33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す   作:Lagavulin

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お母さんも走って

「お母さん、最後だけ一緒に走って」

 

 ベンチに上着を置きかけたところで、娘に呼ばれた。

 

 トレセン学園の練習用トラックで、娘のリラステラが手を振っている。肩につかない長さの髪が、風で頬にかかっていた。入学してまだ2週間なのに、すっかり慣れた顔をしている。隣に父親がいるせいもあるだろう。

 

「最後だけって、どこから?」

「最初から。速くするのは最後だけ」

「それ、最初から一緒に走るって言うのよ」

 

 夫の直人が笑った。手にはストップウォッチを持っている。

 

 娘の中等部入学を機にトレーナーの仕事へ戻った夫は、昔、私の担当でもあった。こうしてトラックの脇に立っている姿を見ると、つい走るほうへ誘われてしまう。

 

「1600m。初めの1000はゆっくり走って、残り600からはそれぞれのペースで。どう?」

 

 夫に聞かれ、娘のほうを見た。ステラはもう、私が上着を脱ぐのを待っている。

 

 33歳になった今も、走る習慣はある。仕事から帰ったあとや休日に、近所をひと回りするくらいだけれど。ただ、誰かと競ったのはずいぶん昔のことだ。

 

「ついていけなくなったら、先に行ってね」

「うん!」

 

 ためらいのない返事だった。

 

 上着をベンチに置いて娘の隣へ行くと、今度は靴を指さされた。

 

「お母さん、靴ひも」

「結んであるでしょう」

「本気で走る結び方?」

「いつ覚えたのよ、そんなの」

 

 一度しゃがんで、ひもを締め直した。娘は満足そうに待っていた。

 

 背中まで伸ばした髪を後ろで結び、軽く身体をほぐした。2人で走り始める。

 

 初めはゆっくりだった。ステラが私に歩幅を合わせているのが分かり、少しだけ速度を上げてみた。娘もすぐについてくる。息にはまだ余裕があって、ときどき父親のいるほうを見ていた。

 

 並んで走っていると、娘の背が伸びたことを改めて感じる。家では毎日顔を合わせているのに、こうして横に来られると少し違った。

 

 残り600mの目印が近づいた。

 

「じゃあ、行くね」

 

 返事をする間もなく、ステラが前へ出た。

 

 速い。

 

 追いかけようとしたけれど、脚がすぐにはついていかない。数歩のうちに、2バ身ほど離された。

 

 娘の背中を見ていると焦りそうになる。いったん視線を前へ戻し、無理に歩幅を広げず、少しずつ速度を上げた。ここで追いつこうとして走り方を崩せば、その先が続かない。

 

 コーナーを回るあいだに、娘との距離が縮まり始めた。

 

 昔なら、そろそろ苦しくなるところだった。前へ行きたいのに脚が動かなくなり、息ばかりが上がってくる。直線に入ってから抜かれることも多かった。

 

 けれど今日は、まだ脚が動いた。

 

 ステラの背中が近づく。もう少し上げても大丈夫そうだった。そのまま横へ並ぶと、娘がこちらを見た。目を丸くしたのは一瞬で、すぐに前を向き直る。

 

 足音が速くなった。離されまいとしている。

 

 こちらも、譲る気にはならなかった。

 

 数歩、並んで走った。さすがに息は苦しい。それでも脚を動かし続けると、視界の端にいた娘が少しずつ後ろへ下がった。

 

 そのまま先に、ゴールの目印を越えた。

 

「お母さん!」

 

 速度を落として振り向くと、ステラが腰に手を当てていた。

 

「抜くなら言ってよ」

「言ったら先に行くでしょう」

「行くよ!」

 

 思わず笑ってしまった。ステラも悔しそうに笑い、すぐに父親を振り返る。

 

「お父さん、もう1本!」

「ちょっと待って。今のを確かめたい」

 

 私のほうは、もう少し休みたかった。胸が大きく上下している。けれど、立っていられないほどではない。歩いてベンチへ戻り、水を飲んでから2人のところへ行った。

 

 夫はまだ時計を見ていた。

 

「そんなに遅かった?」

「逆。最後まで落ちてない」

「私が?」

「うん。見て」

 

