ワイヤーアクションでバケガニから距離を取りながら、蝶太郎は器用にも電話をかけていた。空中で姿勢を制御し、片手でワイヤーを操りながら、もう片方の手で端末を操作する。連絡先は、更紗だ。
"もしもし?"
「スマン、気付かれた」
"は!? 何やってるの!"
「文句ならポイ捨て犯のAさんに言ってくれ」
"Aさん!?"
「とにかく、狩り場まで誘導する。なるたけ早く来てくれよ」
"あ、ちょっと蝶太──"
相手が言い終えるより早く通話を切り、蝶太郎は端末をしまう。これ以上の会話は無用。今はとにかく、逃走に専念するべきだった。
御伽装士ではない蝶太郎に、バケガニを倒す手段はない。まともに戦ったところで勝ち目などあるはずもなく、下手をすれば一瞬で命を落としかねない相手だ。
だからこそ、更紗が到着するまでの間、自分が囮になる必要があった。逃げ回りながら一般人の居る場所へ向かわないよう誘導し、戦闘に適した場所まで引き離す。それが今の蝶太郎にできる、最善の立ち回りだった。
適度な距離を保ちつつ、建物の間を縫うように逃げ回る。幸い、バケガニの動きはそこまで素早くない。こちらの機動力を活かせば、誘導そのものは上手く行きそうだった。
少なくとも、今のところは。
『ええい、これでは埒が明かん。ぬうん!』
苛立ちを露わにしたバケガニが、突如として自らの足元に溶解泡を展開した。泡は地面に触れるや否や、ジュウ、と嫌な音を立てる。コンクリートを溶かしながら広がるそれは、まるでバケガニの前方へ道を作るかのように、一直線に伸びていった。
そして、その泡の道が向かう先に居るのは、他でもない蝶太郎だった。
『行くぞぉ!』
次の瞬間、バケガニは泡の道へと飛び乗り、その上を
距離が、みるみる縮まっていく。
「はぁ!? そんなのありかよ!」
思わず声を上げる蝶太郎。先ほどまでの余裕は、あっという間に吹き飛んでいた。
このまま直線的に逃げ続ければ、いずれ追いつかれる。そう判断するや否や、蝶太郎は進路を大きく変更した。目指すのは、廃墟が立ち並ぶエリア。建物同士の狭い隙間を縫うように飛び回り、バケガニの巨体が簡単には追従できない地形を利用する作戦だ。
「これならどうよ!」
『甘いわ!』
建物の間を縦横無尽に飛び回る蝶太郎。複雑な地形を利用すれば、さすがのバケガニも先ほどのような速度は出せないはずだった。そう考え、どうにかペースを取り戻せたと高を括った、その時。
バケガニは壁面に溶解泡を這わせ、その勢いを利用して水平に滑り始めた。
壁を足場にするどころか、泡の上を滑ることで建物の側面を移動しているのだ。地面に縛られないその動きは、蝶太郎の予想をあっさりと裏切っていた。
しかも、壁面を利用することで狭い通路も関係なく追ってくる。地形を利用して引き離すという目論見は、完全に崩された。
「最近の鬼ごっこはレベル高いなあ!?」
軽口こそ叩いているものの、蝶太郎の額には冷や汗が浮かび始めていた。逃走経路を工夫しても、相手はその上を行く手段を持っている。いつまでも逃げ切れる保証などない。
その時だった。
彼の耳に、聴き慣れたバイクのエンジン音が届いた。思わずハッとする蝶太郎。待ち望んでいた音だ。
音の方向を頼りに、蝶太郎は廃墟の隙間から一気に跳躍する。狭苦しい建物の間を抜けた先には、広間となった空間が広がっていた。
勢い余って着地の体勢を崩し、半ば転ぶように前転して地面を転がる。多少格好の悪い着地になったが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
続けて、上空からバケガニが降ってくる。ズシン、と重々しい音を響かせて着地した巨体。腹甲を開閉させながら、バケガニは逃げ場のなくなった蝶太郎へと迫ってきた。
『ガハハハッ! 人間にしてはよく頑張ったな。初めての獲物がお前のような上物で嬉しいぞ!』
「そいつはどうも……」
『だが残念ながらここまでだ! 今やお前は、追い込まれたネズミも同然よ』
勝利を確信したバケガニが高笑いを上げる。
