33歳のウマ娘は娘と同じG1を目指す 作:Lagavulin
控室を出ようとしたところで、ステラが前へ回り込んできた。
「見せて。今のところ、覚えとく」
「取材のときも見たでしょう」
「あれは、走る前じゃなかったもん」
立ち止まると、娘は胸元の花を見た。それから顔へ視線を上げる。
何か言われるのかと思ったけれど、ステラはうなずいただけだった。
肩へ手を置き、一度こちらへ寄せる。
「行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
娘が離れると、夫が来た。
今日どう走るかは、何度も話した。不安なところも、試したいことも、昨日までに全部聞いてもらっている。
それでも、出る前にもう一度、夫の声を聞きたかった。
「トレーナー」
「うん」
「途中で誰か来ても、自分が行くところまで待つ」
「そう。動く場所はいつもどおりでいい。その前を楽に」
夫がうなずいた。
その手へ触れてから、コースへ向かった。
*
大阪杯のパドックには、色とりどりの勝負服が並んでいた。
映像で何度も見た選手がいる。私よりずっと若く、何度も大舞台を走っている子たちだ。
軽く跳ねてから歩き出す子も、客席へ手を上げる子もいる。その中を、私も歩いていた。
名前を呼ばれて顔を上げた。
会社の人だろうか。記事で写真を見た人かもしれない。誰かは分からなかったけれど、一度だけ手を上げて応えた。
背中のリボンが、歩くのに合わせて揺れた。
ゲートが開くと、周りの動きが速かった。
前へ行く選手がすぐに決まり、その後ろにも次々と入っていく。私も前のほうへ出たが、内側の場所を取り合うのは避けた。
無理なく走れるところを見つけ、そのまま最初のコーナーへ入る。
前の選手との間隔が、近くなったり遠くなったりする。
離れかけた瞬間、腕へ力が入った。
今すぐ追いかけたいわけではない。ただ、いつでも追えるようにしておきたくなる。
息を吐いた。
娘が勝った映像では、こんなところで肩を上げていなかった。私も相手の動きばかり見ず、自分が進む先へ目を向ける。
向こう側の直線で、外から1人が上がってきた。
横を通り過ぎ、先頭のすぐ後ろへ入る。前の選手たちも間隔を詰め始めた。このままでは、外へ出にくくなる。
けれど、まだ動く場所ではない。
走りを変えず、次のコーナーへ向かった。その手前で外側に間ができた。そこへ進みながら、少しずつ脚を速くする。
先ほど横を通った相手が見えた。
その外へ出ると、相手も速くなった。すぐには並べない。無理に追いつこうとせず、ひとつ目印を過ぎるあいだも脚を動かし続けた。
ようやく肩が揃う。
その先には、先頭を走ってきた選手がいた。こちらが近づくと、向こうも速度を上げる。
直線へ入った。
内の相手が粘っている。外からも別の足音が来る。先頭へ出られたのは、曲がり終えて少し進んでからだった。
追いついた、と思った。
そこで終わりにしないよう、視線をゴールへ戻す。
ここからも走る。練習では何度もそうしてきた。娘が横へ来た日も、前へ出られた日もあった。
今の速さで、次の一歩を出した。
内の選手が少し下がる。外の足音はまだ近い。
こちらが前へ出ても離れず、息を吸う音まで聞こえた。急に振り切ろうとすれば、私もここで苦しくなる。
もう少し、このまま。
脚を動かし続けた。
ゴールが近づく。外から聞こえていた足音が、少しずつ後ろへずれていく。
最後まで、脚は前へ出た。
ゴールを越えた瞬間、大きな声がいっぺんに耳へ入ってきた。
速度を落とし、振り向いた。外にいた相手が、少し後ろで脚を緩めている。
掲示板へ目を向ける。
大阪杯。1着、リラフィオーレ。
自分の名前だった。
胸元へ手を当てた。花の飾りが指に触れる。
下を向いたまま、少し笑った。顔を上げると、もう家族に会いたくなっていた。
*
ステラが、私の前まで走ってきた。
受け止めると、胸へ顔を押しつけてくる。何か言っていたけれど、うまく聞き取れなかった。
少し離すと、娘が顔を上げた。
「勝った。GⅠ、勝ったよ」
「うん」
「お母さんが」
「見てた?」
「見てたよ!」
娘が笑った。
その目を見たら、私も笑ってしまった。
夫は、すぐ前にいた。
いつもなら、走りのことを何か話し始めるところだ。けれど今日は何も言わず、ただこちらを見ている。
「フィオ」
名前を呼ばれ、空いているほうの手を伸ばした。
夫が近づく。ステラを抱えたまま、その肩へ少し額を当てた。
もう一度、大きく息を吐く。
「勝てた」
「うん」
「この服で、勝てたよ」
顔を上げると、夫は泣いてるような笑っているような表情をしていた。
「最後まで、すごくよかった」
その顔を、ちゃんと見ておきたかった。
隣でステラがまた話し始めるまで、夫を見ていた。
写真を撮ることになり、ステラと並んだ。
夫がカメラを構えると、娘は一度そちらへ行き、画面をのぞき込んだ。
「お父さん、もうちょっと引いて」
「このくらい?」
「リボンも入れて撮って」
娘のほうを見た。
あれだけ大きいと言っていたのに、今日はちゃんと写してほしがる。
ステラが戻ってきて、私の腕へ自分の腕を通す。
「私の絵と、あとで並べるから」
うなずいて、娘と一緒にカメラへ向いた。
*
その夜、食器を片づけて居間へ戻ると、夫が今日のレースを見ていた。ステラは先に風呂へ入っている。
画面の私が、先頭でゴールを越えた。夫はそこで止め、こちらへ手を伸ばす。
「もう、何回見たの」
「まだ見たい」
笑いながら手を取ると、夫が立ち上がり、私を抱き寄せた。
「おめでとう、フィオ」
背中へ回った腕に、思ったより力が入っていた。私も夫の背中へ手を回す。
「あの服で勝つところ、やっと見せられたね」
「うん。すごく嬉しい」
顔を上げると、頬に手が触れた。額へ口づけられ、また抱きしめられる。
夫の肩へ頬を寄せ、背中に回した手にも少し力を込めた。