈夫だった。
父として優しく、英雄として凛々しく。どんな時も頼もしく、幼い自分をその大きな腕で抱き上げてくれた。写真の中の父は、今にもこちらへ笑いかけてきそうなほど穏やかな顔をしている。
自慢の父だった。
「お父さん」
更紗の唇から、ぽつりと言葉が零れた。写真の中の父は、何も答えない。分かっている。そんなことは、とうの昔に分かっているのだ。
嵐は、すでに過去の人間だった。
六年前、鉢中町を襲った強大な化神・バケヨウガンとの戦いで相討ちとなり、この世を去ったのだ。
幼くして母を病で亡くした更紗にとって、父は残された唯一の家族だった。その父まで失ったことで、彼女は今度こそ独りぼっちになってしまった。
あの日の喪失が、どれほどのものだったのか。今となっては、当時の自分の心を正確に思い出すことさえ難しい。ただ、父がいなくなったという事実だけは、六年が経った今も変わらず胸の奥に残っている。
そして、父を失ったその日から、更紗は父の意思を継ぎ、次代のルキナとなる道を歩み始めたのだ。
父のようになりたい。
父のように、誰かを守れる人間になりたい。
その思いは、今も変わっていない。だからこそ、届かない背中を追い続ける日々が、時に彼女を苦しめる。
写真から目を離せないまま立ち尽くしていた更紗だったが、靴を履こうとしたところで、不意に背後から声が聞こえてきた。
「朝っぱらから何辛気臭い顔してんだよ」
聞き慣れた、遠慮というものを知らない声。振り返った先にいたのは、昨晩の少年だった。
彼の名は
「蝶太郎」
「おはよ。師匠との稽古、上手くいかなかったのか?」
「うん……一本も取れなかった」
「師匠相手にそりゃ無理ない。後寝不足、バケヤモリが現れた時間が大分遅かったからな」
「そんなの、言い訳だよ。私は、ルキナとしてまだ未熟者……こんなんじゃ、お父さんの後継ぎになんかなれない」
「叔父さんは叔父さん、お前はお前だと思いますけどね」
蝶太郎の言葉には、気負いを解きほぐそうとする不器用な気遣いがあった。
師匠である一騎が強いのは、今さら言うまでもない。十分な睡眠も取れていないのだから、今朝の稽古で調子が出なかったとしても不思議ではなかった。
だが、更紗にはそれが言い訳にしか思えなかった。ルキナとして、まだまだ未熟であることは自覚している。自分に足りないものがあるのも分かっている。だからこそ、少しでも早く強くならなければならない。父がかつて立っていた場所に、いつか自分も立つために。
しかし、どれだけ自分を奮い立たせても、焦る気持ちばかりが先走ってしまう。蝶太郎の不器用なフォローは、今の更紗には届かなかった。
もっとも、彼女の御伽装士としての実力は、未熟な部分こそ確かにあるものの、化神退治を任せられるだけの評価を十分に得ていた。昨晩も、蝶太郎が警官を保護している間にバケヤモリを倒している。その実績だけを見れば、決して自分を卑下するような立場ではない。
それでも、更紗の自己評価は低かった。それは彼女が目指しているものが、高すぎるからにほかならない。
「叔父さんだって何年も鍛錬を積んで強くなったんだ。それは分かるだろ」
「分かってるよ、分かってるけど──!」
思わず声が強くなる。
分かっている。頭では、ちゃんと理解しているのだ。
父だって、初めからあれほど強かったわけではない。長い年月をかけ、鍛錬を重ねて今の実力を身につけた。それくらいのことは、更紗も承知している。
それでも、気持ちが追いつかなかった。
父が命を懸けて守った町を、今度は自分が守らなければならない。父が背負っていたものを、自分が受け継がなければならない。その思いが強いほど、今の自分では足りないという焦りが募っていく。
彼女の濃紺の瞳に、暗い影が落ちた。