対する蝶太郎は荒くなった呼吸を整えながらも、その顔に絶望の色を浮かべてはいなかった。むしろ、口元にはどこか不敵な笑みさえ滲んでいる。
ここまで逃げ回ったのは、ただ命惜しさからではない。ここが目的地だったのだ。
「──いいや、追い込まれたのは
『ガハハハ……何だと?』
バケガニが疑問を口にするよりも早く、横合いから飛来した鉄の魚がその巨体を弾き飛ばした。不意を突かれたバケガニの身体が大きくよろめく。
そして、そのマシンに跨るのは。
「蝶太郎、大丈夫!?」
『ぐ、ぐおぉ……!』
『サンキュー更紗……ってお前、
「しょうがないじゃない! 着替える時間無かったんだから!」
「そ、そうか……急かしたみたいでスマンな」
「兎に角、後は私に任せて! 蝶太郎は念の為人払いお願い!」
「了解」
斜め上方へワイヤーを伸ばし、蝶太郎はその場から離脱する。更紗は飛び去っていく彼の姿を一瞥し、無事に離れたことを確認すると、アイアンギルから降り立った。地面を踏みしめ、目の前のバケガニへと向き直る。
『あっ、おい待て……おのれ小娘! よくも俺の獲物を逃がしてくれたな』
「人の世に仇なす化神、お前は私が滅する!」
更紗はそう言うと、鞄の中から掌大に収まった物体を取り出した。
一見すると、上見した金魚を象った彫刻のようにも見える。しかし、よく目を凝らせばその造形にはどこか人の顔を思わせる部分がある。金魚と人面が重なり合った、騙し絵のような奇妙な意匠だった。
『そ、それは《
「その
更紗が怨面と呼ばれたそれに力を込める。すると、掌に収まっていた物体が、彼女の顔を覆い尽くすほどの大きさへと変化した。
「──オン・ヒブナ・エニシ・ソワカ。流輝魚の怨面、私に力を貸して」
囁くような低い声で、呪文めいた言葉を唱える更紗。その視線は怨面を手にした後も、目の前のバケガニから一切逸れることはない。
そして、怨面を顔に被せた瞬間。
彼女の身体に、変化が起きた。
「っ、ぐ……あああああ"っ!!」
流輝魚の怨面が紅く輝く。それと同時に、怨面から痣めいた模様が伸び始めた。蔦の様に広がったそれは、服の裏側を経由して手足の指先にまで侵食していく。
浮かび上がる模様は、水流の中を泳ぐ複数の金魚を描いた水墨画を彷彿とさせるものだった。身体のあちこちを巡るその姿には、確かに水の中を自在に泳ぐ魚の優雅さがある。
だが、その美しさとは裏腹に、模様を成しているのは怨面に込められた怨念無念の力。
更紗の身体を内側から侵食するように広がるそれは、単なる光や紋様ではない。皮膚の裏側を地虫が這いずり回っているかのような不快感が全身を襲い、骨の髄まで響くような激痛が彼女を苛む。
息を詰まらせ、歯を食いしばる。少しでも気を抜けば、意識が痛みに呑み込まれてしまいそうだった。
それでも、更紗は怨面を手放さない。
これが御伽装士へと変じるために必要な過程であり、怨面の力をその身に受け入れるための儀式なのだ。痛みに怯んでいる暇などない。更紗は精神力でそれらを耐えながら、怨面を持っていた右手を離した。
そして、その右手を斜め上へと伸ばし、手の甲を自分側へと勢い良く向ける。
「変……身!」
叫びと共に放たれた言霊に呼応し、身体に刻まれた模様の金魚から、その形を成したエネルギー体が浮かび上がった。光の金魚たちは更紗の周囲を泳ぎ始める。初めはゆったりとした動きだったものが、次第に速度を増し、彼女を取り囲むように渦を巻いていく。それに伴って巻き起こるエネルギーの泡が、更紗の身を覆い隠した。
やがて、泡が晴れる。
そこに立っていたのは、もはやただの少女ではない。怨面の力を纏い、御伽装士へと転じた更紗の姿だった。
「御伽装士ルキナ、参る!」
『チイィ、肉体を得て早々御伽装士に嗅ぎ付けられるとはツイてない!』
変身を終えたルキナは、間髪入れずにバケガニへと肉薄した。先手必勝。間合いを詰める勢いをそのままに、バケガニの顔面へ掌底を叩き込む。
しかし、バケガニは怯むことなく反撃に転じた。ルキナの攻撃を受けながらも、カウンター気味にハサミの突きを繰り出してくる。
鋭い一撃が迫る。
ルキナは咄嗟に上半身を反らし、その攻撃を紙一重で回避。続けざまに身体を捻り、追撃の回し蹴りを放った。