 差し出された時計をのぞき込む。数字を見ただけではぴんとこなかったけれど、説明を聞くと分かった。最後の200mが、その前の200mとほとんど変わらない。

 

 娘を追って速度を上げたあとも、その速さで最後まで走っていたのだ。

 

「お母さん、追いついてからも速かったもん」

「でも、最初はついていけなかったわよ」

「あそこはステラのほうが速かった」

 

 夫が娘にも記録を見せた。

 

 ステラは少し機嫌を直したようだったが、すぐに私を見た。

 

「次は最後まで抜かせないから」

「じゃあ、お母さんも、もう少し早く追いつかないとね」

「えー。今言わないでよ、それ」

 

 娘はボトルを取りにベンチへ向かった。私も続こうとしたところで、夫に呼び止められた。

 

「フィオ。走ってみて、どうだった?」

 

「楽しかった」

 

 考えるより先に答えていた。

 

 夫が時計から顔を上げる。その顔を見て、少し照れくさくなった。

 

「勝ったからかもしれないけどね」

 

  *

 

 その夜、食器を片づけていると、夫がテーブルに古いノートを広げた。横には今日の練習記録も置いてある。

 

「何それ」

「フィオの、昔の記録」

 

 手を拭いて隣へ座った。

 

 見覚えのあるノートだった。ページの上には「リラフィオーレ」と私の名前が書いてある。日付の横に、練習内容とタイムが細かく書き込まれている。余白にあるのも、ほとんどが夫の字だ。

 

 私は18歳で引退した。レースでは、1度も勝てなかった。

 

「よく残ってたね」

「取ってあるよ。ほかのも」

「成績の悪いのも?」

「全部」

 

 夫が開いたのは、今日と同じ距離を走った日のページだった。

 

 途中までのタイムは、昔も今日とそう変わらない。違うのは最後の200mで、当時の私はそこで1秒以上遅くなっていた。

 

 数字を見ていると、走っていたときのことを思い出した。ゴールが見えているのに、そこまでが遠い。早く走り終えたいと思いながら、前の子との距離が開いていくのを見ていた。

 

 今日、娘を追いかけていたときは違った。

 

「今日はね、ここからでも、まだ走れたの」

 

 最後の区間を指で押さえる。

 

「見てた」

「娘に勝っただけじゃないんだ」

「うん。今のフィオは、昔よりずっと走れる」

 

 夫の顔を見た。

 

 冗談を言っているわけではなかった。練習場にいたときと同じ顔で、今日の記録と私を交互に見ている。

 

「もう33歳よ、私」

「もう一度、レースを目指さないか」

 

 返事ができずにいると、夫が続けた。

 

「今のフィオを担当したい」

 

 風呂場で、がたんと音がした。

 

「ステラ?」

「大丈夫!」

 

 返事はすぐに聞こえた。何を落としたのかはあとで聞くことにして、夫へ向き直る。

 

 レース。

 

 今度は娘を応援する側になったのだと思っていた。学園へ来たのも、今日はたまたま時間があったからだ。娘に誘われなければ、ベンチに座って練習が終わるのを待っていただろう。

 

 それなのに、もう一度走るところを考えていた。

 

 スタートを待つ間の緊張も、周りの選手の足音も覚えている。あの中へ戻ったら、今日みたいに走れるだろうか。

 

「出るなら、勝ちたい」

 

 口にすると、夫がうなずいた。

 

「うん」

「仕事もあるし、ステラのこともあるけど」

「そこは一緒に考えよう」

 

 今日の記録に目を落とした。娘に追いつき、並んで走ったところを思い出す。あのときは、勝とうとしていた。久しぶりだとか、もう若くないとか、そんなことはすっかり忘れていた。

 

「付き合ってくれる?」

「それを頼んでる」

 

 少し笑って、夫の袖を引いた。

 

「じゃあ、よろしく。トレーナー」

 

 夫が何か言いかけたところで、また風呂場から声がした。

 

「シャンプーない!」

 

 立とうとしたら、夫が先に椅子を引いた。

 

「俺が行く。洗面台の下、右だっけ」

「左。青い袋」

 

 廊下を行く夫を見送り、古いノートを手元へ引き寄せた。

 

 18歳のころの記録と、今日の記録を並べてみる。さっき説明してもらった最後の200mの数字を、もう一度、指でなぞった。

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