そんな更紗を前に、蝶太郎はやれやれと肩を竦めた。まったく、真面目なのは結構だが、これではいくら言葉を尽くしても埒が明かない。
彼は徐に靴を履き、立ち上がった更紗の後ろへ回り込む。そして――。
「ぴっ!!?」
更紗の長いスカートが、蝶太郎の右手によって勢いよくめくれ上がった。露わになったのは、純白の聖域……ではなく、そこを護る黒い布地だった。
「ちぇー、ブルマかよ」
言葉とは裏腹に、蝶太郎は心底どうでもよさそうに吐き捨てた。そのあまりにも軽薄な態度に、更紗の思考が一瞬、完全に停止する。
次の瞬間、硬直していた身体が小刻みに震え始めた。肩が震える。指先に力がこもる。右拳が、ぎゅう、と音を立てそうなほど強く握り締められていく。
先ほどまで胸の内を占めていた焦りも、悔しさも、今この瞬間だけは別の感情に押し流されていた。
「……こんのエロ河童ァッ!!!!」
バキィッ、と軽快な音が響いた。
日々の鍛錬によって鍛え抜かれた更紗の肉体から放たれる、渾身の鉄拳。拳は寸分違わず蝶太郎の顔面を捉え、その身体を勢いよく吹き飛ばした。
蝶太郎は壁へと激突する。その一連の動作には、迷いも躊躇もなかった。
随分と手慣れた動きである。おそらく、昨日今日に始まったやり取りではないのだろう。
「ふん!」
更紗は鼻を鳴らすと、ドスドスと音が聞こえてきそうな足取りで戸を開け、外へと出ていった。怒りを隠そうともしない後ろ姿が、玄関の向こうへ遠ざかっていく。
そこからしばらくして、ようやく蝶太郎が壁から身体を離した。
「いってぇ……」
そう呟き、彼はやれやれと頭を掻きながら戸を開けた。そして、何事もなかったかのように学び舎へ向かおうとした、その時だった。
──ゴォーン、ゴォーン。
そう遠くない場所から、鐘の音が響いてきた。
低く、重々しい音が朝の空気を震わせる。煩悩を払う、神聖な鐘の音。その響きは、町の日常に溶け込むようでいて、どこか人の注意を引くものだった。
しかし、蝶太郎にとって、ひいては東真屋の人間にとって、その鐘の音は単なる鐘の音ではない。
そこには、別の意味があった。
タイミングを同じくして、蝶太郎の携帯電話に着信が入る。画面に表示された名前は《社長》。蝶太郎は特に驚く様子もなく、慣れた手つきで電話に出た。
"蝶の字、今通学中か?"
「いえ、丁度出ようとしてた所ッス。鐘の音、聴こえました」
"話が早くて助かる。調査の方は頼んだぜ、丹高には俺から連絡しておいてやる"
「いつもすんません」
"良いってことよ。お嬢が来るまでくれぐれも無茶すんなよ"
「了解」
短いやり取りだった。
鐘の音が何を意味するのか。社長が何を頼もうとしているのか。わざわざ説明する必要などないらしい。互いに、それだけの事情を共有しているのだろう。通話を終えた蝶太郎は携帯を仕舞うと、一旦自室へと戻った。そのまま学校へ向かうつもりだった足を翻し、何やら支度をし直す。必要なものを確かめ、準備を整えると、再び玄関の戸を開けた。
先ほどまでの軽薄な態度とは打って変わって、その動きには無駄がない。そうして蝶太郎は、そそくさと東真屋を後にするのだった。
*
東真屋を囲む田園地帯から離れ、車の行き来が見え始める道までやって来た蝶太郎は、信号待ちの時間を利用して携帯電話を操作した。画面に表示された連絡先は《更紗》。
つい先ほどまで同じ屋根の下にいた相手だが、今はもう別々の場所にいる。もっとも、用件を考えれば、わざわざ直接会いに戻る必要もない。蝶太郎が発信ボタンを押すと、数秒のコール音が続いた。やがて、聞き慣れた声が電話越しに届く。
"もしもし、蝶太郎?"
「今良いか?」
"うん、教室抜け出してきた"
「トイレで?」
"茶化さないで。化神が出たの?"