『ぬうぅ、中々やるな。ならばこれでどうだ!』
起き上がるやいなや、バケガニは腹甲を大きく開いた。その内部から、大量の溶解泡が一気に吐き出される。
ルキナは横方向へ転がり、間一髪でそれを回避した。泡が通過した場所では、廃墟に点在していたオブジェクトが次々とドロドロに溶けていく。建物の残骸も、転がっていた瓦礫も、触れた端から形を失っていった。
まともに浴びれば、御伽装士の装甲とて無事では済まないだろう。回避を続けるルキナにも、いずれ限界が訪れる。このままでは、いつか彼女自身も溶解泡に呑み込まれてしまう。
「──退魔道具が一つ、龍神の刃尾鰭」
その声に応じるように、ベルトに嵌め込まれた霊水晶が光を放つ。すると、彼女の前面に回転する薙刀が現れた。昨晩のバケヤモリとの戦いでも用いた武器だ。ルキナはそれを力強く握り締め、バケガニへと構える。
『何をするつもりかは知らんが、武器を出した所で同じ事よ!』
武器を手にしたところで何も変わらない。そう言わんばかりに、バケガニは再び溶解泡を放った。
だが、今度のルキナはこれまでのように回避しようとはしなかった。両手で刃尾鰭を構え、目の前で回転させ始める。
「縁之型・珍珠鱗!」
高速回転する薙刀の刃が、敵の攻撃を弾き返すリフレクターと化した。迫り来る溶解泡は刃に弾かれ、そのまま元来た方向へと押し戻されていく。
『ぎゃああああ!!』
自ら放った攻撃をまともに浴びることになったバケガニ。さすがに溶けることこそなかったものの、被弾した箇所からは火花が飛び散った。
攻撃を防ぐだけでなく、相手の攻撃をそのまま返す技。ルキナは手応えを感じながらも、決して気を緩めなかった。薙刀の回転を止めると同時に身を屈め、刃尾鰭を前方へと構え直す。
反撃の好機。今度こそ、一気に決着をつける。
「このまま決める! 縁之型・彗──」
しかし、その時だった。
ルキナの身体に異変が起きた。
突然、足元から力が抜ける。前へ踏み出そうとした身体がふらつき、そのまま崩れそうになる。視界まで揺らぎ、目の前にいるはずのバケガニの姿がぼやけていった。
「ぐっ。なん、で……?」
何が起きたのか。自分の身体に何が起きているのか。理解が追いつかないまま、ルキナはどうにか姿勢を保とうとする。
だが、その原因は明白だった。
昨晩のバケヤモリとの戦いから、更紗はまともな休憩を取っていなかった。戦闘を終えた後も十分に身体を休めることなく、今回の事態に対応するため動き続けていたのだ。変身前から蓄積していた疲労は、怨面の力を受け入れ、御伽装士として戦うことでさらに増幅されていた。
それまで気力で押さえ込んでいた疲労が、今になって一気に表面化したのだ。更紗の身体に蓄積された疲労。そのツケが、今まさにルキナの動きを鈍らせていた。
『お、おぉ? 何かは知らんがこれは好機!』
ルキナの異変を見逃すバケガニではなかった。
体勢を立て直すと、反撃のために力を溜め始める。先ほどまでとは明らかに様子が違う。何かを仕掛けようとしているのは間違いなかった。
一体何をするつもりなのか。
『冥く愛しき暗天舞台よ、我が客を誘えええいッ!!』
バケガニが腹甲を開く。だが、その内部から溢れ出したのは、これまでの溶解泡ではなかった。噴き出したのは、バケヤモリが吐き出したものと同様のドス黒い靄。生き物のように広がるそれは、周囲の空間を侵食するように満たしていく。
瞬く間に視界が赤黒く染まり、世界そのものが闇に覆い尽くされていった。
「しまっ、た……」
*
赤黒い空。太陽の無い世界。耳元を撫でるのは、どこからともなく吹き抜ける妖しげな風の音。
気がつけば、周囲に漂う気配は一変していた。
それは、化神によって生み出される異空間であり、その詳しい仕組みについては、まだあまり分かっていない。ただ一つだけ確かな事実がある。
この空間では、化神の力が何倍にも強化されるということだ。
「何やってんだよ更紗!」
人払いの結界札を貼り終え戻って来ていた蝶太郎は、廃墟の屋上に身を潜めながら戦いの様子を窺っていた。戦場へ戻ってきた彼の目に飛び込んできたのは、赤黒く変貌した世界と、その中で明らかに様子のおかしいルキナの姿だった。
先ほどまでの戦いぶりとは違う。動きに精彩がなく、身体の不調を隠しきれていない。目に見えて異変が起きていることは明らかだった。
何より、あの状態で暗天に引きずり込まれたのはまずい。化神の力が増幅される空間で、疲労したルキナがまともに戦えるとは思えなかった。
蝶太郎は屋上の陰から身を乗り出し、戦況を見つめる。すぐにでも加勢したいところだが、彼自身に化神と戦う力はない。迂闊に飛び出したところで、足手まといになるだけだ。
やがてルキナは、頭を振って目眩を振り払うような仕草を見せた。そして、再びバケガニへと構える。
*
「はあああっ!!」
ルキナは気合いの声と共に、刃尾鰭をバケガニへと振り下ろした。
暗天を展開された以上、悠長に戦っている暇はない。化神の力が強化されるこの空間では、時間が経つほど不利になる。疲労を抱えた今の自分にとって、長期戦は何としても避けなければならなかった。
即急に決着をつける。それが最善の策だ。
だが……。
──ガキン。
刃が甲羅に触れた瞬間、まるで鋼鉄でも叩いたかのような硬質な感触が手に伝わった。刃尾鰭の斬撃は、バケガニの甲羅に阻まれ、その身体へ届いていない。
『ワハハハッ、効かん効かん! 力が漲ってきよるわ!!』
バケガニは高笑いを上げながら、カウンター気味にハサミを振るった。まともに受けるわけにはいかない。だが、体勢を立て直すよりも早く、その一撃がルキナを捉える。彼女の身体は勢いよく弾き飛ばされ、地面を滑った。
その間にも、バケガニは次の行動へ移っていた。勢い付いた巨体を反転させると、背後にあった壁へ右手のハサミを叩き付ける。
轟音と共に壁の一部が弾け飛んだ。
その奥から現れたのは、バケガニの腹甲と同じ形状をした洗濯機の蓋。だが、その大きさは本体の数倍にも及ぶ。まるで建物そのものに埋め込まれた、巨大な洗濯機のようだった。
『さあ行くぞぉ!』
バケガニの合図と共に、壁の巨大な洗濯機蓋が開く。次の瞬間、その内部から夥しい量の溶解泡が溢れ出した。
それはもはや攻撃というより、洪水だった。大量の泡が地面を覆い尽くし、勢いを保ったまま周囲へと広がっていく。あっという間に、ルキナの膝辺りまで泡が満ちた。
御伽装士の鎧に護られているため、身体そのものが溶けることはない。だが、完全に無傷というわけではなかった。溶解泡に浸かった両足からは、焼けるような音と煙が立ち上っている。
鎧越しにも伝わる熱と刺激に、ルキナは思わず顔をしかめた。
「うく……っ!」
『足を封じられては何も出来ぬか! だが絶望するにはまだ早いぞ!!』
バケガニは周囲を満たした溶解泡の上に乗ると、水上スキーのように滑走を始めた。先ほど自らが用いた移動法を、今度はこの広範囲に展開した泡の上で行っているのだ。そのままルキナへと迫り、すれ違いざまにハサミで斬りつける。
ルキナは何とか身を捻って受け流そうとするが、足元を泡に取られて思うように動けない。バケガニはそのまま通り過ぎると、すぐさまUターン。再びルキナへと襲い掛かった。
斬撃が彼女の身体を掠める度に火花が散る。回避も防御も満足に行えず、ただ一方的に攻撃を受け続けるしかなかった。
「はぁっ、はぁっ」
ついにルキナは膝をつく。
足だけではない。支えようと地面についた腕まで、溶解泡の下に浸かってしまっていた。鎧の表面が焼けるように溶け、白い煙が立ち上る。このままでは危険だ。
身体を起こそうにも、足元は溶解泡で満たされている。攻撃を仕掛けようにも、満足に動ける状態ではない。
焦りが募る中、バケガニはルキナを見下ろすようにして笑った。
『苦しい様だな。今トドメをしてやるぞ!』
バケガニはルキナから大きく距離を取った。溶解泡の上を滑走し、十分な勢いをつけてからハサミを前方へと突き出す。その先端が狙うのは、ルキナの首だった。
回避するだけの余力も、迎撃するための時間もない。
『中々に楽しめたが、ここでサラバだ御伽装士いいい!!』
無慈悲な凶刃が、ルキナへと迫る。万事休すか?