「鐘が鳴った。今から調査に向かう」
"分かった。見つけたらすぐ連絡して、いつでも出れる様にしとく"
「頼むよ」
"……本当は、こう言う事も私がしなきゃいけないのに、ゴメンね"
「おいおい、平装士から仕事取るなよ。商売上がったりだ」
"巫山戯る事じゃ無いよ! 出来れば平装士の皆も、危険な目に遭わない方が良いんだから。蝶太郎のお父さんとお母さんだって"
「────。」
"あっ……ご、ごめんなさい!! そんなつもりじゃ"
「……昔の事だ。今更気にしなくてもいい」
"いやでも……最低だ、私"
電話越しに届く更紗の声を聞きながら、蝶太郎は小さく肩を竦めた。
――またか。そんな思いが、胸の内に浮かぶ。
確かに、更紗は言葉の地雷を踏んだ。蝶太郎の両親について触れたのは、彼女にとっても本意ではなかったのだろう。言葉を発した直後に慌てて謝罪したことからも、それは十分に伝わってくる。
しかし、それで曇るほど、蝶太郎は拗らせてはいなかった。
過去は過去だ。失ったものが戻ってこないのは事実だが、だからといって、いつまでもそのことに囚われているわけでもない。
むしろ、彼が僅かな苛立ちを覚えていたのは、勝手に自分のことを気に病んでしまう更紗の方だった。
彼女は何かあるたびに、必要以上に自分を責める。相手がどう思っているのかを確かめるより先に、自分の言動を悪いものと決めつけてしまうのだ。
今回だって、そうだった。
謝罪を受け入れたところで、彼女がいつまでも引きずるようでは意味がない。そもそも、蝶太郎自身は本当に気にしていないのだから、なおさらである。
ならば、どうすればいいか。
少なくとも、真面目に言葉を重ねるだけでは、今の更紗には逆効果だろう。
蝶太郎は、ふっと口元を緩めた。
「そんなに悪いと思うなら、パンツ見せてくれたらチャラにするぜ♪」
"なっ……!?"
電話越しに、怒気を含んだ唸り声が響いた。直後、勢いよく通話が切られる。蝶太郎は携帯を耳から離し、画面を見下ろした。予想通りと言えば予想通りの反応である。
そして、はぁ、とため息を吐いた。
「何でもかんでも抱え込み過ぎなんだよ、馬鹿」
吐き捨てるように呟き、蝶太郎は横断歩道へと足を向けた。すでに信号は青に変わっている。彼はそのまま道路を渡り始めた。
電話は、すぐに終えるつもりだった。だが、話しているうちに、信号の切り替わりはすでに二往復ほど過ぎていた。
*
繁華街を離れ、田園地帯ほどではないにせよ、人通りの少ない場所までやって来た蝶太郎は、コンビニで買った餡パンとお茶を片手にとある一画で足を止めた。
周囲には、人気のない建物や手入れの行き届いていない空き地が点在している。町の賑わいから少し離れただけだというのに、空気にはどこか寂れた雰囲気が漂っていた。人目につきにくく、何かあってもすぐには気付かれそうにない場所だ。
蝶太郎は餡パンを片手に持ったまま、携帯電話の画面と周囲の景色を交互に見比べる。
「莉子さんに送ってもらった座標はこの辺りだが……あった」
視線の先にあったのは、何の変哲もない、寂れた空き地だった。ただし、そこに転がっているものを除けば、である。
朽ちた電飾看板が、地面に横たわっていた。長年放置されていたような古びた外観だが、蝶太郎の注意を引いたのは、その一部だった。
看板の表面が、不自然に
自然に腐食したというには、あまりにも異様な溶け方だった。硬いはずの素材が、まるで熱にさらされたかのように形を失い、周囲には変色した跡まで残っている。
蝶太郎は餡パンを食べる手を止め、しばらくその痕跡を観察した。
間違いない。これが探していたものだ。
彼は携帯電話を取り出すと、再び《社長》と表示された番号へ電話をかけた。
「社長、《痕跡》を見つけました。奴さん、溶解性の泡を使うみたいです」
"溶解泡か……《バケガニ》かもしれねぇな。新しそうか?"