「更紗ぁ!!」
その時、突如として上空から声が響いた。同時に放たれる一本のワイヤー。それは一直線に伸び、ルキナ──更紗の腰へと巻き付いた。直後、勢いよく引き上げられる彼女の身体。
バケガニの突進が届く寸前、ルキナは間一髪のところでその軌道から引き離された。
『何いいい!?』
「蝶太郎……?」
「だからちゃんと休めっつったろ! 建物の出っ張りに乗って、壁に背を預けて迎撃しろ!」
「わ、分かった!」
空中で体勢を立て直したルキナは、ワイヤーの勢いを利用して壁面へと移動する。アスレチックロープの要領で壁を走り、溶解泡に浸かっていない足場へと着地。そのまま蝶太郎の助言に従い、壁に背を預けた。これなら、少なくとも足元を溶解泡に浸される心配はない。
上空から戦況を見ていた蝶太郎の判断は正しかった。今のルキナに、地上でバケガニの攻撃を避け続ける余力はない。ならば、足場を確保して迎撃に専念する方がいい。
『おのれ小賢しい! だが、そこからどうやって俺を攻撃する!?』
「こうするのよ! 退魔道具が一つ、竜宮の双舞鱗!!」
ルキナが叫ぶ。手にしていた龍神の刃尾鰭が光と共に霧散し、代わりにベルトの霊水晶から新たな武器が召喚された。
現れたのは、一対の円月輪。
その表面には、優雅に泳ぐ魚の姿が彫られていた。二つの円月輪に刻まれた遊魚の意匠は、まるで竜宮の宴に舞う魚たちのよう。武器でありながら、どこか装飾品めいた美しさを備えている。
「仙術・破邪流入」
ルキナは双舞鱗を撫でるように触れていく。すると、紅いエネルギーが刃を覆っていく。*2化神を滅する破邪の力。それが刃に宿ったことを確かめるように、ルキナは一度双舞鱗を構えた。
そして、バケガニへと投げ放つ。
二匹の遊魚は空中を舞うように飛び出し、バケガニの周囲を不規則な軌道で回り始めた。備わった刃がその巨体を次々と斬り刻んでいく。
『ぐおお! 何だこの武器は!』
竜宮の双舞鱗による戦い方は二つ。
一つは、直接手に持ち、双剣として扱う近接戦闘。至近距離で舞う様な攻撃を仕掛け、素早く離脱するヒットアンドアウェイの戦法だ。
そしてもう一つが、今まさにルキナが用いている戦い方。
神通力による遠隔操作で円月輪を自在に操り、射程外にいる敵を討つ。足場を制限されている現在の状況では、まさにうってつけの武器だった。
ルキナ自身は壁に背を預けたまま、双舞鱗を操る。二つの遊魚は互いに連携するようにバケガニの周囲を飛び回り、逃げ場を与えず斬撃を浴びせ続けた。
『ぐわっ!』
何度目かの斬撃が腹甲を捉えた。硬い装甲が砕け、破片となって吹き飛ぶ。
その瞬間、溶解泡の制御が失われた。バケガニの身体から、まるで噴水のように溶解泡が上空へと吹き出していく。周囲を満たしていた泡も勢いを失い、制御を失ったことが見て取れた。
今がチャンスだ。
ルキナは双舞鱗を操る手に力を込め、決着をつけるべく最後の技へと移る。
「退魔覆滅技法──」
必殺の名を呟いたルキナは、直立したまま前方へ手を向け、陰を結んだ。その視線の先にいるのは、満身創痍となってよろめくバケガニ。腹甲を破壊され、先ほどまでの勢いは見る影もない。
今なら、全力を叩き込める。
「縁之型奥義・水泡眼!」
義
泡
眼
神通力を最大まで注ぎ込まれた破邪の円月輪が、大振りな軌道を描きながら回転する。二つの円月輪は互いに異なる方向からバケガニへと迫り、その巨体を挟み込むように交差した。
そして──その身体を両断する。
『ぐおあああっ! ま、まだ一人も溶かせていないんだぞ!? 口惜しやあああ!!』
斬り裂かれた箇所から、破邪のエネルギーが溢れ出す。内側から光に侵食された化神バケガニの身体は、耐え切れずに爆発四散。破片も残さず、跡形もなく消滅した。
それに合わせ、暗天の世界も徐々に霧散していく。赤黒かった空が薄れ、太陽のない異空間は元の世界へと戻っていった。周囲を満たしていた溶解泡もまた、夢幻の如く消え去った。
ようやく、戦いが終わったのだ。
「よっと」
蝶太郎は屋上から飛び降りると、ルキナの下へと歩み寄った。ルキナは彼の方へと向き直り、顔に手を掛ける。その動きに合わせ、身体中を覆っていた御伽装士の鎧が溶けるように消えていく。全身に広がっていた痣めいた模様も、怨面へと収束していった。
やがて流輝魚の怨面が顔から外れる。そこに立っていたのは、御伽装士ルキナではない。元の少女、東真更紗だった。
「ありがとう、蝶太郎。正直、危なかったよ」
「ったく、だからちゃんと休めって言ったろ」
「うん。ごめ、ん──」
言い終わるよりも早く、更紗の身体がふらりと傾いた。
「お、おい!」
咄嗟に手を伸ばし、倒れる寸前の彼女を抱き止める蝶太郎。更紗はそのまま、糸が切れた人形のように力を失った。意識を失ったのかと思ったが、規則正しい寝息が聞こえてくる。
気絶するように眠ってしまったらしい。どうやら、余程無理をしていたようだ。
「しょうがねえな」
蝶太郎は更紗の身体を支えたまま、彼女の鞄へと手を伸ばす。中から取り出したのは、何やらスマートフォンくらいの大きさをした金属板だった。表面には護符のような模様が描かれている。
それを翳すと、離れた場所に退避していたアイアンギルが、ゆっくりとこちらへ近付いてきた。
アイアンギルを初めとしたマシン《式神ビークル》には、人工知能が備わっている。暗天の展開と同時に溶解泡が溢れた際も、ルキナの指示を受けて戦線から離脱していたのだ。戦闘が終わった今、こうして呼び戻すこともできる。
「アイアンギル、俺はコイツを負ぶさって帰る。お前は荷物だけ持って先に帰ってくれ」
蝶太郎から鞄などの荷物を預かったアイアンギルは、まるで了承するように頷く動作を見せた。次の瞬間、車体を電脳的なエフェクトが包み込む。そのままアイアンギルは、光の粒子となるように、その場から消え去った。
「やっぱ便利だよなこれ」
御守衆が誇る謎の超技術に感心しながら、蝶太郎は更紗を背負った。戦いを終えた御伽装士としてではなく、柔らかくて温かい一人の少女としての重みが背中に伝わる。つい先ほどまで化神と戦っていたとは思えないほど、今の更紗は無防備だった。肩に回した腕も力なく垂れ、身体を預けきっている。
「無理し過ぎんなよな」
その言葉に、どんな感情が込められているのか。
蝶太郎自身にも、はっきりとは分からない。呆れなのか、心配なのか。それとも、もっと別の感情か。
ともあれ、今は眠っている彼女を起こすわけにもいかない。蝶太郎は更紗を背に預けたまま、廃墟を後にした。肋骨越しに感じる更紗の双丘が当たる感触も、今は気にする気分ではない。
「はー背中が幸せ」
……何て事はなく、しっかり堪能しながら帰路につく蝶太郎だった。
・化神絵巻
《バケガニ》
外見:モクズガニ
道具の種類:ドラム洗濯機の蓋
道具化した部位:腹甲
悪事:無差別に興味を持ったものを溶解する
モクズガニに似た姿を持つ化神。主に電化製品が不法投棄された空き地等に発生する。腹甲内部にあらゆるものをドロドロに溶かしてしまう溶解泡を吐き出す。行く行くは人間を溶かそうと企んでいた。
この泡はバケガニの足に付着するとスケートの様に滑走する事が可能であり、これにより機動力を補っている。暗天下では巨大な腹甲を出現させ、周囲を溶解泡で溢れさせてしまう。
腹甲は溶解泡の制御も兼ねており、ここを破壊されると溶解泡が暴走し溢れ出てしまう。
蝶太郎のキャラクターは、草食系でも品行方正な正義漢でもなく、昔のラブコメにいそうなちょっとヤンチャでスケベで、やる時はやるみたいなキャラクター性を考えています。尤も、彼の助平心はあくまで更紗にのみ向けられている様ですが……。