「まだ新しいッスね。そう遠くには行ってないと思います。それと」
蝶太郎はそこで言葉を切った。
視線を落とすと、看板の近くに溶解泡の残留物らしきものがまだ残っている。泡はすでに勢いを失っているようだが、だからといって安全だとは限らない。
試しに、近くに落ちていた木の枝を拾い上げ、残留物へと近づけてみる。
ジュウッ。
嫌な音がした。
同時に、白い煙が立ち上る。枝の先端は見る間に朽ち果て、原形を失ってしまった。
蝶太郎は思わず眉をひそめた。見た目がどうであれ、迂闊に触れていい代物ではない。
「……残留物も危険ですね。誰かお願い出来ます?」
"おし、若いのをよこしておく。そっちは任せて、お前は自分の事に専念しな"
「ありがとうございます」
通話を終え、蝶太郎は携帯電話を仕舞った。
残留物の処理については、これでひとまず大丈夫だろう。後は肝心の化神を見つけるだけだ。
さて、と小さく息をつく。蝶太郎は餡パンの残りを片付けると、再び歩みを進めた。
*
その後も蝶太郎は、溶解泡によって溶かされた物体を何度か発見しては、その痕跡を追い続けた。道端の看板。打ち捨てられた金属片。何かの設備だったらしい、用途も分からない残骸。
いずれも、普通の損傷とは明らかに異なっていた。硬い素材が不自然に崩れ、周囲には溶解泡の痕跡が残されている。化神が移動した道筋を辿るには、十分な手掛かりだった。
やがて、蝶太郎はある廃墟へとたどり着いた。
崩れかけた壁に、ひびの入った柱。長らく人の手が入っていないらしく、建物全体から荒廃した気配が漂っている。風が吹くたび、どこかで剥がれかけた建材がかすかに音を立てた。
蝶太郎は慎重に周囲を確かめ、廃墟の柱に身を潜めた。ここまでの痕跡を見る限り、目的の化神は近くにいるはずだ。柱の陰から、ほんの僅かに身を乗り出す。
その先に、奇妙なものが浮かんでいた。
黒い靄のようなものだった。
宙空を漂うその姿は、周囲の景色からあまりにも浮いている。煙のようでありながら、煙とは違う。輪郭が定まらず、ゆらゆらと形を変えるそれは、この世ならざる異物そのものだった。
蝶太郎は息を潜め、注意深く様子を窺った。
やがて、黒い靄が動き始める。
ゆっくりと中心へ集まり、凝縮していく。曖昧だった輪郭が徐々に固まり、何かの形を成していった。
そして、靄の中から現れたのは――人間ほどの大きさもある蟹だった。
ただし、普通の蟹ではない。
甲殻に覆われた身体は異様な存在感を放ち、何より目を引くのは、腹甲に当たる部分だった。そこは、まるでドラム式洗濯機の扉のような形状をしている。
あの内部から、溶解泡を放つのだろうか。蝶太郎は柱の陰から観察を続けた。こいつもまた、昨晩のバケヤモリと同じく、化神の一種である。
黒い靄が完全に消え、蟹の姿がはっきりと実体を得る。
神
け
蟹
『おぉ……おぉ! ついに実体を得たぞ!
これからニンゲンをどんどん溶かしてくれる!!』
その声には、待ち望んでいた願いがついに叶ったかのような喜びが滲んでいた。
人間を溶かす。その言葉を口にすることに、躊躇も罪悪感もない。むしろ、これから始まることを想像して心を弾ませているようですらあった。
蝶太郎は、バケガニに悟られないよう、そっと携帯電話を取り出した。相手は実体化したばかりだ。まだこちらの存在には気付いていない。ならば、今のうちに更紗へ連絡を入れておくべきだろう。
通話ボタンを押す。数回のコール音の後、電話が繋がった。
「更紗、今出れるか」
"…………"
「……茶化したのは悪かった、謝る、ごめんて。
……許してもらわなくても良いから、取り敢えず報告だけでも聴いてくれんか」
"……化神は居たの?"
「目と鼻の先にいる。つーかたった今実体化した」
"ッ!!"
「様子は見とくが、何かやらかしそうなら適当に引きつける。なるべく早く来てくれ」
"わ、分かった"
更紗の返事を聞き届けると、蝶太郎は通話を切った。
……どうやら、先ほどの件はまだ尾を引いているらしい。
最初の呼びかけに対する沈黙を思い返し、蝶太郎は内心で苦笑した。こちらとしては、あくまで報告を優先したかったのだが、どうにも機嫌を損ねたままの相手に連絡するのは気が重い。
とはいえ、今はそんなことを気にしている場合ではない。蝶太郎は再び、柱の陰からバケガニを見やった。
バケガニは、まだその場に留まっていた。実体化したばかりで、身体を慣らしているところなのだろうか。今のところ、周囲を襲うような動きは見せていない。
更紗が来るまで、このまま様子を見るべきか。それとも、こちらから何か仕掛けて注意を引くべきか。
そんなことを考えていた、その時だった。
クシャリ。
静かな空間に、何かが潰れる音が響いた。しかも、よりにもよって足元から。
蝶太郎はぴたりと動きを止めた。恐る恐る視線を落とす。草むらに隠れていたのは、空の卵パックだった。
「誰だよこんな所にポイ捨てしたの!?」
思わず突っ込みを入れてしまった。
しまった、と慌てて口を塞ぐ。だが、時すでに遅し。バケガニの動きが止まった。次いで、蟹の身体がゆっくりとこちらを向く。
完全に、蝶太郎の存在に気付いていた。
『ん〜〜? そこに居るのはもしや人間か!』
「チッ」
『いやいや、よもやそっちから現れてくれるとは! よくぞ来てくれた!!』
随分と気さくで、人の良さそうな口調だった。まるで、待ち合わせていた客人がようやく到着したとでも言わんばかりの歓迎ぶりである。
しかし、その言葉に騙されてはいけない。
相手は、穢れの集合体。人間に害をなす化神だ。その精神は悪意と攻撃性に満ち満ちており、目の前の相手を友好的に迎えているわけでは決してない。
むしろ、これから始まる一方的な蹂躙を、心待ちにしているのだろう。蝶太郎は内心で警戒を強めながらも、表面上はどうにか愛想笑いを浮かべた。
「ど、どうもッス」
『ささ、遠慮はいらん。今すぐ俺の溶解泡を御馳走してやろう!
喉元を喰い付かれた、初々しい小鹿の様な悲鳴を期待しておるぞ!!』
言い終わると同時に、バケガニの腹甲が扉のように開いた。その内部から、夥しい量の溶解泡が一斉に放たれる。泡が空気を切り裂き、蝶太郎のいた場所へと殺到した。
まともに浴びれば、ただでは済まない。先ほど木の枝を溶かした様子を思い出すまでもなく、その危険性は明らかだった。
「自分、そんなショタボイスじゃないんで!!」
蝶太郎は反射的に踵を返した。もし、これが何の力も持たない哀れな犠牲者だったなら、背中から泡を浴び、そのまま地面の染みになっていただろう。
だが、彼は違った。
「よっと!」
手に装着していたプロテクターから、鉄製のワイヤーを伸ばす。
ワイヤーは廃墟の出っ張りへと巻き付き、しっかりと絡みついた。蝶太郎はそのまま勢いを利用して跳躍する。身体が宙へと浮き、直前まで立っていた場所を溶解泡が呑み込んだ。
着地する間もなく、彼は一気に距離を取った。背後からは、溶解泡が地面を侵す嫌な音が響いてくる。
危なかった。あと一瞬でも反応が遅れていれば、どうなっていたか分からない。
『なっ!? 待て、待たんかーっ!』
バケガニは慌てた様子で蝶太郎を追い始めた。その動きは、まだ実体化したばかりだからか、どこかぎこちない。少なくとも、今すぐ追いつかれるような速度ではなさそうだった。
蝶太郎は走りながら、ちらりと背後を確認する。
動きがあれば、どの道、更紗が来るまで時間を稼ぐ手筈だった。予定とは少々違う形になったが、結果としては悪くない。
蝶太郎は追いすがるバケガニから距離を取りつつ、次の手を考える。
――プランBの開始である。
と言う訳で本格的に始まりましたルキナの物語、如何だったでしょうか?
正直な所、私は自分の文章に自信が持てていません。どのくらい持てていないかと言うと、別で書いている作品がそのせいで10年ほど停滞してしまうくらいには。
だから自分の拙い文章を、AIによって尤もらしく格好いい言葉でデコレーションしないと安心して世に出せない。
例えるなら、私は物書きとしては補助輪付の自転車に乗っている様なものです。いつの日か、ちゃんと自転車を漕げる様になりたいですね。